聖都編

第47話 聖都① 闇よりの声

 * * *



 ――逃げなければ。一刻も早く、何を於いても……!


 闇に剣戟が木霊する。

 枝葉を払い茂みの中を走る度、周囲に立ち込める濃密な血の匂いが、男の鼻にこびりついた。


 昏い森を走るのは痩せた男である。

 ぎょろりと目が大きく、頬はこけ、体躯は枯れ木のように細く長い。

 胸には精緻な金細工の徽章があり、それは聖都で一大拠点を持つアナクシア商会員の証だった。


 聖都へと続くミュー山脈の東部。エトナの山道でアナクシア商会のマンドロスは盗賊に襲われていた。


 慣れたはずの道だった。今まで盗賊に遭ったことなど一度もない。

 昨晩泊まった宿場町でも、盗賊が出るなどの噂は耳にしなかった。

 だというのに――


「クソッ、何をもたもたしているのですかおまえは! さっさと走りなさい!」


「は、はい――!」


 マンドロスの右手には一抱えもある革袋が抱えられており、左手にはジャラジャラと鎖が握られていた。

 その鎖の先は、隣を走る少女の首元へとつながっていた。


 美しい少女だった。

 暗闇の中であっても一際優れた容姿をしているのがわかる。

 年の頃は辛うじて14、5に届こうかというくらい。

 幼さの中にも将来を期待させる凛とした雰囲気と気高さを感じさせる。

 だが少女の美しさはいま、徹底的に貶められていた。


 その身を包むのは首穴を開けただけの貫頭衣という粗末な服装。

 長く艶やかな黒髪はまんべんなく土埃で汚れ、両手脚には歩幅を制限する枷がハメられている。


 そして白くたおやかな首筋には、少女の魂を貶める首輪が施され、そこから伸びる鎖はマンドロスが握っている。

 少女は奴隷だった。


 獣人種黒猫こくびょう族。

 一際毛並みが美しいことで知られる黒猫族は、獣人種奴隷の中でも一級品の扱いをされる。


 ヒト種族ならばいずれ劣らぬ貴族の美姫として崇められるほどの容姿をしているが、頭からニョッキリと生えた猫耳があるだけで、ヒト種族の世界では蔑まれ、下賤の民と唾棄されることもあるのだ。


「あっ」


 黒猫の少女が転ぶ。

 ビーンと鎖が伸び、少女の首が無理やり持ち上げられる。


「さっきから何度転べば気が済むんですか! さっさとお立ちなさい!」


 商人マンドロスはもはや正気を失っていた。

 盗賊に襲われ、命からがら逃げている最中なのだから無理もない。

 高額を支払い雇ったはずの魔法師の護衛は、早々に屍を晒すこととなった。


 盗賊の中にも魔法師が居たのだ。

 おそらく軍人崩れなのだろう。こちらが放った火球に水の魔法を合わせ相殺しているスキに、投げナイフで相手の眉間を射抜いていた。


 魔法師は高い戦闘力を誇るが、プライドが高いものも多く、魔法以外の戦い方を嫌う傾向がある。これが軍属になれば、魔法を単なる手段として用い、剣や弓、徒手空拳の格闘術を組み合わせてくる。魔法を魔法で押さえられている内に、手数の差で圧倒されてしまうのだ。


 そうしてマンドロスの商隊キャラバンは崩壊した。

 頼みの魔法師を失い、残ったのは十把一絡げの冒険者のみである。

 彼らもまた、仲間の魔法師を頼りとする不心得者たちであり、マンドロスは早々に見切りをつけた。

 せめて肉の壁として時間を稼いでくれればいい。そう考えたのだ。


「待って、ください……! お願いします、せめて、枷を解いて……!」


「ふざけるなっ、そんなこと言ってひとりで逃げ出す気でしょう! 薄汚い獣人種はこれだから油断ならないのです! いいからそのまま走りなさい!」


 商隊は全滅するだろう。運良く何人が逃げ延びられるか。

 そうして盗賊たちは金目のものは一つも逃すまいとこちらを追いかけてくるはず。

 何故なら一番のお宝は今マンドロスの両手に握られているのだから。


 聖都に一大拠点を持つことを許された唯一の大商会、アナクシアが聖都外に持つ各支店をめぐり、上納金を集めるのがマンドロスの役回りであった。アナクシア商会は教皇が唯一認めた商会であり、その威光を武器に各支店は順調な商いを営んでいる。


 マンドロスが右手に抱えている革袋は現金だった。

 換金したばかりの一等ヂル金貨がぎっしり入っている。

 これ一枚で、通常流通している五等ヂル金貨100枚分の価値がある特別な貨幣だ。

 革袋の中身をすべて合わせれば、全支店半年分の売上にも匹敵する金額だった。


 そして左手には黒猫族の少女だ。

 獣人種奴隷の中でも特に嗜好する貴族が多い猫人族。

 その中でもとびっきり毛並みがいい黒猫族の少女。

 もちろん生娘であることは確認済みだ。


 いまや獣人種奴隷の商いは、アナクシア商会になくてはならない基幹事業になりつつある。人類種神聖教会アークマインから捕獲許可証さえ貰えば、『種族浄化』の大号令の元、堂々と獣人種を狩ることができるのだ。


 もっとも獣人種は総じてヒト種族以上の身体能力を持っているため、正面から戦うような真似はしない。狙うのはもっぱら女子供ばかりであり、入念に獣人種の行動パターンや生活習慣を調べあげ、山菜や薬草を採取するため山に入り、一人になったときを襲っている。この黒猫の少女も同様、ひとり山に入ったところを襲い捕獲したのだ。


 競売にかけた場合、少女の価値はいかほどになるのか。

 おそらく、聖都のみならず王都の貴族からも希望が殺到するはずである。

 それに応じてマンドロスにも相応の賞与が支払われるのは間違いない。

 無事――、この窮地を脱することができればの話しだが。


「このグズめが!」


「あううっ……!」


 先程から剣戟の音や怒号が止んでいる。

 追いつかれるのは時間の問題だ。

 マンドロスは黒猫の少女を引きずりながら再び走り出そうとした。

 ――瞬間、行く手に凶刃が閃いた。


「ひぃやあっ!」


 剣閃を躱すことができたのはまったくの偶然だった。

 僅かな抵抗を示した少女に気を取られなければ、今頃マンドロスの首は胴と泣き分かれていたはずである。


 気がつけば、マンドロスと少女を取り囲むように、濃密な血の匂いを纏った黒衣の集団が獲物である剣を構えていた。彼らが手にする剣、ダガー、ショートソード――、それらはすべからく血を吸っていた。


 その姿を見ただけで、マンドロスの心は折れた。

 逃げ延びることなどできない。自分は今この場で殺されるのだと、そう思った。


 マンドロスは殺され、少女には殺されるよりも過酷な運命が待っている。

 奴隷の運命は変わらないが、少女の最大の商品価値は、盗賊たちによって散らされるだろう。


 五体満足で乗り切れれば僥倖。

 でも心は壊れてしまうかもしれない。

 それが必定だった。そのはずだった。

 その場にいる全員が、不吉なその声を聞くまでは――


「どけ」


 背後からの声。

 それはこの世のすべての不幸と不吉を詰め込んだような声だった。

 昏く、重く、鈍く。

 耳にするモノ全員の腹の底にどす黒い泥が沈殿したような不快さが残った。


 声の主は意外なことに子供だった。

 黒耀石を削り出したライトアーマーは漆黒の闇に溶け込み、少年の幽鬼のような表情をぼんやりと浮かび上がらせている。


 それなのに、その双眸だけがギラギラと燃えていた。

 山道を塞ぐ不届き者どもに、さも当然であるかのように絶対的上位から退去を命じたのだ。


 鼻白んだのは盗賊たちだった。

 彼らは今まさに今晩最大にして最高の獲物を喰らおうとしていた。

 その出鼻をくじかれ、おもしろいはずがない。


 盗賊のひとりが無言で動く。

 振り向きざまに体を開き、大上段から片手剣を唐竹に振り下ろした。

 次の瞬間、聞こえてきたのは、ほとばしる血しぶきの音などではなく、斬りかかった盗賊自身の顎が砕ける音だった。


 少年が天高く拳を突き出している。

 その拳の先――、林冠に届くほど殴り飛ばされた盗賊は、空中で何度も錐揉みし、地面を削る勢いで叩きつけられた。


 ピクリともしない。

 戦闘の経験などないマンドロスでさえ、一撃で絶命したのだとわかった。


 ザザザっと盗賊たちが動いた。

 少年に背を見せるのは危険と悟り、全員が距離を取る。

 間にマンドロスと少女をはさみ、盗賊の集団の中から一人の男が歩み出る。

 ボロボロのローブを真深く被った、軍人崩れの魔法師だった。


 魔法師は枯れ枝のような腕を掲げ、ブツブツと何事か呪文を唱えた。

 着火。突き出した手のひらに小さな火種が生まれる。

 火種は魔力と酸素を取り込み、すみやかに頭部サイズの火球へと成長を遂げた。


 マンドロスは慌て、急ぎ逃げ出そうとした。

 それより早く、ザッと少年が前に出る。

 人差し指を魔法師の方へと向け、ゾッとするほど冷淡な声で告げた。


「死ね」


 それは信じがたい光景だった。

 魔法師が今まさに放たんとした火球が、急激な膨張を遂げる。

 人ひとりをまるごと飲み込みそうなほどの大きさになった火球の表面が、グラグラと煮えたぎる。

 抑えきれない炎の帯が、まるで大蛇のように盗賊たちに絡みつく。

 そして――、大爆発を引き起こした。


 思わず耳を塞ぎ地面に身を投げ出すほどの轟音だった。

 マンドロスが顔をあげると、そこにはえぐれた地面の上で、バラバラになった盗賊たちの死体が勢いよく燃えていた。


 生きているものは誰もない。

 一瞬にして勝負が決したのだ。


「お、おおおっ! なんということだ――、始祖アークマインに感謝いたしますっ!」


 マンドロスは思わず金も奴隷も放り出し、自身が信奉する神へと祈りを捧げていた。


「キ、キミ、どこの誰かは知らないが助かったぞ! どうかお礼をさせてくれ――!」


 少年はマンドロスの声も聞こえていないようで、指を突き出した姿勢のまま固まっていた。


「お、おい、キミ……?」


 その肩に軽く触れた途端、少年が傾いだ。

 受け身も取らず、後頭部から地面に倒れたのだ。


「おい、しっかりしろ!」


 少年はボロボロだった。

 姿格好は旅する冒険者特有のくたびれ方をしていたが、顔色が尋常ではなく悪い。

 生気というものが一切なく、額には脂汗も浮き出ていた。

 マンドロスの呼びかけにも反応することなく、死んだように気を失っていた。


 そしてその背後、奴隷となった黒猫の少女は、せっかく逃げ出す機会を得たのに、立ち上がることもできず地面にうずくまっていた。背中を丸めてガタガタと震える少女の視線の先には、マンドロスに抱き起こされる少年の姿があった。


 その本性が、姿形通りではないことを悟り、黒猫の少女は逃げ出すこともできないほどの恐怖に囚われ震え続けるのだった。

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