第71話 地球へ…③ 最終話 タケル・エンペドクレス〜暴虐なるニート
*
「何しに来た――エアリス!?」
炎に嬲られたすすだらけの有様で、僕はエアリスを見上げる。
彼女は中空で、ただ僕を見下ろしていた。
「おい、なんとか言ったらどうなんだ!」
深山幽谷の湯治場において僕へと――、正確にはディーオである僕へと自分の想いの丈を告白してきたエアリス。
だがにべもなく僕はそれを拒絶し、唇の逢瀬の際に彼女を行動不能にしたはず――だった。
エアリスはゆっくりと地面に着地すると、ザッと周囲を見渡す。そして肩越しに振り返りながら問いかけてくる。
「聖剣とやらは、手に入れたのか……?」
エアリスの瞳には静かな怒り――のようなものが見て取れた。
当然だろう。僕は彼女に女性として恥をかかせた。
あまつさえ素っ裸のまま置いてきぼりにしたのだ。
ゴクリ、と喉を鳴らしながら僕は「ああ」と頷いた。
「では、貴様は本当に『ちきゅう』に行ってしまうのだな」
「そのつもりだ」
「そうか……だが、案の定敵に阻まれてそれもままならないようだ」
爆発的に広がった炎に巻かれ、霊廟内に、あるいはその外に累々と倒れ伏す騎兵や魔法師たち。
空を駆けてきた彼女なら、今この『聖剣の祠』に群がるアリの如き兵士たちの姿を目撃したことだろう。
僕がなにも言い返せないでいると、エアリスはそれ見たことか、とでも言いたげに鼻を鳴らした。と――
「――ッ、くるぞ――!」
エアリスが警告するまでもなく、再び膨れ上がる炎の魔素と『憎』の意思。
討伐軍も必死のようだ。自分たちの被害などお構いになしに、例え内部の味方が巻き込まれようとも次々と魔法を展開してくる。
「おい――、なんのつもりだ!?」
これから数千、下手をすれば万の炎が降り注ごうとしている最中、何を思ったのかエアリスは、僕の真ん前に陣取り、全身に魔力を滾らせながら空をにらみ据える。動かぬその背中が不退転の意思を告げているようだった。
「貴様は急ぎ聖剣の力を使い『ゲート』の魔法の準備をしろ。炎による攻撃はすべて私が引き受ける――!」
凛として告げられた彼女の言葉に、僕は絶句した。
まさか、身を挺して時間を稼ごうというのか!?
この女は――僕がなんのためにお前をあの場に置き去りにしたと思ってるんだッ!
「馬鹿なことはやめろ! いくらお前でも防ぎきれるもんじゃない! そんなことしてる暇があったらお前だけでも逃げろッ!」
「馬鹿なこととはなんだ。貴様は自分の女を助けたいのだろう。ならば私のことなど気にするな。私は私のしたいようにするだけだ!」
「余計なお世話だ! 自爆覚悟なら僕だっていくらでも魔法で対処できる!」
「自慢にもならん強がりはやめるがいい、貴様は未だに半人前の魔族種成り立てだということを忘れるな!」
正直こんな不毛な言い争いをしている時間もないのだが、やっぱり彼女を巻き込むわけにはいかない。僕に力をくれたディーオだって彼女が傷つくところなど見たくはないはずだ。仕方がない。
「おい、おまえは本物のバカなのか?」
「なんだと――!?」
僕に悪口を言われるとエアリスは反射的に反応する。一瞬彼女はハッとした表情をするが、今更あとには引けないと思ったのか、僕を睨みつけてくる。
僕は静かに、聞き分けのない子供を相手にするように、噛んで含めるように言い放った。
「いいか、この際だからハッキリ言うぞ。僕はおまえの大好きなディーオ様じゃない。もう僕のことなんか放っておいてくれ。そして僕とは関係のないところで自分のためだけに生きて――」
その時。無常にも。言い終える前に、炎の魔法が降り注いだ。
雨のように、礫のように、矢のように降り注ぐ炎を、エアリスの風はすべて弾き返す。
「貴様がディーオ様でないことなど――そんなことはもうわかっている!」
精霊の加護を受けたエアリスの全身から、膨大な魔力が湯水のように湧き上がり、遠く追いやられていた風の魔素が、疾風のように彼女へと収束していく。
活火山のミュー山脈は、見るものが見れば、常に山全体が真紅に包まれているという。その中で突如集結した風の魔素は、色にすれば深緑。
翡翠かエメラルドのように、魔素のひとつひとつが清廉な煌めきを放っている。絨毯爆撃のように、一分の隙もなく叩きつけられる炎に対し、エアリスは小さな風の礫を正確にぶつけて相殺していた。
(あの礫は凝縮した風の魔素? 内部は真空に近い状態にして、インパクトの瞬間、周囲の酸素を奪いながら消火しているのか――!?)
魔法を紡ぐ速度、そして正確さ。いずれも僕には到底真似できない精緻さだった。
「何をしている――、長くは保たん、早くしろ!」
確かに見惚れてる場合じゃない。
僕はすぐさま意識を切り替えると、剣を構えるように両手を突き出した。
己の奥深く――虚空心臓がある内面世界へと呼びかける。
するとそこから、神龍の心臓とはまた別の、異質の力が溢れるのを感じた。
次の瞬間、目を焼くような七色の極光が両手に集まり、確かな形となって結実する。
聖剣。
あるいは世界を飛び越えるための神様のシステム。
フリッツの言葉が正しければ『
「それが――」
一瞬だけ聞こえたエアリスの小さな声。
僕自身、改めて見てもこれが異常な存在であるとわかる。
白銀に輝く刀身は剥き身の剣そのもの。
飾り気は一切なく、鍔も柄もない。
まるで全体が刃そのもののようだった。
「うおおっ!?」
ガクン、と膝から力が抜けそうになる。聖剣を取り出した途端、一気に魔力が吸い取られる感じがしたのだ。なんてこった。こいつはとんでもない魔力食いだ。今こうしているだけでも、大魔法を連発するくらいの魔力を消費しているのがわかる。これはうかうかしてられない。
「開門――」
その言葉は自然と、僕の中から出てきた。
呟きながら刃を頭上へと振りぬく。
途端、空間が切り取られ、紅蓮一色に染まっていた空が漆黒に切り裂かれる。
その奥には宇宙が――無限の星々が煌めく空間が現れた。
「開いたのか――!?」
幾分焦りを孕んだエアリスの声。
僕は「まだだッ!」と同じく焦燥に駆られながら叫んだ。
そう、扉を開くだけなら問題はない。
最も困難なのは、『僕が住んでいた地球』を正確に見つけ出すことなのだ。
太陽系という枠組みを越え、銀河規模で無数に存在すると言われる人が住む地球型惑星。それらの中から、龍神族の特別な眼と高次元の認識力を持って捜査していかなければならないのだ。
そして僕が見たものは――
(おいおい、冗談だろ――!?)
僕は今、魔族種となって初めて宇宙という枠組みに眼を向けた。
地球型惑星とは、星の息吹によって作り出される四大魔素が満ち溢れる世界のことである。
星の核はマントルという炎の魔素。
自転によって生み出される気象という風。
そして海は水の、陸地は土の魔素を湛えている。
僕は自分の認識の甘さを悔いた。
銀河規模に目を向ければ、人型生物の生息する可能性のある星のなんと多いことか。
アインシュタインの一般相対性理論に於いて、この宇宙には光より速いものは存在しないとされている。その地平を軽々と飛び越えるのがこの聖剣という存在なのだが、多くの地球型惑星の中から、自分の住んでいた星を見つけ出すことの難しさを僕は完全に失念していた。
(なんてこった。これは相当に厄介だぞ――!)
僕はもはや取り繕うことはせず、苦悶に顔を歪めていた。
ヒトを超える魔族種の肉体でありながらも、特別な眼と高次元の認識力を同時に駆使するのは非常に難しい。
傍目には眉間にシワを寄せ、目を皿のように見開いているだけにしか見えないが、僕の頭は既に割れそうなくらいの激痛に苛まれている。
それは宇宙という砂場の中から、たったひとつの砂粒を見つけるのに等しい行為。しかもなんの道標もなく、ヒントすらないぶっつけ本番。
不安が、僕の中でささやく。
本当に今見ている宇宙は僕が知っている宇宙なのか。
もしかしたら、まったく違う宇宙を見ているのではないのか――と。
地球にいた頃、本で読んだことがある。
この宇宙には余剰次元と呼ばれるものがが無数に存在し、そこには『時空の織物』と呼ばれる膜に内包された宇宙がいくつも存在するという。
僕が今見ている宇宙が、かつて僕が住んでいた地球のある次元の宇宙だと、誰が確証を与えてくれるというのか。
(不味い、不味いぞ――完全に準備不足だった。聖剣さえ手に入れれば何とかなると誤解していた。ここはやっぱり一旦引いた方がいい!?)
地球に住んでいる人間のどれだけが、今自分の生きている宇宙のことを知っているというのだろう。そして、無限に膨張加速を続ける宇宙のどこに、自分の星がここにある、などと認識しているというのか――
「何をもたもたしている、もう限界だぞ――!」
エアリスが色を失くして叫ぶ。
霊廟内は炎に焼きつくされ、灼熱地獄の様相だ。
もはや彼女は炎の魔法ひとつひとつを迎撃などしていなかった。
僕と彼女の周囲に風が渦巻くベールのようなものを張り巡らせ、彼女はそれを懸命に維持している。
高速で流動する風のベールの表面は真空に保たれ、炎の魔素を散らしながら打ち消すも、それを貫き崩さんとする『憎』の意志力の総数は、彼女ひとりで防ぎ切れる範疇を逸脱している。
僕は気づく。
霊廟の外にある『憎』の意思が増えている。
まさか討伐軍の後続が到着したのか。
紡がれる魔法の数も格段に多くなっていた。
「くッ――!」
ついに風のベールに穴が空いた。
僕の足元に刺さった炎の矢をエアリスが手をかざして消し去る。
彼女は顔を歪めながら放物線を描いて迫りくる炎の魔法に対処する。
「我を加護せし風の精霊に願い奉る! この身と引き替えにさらなる力を顕現させよ――! 私のすべてを喰らい尽くして風を齎せ――!」
風のベールが三重に展開される。
エアリスはその場に膝をつきながら、両手を空に伸ばし続ける。
食いしばった口角からは血がにじみ出ていた。
「もういい、おまえだけでもここから脱出しろ!」
「ふざ、けるな……! 世迷い言を抜かす前に、さっさと『ちきゅう』を探せ――!」
ことここに至り、僕は現状を告白する。
もはや強がることも取り繕うこともせず、弱音を吐露した。
「ダメだ、あまりにも似た星が多すぎるんだ! 無数に存在する地球型惑星から、僕がいた世界だけを探すなんてとてもできない――!」
「貴様は何を、誰を探しているのだ――! 女を――、自分の女を探しているのではなかったのか――!?」
エアリスの言葉にハッとする。
判子を押したように同じ地球型惑星を探すのではなく、さらに精度を高めてセーレスという一個人だけを探す。
それは果たして可能なのか。
否。例え、想いを、心を通じ合わせた相手であっても、今必要なのは、僕が認識しやすい相手。より多くの時間を共有した、地球に住む現地の人間ならば可能かもしれない。
家族、親戚、友人。
本来ならかけがえのないそれらが住む場所こそが、唯一無二の星。
僕が暮らしていた地球にほかならない。でも――
両親は家に帰ってこず、親戚付き合いを否定し、友人すら作らなかったニートの僕には、それらはもはや赤の他人よりも遠い存在でしか無い。
(なんてこった……、かつての怠惰な自分自身に、今更首を絞められるなんて……!)
学校に友達はおらず、先生からも煙たがられていた僕は図書館や保健室の常連だった。放課後になれば誰よりも早く帰途に付き、繋がりがあるのはネトゲの顔の見えない友人たちばかり。やがて学校にも行かなくなり、毎日寝て起きるだけの毎日を送っていた。
(くそっ、自分の暮らしていた世界のことなのに自信が持てない。僕は――、僕は本当に地球にいたのか……。もしかしていつか夢だと思ったように、本当は最初から魔法世界のヒト種族だったんじゃ――)
それはあたかも胡蝶の夢のように。
地球にいたという妄想を抱いた単なる精神異常なヒト種族だったのではないかと――
「ああああああああッ――!」
エアリスの絶叫に我に返る。
見れば一枚目の風のベールは消失し、二枚目、三枚のベールも虫食いだらけになっていた。
エアリスは故意に気流を操作し、僕の頭上に降り注ぐ炎も自分の元へと集中させている。彼女の周囲には無数の炎が燻り、そのうちの幾つかは決して浅くない火傷を彼女に負わせていた。
「まだ、まだぁ――!」
瞳に宿る強い意思だけは衰えていないが、エアリスの魔力は枯渇しかかっていた。
むしろ精霊の加護を受けた彼女でなければ、万にも届こうかという炎の波状攻撃を防ぐことなどできはしなかっただろう。
改めて思い知る。
僕ひとりであったとしたら、肉体の再生や防御に気を取られ、『ゲート』を開くことすら出来なかっただろう。
(泣き言をほざいている暇はない――! 誰か、誰か居ないのか――、僕が一番長く同じ時間を過ごしたやつは――――)
いる。
たったひとりだけ。
どんなに拒絶しても。
どんなに遠ざけても。
散々に文句を言いながら。
罵声を浴びせかけながら。
僕を学校へと迎えに来ていた幼なじみの少女が。
あるいは彼女を見つけ出すことができれば、彼女のいるその星こそが、唯一無二の地球である証左になるはず。
正直言って彼女はありがた迷惑な存在だった。
でも今は贅沢など言っていられない。
思い出せ、幼馴染の女の子の容姿を。
黒髪で長い髪。
負けん気の強いやや釣り上がった目。
スラッとした痩せ型の体つき。
なにより彼女は特徴的な声をしていて、そのせいで昔は虐められていたりした。
(綾瀬川心深。すぐ近所に住む僕の幼馴染の女の子。散々煙たがってた僕が虫の良いのは承知してる。でも今だけは利用させてもらうぞ――)
地球を探すのではなく、いずれかの星に住むたった一人の人間を探し出す。
それは遥かに難易度の高い行為であり、僕の脳は、『ゲート』を通じて流れ込んでくる膨大な量の情報、そして聖剣を維持するこに費やされる肉体的苦痛に苛まれる。
全身が発火したように熱くなり、頬にヌルリとした感触。
確かめるまでもなくそれは血涙であり、出血は眼球のさらに奥――脳から直接流れ出ているのだとわかった。
痛み、というよりも酩酊に近い苦痛に歯を食いしばって耐える。
今意識を手放すわけにはいかない。もうエアリスは持たない。僕も次に今と同じことができるようになるまで時間がかかる。そこまで回復する間に、敵が待ってくれるはずがない。
もう一度思い出せ、その声を。
『タケル』
その息遣いを。
『あんたはもうホントにー』
その顔を、髪を、瞳の色を。
『この馬鹿っ、あんたはどうしてそんなに――』
そして――
(――――――………………――――……………――――――見つけた!)
それは奇跡としか言いようがなかった。
間違いない。僕の目には幼馴染の綾瀬川心深が映っている。
距離にすればそれは何光年?
何百、何千、何万――下手をすれば次元さえも超越した先に彼女を見つける。
物憂げなその横顔。
大勢が整然と座るそこは教室か。
僕が合格発表以来一度も行ったことがない高校なのだろう。
彼女は分厚い教科書を隠れ蓑に何かト書きの台本らしきものを広げているようだが、その内容も授業もまるで頭に入っていない様子だ。
さらに意識してスケールを拡大すれば、そこは確かに僕の記憶にあるとおりの青い星の姿を見つけることができた。
「エアリス! もういい――、地球は見つかった、だから早く――」
急ぎ振り返った僕は、目の前の光景に言葉を失った。
そこには、全身を炎に炙られ、力なく崩れる少女の姿があったからだ。
「エアリスッッッ――!」
僕は聖剣を握りしめたまま駆け寄り、彼女を抱き起こす。
その肩に触れた途端、ギリギリまで維持されていた風のベールが消失する。
僕は慌てて、魔力で編み上げたバリアーを展開した。
「おまえは……!」
エアリスは無残な姿だった。
全身は爛れ、鎧は融解して剥がれ落ち、筋肉は引きつって、関節は固まってしまっている。美しかった銀髪は焼け落ちて見る影もなかった。
「遅い、ぞ……、馬鹿者が……、あとは自分で、なんとか、しろ……」
酷い火傷を負った顔で、エアリスは笑っていた。
琥珀色の瞳が虚ろを彷徨う。もう目も見えていないのか。
空に口を開けた漆黒の『ゲート』。
その奥には僕が住んでいた青い星――地球が映し出されている。
いや、映し出されているのではなく、あそこをくぐればたどり着くことができるのだ。
それもこれも、全ては彼女が命を賭して時間を稼いでくれたおかげだった。
「おまえはどうしてそこまで……こんな有様になってまで、どうしてディーオに忠義を尽くそうとするんだよ!」
エアリスの黒炭化した頬に赤い雫が落ちる。
これは僕の血涙――いや、僕は今泣いているのか。
「当然、だ。ディーオ様、なくして……、今の私はあり得ない……。今度こそこの
それだけが彼女の心残り。
主にもらった恩を最後まで返すことができなかった。
ならばこそ、主が選んだ男を命がけで守る。
そうすることでしかディーオに報いる手段がなかった。
かつて主の危機に間に合わなかったエアリスは、今度こそ間に合い、その忠義をまっとうすることができたのだ。
「だけど、残念だったな。僕はおまえのディーオ様じゃない」
僕は泣き笑いみたいにそう告げた。
それは何度も繰り返し伝えていたこと。
ディーオ様ディーオ様と、勝手に命を賭けられる身にもなってみろというのだ。
決してそれだけは違えてはならない。僕など、おまえの親愛を頂くに価しないのだ。だがエアリスは「ふ」と笑った。
「そう、だな……。その通りだ。貴様は、貴様であって、ディーオ様じゃ、ない……。私が追いかけていたのは……、最初から最後まで……、貴様だった、のだ。弱い私は、単純に……ディーオ様の死を、認めたくなかった、だけなのだ……」
エアリスの瞳から急速に力が失われていく。
ダメだ、逝くな。僕は必死に呼びかける。
「おい、何をいきなり聞き分けがよくなってるんだよ! おまえはそんな殊勝なやつじゃないだろう! おまえは僕のことが認められないんだろう!? 僕は所詮ディーオの紛い物なんだろう!?」
コクリ、と彼女が頷いた。
いや、違う。
懸命に喉を潤しているのだ。
唾液ではない別の何かで。
肺腑まで深く火傷を負った身体で最後の言葉を紡ぐために。
「悪かっ……。にせもの、呼ばわり……。貴様は貴様……好きに、生き……。ディーオ様が、成せなかったこと……。惚れた女……救い……。私のようには」
なるなと。
惚れたはずの男を救えず、それを他者のせいにして生きるようなことはするなと。
エアリスはそう言っていた。
役目を終えたとばかりに、エアリスはゆっくりと目を瞑る。
魔力も枯渇し、彼女と共に在ったはずの風の精霊からも、急速にその存在力が失われていく。
それはまるで空気の抜けた風船のようで。
冷たさと悲しみを孕んだ風が、彼女の全身からまるで逃げるように吹いていく。
永劫を生きたディーオに見出された少女は、その救われた命を、ディーオが紡いだ僕のために費やし、果てた。
それがエアリスの本懐。
本当にしたかったことなのだろう。
でも――
「ああ、そうだな。そうさせてもらう。僕は僕が思う様、好きに生きる。そしてセーレスも助け出すし、お前も絶対に死なせない――!」
僕は壊れ物のようにエアリスの身体をそっと持ち上げる。
首の後に手を当て、顔を持ち上げると、その唇に己の唇を重ねた。
「……ぅ」
エアリスの命は消えかかっている。
だがまだ死んだわけではない。
ならば、まだ手はある。
僕は聖剣を維持することで奪われ続けている膨大な魔力――それを凌駕するほどの魔力を精製する。降り注ぐ炎の魔法よりも激しく、猛々しい鼓動が僕とエアリスの全身を打った。
限界を越えて虚空心臓を可動させる。
魔力食いの聖剣が奪うよりもさらにさらに。
溢れ出る膨大な魔力を唇を通じてエアリスへと注ぎ込む。
「んうっ――!」
僕の腕の中、エアリスの身体が跳ねた。
それは停止しかかっていた彼女の心臓が飛び起きた証拠。
より深く。
舌を絡ませ。
さらに口腔の奥の奥を犯し尽くす。
彼女の身体の隅々にまで魔力が行き渡るように。
これは一種の賭けだ。
僕が魔力を注いでいるのはエアリスであってエアリスではない。
彼女がその身に宿す風の精霊に魔力を与えているのだ。
もしも風の精霊がエアリスのことを諦めていなければ、もしも魔力が枯渇しているだけだとしたら――きっと精霊は力を貸してくれるはず。決して自分の主を死なせるようなことはしないはずだ。
「起きろ――エアリス」
僕の呼びかけに彼女が反応する。
琥珀色の瞳に精気が満ちる。
エアリスは驚愕に目を見開いた。
「タケ、ル……これは!?」
魔力とは無色透明な純粋な生命のエネルギー。
ならばこそ、それを他者に譲渡することも可能。
そして僕から魔力を与えられた風の精霊は歓喜し――エアリスの身体を文字通り蘇らせた。
「信じられない……これがディーオ様の――いや、貴様の力なのか」
細胞の賦活。
焼け焦げた髪は元の美しい蒼銀を取り戻し。
ケロイドの皮膚は瑞々しい褐色の肌に。
服や鎧まで再生することはかなわず、彼女は生まれたままの姿で僕の腕の中に抱かれていた。
「ディーオの……記憶の中で見たんだ」
「うん?」
唐突な僕の言葉にエアリスが首をかしげる。
僕は彼女を抱いたまま立ち上がる。
見上げるのは今尚炎の集中攻撃が続く空。
そしてその真中にポッカリと口を開けた漆黒の『ゲート』。
さらにその奥――母なる青い星が輝いている。
「多分それは、もう諦めてしっまったディーオの夢だったんだと思う」
ディーオから力を受け継いだ瞬間、僕の中に流れ込んできた1万年分の記憶。それは洪水のように僕の頭に溢れ、やがて消えていった。
そんな記憶の残滓の中に、現実の光景なのか夢のものなのか判別はつかないが、確かにあったのだ。
ごくごく普通に誰かと結婚し、子供を成し、幸せに暮らすというビジョンが。それが本当の家族の記憶なのか、今はもうわからない。もう一万年近くも前の出来事なら、それは夢と一緒だと思う。
「だから、誰か好きな女と結ばれるっていうのは、忘れ去られるほど過去の記憶であっても、確かにディーオが成したかった夢のひとつだったんだと思う」
エアリスは僕の話に首を傾げたあと、目をパチクリとさせ、それから急速に顔を朱色に染めた。そして恐る恐るといった感じで聞いてくる。
「貴様――私を娶るつもりか」
いや娶るってお前。
言葉のチョイスが露骨すぎてゲンナリしながらも、僕は首を横に振った。
「僕はセーレスを助ける。それだけは絶対に変わらない」
「うん」
エアリスは眩しそうに僕を見つめていた。
どこか誇らしげですらあった。
「でも、もうおまえのことも放っておかない」
「――ッ!?」
ぎゅうっと胸元にエアリスを抱き寄せながら、
その
彼女が息を飲んだタイミングで、僕は命令するように告げた。
「一緒に来い」
僕と地球へ――
「……はい」
* * *
その日。
魔法世界からふたりの魔族種が消滅した。
この日。
人類種ヒト種族に、ふたりめの勇者が誕生した。
「生きている! フリッツ様はご無事だぞ!」
焼死体の山をかき分け、かすり傷ひとつ負わなかった不死身の勇者は王都に凱旋を果たす。
それが何をもたらすのかは、まだわからない。
神は賽を振ることはなく。
今は座してただ静観するのみ……。
* * *
最近少しずつだが成績が落ちてきている。
ただでさえ出席日数はギリギリなのに、このままでは留年しかねない。
だが、それでも教壇に立つ教師の言葉は耳を素通りしていく。
机に広げられた台本の暗記は遅々として進んでいない。
まだ時間があるとはいえ、来週にはリハーサルが始まってしまう。
彼女は劇団に所属する子役であり、中学時代にデビューを果たした声優でもあった。
中学受験のために一時仕事を断り、高校入学と共に復帰した彼女は、仕事を休むための条件として事務所から提示されたパブリシティを広げることで、最近有名になりつつあった。
具体的には顔出しの仕事が増え、声優雑誌にも取り上げられることが多くなった。夏に行われたオーディションで大きな役を掴み、その宣伝も兼ねてテレビやラジオパーソナリティの仕事も増えている。所謂マルチな人気タレントになりつつあった。
今日は貴重な登校日のはずだった。
滅多に来られなくなってしまった学校にようやく来ることができたのだ。
つい先月には歌手デビューも果たし、友達から感想を聞くのが楽しみだった。
乗りに乗っている――はずだった。
約束された輝かしい未来が待っている――はずである。
何も恐れることなく、演技と勉強に励んでいればいい――はずなのだ。
だが、その心は決して満たされず、いつも誰かの面影を探してしまっている。
彼女には幼馴染の男の子がいた。
幼い頃からずっと一緒だった。
でもある時から一緒にはいられなくなった。
自分が劇団に入り、頑張り始めた頃からか。
周りからいろいろ干渉された辺りからか。
とにかく彼はひとりでいることを望み、自分は一緒にいたいがために様々なアプローチをした。
結果、彼との溝は深くなり、ついには喧嘩別れをしてしまった。
それっきり、もう二度と彼とは会えなくなってしまった。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。
後悔しても仕切れない。
もしあの時、彼を突き放さなければ。
もしあの朝、喧嘩別れなどしなければ。
一緒に学校に通うことはできなくとも、彼はまだ生きていたはずだ。
もうすぐ授業が終わる。
また友人にノートを借りなければならないだろう。
「授業受けてるのにどうして?」と聞かれたら笑いながら誤魔化すしかない。
帰りにスイーツでもごちそうすれば見せてくれるだろう。
「はあ……」
窓の外――不意に見上げた空。
代わり映えのしない、いつもの風景だった。
空は青くて、街は灰色で、眩しい太陽は燦々と輝いている。
「え……」
気のせいか――その太陽が一瞬、強く光った気がした。
目も眩む陽光の中、一点だけ小さく強く、金色の光が見えたのだ。
それだけだ。
見間違いだ。
次の瞬間には違和感は現実に駆逐される。
でも何故だろう。
その時の彼女は、その強く小さな光の中に彼を感じた。
そして誰にも聞こえないほどの小さな声で、小さく呟いていた。
「タケル……?」
幼馴染の男の子。
手のかかる弟みたいな子だった。
でも彼はきっと死んでしまったのだ。
その時から、自分は空っぽになってしまった。
でもどこか、心の何処かでは、必死に彼の死を否定する自分がいる。
ある日突然、自分の目の前に帰ってくるような――そんな気がするのだ。
その時、自分は一体彼にどんな言葉を彼にかけるのだろう。
もう少し素直に、心の奥底にある想いも告げることができるかもしれない。
それは決してあり得ない未来などではなく。
綾瀬川心深は、再会を果たすことになる。
成華タケルではなく、タケル・エンペドクレスとなった彼に。
【ピカレスク・ニート 第一章、異世界邂逅編・完】
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