夏 幸せの在り処

 それは、地球温暖化に対する配慮なのか、それとも経費における光熱費に対する配慮なのか。

 ともあれ、その日も俺の職場は蒸し暑く、俺は汗ばむ掌を卓上扇風機で乾かしつつ、モニターを凝視しながらひたすらにキーを叩いていた。

 それは周辺の席に座る同僚達も皆同様で、みんな疲れた顔を隠しきれないまま業務についている。

 定時の少しばかり前から始まり、定時からそこそこ後まで続く変わらない日常。

 なんとも不平と不満に満ち満ちた空間ではあるが……それでも、俺は幸せなんだと思う。



 北高に入学早々から頃から、ランディング寸前の高度でふらつき、管制塔を務める両親からの警告が鳴り止む事がなかった俺の成績は、二年の途中から始まったハルヒによる個人指導によって無事安定高度にまで上昇する事に成功。

 卒業後に進学した大学でも成績を維持する事に成功し――進路指導に従ってただ進んだ俺の就職先は……驚くなかれ、市役所だった。

 宇宙人、未来人、超能力者。そんなの居るわけねーと思いつつ、実際に遭遇を果たしてしまった俺の高校生活だったが、その後は呆れるほどに平凡だったわけだ。

 いや、平凡以上だな。

 高校時代は進学すら危ぶまれていた俺が大学に進んだ時も、その後の就職が決まった時も、友人達や家族は手放しでそれを喜んでくれた。

 それ以上に驚いていたのも付け加えておこうか。

 俺自身だって、これで安定した生活が送れるんだろうなって思ったし、それは現実になったんだと思う。

 毎日定時に出勤し、言われるままの業務に努め、定時に仕事を終えて一人暮らしをしているマンションへ帰宅。持ち帰りが許されている仕事をこなし、そしてまた朝が来る。

 就職してからの数年の間、ずっと繰り返してきたそのルーチンワークは、気づけば俺の生活の全てになっていた。



 市役所という職場は、意外だが俺には適性があったのかもしれない。

 俺が配属された総務課は、名目上は独立してはいるものの、現実的には各部署の人足要員としてカウントされているらしく、庁舎内のあちこちに飛ばされる日々が続いている。

 期末になればデータ入力、イベントがあれば雑務に力仕事、窓口業務での接客等々……。

 どこぞの誰かさんに振り回され続けてきた実績があるせいか、そんな毎日は俺にとってそれ程不満のあるものではなかった。多少、癖がある人が来るくらいでは、特にストレスを溜め込まないで済むだけの耐性が身についてしまっているらしい。

 また、妙にご高齢の方からの支持が厚いらしく、まともな専門知識なんて持ち合わせていないのに、年金の相談会ともなると指名が飛んでくる事も少なくない。

 その度に、年金云々といった話題ではなく世間話の延長線でしかない話を延々と聞かされる事になるのだが……相手は市民であり更にはお客様であるわけで、それを無下にする事なんて当然出来やしない。

 これに関しても、延々と取りとめのない話を聞かされてきた経験があるせいか、それほど苦痛でも無かった。

 ……ただ、まあ。時折思い出しちまうんだけどな。

 北高の部室棟、放課後になるたびに部室に通い、そこで過ごしていたあの時間の事を。



 ――大学に進んでからの事を少し話そうか。

 俺とハルヒは同じ大学に進学し、そこで俺は授業の傍らでハルヒの指導の元に公務員試験を勉強していた。

 何故公務員試験だったのか? と言えば、それについては俺の意志でもハルヒの意志でもなく、俺の母親の強い要望だったらしい。

 高校時代、ハルヒが俺の勉強を見てくれた事を知り、ハルヒの母親を通じて俺に公務員の勉強を勧めてほしいと頼んだんだそうだ。

 ハルヒはそれを快諾……したのかどうかは知らないが、大学に入ってからの一年ほどは延々と勉強漬けの毎日だった。

 まあ、それが大学生の正しい姿なんだとは思うが。

 それから俺達は大学を卒業……する事は無かった。

 俺は無事に卒業し、公務員試験にも合格した……だが、ハルヒはまだ名目上は大学に席が残っている。

 というのも、だ。あいつは大学二年の時に論文を発表、俺が知りもしない外国の研究機関だか何だかにそれは取り上げられ、そのまま外国へと旅立って行ったらしくそれっきりだ。

 大学を出たらハルヒと……なんて、俺が密かに思い描いていた未来予想図が絵空事となった事も、一応付け加えておこう。

 その後もハルヒの名前は何度か新聞やテレビを賑やかしていたが、あまりにも専門的な分野での功績だったとかで、すぐにニュースにもならなくなった。

 携帯は出国の時に買い換えて番号が変わったらしく不通、手紙も来やしない。

 今あいつが何処に居るのか知ろうと思っても、何処の誰に聞けばいいのかすらわからん。

 ……ま、それはそれであいつらしいと言えばそうなのかもしれない。

 他のメンバーのその後については、朝比奈さんはハルヒに拉致されてずっと行動を共にしているらしい。何度か絵葉書を送ってもらった事があるが、いつも違う国の消印が押されていた。彼女の携帯は日本国内でしか使えないらしく、おまけに料金の支払いを忘れたとかで早々と使え

なくなってしまったらしい。

 まあ、彼女らしいといえばそうなのかもしれないが、色々と心配だ。

 長門は市立図書館に勤めている。殆ど顔を合わせる機会はないが、時折街中でその姿を見かける事はあった。

 ハルヒの監視任務は別の人が担当になり、長門は今もあのマンションに一人で暮らしているらしい。

 最後の一人は……ああ、今日も忙しそうだな。

 かつてアルバイトに忙しかった超能力者は、今は市民課の窓口で若い女性に囲まれている。

 こいつこそハルヒの傍に居なければまずいんじゃないかと思ったが、長門同様に別の人間がハルヒには付いているんだそうだ。

 古泉が俺と同じ職場に居るのは偶然、ではないんだとよ。経験則で言えば予想範囲内だ。

 不自然なくハルヒについていく事は現実的に考えて不可能、となればハルヒが戻ってくる可能性の高い場所に自分は居た方がいい。

 その判断で選んだ就職先が、俺が居るここだったんだとさ。

 まあ好きにしてくれとしか言えないが……古泉、多分そいつは無駄だと思うぞ?

 なんせハルヒは……俺に何も言わないまま、何処かへ行っちまったんだからさ。


 

 何事も無い毎日が季節を緩やかに進めて行き、梅雨明け宣言を待っていたかのように大雨が続いた頃、久しぶりに実家から連絡があった。

 まあ実家と言っても一人暮らしのマンションから一駅も離れていないんだが。

 で、だ。その連絡の内容ってのが――

「キョンくん! あのね? そっちにシャミ来てない?」

 我が家の愛猫の失踪、という内容だった。

 ともあれ、久しぶりに帰った実家では、あまり時間の経過を感じさせない親の姿と、朝顔の観察日記の様に変化を遂げ続けた妹の姿があった。

 そろそろキョンくんは止めろと言いたいが、今更お兄ちゃんと呼んでくれってのも何か違う気がしてしまう容姿になった妹は、心配そうな顔で慌ただしく家の中を歩き回っている。

 シャミセンの性格、年齢、そして猫の習性を考えれば……想像出来なくはない、な。

 人の言葉を喋っていた期間はほんの僅かではあったが、それでもあいつとはそれなりの付き合いだ。

 親も同意見らしく、落ち着いた様子で……俺に彼女は居ないのか? だの、妹は彼氏を連れてきただのと、呼び出しの内容とは無関係の話題で俺を質問攻めにしてくる。

 ちなみに、俺が一人暮らしを始めた理由の一つはこれだ。

 シャミセンの捜索を口実にリビングを離れようとした時、ハルヒとはその後どうなのかと聞かれたが……それは俺が聞きたいくらいだった。

 きっと、シャミセンは何処を探しても見つからないだろう。

 ハルヒとは、また何処かで会えるかもしれない……会うだけなら、な。

 


 現実を受け止められないらしく、妹は自分の部屋に籠ってしまった。

 ある意味、それはペットの最後の贈り物なのだと何かの本で読んだ様な気がする。子供が産まれたら犬を飼えとか、その本には確かそんな事が書いてあったはずだ。

 もう疎遠になりつつある兄に出来る事は無いだろうな、後は時間という悠久の流れに任せるしかない。

 これ以上長居をすると泊まって行けと言われそうな気配を感じ、マンションへ帰ろうと玄関で靴を履いている時、俺宛の手紙が靴棚の上にまとめてあるのが目に入った。

 その場で宛名と内容に目を通して行くと、そこに書かれてあるかつての級友の名前、あの頃とはもう名字の変わった名前もある。

 俺もいつかは……そう思った時、不意に思い浮かんだのはずっと見ていたはずのあいつの顔で、胸の内に重い何かがのしかかる様な感覚に、俺はただ目を閉じていた。



 実家を出た後、俺はマンションへ帰ろうともせず夜の街をただ歩いていた。

 特に理由はない。

 ただ、何となく今は部屋に帰りたくなくて……かといって行きたい場所も思い浮かばない。

 たまに古泉と飲みに行く事はあったものの、それも向こうから誘われた時くらいで、社会人になってから誰かと出かける機会は殆ど無くなっていた。

 それは仕事の忙しさのせいなのか、元々の性分のせいなのかは判断を保留しておく事にする。

 たまにはこっちから古泉を呼んでみるのもいいかもな……多分、あいつは嫌がりも断りもしない。そんな気がする。

 何となく足が止まり、自然と息が漏れた。

 ……だから、誘う気になれないのかもな。

 古泉は機関の仕事の一環として、そして職場の同僚として俺と付きあっている。それだけじゃないんだろうが、それが全く無いわけでもない。比率がどの程度なのかはわからないにしても、少なくとも俺はあいつにとって気楽に付き合える相手ではないんだろう。

 職場の同僚としての俺と疎遠になっても特に何も困らないはずだが、機関とやらの方はそうはいかないだろう。

 それは前からわかってた事だし、向こうだってそれを分かっている上で言葉にしないでいる。

 別にそれは超能力者に限った話ではなく、年齢や関係、立場や状況等といった要素は、人間関係を構築する上で少なからず関与する物だ。

 それはそれ、そう割り切ってしまえばいいだけの事なんだろうが……社会人になって、三十歳近くにもなってたってのに……未だに俺は大人になれていないらしい。

 ――どうだろう、大人になりたくないだけなのかもな。

 季節は夏だけあって、夜の街には人通りがそれなりにあり、年代的には学生が殆どのようだ。

 かつての自分はあんな風に見えていたのかと思うと、何というか不思議な感じがする。

 あの中にはもしかしたら、無意識に世界を終わらせそうになっている奴が居たり、世界を破滅から守っている奴が居たり、それに巻き込まれているだけの一般人もいるのかもしれない。

 その可能性が0ではない事を、俺は知っている。

 そんな事を考えながら足の向くままに歩いていると、夜の闇に煌々と光を放って虫を寄せ付けているコンビニが見えてきた。

 目新しさ等何もない、町中に何件もある見慣れたチェーン店だ。

 買いたい物は特に無かったが、何となく立ち寄ってみると――聞き慣れた来客を店員に知らせるメロディーが店内に響き渡った。

 ……別にそれは珍しい音ではない、それはわかってる。このコンビニだって何度か来た事があるはずだ。

 だが、何故か不思議とこの状況が気になって――ふと顔をあげると、そこに貼られていた広告が目に入り、俺はそのままレジの近くにあった新聞を一つ手にとっていた。

 見たいのはテレビ欄でも、明日職場で話す話題のネタでもない。

 右上に並んだ漢字と数字の羅列で……そうか、忘れていた。

 新聞に書かれていた日付。

 天井に釣られたポップに書かれた、全国一斉七夕デーの文字。

 それは分かってる。季節毎のイベントに事欠かない職場だからな。

 今重要なのはその隣、七夕を示す日付の前に書かれた西暦の数字の方だ。

 あれは確か高校一年から三年前だったから、つまり中学一年で、今は……指折り数え終えてすぐ、俺は新聞を元に戻してコンビニから飛び出していた。

 周囲の視線を気にする余裕も無く足は動く――そうだ、今日は東中であの絵文字を書かされたあの七夕の日から、ちょうど十六年目じゃないか!



 今は深夜で、明日は平日、そんな事は分かっていた。

 それでも俺の足は迷わず東中へと向かっていて、その足取りは重くはなかった。

 久しぶりに全力動作を命じた上半身も下半身もすぐに悲鳴を上げ始めたが無視だ! 現地まで持ってくれさえすればそれでいい。

 衝動のままに足を動かし、本当に久しぶりに訪れた東中の校門、そこに幼いハルヒの姿は無かった。

 当たり前だ、むしろ居たら困るくらいだ。

 ともあれ、どうやって中に入ろうかと荒い息を繰り返しつつ考えていると、

「……何か、学校に御用件でしょうか」

 ちょうど巡回中だったのか、懐中電灯を手にした宿直の先生に発見された。

 門扉の前で立ち尽くしていた俺に対し、あからさまに不審そうな顔をされはしなかったものの、警戒はされているらしい。

 そりゃそうだろう、息の上がった男がこんな時間にこんな場所で立ち尽くしていたら誰だって不審に思う。

 少し迷ったが……いや、本当は全然迷わなかった。

 自分が市の職員だという事を説明し、身分証も見せ、ここでかつての級友と待ち合わせをしている事、相手は忘れているかもしれないが中で待たせて欲しい事をそのまま伝えてみた。

 もちろん、そんな約束なんてしちゃいないんだが……事情を聞いた先生は、話の真偽はともかく俺の立場については一考してくれたらしく、校舎内へ入らないのであればという条件で俺を中に入れてくれた。

 こうもあっさりと要求が通った事には驚いたが、どうやら市役所の中で俺の顔を見た事があったらしい。

「今日は晴れましたし、会えるといいですね」

 そんな優しい言葉までかけてくれた先生が校舎へと戻っていき、かくして俺は一人グラウンドの上に取り残されたわけだ。

「……」

 当然だが、校庭にあの謎の絵文字はない。

 偉そうに文句ばかり言い続ける中学生も、額に汗して石灰を引いて回る高校生も、眠り姫と化した未来人も、居ない。

 そこにはただ俺だけが居て、それだけだった。

 見上げた空には薄っすらと星が光っていて、どうやら雨は降らないでくれるらしい。

 腕時計に視線を落とすと、時刻はちょうど二十一時になろうとしている。確か、今位の時間に俺達はここに居たんだっけ。

 遠くに聞こえる蝉の声だけが耳に入る音の全てで、俺はじっと何かを待っていた。

 それが何だったのかは……わかっていたが、それを意識してしまえば現実にならない気がして、俺はただじっと空を見上げていた。



 立っているのに疲れ、その場に座り込み……腕時計が小さな音を立て、日付が変わった事を知らせてくれた。

 七月八日、午前零時。

「……やれやれ」

 久しぶりに漏れたその言葉に……小さくない痛みを感じる。

 わかっていた、ハルヒがここに来るはずがないって事くらい。

 約束なんかしちゃいないし、俺だって今日まで忘れていたんだ。それどころか、多分あいつは今も世界中を飛び回ってる最中なのだろう。

 こんなごく普通の中学校のグラウンドに、ただの市役所の職員でしかない俺に、何の用もあるわけがない。

 そうさ、ハルヒはもう俺とは何の――続いて思い浮かんできた言葉は、それが現実だとわかっていても受け入れたくない言葉だった。

 このまま退屈な日常が続いてもいい、そんな事はどうだっていい。

 あいつが傍に居るなら、なんだって……。

 堪え切れない何か動かされ、その場に立ちあがっていた俺の肺が勝手に大きく息を吸い込む。深夜だなんて事は思慮の端にも思い浮かばないまま

「俺は……俺はっ! ここに居るぞっ!」

 星空に向かって、叫んでいた。

 その声は誰も居ないグラウンドに響き、笑える程すぐに消えた。

 再び夜の静けが訪れ……ゆっくりと辺りを見回してみたが、そこには誰も居なかった。

 そりゃそうだよな、こんな所で叫んだ所で……何の意味もあるはずもない。

 気づけば俺はまた地面に座っていて、何故かぼやけて見える星空が見下ろしているだけ。

 俺は……ちゃんと伝えるべき時に伝えなかった。

 いつか朝倉が言ってた通り、やらないで後悔するよりやって後悔すべきだったんだ……そしてそれはもう、遅いんだ。



 それから――何処をどう歩いたのか、よく覚えていない。

 気づけば俺は、見覚えのある公園のベンチに座っていた。

 朝比奈さんに過去へ連れられてきたあの日、俺が目を覚ましたあのベンチは多分これだった……と、思う。

 当然、今はここに朝比奈さんの姿はない。周囲を見回しても、大人の朝比奈さんが隠れている様子も無い。覗き見している別の時間の俺も、多分居ないのだろう。

 ここに居るのは、俺だけだ。

 顔をあげても、街灯の明かりで空の星は見る事が出来ない。静かな公園の中は、光を求めて飛び交う虫がそこかしこに当たる小さな音が聞こえるだけだった。

 ――いつか、この高校生活を懐かしく思う時が来る。

 大人の朝比奈さんが言っていたのって、この事なんだろうな。

 非日常が日常になっていたあの頃を、自分の中で思い出にする日が来るって事を。

 あいつに振り回され、頼りにならないブレーキ役として過ごした毎日。

 もう、あの日々は戻らないんだって、認めないといけないんですよね。

 ひょっとしたら、あいつの周りではそれは続いているのかもしれないが、そこに俺の居場所はもう無いんだ。

 そのまま俺はベンチに横になり、目を閉じていた。

 何も見たくも、考えたくもない。

 次に目覚めたら……またあの部室に居たりしないだろうか。

 薄れていく意識の中、おっさんになってしまった自分が部室に居る姿を想像し、少し笑った。



 次に意識が戻った時、そこはやはりというか公園のままだった。

 どうやら夜が明けた所らしい。ぼんやりとした視界には明るくなり始めた公園が広がっていて、汗ばむ程だった熱帯夜の代わりに、冷えた外気が身を包んでいる。

 ってぇ、腰というか足というか、そこら中が痛い……あれ、何で俺の頭の位置が高いんだ?

 直接ベンチの上に乗せていたはずの俺の頭は、今は柔らかい何かの上にあって……視線を巡らせてみると

「……」

 そこには俺を笑顔で睨みながら見下ろしている奴が居て、そいつの膝の上に俺の頭は乗っていて、つまりは膝枕と呼ばれる状態にあったわけなのだが

「起きたんなら頭どけてよ。そろそろしびれてきてるんだから」

 何となく懐かしさを感じる言葉を耳にしつつ、ゆっくりと起き上った俺の隣りに座っていたのは……

「夢……じゃないよな?」

 最後に見た時よりずっと伸びた髪をポニーテールにし、見慣れない医者の様な白い服を着込んだ――涼宮ハルヒがそこに居た。

 何度瞬きを繰り返しても、その姿は消えない。

「現実よ」

 そう言ったハルヒの口調には少なからぬ怒気が含まれていた。が、何故かその顔は笑っている様にしか見えない。

「……色々と言いたい事はあるけど、まずは答えなさい」

「え? あ、ああ」

 ハルヒの顔から笑み、というか表情が完全に消え

「あんた、結婚した?」

 意味不明な質問が飛び出した。いや、お互いに年齢的に言えばそんなにおかしい質問ではないんだろうが。

 聞かれた内容に対して、俺はただ首を横に振った。他に返答のしようも無い。

「じゃあ……その、有希と付き合ってる? もしくは他の誰か別の女と」

 ……は? え、長門と?

 再び俺は首を横に振る。

「そう……じゃあ間に合ったって事でいいのよね、多分」

 大きく息をついたあと、ハルヒの顔にまた笑顔が戻り

「キョン。あたし、あんたに色々と聞きたい事があるの。あんたも聞きたい事があるだろうけど……どっちが先がいい? 選ばせてあげるわ」

 どっちって、

「えっと、じゃあ……俺から」

 今までずっと後悔してきたんだ、ここでまた後回しは選べない。

 ハルヒに聞きたい事、か。今は何してるんだってのも気になるし、どうしてここに居るのかも聞きたいが、

「お前が何も言わないまま海外に行った理由、聞いてもいいか」

 何よりもまず聞きたいのはこれだ。

 ハルヒは顔をしかめつつ「まあ、当然それは聞いてくるわよね」と前置いてから

「キョン、あたしね……大学を出たら、あんたにプロポーズするつもりだった」

 ……俺はいったい何度驚かされればいいんだ?

「でも、もう一人気になってる男が居たの」

 続いた言葉に対し、俺はもう何の反応も出来なかったのも無理は無いだろう。

 ハルヒは何かを思い出す様に空を見上げつつ

「そいつはね……まあ、その……自分でもよくわからないけど、ずっと気になってて。ちょっと会っただけの奴だったんだけど。どうしても忘れられなかった。だから、そんな気持ちのままであんたと付き合うのはダメだって思ったの。だから、ずっとそいつを探してたわけ」

 予想外にも程がある発言だ。

 とはいえ……やはり聞かねばならないよな

「そいつは、見つかったのか?」

 俺の質問にハルヒはすぐにうなずいた。

「ずいぶん時間がかかっちゃったけどね、ようやく見つけたわ」

 さて、この時ハルヒはやけにすっきりとした顔で俺を見ていた訳なのだが

「……そいつと初めて会ったのは、十六年前の七夕の夜よ」

 超新星化したベテルギウスの様な笑顔がそこに浮かんだのを見て、俺はハルヒが探していた相手ってのが誰なのかわかった。

 わからないわけがない。

 上手く動揺を隠せたかについては、自信が無い。

「そいつの名前はジョンスミス、わかってるのはそいつが北高の制服を着てたって事だけ。初めてあった日の翌日から北高で張り込みをしたり、職員室に忍び込んで生徒名簿を調べてみても見つけられなかった」

 そりゃそうだろうな、と俺が言えるはずもない。

 やりすぎだろうとは言いたいが。

「だから、ジョンを見つけるのは正直諦めてたんだけど……大学の時にちょっとした事件があって思いついたの。今ここでジョンを探しても見つけられないなら、出会ったあの時に戻ればいいんだって!」

 ……は?

「だから、十六年前のあのグラウンドへ戻ってジョンを捕まえ……じゃなくて、もう一度会って確かめようとしたのよ。あいつに対するこの気持ちが何なのか、をね。その為に、時間遡行の基礎概念になる論文を書いたの」

 熱弁を振るってついでにポニーテールも揺らしてるのはいいが、タイムトラベルを研究する動機がそれってどうなんだ。

「科学の発展にとって経緯なんてどうでもいい事よ」

 そりゃまあそうかもしれんが。

「大学で論文を出してから、色んな所から問い合わせがあって意見交換してみたの。殆どは何の意味も無い無駄な時間だったけど、有意義な話が出来る人も何人か居たわ。おかげである程度研究は形になって、でも完成までは行かなかった。あと二年もあれば、試作くらいまでなら行けそうだったんだけどね」

 真面目な顔でハルヒが冗談を言っているな……冗談だと思いたい。

 大人の朝比奈さんの時代が前倒しになったりしてないか心配だ。

「でも、研究を続ける理由も無くなったし、あたしが居なくてもいずれ形にはなりそうな所まではきてたし。それはもういいのよ」

 ハルヒはそう言いつつ、よれよれになっている俺のシャツを掴んだ。

「今から六時間くらい前ね、電話があったの。相手は東中の先生から。念の為、東中のグラウンドに妙な事が起きたら何時でもいいから電話してってお願いしておいたの。あのメッセージを書いてちょうど十六年目になる昨日は、特に気をつけててってね。そしたら……」

 シャツを握ったハルヒの手に力が籠り、無理やり引き寄せられるこの感覚もまた懐かしいというか何というか。

 嬉しそうに体を揺さぶってくる手に抵抗もせず、ただ身を任せている俺に

「驚いたわ。七夕の夜にグラウンドで待ち合わせをしてるって男が来て、しかもそいつが見せた身分証に書いてあった名前が知ってる奴で! さらにあたしが書いたあの宇宙人語の内容通りの事を叫んでたって! あたし、誰にもあの絵文字の意味を教えてない。それと、あんたには前に教えたわよね? 七夕の願い事がベガとアルタイルに届くにはそれぞれ十六年と、二十五年かかるって。そう……論文を書いた時点で気づけたはずの事なのよ、時間を移動できる様になる未来は確実に訪れる、つまりあの変な高校生がその時代の人間だとは限らない。でもまさか、あんたがジョンだったなんてね」

 そこまで言い終えて、ハルヒは小さく息をついた。その顔は何というか満足そうに見える。

 どうやら、ハルヒは言いたい事は全部言い終えたらしい。今はただ俺のシャツを握って離さず、じっと俺の顔を笑顔で睨んだまま。相変わらず器用な奴だ。

 さて、俺はここで何を言うべきなんだろうな……。

 少なくとも、もう宇宙人、未来人、超能力者についてではないのだろう。

 となればジョンスミスの正体についてか、卒業後に俺もプロポーズするつもりでいたとか、それとも今日の実に俺好みな髪型について褒めるべきなのか。

 ともあれ、最初に話す事については、もう決まっているのだ。

 まあ……きっとお前はそんな事はどうでもいいとか言うんだろうけどさ、まあ言わせてくれ。



 まずはそう――ずっとお前に会いたかった事を伝えようと、俺は思う。



 幸せの在り処  〆

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