第3話 君の名は③ 疾走と裸


「もう仕方ないなー、これで少しは反省した?」


 テッテレー。

 なんて効果音と共に『大成功』の看板を持った幼馴染が……。


「出てくるわけないか……」


 蹲って休んでいたおかげで少しは体力が回復した。

 その代わりに埒もない妄想をしてしまった。

 情けない。でもそれくらい僕の精神は参っている。


 なんとなくわかっていた。

 多分、僕はもっととんでもない事態に巻き込まれていると。


 ここはどこかの田舎などではない。

 それどころか日本ですらないかもしれない。

 まるで文明の匂いが感じられないからだ。


 車の走っている国道を見つけるとか、最寄りの駅まで行くだとか、コンビニを見つけておにぎりとキンキンに冷えたコーラを買うだとか、そんな想像が一切できない場所なのだここは。


「――くそっ!」


 背中を預けていた大岩を殴りつける。

 だが、拳に返ってくるはずの痛みはなく、固くて鈍い肉の感触がした。


「え?」


 慌てて自分が寄りかかっていた大岩を触る。

 薄暗くてよく見えなかったが、大岩なんてとんでもない。

 固くてゴワゴワとしたこれは苔とか草じゃない、体毛だった。


「ブフっ!」


 目があった。

 僕が殴ったのはコイツのお尻だった。

 ああ、痛いよね。ごめんね。言葉なんて通じないよね。


「しばらく見ないうちに肥えたな心深」


 本人が聞いたら激怒しそうな悪態を吐き、僕は猛然と駆け出した。

 クタクタだったカラダは動いてくれた。

 後ろを振り返れば、身を起こしたケモノがこちらを見定めたところだった。


「な、なんだありゃ……!?」


 ケモノの姿はまるっきりイノシシのようだった。

 だが身の丈は僕を軽く超え、3メートル以上ある。

 鋭い牙が口角から伸びていて、頭には角まであった。


「北海道の原野にはまだ見ぬ新種が――ってあるわけない!」


 あってたまるか。

 ケモノは鼻息もあらく、土煙を上げながら僕を追いかけてくる。

 圧倒的な四足獣の速度。

 空腹で電池が切れそうな僕とは桁違いだ。

 このままじゃ追いつかれる。


 僕は鬱蒼とした森の中に飛び込んだ。

 平地では地力の差であっという間に追いつかれる。

 森の中ならあの巨体だ、小回りが効かなくて速度が落ちるはず。


「痛てっ、靴下だったの忘れてた!」


 乾いた枝葉を踏みつけて激痛が走る。

 でも止まるわけにはいかない。

 止まったら確実に死ぬ。

 今までの人生でここまで明確な死を意識したのは初めてだ。

 そしてどこをどう走ったのか、真っ暗だった森が一気に開けた。


「川……?」


 水だ。

 死が迫っていることなどすっかり忘れ、僕は迷わず川面に顔を突っ込んだ。

 半日以上歩きまわって、最後はイノシシもどきと追いかけっこである。

 飲まず食わずの空きっ腹にこれでもかと水を流し込む。


「う、うまい……!」


 15年生きてきて、心の底から水をうまいと思った。

 カラダが欲しているものという感じだ。コーラよりうまいかも。

 僕は改めて周りを観察する。

 川、というより清流である。

 かなり大きな川で、足元には角の取れた丸石がゴロゴロ転がっている。

 月の光が注いで水面が輝いて見えた。


「へ?」


 目が合った。

 僕はその時初めて、僕以外の意志ある瞳を見た。

 一瞬、金細工が立っているのかと思った。


 女の子だった。

 裸だった。

 綺麗だった。


 水面に腿まで浸かり、ほっそりとしたカラダを両腕で掻き抱いている。

 真っ白な肌に金色の光を浴びて、金細工のような髪をした女の子が、翡翠の瞳で僕を睨みつけている。


 どう見ても水浴び中です本当に――


「大変失礼しました」


 ラッキースケベなんて僕の柄じゃない。

 セクハラ損害賠償でおまわりさんを呼ばれてしまう前に退散しよう。


 その時、背後の茂みからイノシシもどきが飛び出してきた。

 背中を向ける僕にこれ幸いと、頭の角を突き出しながら猛然と駆けてくる。


 僕は――動けない。

 バカみたいに固まったまま、迫る巨体を眺めることしかできなかった。


 ――耳のすぐ脇を冷たい風が駆け抜ける。


 次の瞬間、耳をつんざくケモノの絶叫。

 足をもつれさせ、僕の脇をすり抜けたイノシシもどきが勢いそのまま清流に突っ込んだ。


「ブギィィィ!」


 盛大な水しぶきを上げながらのたうち回るイノシシもどきの右目に何かが突き刺さっている。

 僕の見間違いでなければそれは――矢の形をした水のように見えた。


 女の子に目をやれば、左腕で胸元を隠しながら、イノシシもどきの方へと右手を突き出している。

 彼女の周りには、キラキラと月明かりを跳ね返す、水の矢が何本も滞空していた。


「魔法……?」


 そうとしか思えない。

 少女の美しさも去ることながら、水の矢を使役するその御業は魔法としか言いようがなかった。


「ほーッ、ほうッ!」


 女の子が吠える。ケモノの咆哮を真似した威嚇。

 のろのろと立ち上がったイノシシもどきは僕に一瞥もくれず、森のなかへと消えた。

 静寂が――水の流れる音が戻ってくる。


「あ、ありがとうっ……!」


 思わず大声をはりあげた。

 改めて少女を見やる。

 確認するまでもない。

 裸だ。

 だがそんなことはどうでもよかった。


「ね、ねえ、今のって魔法ってやつですか? す、すごいですね、ウォーターアローってやつっすか! MPとかどれくらい消費しますか!?」


 この時の僕は不覚にも興奮していたのだ。

 裸の美少女にではなく、初めてみた魔法に対してである。

 体力を限界まで酷使してハイになっていたとも言える。

 死の恐怖から解放されたのも一因だろう。


 だから気付かなかった。


 女の子が目尻に涙を溜めたまま、右腕を天高く掲げるのを。

 その先に瀑布のごとき巨大な水塊が集まっているのを。


 女の子の水浴びを覗く不届き者への罰は、

 鈍器と化したウォーターボールによる鉄槌だった。

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