第56話 聖都⑩ 自立する黒猫~私の神様

 *


 聖都は酷い有様だった。

 あんなに綺麗だった街路樹は根こそぎへし折れ、道路を寸断したり、民家に突き刺さっている。


 あちこちで石畳がひび割れ、ガラス片が散乱し、未だ地震のショックから立ち直れない人々がうずくまり、すすり泣きながら、人類種神聖教会アークマインへ救いを求め、祈りを捧げている。


 これがこの街の正体なのだと、アイティアは急速に理解した。

 祈りさえ捧げれば救われる。

 人類種神聖教会アークマインを、教皇を信じれば必ず幸福になれる。

 そう自らに言い聞かせ、それ以外の思考を、ここのヒト種族たちは放棄してきたのだ。


 ゾッとした。

 アイティアは獣人種の身体能力を発揮し、街をかけながら、どこにでも溢れるそれらのヒト種族を見て戦慄していた。

 そうして人類種神聖教会アークマインの本当の恐ろしさを実感した。


 自然と調和し、嵐も大雨も、時に大雪や地揺れも、自然の一部として受け入れ、それを乗り越えてきた獣人種とは大違いだと思った。

 ここに住むヒト種族は地揺れが遭った時、どこに避難して、離れ離れになった家族とどのように合流して、次にどのようにして食料や飲料水を確保するのかなど、まったく考えていないのだ。


 自分で考えることを辞め、すべて人類種神聖教会アークマインがなんとかしてくれると思っている。お布施まで払っているのだからそれが当たり前だと、そう思考停止に陥っているのだ。まれに大きな地揺れが起きた直後は、井戸水が濁って飲めなくなったり、急激に枯れてしまうことなども知らないのではないだろうか……。


「龍神様……!」


 自分とそう歳が変わらないように見える少年の顔を思い出す。

 ウソか本当か、つい最近までヒト種族だったという少年。

 せめての心の慰みにと我が身を捧げようと思った。

 奴隷となったこの身を、醜い欲望を丸出しにした貴族に差し出すくらいなら、いっそ魔族種である少年にすべて奪って欲しかった。


 でも少年は頑なだった。

 一度として自分に優しい言葉をかけてはくれなかった。

 半ばヤケになって色仕掛けで迫ったときでさえ、歯牙にもかけられず、女としての自信を失いかけた。


 泣き縋り、みっともなく喚いても、決して抱いてはくれなかった。

 なんて冷たい男なのだろうと。

 そう思った翌日、目覚めると彼は枕元に座っていた。

 自分が握りしめたままだった右手をするりと解き、あくびを噛み殺していた。


 何なんだろう、この男は、と思った。

 冷たくするなら、ずっと冷たいままで居て欲しい。優しくなんかしないで欲しいと思った。


 そんな理由も、今日すべてわかった。

 彼の胸に抱きしめられ声をかけられたとき、恐怖を押し退けて、心の底から熱いものがこみ上げてきた。


 それは希望だった。

 私は帰れる。自由になれる。

 緑豊かな故郷の山に、お父さんとお母さんと妹のもとに帰れるんだ――


 *


 途中寸断された道を迂回したり、時に屋根を駆け、どうしても見過ごせなかった怪我人を助けたりなどなど……。そうこうしている内にアイティアは東門の近くまでやってきた。


 警備兵はひとりも居なかった。

 振り返れば、西の外壁の向こうで魔法による炎の矢が空を駆けていくところであり、それがだんだんと聖都から離れていく。

 あそこで雷狼族のラエル・ティオス様が敵を引きつけてくれているのだ。


 アイティアは倒れた街路樹の根本にしゃがみ込み、仲間たちがやってくるのを待った。


 ここはちょうど商業区画と一般住民の区画の狭間。

 貴族が住む区画からは大聖堂を挟んで最も遠い。

 まだかな、早くソーラスちゃんたちと会いたい。

 そうして逸る気持ちを押し殺していた時だった。


「どこに行こうというんですか、このメス猫は……!」


「ひッ――!」


 突如として後ろから髪を捕まれ、地面に引きずり倒された。


「ウソッ、なんで、どうしてあなたが……!」


 現れたのはマンドロスだった。彼はアイティアに覆いかぶさると、枯れ木のような細い腕から信じられないほどの膂力を持って少女の手足を押さえつけてくる。


「どうしてもこうしてもないでしょう。自分の飼い主様を放っておいて、ひとりで逃げ出すなんて悪い子です。これはお仕置きが必要ですな……!」


 マンドロスは顔を脂汗でいっぱいにしながら、アイティアの上に馬乗りになった。

 肩を押さえつけながら、アイティアの首輪の鎖をつかみ、これみよがしに見せつけてくる。


「あ、ああ……!」


 その首輪は奴隷の証。

 自分を縛る絶対の枷。

 どうして自由になれると思ったのか。

 どうしてご主人様から逃げられると思ったのか。

 わからない……一体自分はどんな希望を抱いてここまで走ってきたのか。

 アイティアにはもう思い出せなくなっていた。


「まったく、こんなに走ったのは久しぶりですよ、ええ。この聖都にはおまえたちが知らない地下坑道がいくつもあります。東へ行けとあなた達が話しているのが聞こえましたからねえ。途中いくつも坑道が崩れて寸断されていましたが、なんとか間に合ったようです――よッ!」


「いやぁ――!」


 フードを剥ぎ取られ、上着を引き裂かれる。

 真っ白い肩と大きな乳房が露わになり、アイティアは首を振り、両足をバタつかせてイヤイヤをするも、生憎と両手はマンドロスの両膝に組み敷かれていた。


 そしてマンドロスは目を皿のように見開いてアイティアの乳房を見つめたあと、ニタァっと、女性なら誰しもが嫌悪を抱くような下卑た笑みを浮かべた。


「ほっ、ほほっ、生意気にも美しいじゃないですか、獣人種の分際で。それだけに惜しいですねえ、おまえは一体どれほどの高値で売れたのでしょう。それだけが心残りでなりませんよ」


「や、やめ……!」


 マンドロスの堅くてゴツゴツとした手が、アイティアの乳房を鷲掴みにした。

 その瞬間、アイティアは悲鳴さえ凍りついた。

 ヒトの手に触られている感じがしない。まるで毒蜘蛛が素肌を這い回っているようだった。


「これほどの器量があればナスカ・タケルでさえも籠絡できると思ったのに、まさか彼があのような方法で人類種神聖教会アークマインに弓引くとは。もうおしまいです。アナクシア商会も私も、そして聖都も何もかも――!」


 マンドロスが顔を寄せてくる。黄ばんだ歯の間からヌメっとした舌が伸び、アイティアの頬を舐め回した。もはや声すら上げることもできず、アイティアは恐怖とおぞましさに震え上がった。


 ああ、これは罰なのかもしれない……、とアイティアは思った。

 だってソーラスちゃんたちは貴族の奴隷として売られ、きっと綺麗な身体ではなくなってしまっているはず。自分だけ龍神様に守られて、一人だけ純血を保ったまま逃げられるはずがなかったのだ。


 神様・・はやっぱり見ているんだ。

 ズルをする悪い子を決して許しはしないのだ。


(神様って誰……?)


 虚ろな瞳がマンドロスを見上げる。

 この男の神は間違いなく人類種神聖教会アークマインだろう。

 多種族排斥を掲げ、自分たち獣人種を奴隷として捕まえる悪い神様だ。


 では自分にとっての、アイティア・ノードにとっての神様は誰だろう。

 獣人種に明確な神を信仰する宗教は存在しない。

 あえて言うなら、自然の脅威そのものが神と言えるのだ。


 でも自分はついさっき、本物の神の御業を見たではないか。

 勉強はサボってきたが、自分には魔法の才能があるらしい。

 そして、目の前で魅せつけられた龍神様のあの魔法――


 圧倒的な規模で。

 絶対的な魔力で。

 この憎たらしい聖都を一瞬で壊滅に追い込んだ。

 あれこそが神の御業でなくてなんだというのだろう。


 ならば……、自分の神は・・・・・タケル・・・エンペドクレス・・・・・・・を於いて他にはいない・・・・・・・・・・


 彼はこんなこと望まないはずだ。

 自分がこんな男の慰みものになるなど。

 あのお方は、絶対に許さない。

 ならばアイティア・ノードは、あのお方のために戦わなくては――


「ひぎぃいいいいいいいいいいいい――ッ!」


 アイティアは、ベロベロとしつこく自分の顔を這い回っていたナメクジのような舌に噛み付いた。


 ブシュっとおぞましい血が顔に降り注ぐのも構わず、ブチブチっと噛みちぎる。

 豚のような悲鳴を上げるマンドロスの股間をさらに蹴り上げ、拘束から脱出する。


 べっ、とナメクジの欠片をその場に吐き捨て、それを踏みつけながらアイティアは叫んだ。


「下等なヒト種族ごときが、私に触れるな――! 私を自由にしていいのはタケル様だけだ! 断じて貴様のようなゲス男なんかじゃない!」


「ごぼぉ……よぐぼぉ……!」


 口から夥しい血を流したマンドロスが、股間を抑えながら立ち上がり、スラリと短剣を引き抜く。


 完全に腰が引けた状態で、構えもまったくなっちゃいない。

 小さい。さっきまでは大男に見えていたのに今は違う。なんて矮小な男なんだ。その姿は太陽のようなタケル・エンペドクレスと天と地ほどの差があった。


「ごろじでやぶ……、ぎざばのがばをはいべ、そのながびを――!」


「てりゃりゃあ――ッ!」


「げっばァァァ――!」


 マンドロスの体がベキン、と小枝のようにへし折れた。

 へし折れた身体は地面を転げまわりながら、山積みになったガラス片の山に頭から突っ込む。ダラーッと血の海が広がり、彼はそのまま動かなくなった。


「え、ソーラスちゃん?」


「アイティア!」


 赤猫族のソーラス・ソフィストだった。メイド服姿に奴隷の証である首輪をつけたままの彼女が、猫のように地面を蹴り、猛烈な体当たりでマンドロスを吹き飛ばしてくれたのだ。


「アイティア、すごい血だよ! 大丈夫!?」


「え、いや、これあの男の血だから」


「ウソ、アイティアがやったの!?」


 口づけされそうだったから舌を噛みちぎってやったの、と素直に告げる。

 ソーラスはポカンとしながら、アイティアをまじまじと見つめた。


「すっごい、やるじゃん! あー、私も貴族の豚野郎におんなじことしてやればよかったー!」


 そうしていると、通りの向こうからゾロゾロと、奴隷に身をやつしていた獣人種たちが現れる。総勢で五十名ほどもいるだろうか、かなりの大所帯だ。


「ふむ、貴様はあのときの黒猫族か。どうやら大事ないようだな」


 その大所帯を率いていたのが、あの日、部屋に乱入してきた魔人族の女だった。

 名前は確か、エアスト=リアスだったか。


「さあ、この門より聖都を脱出し、護衛たちが待つ合流地点へと急ぐぞ。まだまだ油断はできん、全員気を引き締めろ――!」


 はい、と獣人の少女たちが声を上げる。

 巨大な門を開けるべく、全員が一致団結して動き出す。

 誰も彼も、未だにメイド服姿だったり、中には貴族の趣味っぽいイヤらしい下着姿だったり、当然全員が奴隷の首輪をつけたままだったが、悲観しているものは誰もいない。


 皆が皆、希望に顔を輝かせ、活き活きとしていた。


「アイティア、よく頑張ったね、あなたが無事で本当に嬉しいよ!」


「ソーラスちゃん……!」


 自分よりもずっと辛い目に遭っていただろうソーラスにそう言われ、アイティアの中の緊張が切れてしまう。彼女はソーラスの胸の中に飛び込み、わんわんと泣いた。年齢だって同じくらいなのに、ソーラスはお姉さんぶってアイティアをよしよしと慰め続けるのだった。


「あのね、ソーラスちゃん、私あなたに言っておくことがあるの」


「んん、何かな?」


「龍神様のこと、絶対に渡さないから」


「え――えええ?」


 ぐすっと洟をすすりながら笑ったアイティアは、奴隷になる以前の、元気に山を駆け回っていたころと同じ笑顔になっていた。

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