楽園少女と小鳥のプリンセス①

 私が意識を得たとき、そこには母ではない女がいた。マンションの一室に乳母と二人きり。その人物の話によると母は海外を飛び回っているらしい。父は業務に追われ子供の世話をしていられない。だから私があなたの世話をしているのだと。そう説明した。私は子供ながらに理解した。


 私はすくすくと成長し、家庭教師なるものを付けられた。地上20メートルの楽園、マンションの一フロアから出ることはなく、そこが私の世界だった。下を蠢く何かが人であることを知ったのはまあまあ後のことだった。最近来るようになった家庭教師は言う。


「お嬢様。あなたはこの、下の人たちを束ねるべき人です。彼らのためにも、今学んでいるということをお忘れなきように」


 いわゆる英才教育を受けた私は、パソコンを適当に眺めていたある日。思い立ってデイトレードに手を出した。どうやらこれに才能があったらしく、貰っていたお小遣いは会社を動かせるほどの力になった。

 そして私は小学生六年生にして、親から自立した。自分の会社を動かす。デイトレードをする。最早私は何もしなくても生きていけるだけのパワーを得た。親に行かされていた私立小学校。それが面倒になった私は進学先を普通の中学校にした。勿論素性は隠す。中学進学と同時に引っ越したという設定で普通の人生を過ごすことにしたのだ。実際に引っ越しもした。私が十二年育った世界を捨て、もう少し質素な部屋に変えた。


 今では、感覚はすっかり普通の人間と同じになった。最初こそ金銭感覚が逸脱していたが、それはすっかり矯正された。学校帰りにクレープ屋に行き、友達と食べる。お金は使い過ぎない。当たり前のことが当たり前に出来た。口調こそ、お嬢様のようなままになってしまったが意識すればやめることもできる。特に問題視しなかった。クレープ屋を出て、少し歩き友達と別れる。


 私の今の家はマンションの一室であり、一人暮らしをしている。昔の名残で広めの部屋で家賃もそれなりだったが(父と母からしたら石ころのようなものだろう)、これくらいのスペースは欲しかった。

 信号待ちをしている。ここを通って左に曲がればマンションだ。信号が青になる。大量の人間が歩き出す。きっとこれが昔眺めていた、蠢く人間の一部なんだろうな、と自嘲した。


「あの!これ落としました!」


 信号を渡りきった先、人ごみの中で手だけが私に差しのべられる。その手には赤茶色のハンカチ。自分の髪色と同じで、乳母が誕生日にくれたものだ。


「……それは確かに私のものです。ありがとう……あっ」


 小さな手は私にハンカチを渡すと人ごみの奥へと吸い込まれていった。


「ああっ!大丈夫かしら……」


 人の波によって追いかけることもできず、人がはけた後、小さな手の人物はもう居なくなってしまっていた。


「お礼…出来なかったわ」


 言葉遣いの教育を受けていたのは何年も前のこと。大部分が抜け落ちている。私は漠然としない思いでマンションへと再び歩みを進めた。


◆◆◆◆


 次の日の学校。

 私は昨日の後悔で頭がいっぱいになっていた。ハンカチのお礼…ハンカチのお礼…。そして気が付かない。廊下の曲がり角でドン、と小柄な生徒とぶつかってしまう。


「あっごめんね!大丈夫だった?」


 突然のことに友人たちのような口調になってしまう。そこにはぶつかった人物に対し気さくな印象を与えようという意思もあったのかもしれない。

 ぶつかったのは小柄な黒髪の女の子。赤いネクタイにスカート……同学年だ。足を開いてしりもちをついてしまっている。自然な手運びでスカートを閉じてあげた。


「あっ…いえ、大丈夫…です!」


 ちょっとうわずった声。可愛い。……あれ?この声……思わず手を見る。小さな手。間違いない。私が見間違いをするはずがない。この時だけは謎の自信に溢れていた。昨日の子だ。今はひとまず。


「ん」


 手を差し伸べる。困惑したように首をかしげている。伝わらなかった。


「手。立てる?」


「えっえっ!じ、自分で立てましゅ……から!」


 噛んでる。昨日のことを聞こうとした直後、素早く立ち上がった彼女は走り去ってしまう。えっ!


「ちょ、ちょっと!」


 ……今は人の目がある。追い掛けるのはやめておこう。彼女のあの感じからするとそんなことをしたら本気で逃げられてしまいそうだ。


◆◆◆◆


 名簿をパラパラとめくり名前を探す。みつけた。……真奈香雨音!なんて良い響きなんだろう!休み時間に会いに行こう。そして仲良くなりたい。

 だが出来なかった。私にも友人がいる。彼女たちが私たちを離してくれなかった。私は真奈香雨音さんに会いに行かなくちゃならないのに!……なんてことを言えばコミュニティは崩壊してしまうのだろう。数年の生活でそれは理解しているつもりだ。私の我が儘が全て通るわけがない。学校生活は不自由だ。


 だが次の日、違和感を覚えた。ここみの様子がおかしい。あからさまにいつもよりよく喋っているのだ。何があったの……?そして露骨に私に話を振ってくる。それに答えなくてはならない。結果的に私は離れることができない。でも眉を潜めてはならない。普段と同じように笑顔を浮かべて過ごした。そんな日がしばらく続いた。


 毎日続けばそれが日常になる。そして逆のことが起きた。ここみが静かだ。私が私が!というような動きは鳴りを潜め、辺りをしきりに見回している。何なんだ一体……。困惑しながらも、何も言わないようにした。

 日常のひと欠片として、ここみと途中まで一緒に帰る。結局、彼女は私に何も言ってくれなかった。真奈香雨音さん。お礼を言いに行くにはあまりにも遅すぎた。私は今さら何を、という思いから彼女のところに足を運ぶことが出来なかったのだ。


 次の日の朝。教室に入り先に着いているここみに挨拶を―――されなかった。ここみが学校に来ていない。……あの健康で、学校をサボったこともないここみが学校に来ていない?スマホを開く。何の連絡もしていない。嫌な予感がする。そして、大概その嫌な予感、というやつは最悪な的中の仕方をする。担任に詰め寄り早退を申し出た。

 皆勤は無くなったがどうでも良かった。高校に通っているのは正直なところ、趣味だ。普通の高校生になりたかった。それだけなのだ。大学に進学し、卒業したらしたいことをして過ごす。これ以上のお金は必要なかった。走ってここみの家に向かう。鳴り響いているサイレン。家に近づく度にその音は大きくなる。頼む。やめてくれ。


 しかし絶望は形になって侵食した。駆けつけては良いもののどうすればわからない様子の救急隊員。警察。ブルーシートで今、隠されようとしている窓。そこには内側にべったりと、赤い液体が付着し、まるでもともと赤いガラスだったかのようになっていた。


「ここ、みは」


「……お知り合いの方で?」


 誰かが話しかけてくる。既に私は混乱で地面がどこだかわからなくなりかけていた。


「落ち着いて聞いてください」


 私は、落ちついているわ。言葉になっていない。





「倉敷さんの家族は全員、お亡くなりになられました」


 ああ。


◆◆◆◆


 気が付くと私は自分の部屋で蹲っていた。スマホを手に取ると葬式が明日だ、という情報が液晶で踊っていた。数々の通知でそれだけが目に入ったのは幸運だった。


 まだ冷静には、なれなかった。何とか葬式には出席した。家族が全員死んだと聞いていたが、喪主は50代くらいの女性……おそらくここみの母なのだろう。

 私は椅子に座りながら、ぐるぐると、暗い思考に飲まれていく。

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