第二章 地球英雄ノ章

第72話 異世界の魔法使いと少女の出会い~世界の終わりを望んだモノ

 ある日、謎のメッセージが全世界を駆け巡った。


 ネットを通じて、公共のSNS、ツイッター、フェイスブック、ライン、各国を代表する主要なBBSなどに、謎の数字の羅列が同時に投稿された。


 そこにはたったひとつのメッセージが添えられていた。


『正解者にはなんでもみっつ願いを叶えます――異世界の魔王より』


 各国の言語に変換されたそのメッセージは、あらゆるソーシャルメディア、テレビ、新聞で取り上げられ、多くの者は空前のスパムメールやイタズラと認識するにとどまった。


 だがその数字の羅列が、特殊な暗号文であると見抜いた一部の者達は、こぞって解答を導き出そうと血眼になった。


 未だ正解者が出ない中、ひとりの少女が、その暗号に目を留める。


 *


 イリーナ・アレクセイエヴナ・ケレンスカヤは、ロシア連邦サイエンス・アカデミーが作り上げた天才である。


 嘗て祖国が超大国と呼ばれていた時代、遺伝子的に優秀な男女を掛けあわせてデザインチャイルドを創生する計画があった。彼女はその失われた技術を現代に復活させた稀有な成功例だった。


 天才的な頭脳と先進的な発想力、そして柔軟な思考力を併せ持ち、IQは彼のアインシュタインをも凌ぐと言われている。


 だが、彼女の名前が表の世界に出ることは決して無い。

 彼女は生まれながらにして国家の奴隷。


 世界世論がその存在と出自を許さぬゆえに、彼女の存在は長く秘匿され、祖国の多くの研究や論文、発見や発明に寄与しながらも、それらの成果はすべて国家によって吸い上げられ、多くは名の通った大人たちの功績として発表されてしまう。


 なぜなら、世界は平和と安寧の中にあり、たったひとりの天才は異端として忌避されてしまうから。ましてや彼女はまだ11歳になったばかりの子供であり、突出した天才を作り上げてしまった祖国は彼女を檻の中に閉じ込め飼い殺しにしていた。


 イリーナは自らの存在を縛り、隠し続ける世界に、本人でも知らぬ間に強い怒りを覚えていた。


 *


「さーて今日も巡回しますかねー」


 イリーナ・アレクセイエヴナ・ケレンスカヤは日課――というかこの部屋にいて唯一の慰みであるネットサーフィンを始める。


 つい先月、11歳になったばかりの少女である。

 とはいえ誕生日を祝われたことはない。毎年誕生日には父と母――彼女の遺伝子提供者の夫婦から、メッセージと大量のプレゼントが届くのみである。


 くすんだ亜麻色の髪はザンバラのボサボサ。

 いつから着ているのか、スウェットのつなぎはくたびれまくっている。

 背丈は小さく、同年代の平均と比べても成長は遅い方だろう。


 国家によってその存在を秘匿され、保護という名目で監禁され続ける少女、それがイリーナである。肉体的自由がないかわりに、彼女は可能なかぎりのモノを与えられていた。


 彼女が住む牢獄は、郊外に隔離された屋敷小高い丘の上にある。ロシアンカーペットが全面に敷かれた豪華な私室。世界中から集められた学術書がうず高く積まれ、その中には明らかにそれ以外の本、アメリカ製のカートゥーンや日本の漫画なども混ざっている。


 窓向こうのブリザードなど素知らぬような暖かな室内には、定時になれば必ず顔を見せないメイドによって食事が配膳される。欲しいもの、必要なものは申請すれば必ず買ってもらえた。


 ここにはすべてがあり、そしてイリーナが本当に望むものは何一つない、そんな優しい牢獄に物心がついてから、彼女はずっと囚われ続けている――


「あ、またアンチが湧いてる。もう何度も本物だって言ってるのになあ。ウィルス送りつけてやろうかな」


 最近、イリーナが気に入ってるのはとあるインスタグラマーである。

 名前は『風の魔法使い』という日本人名であり、かなりのフォロワー数を誇っている。


 投稿はほぼ毎日。夜中にアップロードされることが多く、その殆どが大都会の夜景の写真である。そしてそのすべてが『空撮写真』だった。


 上空からのダイナミックなパノラマ写真や、月明かりに照らされた雲海の写真や、薄く絨毯のように敷かれた雲間から地上の灯りを撮影したもの――さらには高層ビルの谷間と谷間から消失点を写した写真や、スカイツリーを上空から俯瞰した写真などなど。


 通常のインスタグラマーが投稿する主観写真とは明らかに違う、ドローンやヘリ、果ては航空機を駆使しなければ撮影不可能な写真ばかりであり、それを毎日の頻度で投稿しているため、そのインスタグラマーはフォロアーの間で賛否の対象になっていた。


 イリーナも最初は「もしかして合成じゃない?」と疑い、画像を解析したり、背景のビル群から位置を特定したりして検証を行ったが、結果は紛れもなく本物の空撮写真だった。


 いくらその空撮写真が本物であっても、本物であるからこそ反感を抱くものもいる。つまり、ドローンの飛行禁止区域であったり、通常では撮影許可が下りないような場所にまで、ヘリに乗り込んで撮影をしていると考えられるからだ。


 フォロワーを増やすために、無茶な企画を考えたり、そして他者の迷惑も顧みずにそれを実行する配信者、投稿者は多い。それをすることによって一時の名声は受けられるかもしれないが、必ずそれより以上の反感を買い、攻撃の対象となってしまう。


 写真自体はとても美しい風景ばかりなのに、それが法を犯してまで撮影されたものであるとすれば、その美しさにも陰りが出てしまう。


 イリーナは擁護派だが、そのインスタグラマーは特に弁明をするわけでもなく、ただ淡々と投稿を繰り返すばかり。


「一体どのような方法で撮影しているのですか?」「ちゃんと飛行許可を取って撮影してるんですか?」などなどのフォロワーからの質問に対して、そのインスタグラマーは一切沈黙している。


 それどころか写真の投稿以外に興味がないのか、コメントやキャプションをつけることもしておらず、本人を置き去りにして、フォロワー同士が擁護派とアンチに分かれて活発に議論している有様だった。


「およ? そうこうしてるうちに新しい写真が投稿されてるじゃん。――いや、これは……」


 その写真はこれまで以上の物議を呼ぶ結果となった。

 これまでと同じくビル群の中を撮影した一枚。

 だが、明らかにおかしいと言える写真だった。


「これ……撮影者が写ってない?」


 ビルはガラス張りで、構図から考えても、撮影者の姿が写っていなければおかしい。それなのに、ガラス張りのビルには撮影者の姿はなく、ドローンもヘリも、ロープで宙吊りになった撮影者の姿も写ってはいなかった。


 考えられることはふたつ。

 写り込んだ自身の姿をフォトショップで加工して消してしまったか。

 あるいは撮影者は姿なき本物の幽霊なのか。


 擁護派だったイリーナも、これには歯噛みした。

 今まではなんとか庇い立てしてこられたが、これはもう無理ではないだろうか。

 案の定、アンチたちは馬脚を現しただの、加工が雑になっただのと大騒ぎだった。


「見てなさいよ、私がこの写真の謎を暴いてやるから」


 加工にしろ本物の幽霊にしろ、何某かの痕跡が残っているかもしれない。

 こうなったら1ピクセル単位で解析して、撮影者が写っていない謎を解いてやる。

 暇を持て余した天才が本腰を入れたらすごいわよ、とイリーナは勢い込むのだった。


 *


「ダメにゃあ。全然わからんちん……」


 イリーナは一晩中画像の解析をし続けて、ついにさじを投げた。

 正確にはさじを投げたのではない。わかりきっていた答えを渋々認めざるを得なかったというべきか。


 結論から言うと、この写真は本物の幽霊が撮ったものであることがわかった。画像には一切手を加えた形跡が見つからなかったのだ。


「天才たる私にも見破れないとは……改めてこいつ何者なのかな」


 一晩中画面とにらめっこをしていたイリーナは、ショボショボの目を擦りながら仰向けに倒れる。その途端、周りに積まれた漫画やら学術書が崩れてきて、少女の小さな身体を埋め尽くした。そのまま、起き上がるのも面倒くさいとばかりに考え始める。


 ドローンじゃない。ヘリでもない。ロープで釣ってるわけでもないし、合成でもない。ここは素直に考えてみよう。撮影者は恐らく空を飛べるのだ自由自在に。そして姿を消してしまうこともできる。そう考えてみると――


「そっか。だから“風の魔法使”いなんだ」


 風、空気の流れを操作する魔法使い。

 自身の周囲に風をまとわせて空を飛んだり、周囲の風景に溶け込むこともできると。


「んな馬鹿な!」


 ドサドサドサ、と、本を押しのけてイリーナは起き上がった。

 絨毯の上に無造作に置かれたデスクトップPC。

 ものは試しにインスタグラマー『風の魔法使い』にメッセージを送ってみる。


「もしもし……あなたは魔法使いですか?」


 ダメ元もダメ元。送るだけ送ってみるだけ。

 返信など期待していない。

 ただ自分が思いついた妄想を誰かに知って欲しい。

 それだけの意味のない行為。

 だが、イリーナはこの日、運命と出会う。


「嘘、来た、返信……」


 今までどんなにメッセージを送っても決して返ってくることはなかったのに、今日に限っては即座に来た。ほぼ機械的なノータイム返信。イリーナは怪しいと思いつつメッセージに目を走らせる。


「やっぱり怪しい……」


 そこには英語で『You are a new challenger!』と書かれた文字と、リンク用の短縮URLが貼り付けてあった。


 まさかウィルスでも掴ませるつもりか。それともエッチなサイトに誘導されるのか。前者だとしたら即座にカウンター攻撃を仕掛けてやる。天才的なイリーナならそれが可能だ。後者なら逆にこっちからウィルスを送りつけてサイトをメチャクチャにしてやろう。ケケケ。


「おりゃ!」


 気合とともにURLをクリックする。

 すると――


『3664574846010398476366489053643765700783516938863189555441363547044071432448290328134024308367889052098408340183408103840183908408230941832084190823094182308410983409138579879074397534252347598274389753354893566829901253115627931722205185041489711687395725261008138769526731520341872179685750118492451685872288788271487191677130058321752369697686017947851417926404870561〜……』


 ブラウザ画面いっぱいに並べられた数字の羅列。

 一瞬本当にウィルスか、と思ったが違う。

 これはある法則に従って並べられた数字列だ。

 イリーナは天才であるがゆえにそれを瞬時に看破する。


「何これ……暗号文?」


 しかもこれは最新の量子コンピューターを使わなければ解けないような『RSA複合量子暗号文』だった。


 何故こんな暗号文がダイレクトメッセージの返信としてやってくるのか。『風の魔法使い』とは一体何者なのか。


 その理由はまるでわからないが、これが自分に対する明確な挑戦状であることだけはわかった。


「おもしろいじゃない。いいわよ、やってやるわよ! 暇を持て余した天才を舐めるんじゃないわよ!」


 イリーナは散乱していた雑誌をかき分けて大学ノートを取り出す。いやダメだ、一冊じゃ足りない。十冊は欲しい。


 最終的にイリーナはプリンター用のA4のコピー用紙束を用意し、ありったけのペンを並べて画面に向き合った。


 現行のスーパーコンピューターでも数十年。量子コンピューターを使用しても解読までに時間を要する『RSA複合量子暗号文』。無論、ただの人間が計算したところでそれらに勝てるわけがない。


 ではどうするか。

 基本的にコンピューターの真似事はしない。

 人間には人間にしかないアバウトな直感がある。

 機械に勝つためには望む答えを引き寄せるセンスが必要になるのだ。


 無論それだけでなく、イリーナは数字の並びから、小説の行間を読むように、この暗号製作者の性格や意図までも読み取ろうとする。


「基本真面目で几帳面だけど、たまにヒステリックなところがあるかなあ。いい意味で乱数的というか、悪く言えばお子様って感じ?」


 薄汚れたキーボードを高速でタイプしながら、イリーナは並行してコピー用紙にも数字を書き込んでいく。キーボードに打ち込んでは紙に書きを延々と繰り返していく。


 その作業は一時間以上にも及び、ついにコピー用紙も一束を使い切ろうかという頃、ようやくイリーナは画面の左端にある解答欄らしき空白に数字を打ち込んでいく。


 イリーナはまさしく天才だった。

 常人では到底解くことができない暗号文をアナログな方法で答えを導き出してしまった。


「ふっ、こんなの楽勝じゃん」と若干の疲れを滲ませながら数字を打ち込み、エンターボタンを押したその直後――一瞬にして画面が真っ赤に染まる。


「嘘、トラップ!? ヒステリックでお子ちゃまで、あと性格悪いも追加! この暗号文考えたヤツは絶対陰険――って、あれ?」


 レッドアウトは一瞬だけだった。即座に画面が切り替わり、今度は先ほどを遥かに超える数字の羅列が現れる。


 イリーナはマウスを使ってページをスクロールさせ、バーンと仰向けに倒れた。


「なんなのよー、レベル2ってわけ!? 今までのはお試しってこと!? てかこの行数列何ビットあるのよー! あーもー面倒くさいー!」


 ガシガシガシ、とフケだらけの頭をかきむしり、ジタバタと手足を振り回す。

 ただでさえゴチャっとしていたPC周りがさらにカオスと化していく。


 イリーナはひとしきりジタバタ暴れると、ムクッと起き上がり、新たなコピー用紙の梱包を破る。すでに真っ黒になるまで書き込んだ紙束はまとめて部屋の彼方に放り投げた。


「やってやるわよー、やればいいんでしょー、こんちくしょーッ!」


 叫びながら跳ね起きる。

 今度はあぐらではなく、前のめり気味に正座をする。

 キーボードの前に紙束を置き、ただひたすらキータイプとペンを走らせる。


 イリーナはコピー用紙一束500枚をビッシリと埋め尽くし、ただひたすら公開鍵を因数分解――そうして暗号キーを作成していく。


 本来ならそれは、高性能なパソコンを使っても何十年とかかる計算だった。だがイリーナの頭の中では不思議な現象が起こっていた。


 書きなぐる数字の羅列が脳内で三次元的に浮かび上がり、それによって厚みという情報的質量が与えられ、思考速度が並列的に加速していく――

 

 それは、イリーナにとっても初めての感覚だった。

 あたかも量子コンピューターのような有機的並列処理をしているという自覚もないまま、ほぼ三時間ほどで結果は導き出された。異常――というより、異能的な計算速度と言えた。


「はあはあ……随分と、手こずらせてくれたじゃない」


 一度も休憩を取らなかったイリーナは滝のような汗を流していた。

 肩で息をしながら、震える指先でテンキーを押していく。


 解読キーは実に100桁以上にも及んでいた。

 少しでも集中力を切らせば終わりだ。


「あと少し……」


 テキストツールに入力した数字を最初から見直し、それをオール選択、解答欄にコピー&ペーストする。だが、コマンドキーを押しても貼り付けはできなかった。


「だあああああッ! そうだったーッ、こいつ性格悪いんだったー! はあああああ、呪い殺してやるー!」


 爆発したイリーナはボリボリ頭を掻きむしりながらも、すでに暗記してしまった数字をベタ打ちしていく。今度は見直しなどせず即座にエンターキーを押した。


「どーよ、これでどうなるってのよ、風の魔法使いさん?」


 画面が暗転する。

 その瞬間、イリーナの頭から魂的なものが出そうになるが踏みとどまる。

 違う、レベル3かと思ったがそうではない。


「なにこれ、魔法使いから三つのプレゼント? ……ってことは正解? 私やったの?」


 はあ〜っと大きくため息をつく。

 疲れた。一気に五キロくらい痩せた気がする。

 今はとにかく休みたい。

 でも最後に――


「なにが魔法使いよ。散々ヒトのこと振り回して。本当の魔法使いならこれくらいのことしてみせなさいよね」


 イリーナは茹で上がった頭のままキータイプする。

 魔法使いから三つのプレゼント――と書かれた文字の下には三つの空欄があった。

 おそらく望むものを書けば、魔法使いとやらがプレゼントをしてくれるのだろう。


 イリーナは空欄のひとつを埋めたところで力尽きた。

 糸が切れるように突っ伏し、そのまま爆睡する。

 空欄にはただひとこと、少女の本気とも冗談とも取れない願望が書かれていた。


『世界を壊して』


 この世界は自分を縛り付ける。

 暗く冷たい森の奥の屋敷。

 そこに自分を閉じ込め続ける。


 それを破壊してほしい。

 そうでもしない限り、イリーナは決して自由にはなれない。


 いつも憧れていた外の世界。

 キラキラと輝く暖かな世界。


 そのために、自分を取り巻く世界を壊してほしい。

 そう願いを込めて、イリーナは世界の終わりを望んでしまった。


 できるわけがない。

 しょせん無茶なお願い。

 聞き届けられるわけがない。


 だが彼女が知らない。

 彼女がお願いをした魔法使いは本物で。

 そして世界を滅ぼせるだけの力を持っていることを。


 次にイリーナが目を覚ますと、世界は破滅へと向かっていた。


 *


「嘘、嘘嘘嘘――ッ!」


 イリーナは頭から毛布を被り、必死に現実を否定していた。

 自分のせいではないと。

 こんなことになるとは思っていなかったのだと。

 丸二日以上も眠りこけてしまったイリーナが目を覚ますと、世界は一変していた。


 地球の北極点に突如として出現した巨大な孔――ブラックホールのせいで、世界には終焉が訪れていたのだ。


 そのブラックホールを中心に磁場が乱れ、重力も変調し、地軸にも影響が出始めているという。


 もう既に数秒から十数秒、地球の自転速度が遅くなり始め、その影響の波は僅かな時間で全世界へと広がっていた。


 まず、GPS情報に依存する航空機が軒並み使用不能になった。


 逃げ惑う人々が陸路で移動を開始したために交通機関は完全に麻痺してしまった。


 投資家は悲観売りや、資金の引き上げを繰り返し、世界中で株価は大暴落。


 NYダウも日経平均も原油先物も取引自体が停止に追い込まれた。


 世界中に滅びの恐怖が伝播していた。


「違う……私はこんな、本当に世界が滅んで欲しかったわけじゃない……!」


 広い部屋に一人、イリーナはガタガタと震えていた。

 今はかろうじて電気が通って暖が保たれているが、それもいつまで続くかわからない。


 イリーナは小さなスマホの画面を見つめながら、あらゆるニュースメディアを閲覧し、希望的な情報を探そうと試みたが、そんなものは皆無だった。


 嘆きが、悲しみが、叫びが――ツイッターに、フェイスブックに、ラインに、ありとあらゆるメディアに溢れ返っていた。


 嘘だ、そんなはずはない。

 そう否定しても考えてしまう。

 魔法使いを名乗る者からの返信。

 世界の破滅を願った自分への解答。

 目覚めたイリーナのPC画面にはインスタのダイレクトメッセージが。

 そこにはただ一言、『了解』――と。


「違う! 私のせいなんかじゃ――でも……」


 あんな暗号文なんか解かなきゃよかった。

 後悔してもそれは後の祭りだった。


 世界は終わる。終わってしまう。

 ブラックホールが現れて40時間以上が経過していた。

 すでに地球の自転速度は1分近くも遅くなっていた。

 

 このまま地球の自転が停止してしまったらどうなってしまうのか。

 全世界規模で、いまだかつて無い未曾有の大災害が起きる。

 知りたくもないのにイリーナの頭脳はその未来をありありと想像してしまう。


 まず、地球自転が遅くなると赤道付近に遠心力で引っ張られていた海水が極点を目指して大移動を開始する。あらゆる陸地の沿岸部――内陸部まで含めて海の底に沈んでしまうだろう。


 移動するのは海水だけでない。大気も一緒に移動を始めるのだ。緯度の低いところから高いところへ無酸素地域が広がり、僅かに生き残った人々は地上に居ながら窒息することになる。


 さらに、地球の中心核――コアの回転によって発生していた地磁気が消滅し、有害な太陽光が地球を灼き尽くす。


 自転が停まる際、マントルと地殻の摩擦で巨大地震も発生するだろう。コリオリ効果も消え、大気が撹拌されなければ、雲もできず、風も吹かず、雨も雪も降らなくなる。


 最終的には一日は一年になり、太陽を回る公転によってしか昼と夜は訪れなくなるだろう。


 すべてを灼き尽くす炎天の昼が半年続き。

 あらゆる生命を許さぬ極寒の夜が半年続く。

 そんな世界で、人類は生きていけるはずがないのだ。


「違う、こんなの私は関係ない……!」


 どうする? どうすればいい?

 小さなイリーナは必死に考えを巡らせる。


 こつこつ貯めていた秘密の資産をダミー口座に送金……違う。

 真っ先に暴動が予想される新興国から投資資金を引き上げ……違う。

 地政学リスクを逆手に取って更にさらに投資を拡大――違う違う違う!


「私がしたいことはそんなことじゃな――」


 叫んだ途端、バヅン、と照明が落ちた。

 次の瞬間には非常灯に切り替わり、室内が赤く照らされる。


「嘘……こんなときに!?」


 屋敷の主電源が落ち、非常電源に切り替わる。

 それは即ち、侵入者の存在を意味する。


 イリーナは国家機密の塊。

 その存在を奪還しようと、国内外の諜報員が暗躍している。

 恐らく、自分が知らないだけで、これまでも多くの血が流されているはずだ。


 だが、普段ならこの屋敷に近付こうとするものがあれば、それは即座に排除されるはずなのだ。それがされず、電源が落とされたということは、本来彼女を守るはずの護衛も機能していないことになる。


 なぜなら世界は、イリーナの他愛もないお願いのせいで破滅へと向かっているから。少女ひとりを守るために人員も避けない祖国と――世界の終わりよりも、目先の利益のため少女を拐かそうとする輩。


 どちらがよりマシかと言われれば――そんなもの、どちらもクソくらえとしか言いようがない。


 スマホが床に落ちる。

 寒い。

 暖房が途絶えた途端、部屋はみるみる冷たくなっていく。

 ガクリと、イリーナはその場に膝をつき、蹲った。

 どうして――


「どうして私は、こんなに広い部屋でひとりぼっちなんだろう……」


 世界が終わりそうなのに、どうして私の側には誰もいないんだろう。

 大きな屋敷も、温かい部屋も、高性能なパソコンも、漫画もお菓子も何もかも。

 本当はそんなもの、何一つとして欲しくなかった。

 すべては代用品に過ぎなかった。


「パーパ……マーマ……、逢いたいよう」


 震える声で呟く。

 たったひとり。

 誰に看取られることなく自分は死ぬ。

 あるいは、何者かによって連れ去られる。


 どちらにしろ、もう二度と父や母――自分に遺伝子を提供した者たち。

 唯一の肉親――自分の家族には会えなくなってしまう。

 その事実に涙が溢れてくる。


「――ひッ!?」


 遠くで大きな音がした。

 それは屋敷の門扉が破壊される音だった。


 イリーナは歯の根が合わないほど怯え始める。

 破壊の音は屋敷の各所から断続的に響き、段々とこちらに近づいてくる。


「パーパっ、マーマっ……!」


 背中を丸め、頭を抱える。

 そしてついに――


「セーレスッッッ――!!」


 そんな声と共に、イリーナの部屋の扉が破壊される。

 両開きの立派な扉は跡形もなく吹き飛ばされ、その奥からひとりの男が現れた。


「え……!?」


 涙に濡れる瞳でイリーナが見たもの。

 それはどこからどう見ても彼女を攫いにきたエージェント――には見えなかった。


 一言でいうなら日本の忍者のような格好だった。

 全身黒尽くめの衣装で、顔の下半分は鬼のような面頬めんほうで隠されている。


 頭部にはまるでライオンのたてがみを模したようなザンバラのウィッグが取り付けられ、肩で息をする男に合わせフワフワと揺れていた。


 そんな格好をした男は性急な様子で室内を見渡し、そして怯えるイリーナの姿を目に留める。――途端彼はガックリと肩を落とした。


「真希奈、これって外れか?」


 口元を覆うの面頬からくぐもった声。

 語学に堪能なイリーナは「日本語だ」と即座にわかった。


『――肯定。どうやらまたしてもダミー情報だったようです。悔しいですが情報戦において、敵は一枚も二枚も上手のようです』


「ちくしょうッ!」


 男が叫んだ瞬間、ビリビリと部屋全体が揺れ、イリーナは「キャ!」と悲鳴を上げた。


「ああ、ごめん。怖がらないでくれ、僕は別に怪しいものじゃないから」


 古今東西、自分は怪しくないと言うものこそ怪しいという不文律がある。さらにこの男は見た目からして怪しさ爆発だった。


「というかこの子誰だ? なんでこんな女の子が、こんな要塞みたいな屋敷にいるんだ?」


『――これだけのセキュリティレベルで護衛される少女……真希奈もてっきり“目標”かと思ったのですが……そちらの子にはその子なりの理由があるようですね』


 先程から黒装束の男は、姿の見えない少女の声と会話をしていた。

 しばらく男は部屋の中を観察し、イリーナのPC画面に目を留める。

 途端彼は驚いた様子で「おい、真希奈!」とパートナーと思わしき少女の名前を呼んだ。


『驚きました。これは偶然でしょうか……?』


「おいキミ、名前は? キミがこれを解いたのか?」


 男が指差すのはイリーナが開きっぱなしにしていた『RSA複合量子暗号文』と、その周囲にばら撒かれたコピー用紙だった。


 イリーナは多少警戒心を下げつつも、油断することなくコクリと頷く。


「どうしてキミみたいな子が世界の破滅を望んだ?」


「――ッ!? そ、それじゃあ、あなたが魔法使い!?」


 イリーナが自分を取り巻く世界を壊して欲しくて望んだ破滅と、本当の破滅を実行する魔法使い。いや、これはもはや魔王の所業ではないだろうか。


「な、なんなのよあんたは!? この暗号文といい、空のブラックホールといい、うちに突撃してきたのといい、一体なにしてるのよッ!?」


 イリーナはヒステリックに叫んだ。叫ぶと同時に目尻からポロポロと涙があふれる。怖かった。本気で死を覚悟した。危機は未だ継続中ではあるものの、男から優しい言葉をかけられ、緊張の糸が緩んでしまった。


 天井を見上げ子供のように泣きじゃくるイリーナ。実際子供ではあるのだが、天才ゆえの見栄とプライドで両親の前でさえ涙を見せたことは一度もなかった。


 黒衣の男は、火がついたように泣くイリーナの前にしゃがみ込むと、不器用そうに、だが優しくその頭を撫でる。


 一瞬ビクつきながらもイリーナはそっと顔を上げた。

 鬼のような面の奥、その瞳は優しげに細められている。


 その目に見つめられた途端、イリーナはカア、と急速に顔を赤くした。自分が今みっともなく泣きわめき、あまつさえそれを慰められている状況なのだと理解し、急激に恥ずかしくなったのだ。


「やめて、子供扱いしないで!」


 僅かに勝ったプライドにより再び自分を取り戻したイリーナは頭の上に乗ったままの手を乱暴に振り払う。


「わ、私はね天才なの! 優秀なパーパとマーマの血を受け継いでるんだから! その辺の子供と一緒にしないでよね!」


 床に座ったまま腰に手を当て、フンスと小さな胸を張る。

 男は――ジッと自分の手を見ていた。そしておもむろに匂いを嗅いだ。


「臭い。おまえ、何日風呂に入ってないんだ?」


「なッ!?」


 先ほどを上回る羞恥。

 そして怒りがイリーナの顔を真っ赤っ赤にした。


 幼いとはいえレディに対して何たる暴言か。

 確かに寒冷地で乾燥地帯でもあるから風呂なんて滅多に・・・入らない。

 でも気がついたら身体は拭くようにしてるのに……三日に一度くらいは。


「こ、こ、このぉ、よくも言ってくれたわね? 私のどこが臭いっていうのよ?」


「いや、髪を触った感じすごくゴワゴワだし、ほら見ろ、この白いの全部フ――」


「うがあああ、言うなあ! 乙女的にその言葉は絶対に言わせないぃぃぃ!」


 イリーナは小さな身体を駆動させ男へと飛びかかった。

 滞空時間は僅か、全体重を乗せたボディプレスはしかし、男に当たる直前でひらりと躱される。


「キャッ!?」


 顔面から床に激突する寸前、イリーナが停止する。

 男が横合いからイリーナの襟の後ろを掴み上げていた。


「うわ、おまえ首の後ろ特に溜まってるぞフ――」


「言うんじゃないって言ってるでしょう! っていうかばっちいものを摘むみたいに持ち上げるな!」


 なんなのだこの男は。

 デリカシーの欠片もないし、天才たる自分を完全に見下して子供扱いしてくる。

 生まれて僅か十年足らず。だがこれほどの屈辱を味わわされたのは初めてだ。


 逆襲に燃えるイリーナが、なんとか男に一矢報いようと、届きもしない蹴りを叩き込もうと躍起になっていたその時だった。


 面の奥、男の目がスウっと細められる。

 そして声を低くして呼びかける。


「真希奈」


『侵入者のようです。正門と裏手が塞がれました。どうやら目的はその少女のようですね』


 イリーナは思い出したように顔を青ざめさせた。

 世界が破滅へと向かい混乱しているこの好機を敵が見逃すはずがない。


 イリーナは歩く国家機密であり、その存在が他国へと漏洩した場合、祖国が被る被害額は天文学的な規模に及ぶ。故に彼女を攫うために敵は常々機会を伺っているのだ。


「あー、ひょっとして僕が彼らを招待しちゃったのかな?」


『いえ、それ以前に電子的なセキリティを無効化したのは真希奈です。タケル様のせいだけでは――』


「ど、どうしよう……! あ、あんたたち、早く逃げないと!」


 イリーナがそう言うと、男はつまみ上げていたイリーナを下ろす。床に足がつくなり、ヘタっとイリーナの膝から力が抜けた。


「逃げろと言われてもな。もう完全に包囲されてるみたいだしな」


「ならどこかに隠れなさいよっ! 奴らの目的は私だけだから、見つからなければ殺されないわ!」


「おい真希奈、このちびっ子、口は悪いが俺たちを心配してくれてるみたいだぞ?」


『そのようです。危機的な状況にあってもヒトとして正しい心を失わないとは。勉強になります』


「なにを呑気に会話してるのよッ!」


 部屋の外が騒然とする。

 既に破壊された門扉や屋敷の各所を見て、自分たち以外の侵入者の存在を悟ったのだろう。


 となればそこからは競争だった。

 イリーナというトロフィーを得るため、一目散にこの部屋へと迫りくる。


 当然、その全員が武装しているだろう。

 室内に突入した途端、目標であるイリーナ以外は全員殺されてしまうはずだ。


 僅かな会話の間にイリーナは、この黒衣の男と、そして会話を続ける姿なき少女が、どうやら自分イリーナを目的としてではなく、なにか勘違いに基づいてここまでやってきてしまったのだろうと当たりをつけていた。


 とんだ間抜けなエージェントもいたものだと思うが、それでもこのふたりは悪いものでは決して無い。暗号文を解いたときと同じ、イリーナの天才的な直感がそう告げている。ならば、ふたりが殺されるような事態は防がなければ――


『敵武装集団、あと60秒後に接触』


「もう時間がない、私のことは放っておいていいから、あんたたちだけでも――」


「やれやれ」


 黒衣の男はイリーナの小さな身体をお姫様抱っこすると、大事そうに胸に抱きしめた。一瞬、自分が今何をされているのか、イリーナにはわからず、言葉を失ってしまう。


「真希奈、念の為この暗号文のデータは消去しておけ」


『了解しました――完了。私達がこの部屋にいた痕跡も消去済みです。アナログデータは如何いたしますか?』


「脱出と同時に灰にしろ」


 男は短く命令すると、イリーナを抱えたまま窓に向かって歩き出す。


「しっかり掴まってろよ」


「ちょっと、何を――」


 言うが早いか男は窓に向かってパンチ。

 鉄格子がハメられているはずのそこが紙ペラのように吹き飛ぶ。

 そして次の瞬間には、破壊された窓から外へとダイブしていた。


「ぎゃああああああああああああああああああああ!!」


 問答無用の浮遊感と冷たい風に絶叫するイリーナ。

 だが、覚悟していた落下の衝撃はやってこなかった。


「おい、引っ付きすぎだ。いい加減目を開けてみろ」


「え?」


 すぐ耳元で囁かれた男の声。

 恐る恐る目を開けると、遥か眼下に自分が監禁されていた屋敷が。

 そして――ドカンッ、と自分の部屋が爆発し、炎に包まれる。


『魔素選択炎精バルカン。アナログデータの消去完了しました』


「よし、とりあえず行くか」


 男が姿勢を変えると、途端どこからともなく風が吹いて、空中を自動車並みのスピードで移動し始める。生まれて初めて外に出たというのに、それより以上のインパクトにイリーナは叫んでいた。


「も、もしかして私達、今空飛んでる?」


「もしかしなくてもさっきから飛んでるぞ」


「なんでッ!?」


「なんでって、僕は魔法使いだからな」


 そうだ。この男はイリーナの屋敷にたやすく侵入し、そして恐らくあの暗号文を送りつけてきた張本人。


 最初こそ死の恐怖から混乱していたイリーナだったが、危機が去った途端、聡明な彼女はいくつかの質問を男にぶつける。


「あんた、何者なの?」


「魔法使いだ」


 完結にして明瞭。

 魔法使いという事実は今現在空を飛んでいる事実からも本当なのだろう。


「あのインスタグラム、あんたが投稿してるの?」


「いや――そうだな。僕がアップしてる。撮影者は別にいるんだが、そいつは投稿とかネットとか興味が無いみたいだから、あのアカウントは僕が投稿用に作ったものだ」


 なるほど。本当に単なるストレージ扱いだったから、コメントやフォロワーの反応にも興味なかったというわけか。


「それじゃあ、今まで投稿してきた写真も全部こんな風に空を飛んで撮影してたの?」


「ああ」


 やっぱり。やっぱりあの写真は本物だった。

 航空機もヘリもドローンも使わず、自由自在に高層ビル群を抜け、雲を飛び越え、街を見下ろしながら、手にした道具で写真を撮影していたのだ。誰にも見つからないよう、姿を消しながら。魔法が使えるなら自身を見えなくすることだってできるのだろう。


「あの暗号文はなに?」


「協力者を探しているんだ。真希奈は――僕の相棒は優秀なんだが、最近生まれたばかりでな。圧倒的に経験が足りない。この子をサポートしてくれる存在が必要だった」


 それで――あんな暗号文を使ってふるいにかけていたと。


「そうだ、三つのお願いって!?」


「ああ、もちろんタダじゃダメだろう。きちんと対価を支払おうと思って、できる限りのことを――」


「そうじゃない! ブラックホールってなんなの!? なんであんなことしてるの!?」


「はあ? おまえが言ったんだろう、世界を壊してくれって」


 いや、確かに言いはしたが、普通本当に世界なんて壊せるわけがない。でもたまたまこの男にはそれができるだけの力があったということなのか。


「ダメダメ、中止! 世界なんて壊さなくていいから!」


「本当か? それはよかった。相手に舐められないために『いつでも世界は壊せるんだ』って見せる必要があったからな」


「そんな示威行為で地軸にまで影響出さないでよ……」


 イリーナはげんなりとため息をついた。男は不意に黙り込むと、うんとひとつ頷く。

 

「――終わった。消したぞブラックホール。まあ正確にはブラックホールじゃないけど」


「じゃあ何なのよあの黒い孔は?」


「あれは別の世界に通じる扉だ。あの中に入ったものは、どんなものでも原子分解される。超巨大なダストボックスだな」


『聖剣は完全にコントロール下にありました。主に軌道上の廃棄衛星やスペースデブリを吸収・分解していました』


 原子分解って……。

 言葉の意味はわかるが、それを口にするヤツがいたら正気を疑ってしまう。

 でも、恐らく本当なのだろう。男が嘘を言っていないことだけはイリーナにも伝わった。


「それにしても驚いたよ。あの暗号文を解いたものは未だに誰もいない。まさか最初に解いたのがおまえみたいな子供――女の子だったなんて」


 子供と言われムッとした雰囲気が伝わったのだろう、男は慌てて訂正する。イリーナはことさら誇示するように言った。


「まあね、私はパーパとマーマの子供だから当然ね」


「当然か。よほど優秀なんだなおまえは」


「おまえじゃなくてイリーナよ。そっちも隠す気はないんでしょ。タケルに、あとどこにいるのか知らないけど、マキナっていうんでしょ?」


 男――タケルは、「まあそうだな」と言って改めて自己紹介した。


「僕はタケル・エンペドクレス」


『真希奈は真希奈です』


「私はイリーナ・アレクセイヴナ・ケレンスカヤ。イリーナでいいわよ」


 真夜中、郊外の森。

 街の灯りは遥か遠く、気温は有にマイナスだろう。


 でもちっとも寒くなかった。

 魔法使いというだけあって、周囲の風を操作して飛んでいるらしい。


「答えてくれイリーナ、どうしてキミはあんなところに監禁されていたんだ?」


 タケルの質問に一瞬だけ迷ったイリーナだったが、今更隠してもしょうがないと事情を話す。


 自分が天才を宿命付けられて生まれたデザインチャイルドであること。物心ついたときから一歩も外に出ることなく、あの部屋の中で祖国のために働かされていたこと。


 それに嫌気がさしていたから、気まぐれに『世界を壊して』などと口にしてしまったのだ。


「そうか……。事情はわかったが、お前の両親はそれに納得してるのか? まず最初に救いを求めるべきはそちらじゃないのか?」


「わかってないわね。確かにそうしたいけど、でも同じくらいパーパとマーマの負担にもなりたくないんじゃない」


 ことはイリーナの我がままでどうにかなるレベルではない。両親には両親の立場がある。もしイリーナの願いを叶えたことで国家の意向に従わなかったと罪を着せられてしまうかもしれない。


「おまえ、ホントにいろいろ考えてるんだな」


「相手の顔色を見ながら泣くなんて赤ちゃんだってできることよ。それより私からも質問。『セーレス』って誰?」


 タケルの目が驚きに見開かれる。だが、自分でその名を口にしたことを思い出したのか、バツが悪そうに目をそらした。


「大切な存在だ。ずっと探してる」


「ふうん。大切な存在ね。恋人?」


「まあ、一応……」


「へえ」


 イリーナはニヤニヤとした。

 明らかにタケルが動揺しているからだ。


「ねえ、どんなヒトなの?」


「金髪のエルフだ」


「は? コスプレが趣味なの?」


「違う、本物の長耳長命族エルフだ」


 面頬の下の声が低くなる。

 真剣さが、切実さが伝わってきて、イリーナは「まあいいけど」と納得する。


「ねえ、そのヒトのこと好きなのよね?」


「なんだその質問は?」


『真希奈も気になります』


「なんでッ!?」


「いいから答えなさいよ」


『いいから答えてください』


 タケルは「ぐぐぐ」と唸ったと、渋々と言った感じで告白する。


「……好きだよ」


「ほー。そりゃああんな頑丈な扉をぶっ壊しながら名前を叫ぶくらいだもんねー」


『タケル様のいう好きとは、あの乳デカ女への好きとどう違うのですか? また真希奈に対する好きとは違うのですか?』


「おい、それは――」


「ちょっと待って。真希奈ちゃんだっけ? 今新しい女が出てきた。その乳デカ女と『セーレス』っておんなじヒト?」


『否定。性別的にはどちらも女性ですが、種族的には長耳長命族エルフ魔人族まじんぞくになります』


「……一応聞くけどゲームの話じゃないわよね?」


『肯定。ふたりは地球とは異なる世界、魔法世界マクマティカの出身です』


「ま、魔法世界マクマティカ!?」


 そんな馬鹿な、とイリーナは思ったが、でも実際こうして空を飛び、魔法の存在を目の当たりにしているためすんなりと納得できた。


「じゃあ、タケルはその魔法世界マクマティカから地球にやってきて『セーレス』って自分の恋人を探してるけど、それと同時に乳デカ女ってヒトのことも好きなんだ? 結構最低じゃない?」


「おい、勝手に決めるな! っていうかこっちの事情も知らないくせになんでほぼ正解を言い当てられる!?」


「なんでって……天才だもん私」


 ムフーっとイリーナは鼻から盛大に息を吐く。

 タケルは「はっ」と鼻で笑った。


「天才は天才でもまだ子供だろ」


「ムカっ。私は子供じゃありませんー。もう大人ですー」


「なら身だしなみくらい整えろ。女の子の体臭じゃないぞおまえ」


「馬鹿ッ、エッチ! 誰に断って匂い嗅いでるのよ!」


「この体勢なら仕方ないだろ!」


 空を飛びながらギャイギャイと言い合いが始まる。

 顔の見えないネット以外で誰かと会話した経験はイリーナにとって初めてのことであり、つい状況も忘れて楽しんでしまう。と――


『タケル様、前方に車両が一台。乗っているのはイリーナさんのご両親のようです』


「え、パーパとマーマ!? どうしてわかるの!?」


『お部屋の中に写真が飾られているのを見ましたので、今までの会話の内容からも確度が高いと判断しました』


「すごーい、この子も超優秀じゃん」


「当然だ」


「なんであんたが誇らしげなのよ」


「娘だからな」


「嘘ッ!?」


 更に質問を重ねようとしたその時、タケルが降下を始めた。

 猛スピードで吹雪の中を疾走る一台の車と並行して飛びながら、コンコンと運転席の窓をノックする。


 中に乗っていたのは老夫婦だった。

 白髪混じりの男性が鬼面のタケルにギョッとする。

 だがイリーナが手を振ると車を急停車させた。


「イーニャ!」


「パーパ! マーマ!」


 どうやらイリーナのいる屋敷が襲撃されていると聞き、両親も慌てて車を走らせてきたらしい。本来なら接触すら禁止されているというのに、こうして抱き合うのも数年ぶりのことだという。


「イリーナ・アレクセイヴナ・ケレンスカヤ」


 極寒の中、固く抱き合う親子。

 しばらくそれを見守ったあと、タケルは声をかけた。


「改めておまえに仕事を頼みたい。『セーレス』を探すため、僕に協力して欲しい」


「それは、いいけど……。でも私にはそんな自由なんて……」


「大丈夫だ、きっと上手くいく。残りふたつの願いも決めておけよ」


 そういうとタケルはフワリと浮かび上がった。

 驚愕に目を見開く老夫婦とイリーナを見下ろすと、足元から炎を吹き上げ、猛スピードで飛び去っていく。


 仮にも国家の重要な役職に身を置くイリーナの両親は、彼は何者なのかと知りたがったが、彼女は「別に悪いヤツじゃないわよ」と言った。


「多分、本物の魔法使いだから」


 たったひとりの女を探して世界を滅ぼしかける、そんなちょっと危ない感じの男ではあるが……とは心の中だけで付け加えておく。


 そうして後日、上層部の方で大きな人事異動が起こり、イリーナを食い物にして名声を得ていた老人たちが軒並み失脚する大事件が勃発した。


 そこには遠く海を隔てた別の国から、政治的な駆け引きと莫大な支援があって初めて実現したことだと後から聞かされた。


 こうして十一年にも及んだイリーナの監禁生活はあっさりと終わりを告げた。

 同時に日本のとある名家から彼女宛に招待状が届く。


 そこには長い闘病生活・・・・・・から快方した・・・・・・イリーナに対する労いの言葉と、見聞を広めるために日本へ来ないか、という内容が書かれていた。


 彼女を縛るものはもう何もなかった。

 約束を果たすため、ひとりの少女は生まれて初めてとなる異国の地を踏むこととなるのだった。


 続く。

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