第8話 君の名は⑧ 名前とコミュニケーション

 日もとっぷりと暮れ、僕たちはあばら家に戻ってきていた。


 少しでも僕が抵抗しようとすると、ムズがるように彼女は嫌がった。

 トイレに行きたくても離してくれないのは本当に参った。


 水辺で甲斐甲斐しく僕の世話をしてくれていた時は、とっても大人っぽくて、頼れるお姉さんという感じだったのに、それが今では長いエルフ耳を萎れさせて、時々鼻をすすりながら、涙目になって僕のスウェットの端を掴んでいる。


 食事は、例の四次元ポーチから出てきた。

 大きな葉っぱにくるまれた、豚足っぽい何かである。


「ええ……」


 文句など言う資格はないのだが、それでもげんなりしてしまう。

 彼女は一本しかないそれをもそもそと咀嚼したあと、僕に手渡す。

 腫れぼったい目を半眼にしてじぃっと見つめてくる。


「い、いただきます」


 自分はいますごいことをしている、とは思っていても感覚が追いつかない。

 冷えて固まった煮こごりのような脂を口の中で溶かしながら飲み込むと、意外と悪くない味わいがした。

 一口、二口。もぐもぐと口を動かしていると、女の子の手が伸びてきて豚足を奪う。


「はむ……ぐすっ……うむぅ……ずずっ」


 うん。やっぱりシェアするのか。

 まるでやけ食いのように豚足を頬張る彼女を見つめながら、僕は考えていた。


 彼女はスマホが欲しい。

 僕は渡したくない。

 何が足りない?

 もちろん意思疎通。

 コミュニケーションである。


 だがここは言葉も通じない異世界。

 果たしてどうすればいいのか。

 ボディランゲージなんてそうそう役に立つものでもないし。

 ここはもっとしっかりとした手段が欲しい。

 僕はスウェットのお腹に隠していたスマホを取り出す。


「んうッ――うう~!」


 途端彼女が豚足を口いっぱいに頬張ったまま唸りだす。

 画面を彼女にも見えるようにして電源ボタンを押すと、キーロック画面が現れる。

 人差し指でいつものとおりにパターンを撫でると、トップ画面が出てきた。


「ふうッ! んぐぅ~!」


 飲み込めよ豚足。

 僕は構わずお絵かきアプリを起動。

 5.5インチの画面全体がホワイトボードになったのを確認すると、

 指の腹でグリグリ~、グチャグチャグチャ~、と画面をなぞった。


「んん!? ――ふむうううッ!」


 目を白黒させる彼女。興奮も最高潮のようだ。

 僕は指を止め、スマホを女の子の鼻先にそっと突き出す。


「ん」


 ペンツールで真っ黒に塗りつぶされた画面を指さし、


「ん」


 と目で問いかける。


「???」


 彼女は首をかしげポカンとしていた。

 ここで僕が言葉を発するわけにはいかない。

 頼む。気づいてくれ。

 気づかなくてもあの言葉を発してくれ。

 女の子の翡翠の瞳が僕とスマホを行き来する。

 そして画面を指さしながら、恐る恐るその言葉を言った。


「ナダビ……ドゥ?」


「ナダビ・ドゥ!」


 僕は思わずガッツポーズをしていた。

 そして戸板の隙間から飛び出している生草を引きちぎると、

 それを彼女の目の前に差し出して言う。


「ナダビ・ドゥ?」


「う、え……オウサ?」


「オウサ!」


 今度は辺りをキョロキョロしてから、天井を仰ぎ見た。


「ナダビ・ドゥ! ナダビ・ドゥ!」


 手を伸ばしながら、朽ちた天井の間から覗く月を指さす。


「ムートゥ……ッ!」


 女の子も気づいたようだ。

 そう。

 言葉も通じない未開の地に行ったら最初に引き出す言葉はひとつしかない。

 それこそが「ナダビ・ドゥ?」

 つまり「これ、なに?」である。


 昔見た教育番組で、言葉も通じない場所に赴いた言語学者が、木炭で真っ黒に塗りつぶした藁半紙を現地人に見せて、「これ、なに?」に該当する言葉を引き出すことに成功したのを見たことがある。


 その言葉をキーワードにして、次々と単語を調べていき、コミュニケーションを成立させたのだ。

 僕もそれと同じことをしたのである。


 あとはもう家中にあるありとあらゆるものを指さし、「これ、なに?」を繰り返す。

 僕の発する「ナダビ・ドゥ?」に、女の子も喜色を浮かべながら次々と答えていく。

 なんだかふたりとも楽しくなってしまい、すごいハイテンションになっていく。


「つ、次はちょっと難易度が高いぞ。少し落ち着いて」


「ふぅふぅ……ん? ん?」


 僕は見せつけるようなオーバーアクションで自分の胸に手をおいた。


「ナダビ・ドゥ……タケル」


 これ、なに? タケルです。


「……?」


 女の子が眉間にしわを寄せて首を傾げる。

 僕はもう一度、ゆっくり彼女の目を見て繰り返した。


「ナダビ・ドゥ……タケル」


「ナダビ……、タケ、る」


「タケル」


 自分の胸を強く叩き頷く。

 途端、彼女の翡翠の瞳が、星を散りばめたみたいに輝いた。

 頬が上気して、耳がピーンっと先っちょまで伸びて、ピクピクと震えた。


「タケ、る――タケル!」


「そう、僕の名前はタケルだ!」


「タケルッ!」


「うわ」


 彼女は飛び上がって僕に抱きついてきた。

 スベスベの頬が僕の顔に押し付けられる。

 ヤベ、すっげえいい匂い。


「タケル、タケル、タケル!」


「おち、落ち着けって、わかったから!」


 などと真っ赤になって喚きながら僕も笑っていた。

 本当にこのエルフっ娘は。

 最初は澄ましていたと思ったら不機嫌になったり。

 優しくしてくれたと思ったら、怒ったり泣いたり。

 忙しすぎて目が回りそうだった。


「いやいや、僕はタケルだけど、肝心なことをまだ聞いてないぞ」


「んん?」


 いや、そんな無垢な顔してにっこり笑われても超かわいいんですが。いやまてまて。


「ナダビ・ドゥ……ん?」


 そう言って僕は、彼女を指さした手を開き、手の平を差し伸べる。

 返して、ちょうだい、お願い、という意味だ。

 エルフの女の子は感極まったみたいな表情で、目尻に涙さえ浮かべて。

 この日最高の、もうとびっきりの、一生忘れられそうにないくらいの笑顔で答えてくれた。


「アリスト=セレス!」


 アリスト=セレス。

 それが、僕が出会い、初めて恋をしたであろう女の子の名前だった。

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