8

 数日後、私はニッキーと再会することになる。

 またもや夜中にこのクルツ家の敷地内で。


 日中、兄のロルにこき使われたせいか、ベッドに入るとあっという間に寝入ってしまった。四時間ほど泥のように深く寝て、なぜかぱっと目が覚めなかなかその後寝付けないおかしな夜。

 どこかで、バターンと音がして、起こされたような薄鈍うすにぶい記憶だけが私に残っていた。

 この素人書物しろうとしょもつのよくないところだが、季節はあまり覚えていない。記憶しているのは寒かったか、暑かったかだけ、人の記憶とはそういうものではなかろうかと思う。

 昼間ロルに酷使されたせいで夕食で飲み過ぎたクルツ家特製の酸っぱいだけのレモネードのせいで尿意をしこたま覚えていた。

 そのころのカンザスのみならず中西部の一軒家の便所は大概屋外にあった。屋内にトイレが存在したのは相当裕福な家だけである。

 私は、なにか羽織れば良いものの無精して、薄手の寝巻きのまま獣のように手を胴体にまきつけ背を屈め、一番表面積が小さい球体に姿勢を近づけて夜間の屋外のトイレに向かった。

 

 裏口から出て数歩進み寝起きのぼーっとした頭の中。

 私は気づいた。

 屋外トイレの脇にブーギーマンがいることを。

 ブーギーマンは伝説や言い伝えどおりの姿をしていた。ぬぼーっとした大きな体に細い足がにゅーっとはえていた。

 まだ十一か二だった私は、あらんばかりの悲鳴をあげようとしたがブーギーマンは太い胴体からにゅーっと今度は細い腕を伸ばして私の口を塞いだ。

 私は生まれてこの方一番の恐怖に襲われて必死にジタバタ暴れた。

 私のくぐもった悲鳴があたりを支配する中で、ブーギーマンはもう一本腕をはやすとしーっと私の前で一本指を立てた。

 そしてブーギーマンはなぜかほんのりコーヒーの匂いがした。

 よく見ると、ブーギーマンは、荒縄で編まれた60パウンドのコーヒー豆袋を素っ裸で着ていたニッキー・オハラハンだった。

 60パウンドの豆袋の底からニューっと頭が出てきて、にーっと笑ったニッキーの口の中で左の八重歯がなかった。


「きゃはは」

 

 とニッキー。


「なにやっての?」


 と私。


「チョット待って」


 落ち着くと感覚として生理現象が勝ってきた。私はそう言うと、急いでトイレに行き用を足した。

 素っ裸に60パウンドの穀物を入れる豆袋を着たニッキー笑顔こそ浮かべていたが、私と別れたときより明らかに痩せてやつれていた。

 ついで、付け加えるなら砂埃と砂そのものにほぼ同一化していた。

 ニッキーの第一声はこれだった。


「なにか食べるものをくれ」


 服装に完全に比例した至極真っ当な要求だった。

 今度は私がニッキーにしーっと一本指を立てると、台所に戻り、クルツ家特製の塩味さえしない、オートミールのポリッジの鍋を取ってきた。

 これは、我が家で空腹感を克服するためだけにいつも用意されている朝昼晩兼用の炭水化物である。

 私の母は貞操感念同様、料理の腕も標準から比べて相当低かった。


「全部食っちゃっていいのか?」

「いいよ。鍋全部引っくり返したっていうから」


 私は答えた。ニッキーは、皿に配る大型の木のスプーンのまま、ものすごい勢いで食べだした。

 うちのポリッジをこんなにうまそうに食べるやつを見るのもはじめだった。

 そしてこんな大量なポリッジを食べ切るやつも。


 ニッキーがポリッジをもう後少しと残す程度となったところでおいおい話しだしたこと、私がその後、調べ上げたこととをちゃんぽんにしてここからは書きたい。

 

 ラズベリーの匂いをさせながら、私と別れたニッキーは徒歩で東へ向かった。

 目的は3つ。姉と相談して決めたニュー・スウォンジーから一歩でも遠く離れることと、金を稼ぐこと、生きること。

 ここでは、金を稼ぐことの手段は意図的に書かない、どうせ本書で追々開帳されてしまうことだから。

 だが、東に向かうとニュー・スウォンジーから離れるということがそもそも大いなる誤謬だった。

 罪、過ち、犯罪を犯したもの、人目をしのぶものは東へではなく西に向かうというより堕ちてゆくのがここ新大陸、西洋人上陸時からの鉄則だった。

 ジャック・ボロワーズこと、<ワイルド・ボアー>の報復を狙う、ボロワーズ兄弟は当時全米に広がりつつあった電信を屈指する進歩主義者である。当然、ニッキーより東のミズーリ州やセントルイスの文明圏に居て、ニッキーを待ち構えていた。

 些末なことだが調べたついでに書かせてもらうとボロワーズ兄弟は長男がウィリアム、次男がジャック、<ワイルドボアー>である、三男がテッドという。

 電信を屈指出来るだけでなく、資金もあった。すくなくとも、死んで喉を切りひらかれた<ワイルド・ボアー>よりは。

 日給2ドルで人をかき集めて、<ザ・ヴィラン>狩りを行おうと画策していた。

 ボロワーズ兄弟はやや有名なニッキーの父が次男を殺したと未だに信じていた。

 ちなみに、この日給2ドルというのは用心棒やガンスリンガーを雇うには破格の低給金である。

 まず、まともな用心棒やガンスリンガーは集まらない、と言っていい。

 私が調べた限りでも、名のとおった銃の使い手や有名なガンマンは一人も居ない。

 しかしこれもボロワーズ兄弟の狙いどおりの策略だった。

 どこに居るか皆目分からない敵に対してより多くの目を斥候を放ったのである。

 実力より情報を得ようとしたのである。かなり賢いといえるだろう。どこかの負けた軍隊ではないがいくら実力を持っていても情報がなければ使いようがない。

 二人一組でチームを組ませ、カンザス州東部からミズーリ州西部、北はネブラスカ州あたりまで10マイル間隔程度で扇の形でチームを放ち野営させた。

 総勢約八十人。

 

 このピケットラインというか、斥候のラインにトボトボ歩く、ニッキーは捕まった。

 それも、まっ昼間に。

 当り前と言えば、当たり前である。


「ハウディ」


 そう言って、にこやかにニッキーはこの斥候チームのどれかに出会ったはずである。

 が、まず、この只々広いだけの中西部を歩いている点だけで、頭がおかしいか、馬が買えないほどの悪事をしたか、馬が買えないほどの極貧に瀕しているか、その総てである。

 つまり不審者ということになる。


 おまえは誰なんだとか、

 あんたらこそなにやってんのとか、

 暑いなとか、

 ウィチタの女はケツはでかいがクソだぜとか、

 夜は寒いなとか、

 お前ブロンドかとか、

 メキシコ人にあったことがあるかとか、

 馬みたいな雲がさっきあったぜとか、

 テキサスは南かとか、

 まだガキだろうとか、

 子供は何人いんのとか、

 今朝のコーヒーは酷かったぜとか、


 色々やり取りがあったのも想像に難くはないが、どう会話が進んだかは不明だが、ニッキーの目立つガンベルトに、二人の斥候の興味がいった。

 この二人、日給2ドルの低所得者でもしっかり2ドル分の仕事はちゃんとしていた。


 ちょっとみせてみろとか、

 いいガンベルトだなとか、

 どんな銃なんだとか、

 

 言いようがあっただろうが、ニッキーに銃を見せることを強いた。

 そしてこれが、ニッキーが衣服と左の八重歯と<ワイルドボアー>の派手なスミス・アンド・ウエッソン・モデル3の拳銃を失ういちばん重要なポイントだった。

 ニッキーにといっては、彫刻入りのスミス・アンド・ウエッソンは死人から奪おうが方法がどうであれ人生で始めて手に入れた最も高級な持ち物である。

 しかもまだ子供だ。見せたいのは山々だろう。


 <ワイルド・ボアー>の白い象牙のグリップに立体的に掘られた胴体だけの女体が決め手だった。


 この情報は、2ドルより価値があるように何度も繰り返しボロワーズ兄弟から各2ドル斥候チームに伝えられていた。

 ニッキーが引っかかった斥候チームの二人はお互いの顔を見合わすと、一人はテントに結わえられていた馬に食事も水も準備せず飛び乗ると更に東に駆けていった。

 そして、残ったもうひとりは、そこから急にニッキーに優しくなった。


 腹減ってないかとか、

 飯でも食うかとか、

 このベーコンいけるぜとか、

 豆料理はチリ・ビーンズに限るぜとか、


 ニッキーは、拳銃を見せたから喜んでくれたぐらいに思ったらしい。それに腹もかなり減っていた。

 実際のベーコンと豆料理はかなり酷かったらしいが空腹がニッキーの調味料だった。

 半分も食べてないところで、銃口が自分に向けられていることにニッキーは気付いた。

 銃口はありふれたグリップに女体が掘られた<ワイルドボアー>のスミス・アンド・ウエッソン・モデル3とは比べ物にならないぐらいありふれた黒光りするコルト・ピース・メーカーだった。

 拳銃を見せたことが契機になたったことはニッキーにもすぐにわかった。

 ニッキーは、恐る恐る手を上げたが、残った一人はこの銃をどこで手に入れたかすら訊かなかった。

 それくらい中西部でもただ一丁の銃だった。


 銃が欲しいの、とか

 あんたら誰?とか、

 

 とニッキーは尋ねたが、残った一人は冷酷に次の言葉を言っただけらしい。


 ガキ、ガンベルトと服を全部脱げ


 ニッキーはこれは、ケツの穴をこの男に犯されるなと思ったらしいが、そうではなかった。素っ裸にするのは縛りあげるより簡単な監禁方法だった。

 ニッキーは素っ裸にされた。

 実際、小説や新聞記事などで”縛り上げた”と書かれるが拘置所やそれ相当の排泄施設がないかぎり、人間は二時間おきぐらいに排泄するわけで、一人で見張る場合相当手間がかかることになる。

 素っ裸だと排泄も獣と同じで容易だ。

 しかし両手だけは、縛られた。 

 その縄の先は残った一人の馬のあぶみくら

 <ワイルド・ボアー>の派手な拳銃付きのガンベルトは馬の反対側に置かれた。

 残った一人はニッキーの煮沸され過ぎた衣服を焚き火にくべると、ニッキーが食ってたものを小さなフライパンから、ばっと地面に捨て、馬の鞍から新しいベーコンと豆を取り出し調理しだした。

 素っ裸で両手を縛られた少年を真横に残った一人は悠然と食べだした。昼食には丁度良い時間である。

 しばらくは我慢して立っていたが、やがて素っ裸で座るとケツの穴を犯されるなみに中西部の大地の岩がニッキーの尻をさいなました。

 カンザスの日差しが素っ裸でガリガリのニッキーをこんがり焼き出した。

 半刻もすると、残った一人は胸のポケットからメッキされた携帯ボトルのウィスキーを取り出して何杯も引っ掛けだした。

 これも、明確な勝利宣言である。

 ニッキーの父の<ザ・ヴィラン>より、2ドルの男のほうが肝臓のアルコールの分解能力が低かった。

 ニッキーは十分用心した上で、2ドルの男が充分に酔うまで待ったが、これに天が大いに味方してくれた。中西部に命の母とも呼ばれる”海”などという穏やかなものは存在しない。内陸性の気候のため、寒気と暖気がえらい勢いで作用し合う。一日のうちで春夏秋冬の総ての季節がひっくるめられている形だ。昼過ぎ突あたりが暗くなり始めた。

 雷の音がしたかと思うと、大粒のひょうと雨玉が降ってきた。


 おお、いけねぇ、とか

 雨だ、とか


 言いながら、2ドルで雇われた男はずぶ濡れになる前に雨対策をほどこしだした。

 しかし、ものすごく近くに濡れることに対してものすごく合理的な姿をした少年が居た。

 素っ裸のニッキー・オハラハンである。濡れても拭けばよいだけである。

 男が革のコートを取りに鞍まで行ったその横に、コヨーテの如くずぶ濡れになった死んだ目をした少年が立っていた。


 おい、


 これが残った2ドルの男のこの世に残した最後の言葉だった。2ドルと同じくたった2文字だった。

 ニッキーは男がベーコンを切ったときに仕舞ったナイフの位置を覚えていた。

 縛られた両手で脇腹から上へめがけて、ナイフで刺した。

 そして、縛られた両手で2ドルの男がガンベルトから銃を抜かないように右手を必死に抑え続けた。

 薄暗く、どしゃ、どしゃ雨と雹が降る中、男は膝をつき崩れた。

 日給2ドルならよく働いたほうであろう。日給2ドルで雇った男から多くの成果を期待してはいけない。ボロワーズ兄弟との契約書に死亡手当はついていなかった。

 知らない間に天啓をもたらした嵐は過ぎ去っていた。

 馬と素っ裸のブロンドでガリガリの少年が残された。

 少年の服は焚き火のタネになっていた。

 <ワイルド・ボアー>の銃は持っていないほうが身のためらしい。

 男の服は血でぐしょぐしょだった。

 しかし、銃は必要だと思ったのか、2ドルの男のありふれたピースメイカーを頂いた。馬は尻を蹴って離した。ここを中心に捜索される恐れが多分にあった。

 少年に残った頼るものは幼馴染の私しか居なかった。

 ニッキーは西に戻りだした。選択の余地はない。


 この凶行は4冊の中でJJ・クッシングの書いた『ガンスリンガー・オハラハン』とコーネリアス・ヒギンズの書いた『西部の王、ニッキー・オハラハン』には記述がある。

 どちらも多少の違いはあるものの、ニッキーが女体彫りがグリップに入ったS&Wモデル3で早撃ちで二人を倒したことになっているが、事実は上記のとおりである。

 ニッキーが私に話してくれたのだ。真実であろう。

 拳銃での射撃についてはウェスタン小説などでいかに実際以上に誇張されているか後々語るつもりなので、ここでは触れない。


 ポリッジですっかり腹がくちくなったニッキーは私に銃を向けていた。


「きゃはっは」


 私はニッキーより冷めた目をして静かに手を上げた。


「冗談だよ。姉ちゃんのときといっしょでまた世話になっちまって、いつかきっと借りは返すよ」

「そのブギーマンのままじゃ困るだろう?」


 と私。


「ブギーマン?」

「60パウンドの豆袋」

「見てくれは悪いが意外に便利だぜ」

「家には戻らないのか?」

「考えてる」


 私は、ダラム保安官がオハラハン家を訪れたことを教えた。


「戻れないな」


 とニッキー。


「待ってろ」


 と言うと、私は家の私の部屋に取って返し、タンスを開けると一番下にしまってある衣服を下着から上下一式持ち出しニッキーのところに戻った。


「それ、着ろよ」

「いいのか!?」


 私は大きく頷いた。


 靴下なんか今まで一度も履いたことないぜとか、言いながらニッキーは少し前の私の衣服を着だした。

 時を待たずして、そこに私が二人いた。

 あたりは暗闇から青くなり朝陽あさひが東の空から上がろうとしていた。

 そう厄災の州、ミズーリ州から。

 私からでなく、ニッキーのほうから思いっきり抱きついてハグしてきた。


「なにもかも、すまない」


 前回とは違い、ラズベリーでなくコーヒーの香りがニッキーからした。それと少しだけ2ドルの男の血の匂いと。

 大人と死の匂い。


 ニッキーはもうひとりの私となって、再度東に向かい歩き出した。前回同様振り向くことはなかった。


 それが、私の見た最後のニッキー・オハラハンである。

 私は、ニッキーの遺体すら見ていない。

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