秋 うさみくる


 その瞬間まで、それは何事も無い昼休みの日常だった。

 空腹を満たそうとする生徒達の並ぶ学食前の廊下、その列に並んでいた時に

「キョン君」

 背後から聞こえてきた愛らしいお声。

 振り向いた先で俺が見たのは、

「あれ? 朝比奈さんじゃないですか」

 そこに居らっしゃったのは愛らしい上級生のお姿だった。

 朝比奈さんは小首を傾げつつ

「キョン君もこれからお昼ご飯なんですか?」

 もって事は……つまり。

「私もそうなんです」

 それを聞いた俺は迷う事無く列から抜け出し、照れ笑いを浮かべる朝比奈さんと共に列の最後尾へと並びなおした。

 実際問題、もしそのまま俺が並んでいた場所に朝比奈さんを入れてもクレームは出なかったとは思う。が、ここはやはり少しでもご一緒できる時間を長く取りたいと思うのが人のサガという物では無いだろうか。

 あ、そういえば。

「朝比奈さんっていつもは学食なんですか?」

 もしそうなら、俺も僅かな小遣いを自分の食費へと投入する事に何の躊躇いもありません。

「あの。実は今日、寝坊しちゃってお弁当を作る時間がなかったの」

 照れ笑いを浮かべる朝比奈さんだが……それはつまり、いつも自分でお弁当を作ってるって事なんだろうか? 俺の中で朝比奈さんの株がまたしても上がってしまうではないか。

 ……それはそれとして、だ。考えてみれば、俺はSOS団の中では長門の家にしか行ったことがない。とはいえ、ハルヒにも古泉にも家族が居るんだろうと当然の様に思っていたのだが、はたして朝比奈さんはどうなんだろう。

「あの……どうかしましたか」

 思わず考え込んでいた俺の顔を、朝比奈さんは不思議に見ている。

 どうみても上級生には見えない――というか中学生に見える事もある――朝比奈さんの正体は、本人曰くハルヒを観察する為にやってきた未来人である。らしい。

 そんな事情を話せる……というか、話したとしても信じてくれる人は居ないんだろうし……。

 となるとまさか、学校が終わればずっと1人で生活しているんだろうか?

「キョン君、注文待ってますよ」

「え? ああ、はい」

 考え事をしている内に、いつの間にか最前列まで来ていたらしい。

 俺は残り僅かな惣菜パンの中から適当に三つ選び、パックのジュースと一緒に購買のレジの横に置いた。

 

 

「朝比奈さん。お昼ご飯、サンドイッチ一つだけで足りるんですか?」

 テーブルの向側でハムサンドをちまちま食べている姿を見て、思わず聞いてみた。

「……実は、この後アイスも食べようかなぁって」

 照れながらの発言も可愛いんですが、アイスじゃお腹は膨れないと思いますが……。

 早々と惣菜パンを胃に押し込み終えた俺は、ちびちびとジュースを消化しつつ未来人さんの食事風景を観察させていただく事にした。

 小さなお口でもそもそとパンを食むその愛らしいお姿は……ああ、あれだ、小学校の頃クラスで飼育していたウサギの食事の様子にそっくりな気がする。

 ――当時、確か小学四年生だった俺は教師に言われるままにウサギの食事当番をこなしていた。

 ウサギから見れば定時にやってくる自動餌出し機でしかなかったんだろうが、自分が来なければこいつらは死んでしまうのではないかという思いから、なんというか親的な感情移入をしていたような気がする。

「あの、どうかしたんですか?」

 真剣に見すぎていたらしい、いつの間にか朝比奈さんは食事の手を止めてこちらを見ていた。

「朝比奈さんって、寂しい思いをしてたりしませんか?」

「え?」

 あ、いや。ほら。

「朝比奈さんって、その……未来人、なんですよね?」

 最後だけは回りに聞こえない様に小声で聞いてみる。

「はい。そうですよ」

「この時代で頼れる相手って居ますか? 住む場所とか、食事とかは大丈夫ですか?」

「あ、の……その」

 朝比奈さんが申し訳無さそうに言葉を濁すって事は……。

「禁則事項、って奴なんですね」

 あえて自分から言った俺に、寂しそうに朝比奈さんは頷いた。

 ――ウサギは寂しいと死んでしまう。

 そんな豆知識をどこからか仕入れて以来、俺は頻繁にウサギ小屋に通うようになった。

 家にウサギを持ち帰る訳にはいかない事くらい当時の俺でもわかっていたから、これ以上できる事はないんだと勝手に思い込んでいた訳さ。

 しかし、斜め上の発想をする奴はどこにでも居る。

 特に小学校にはそこら中に居る。

 そいつが誰なのか結局わからなかったが、その日ウサギ小屋に行った俺が見たのは壊された小さな扉と、何も居ない小屋だった。

 後から教師が言った言葉によれば、それをやった誰かはウサギを自然に戻してやろうとしたんだとよ。

 クラス総出で捜索した結果……そうだよな、ウサギが戻るべき自然がこんな街中にある訳が

ないもんな。

 生き物に触れる事で感情豊かな子供を作りたかったらしい教師の思惑は、ある意味想像以上の結果をもって終わりを迎えた。

 ウサギ達がどうなったのかって? ……想像にお任せする。

 ちなみに。

 実はウサギは寂しくても死なないという事を俺が知ったのは、それからずっと後になってからの事だった。

 

 

 放課後の部室、長門は読書に勤しみ、俺は古泉を相手にチェスで時間を潰す中

「涼宮さん、今日は遅いですね」

 朝比奈さんは、いつものメイド姿で我等が暴君の訪れをじっと待っていた。

 それはそうする様にハルヒが言ったからなのか、それともご本人もあの服が気に入っているからなのかは俺には解らない。

 どちらかといえば、後者であって欲しいと願っている。

 かつてコンピ研で酷い目にあわされた時に、朝比奈さんはハルヒから逃げないいくつかの理由を言って、その理由の中には何故か俺の名前もあった。

 となれば、ただの高校生でしかない俺がこの人にしてあげられる事は、この部室に日々通う事しかないのだろう。

「今日は、ずいぶんと優しい顔をしているんですね」

 ん? そうか。

 薄気味悪い古泉の突っ込みを、俺は長考の結果思いついた改心の一手で黙らせる事にした。

 その一手によって、前線までようやく辿り付いた古泉の駒は、主と自分の命を計りにかける事になったのだが……王でも兵でも好きな方を助ければいい。

 突然音を立てて開く部室の扉、さして驚きもしない自分にむしろ驚く。

「ん~……お腹空いた」

 第一声がそれか、ハルヒ。

「だって秋なんだもん」

 なるほどな、完璧な理由だ。

 季語まで含まれている、申し分ないね。

「でしょ? だから肉まん買って来て。一、二、三、四……五個。あんたも食べるなら六個ね」

「なあハルヒ、皮肉って知ってるか?」

 そんな俺の言葉を無視しつつ、ハルヒは団長席に座った。

「ほら! 早く行きなさいよ? みくるちゃんのお茶が熱い内に間に合わなかったら色々と酷いわよ!」

 理不尽という概念を体現するハルヒの隣では、その被害者候補第一号とも言える朝比奈さんがポットの前で脅えた顔をしている。

 危ないと感じたら逃げるんですよ? なんて、ウサギに言っても無駄だったし、朝比奈さんに言っても無意味なんだろうなぁ……。

 俺は溜息の推力を利用して席を立ち、

「古泉、肉まんの代金を半分持ってくれたら今の手は待ってやるぞ」

 対面に座る超能力者にたかる事にした。

 

 

 走れメロスって話があるが、後世の人間に命令形でそんな事を言われる事になるとはメロスも王様も、名前が長いセなんとかも思っていなかっただろう。

 創作物の登場人物に憐れみを感じつつ、寒空の下を適当な速さで走る俺の手には六個の肉まんがあり、代わりにポケットの財布はいくらか軽くなっている。

 早く戻って朝比奈さんの暖かいお茶と、暖かい笑顔と、叶うならば暖かい抱擁を……等といつもの様に数パターンの妄想を抱えながら部室のドアを開けると。

「寒いから早く閉める!」

「ひぇっ! みみみ、みないで~!」

 俺がウサギの事を考えていたせいなのか?

 ハルヒの手によってバニー姿に着替えさせられようとしている、殆ど裸に近い状態の朝比奈さんがそこに居た。

 ――すぐさま廊下へと飛び出して扉を閉め「お疲れ様です」トイレに行っていたらしい古泉と一緒に部室の前で震える事、数分。

「……どうぞ」

 悲しげな声がドア越しに響き、部屋の中にはご機嫌なハルヒに絡まれる朝比奈さんの姿があった。

 ちなみに、二人ともバニー姿である。完全無欠のな。

「はーあったかーい」

「ううう」

 団長椅子に座ったハルヒの膝の上には、脅えた顔の朝比奈さんが無理やり座らされていた。

 無駄だと分かっていても抵抗したんだろうな、朝比奈さんのバニー服は所々乱れていて、違う趣味に目覚めてしまいそうな気がする。

「なあ、ハルヒ」

「何よ」

 涙目の朝比奈さんがたまりませんとか、この寒いのにバニーはないが、これはこれでありだろとか色々言いたい事はあるが。

「ともかく、だ。冷める前に食べろ」

 俺はテーブルの上に肉まんの袋を置いて「やったぁ!」ハルヒの物理的な呪縛から朝比奈さんを助け出す事に成功した。

 餌で釣る事しかできない動物園の新人飼育係ってこんな気持ちなんだろうか。

「キョン。あんた今、変な事考えたでしょ」

 考えてたぞ。

「人間って一口で肉まんを食えるもんなんだなってな」

 その小さい口でどうやったんだ?

「うっさい!」

 とはいえ、咀嚼という過程はハルヒにとっても必要な物らしい。

 俺はその隙をついて肉まんを一つ掴み、ストーブのそばにしゃがんでいた薄幸のバニーへ届けに行った。

 ……なんて言うか、元気だしてください。

「ありがとう。キョン君」

 涙目、というよりも本当にちょっと泣いてしまっている朝比奈さんに肉まんと上着を手渡して立ち上が……おい、ハルヒ。

「何?」

「俺は六個肉まんを買ってきた」

 お前が自分も食いたければそうしろと言ったからな。

 念の為に財布から出したレシートには、確かに六個と印字されている。

「そうね」

「それで、だ。お前は一個掴んで即座に口に入れて二個目を手に取り、古泉と長門も一つずつ

持って行った。これで四個だ」

 まあ、ハルヒが二個食べるってのは想定内だとしよう。予測は出来ていた。

「ごちそうさまです」

「ありがとう」

「あいよ。そして五個目、朝比奈さんの分を俺は届けた訳だが……何故、テーブルは空になってるんだ?」

 そう、振り向いた先には空のビニール袋があるだけで、俺の分の肉まんはすでにそこにはなかったのだ。

 ハルヒは無駄に真面目な顔で頷きながら、

「不思議ね、宇宙人のせいかしら? これは調査する必要があるわ」

 などとわざとらしく呟いてやがる。

 そうだな、だとすれば第一に疑われるのは不自然に膨らんでるお前の腹だ。

「キョン! あんた何失礼な事言ってるのよ! セクハラよ?」

 じゃあ聞こう。

「肉まん二個食べた結果がその膨張した腹部なのか。それとも、三個食べたからそんな状態になってるのか。どっちだ」

「三個に決まってるじゃない!」

 ……即答するくらいなら最初から素直に言えよ。

 ともあれ部室の中に漂う暖かい肉まんの香りに、昼食から既に十分な時間の経過を経た結果、殆ど空洞と化している俺の胃は切なげな訴えを始める。

 もぎゅう。

「あの、キョン君。半分食べちゃいましたけど、わたしの肉まんでよかったら」

 遠慮がちに提案してくれる朝比奈さんの手には残り半分程になった肉まんがあったが、

「ありがと!」

 即座にハルヒの手によって持ち去られ……ここまでやられたら俺だって怒る、ああたまには怒らせてもらおうじゃないか。古泉のバイト? 知らん。日本人は食い物に関してはやけに怖いって事を教えてやらねばなるまい。

 俺はふつふつと湧き上がる怒りを行動に移すべく――朝比奈さんの食べかけというプレミア価値がついた――最後の肉まんを、至福の笑顔で食べているハルヒの横を通り過ぎ、立て付けの悪い部室の窓の前に立った。

 ハルヒに見えないように、俺は朝比奈さんにそっとブロックサインを送る。

 内容は「上着を着て下さい」だ。

 上着を羽織る仕草を何度か見せると朝比奈さんは俺が伝えたい意味がわかったらしく、いそいそと俺が渡したブレザーに袖を通し始める。

 ――準備よし。さあ、晩秋の寒さで悔い改めろハルヒ!

 俺は一切躊躇わず、文芸部の窓を……ん、……ん? ……あ、あれ? 開かない?

 立て付けが悪いだけとは思えない硬さの窓と格闘していると

「ふっふ~ん。あんたの考えなんてお見通しよ」

 得意げな声に振り向いた先では、何故か木工用ボンドを手にして笑っているハルヒが居た。

 


 そそくさとバニー服の上に制服を着て、

「じゃあまたね!」

 ウインクひとつ残し、ハルヒ(うさ耳付き)は去っていった。

 自分の作戦が上手くいった事が余程嬉しかったんだろうな、あんなにご機嫌なハルヒはここ最近見た事がないぜ。

 質量保存の法則じゃないが、ハルヒの機嫌が良くなった分だけ機嫌が悪くなった奴が居る。

 俺だ。

「古泉、最後に言いたい事はあるか」

 聞くだけは聞いてやらなくはない。

 隠してたつもりかもしれんが、顔を伏せながら声を殺して笑ってやがったのは見えてたぞ。

「……す、すみません、いえ……まさかこんな展開になるとは予想もしていなかったもので」

 まだ声が笑ってやがる古泉については後で然るべき対応を取るとして、だ……ハルヒはなんで俺が窓を開けようとするって知ってたんだ? ただの思いつきだったのに。

 ハルヒが新たな力にでも目覚めたのかと考えていると、

「あの。この前長門さんが窓際で寒そうにしていて、涼宮さんが隙間風が入らないようにボンドで窓を固めてました」

 申し訳なさそうに朝比奈さんが教えてくれた。

 確かに、この部室は古い建物だけあって寒いとは思うが……それにしたって少しは手段を選ぼうぜ?

 真っ白な接着剤で埋められた窓枠と窓の隙間を撫でつつ、ハルヒが春になった時どうやって窓を開けるつもりなのかを考えて――考えてないんだろうなぁ――溜息をついた。

 

 

「あの衣装、久しぶりに着たから恥ずかしかったな」

 学校からの帰り道、朝比奈さんは恥ずかしそうに顔を赤らめている。

 肉まんの礼なのか知らないが、朝比奈さんが着替えている間に長門と古泉は先に帰ってしまったので二人っきりだ。

 こんな事を言うと怒られるかもしれませんが、似合ってましたよ。

「……やっぱり、男の人ってあーゆー服が好きなんですか?」

 上目遣いで見つめられると、今度は俺の顔が赤くなってしまう。

 えっと、その。着ている人によります。

 いまいち答えになっていない俺の苦しい言い訳に微笑んで、

「じゃあ違う質問……涼宮さんとわたしだと、どっちが似合っていました?」

 嬉しそうに朝比奈さんは問いつめるのだった。

 そりゃあ……。

 朝比奈さんです、と言いたい所なのだが実際問題ハルヒのバニー姿が似合ってないのかと言われれば、反則級に似合っているのも事実なのだ。

 朝比奈さんの男心をくすぐる愛らしいバニーと、野性味溢れるハルヒのバニー姿。甲乙付けがたいところだが、ここはやはり

「ぶー。時間切れです」

 俺の唇に人差し指を押し当てて、朝比奈さんはくすくすと笑っていた。

「……朝比奈さん」

「はい?」

 可愛い過ぎてどうにかなりそうです――なんて、言えないよなぁ。

「何でも、ないです」

「えー何を言おうとしたんですか?」

 俺の顔を見るご機嫌な朝比奈さんの視線がくすぐったく……正直、心地いい。

 ちなみに朝比奈さんは今、殆どくっつく程俺の近くを歩いているので不可抗力で俺の腕に色々と当たったりしているのだが、彼女はそれを気にしている様子は無い。

 これはまあ、公園でお話を聞いたあの頃よりも親しくなったって事なんだろうな。

 

 

 ――楽しい時間はあっという間に過ぎていき

「じゃあ、わたしはここで」

 どうして俺の家は朝比奈さんの家(どこだか知らないが)と離れた場所にあるのだろうか? 

 考えるまでもない、朝比奈さんはハルヒの観察に来ているのであって、残念ながら俺の観察に来ているのではないからだろう。

 交差点を前に足を止める朝比奈さんに、俺は無理矢理な作り笑顔を返した。

 せめて、その愛らしいお姿が見えなくなるまで見送ろうじゃないか。

 そう思って動かないでいた俺なのだが、

「……」

 何故か朝比奈さんも足を止めたまま、その場所から動こうとはしなかった。

 お互いに見つめあったまましばらく立ち尽くし、

「あの、帰らないんですか?」

 そう聞いてくる朝比奈さんの声は、何かを期待している様な気がした。

「朝比奈さんが見えなくなったら、帰ろうかなって」

「……私も同じだから、二人ともお家に帰れませんね」

 朝比奈さんの手がそっと伸びてきて、俺の制服の端を掴む。

 えっと……あ、朝比奈さん?

 俺のネクタイと顔の間を朝比奈さんの視線が彷徨い、高速で俺の理性が吹き飛んでいく。

 落ち着け。いや落ち着くな? これはいったい何がおきてるんだ?

 状況を整理しようとする頭を無視して、俺の両腕はそっと朝比奈さんを包む様に伸び始めていた。

 どこかで逃げられるだろう。

 もしくは誰かの――恐らく高確率でハルヒの――邪魔が入るに違いない。

 残念だったな~俺。

 これまでの経験からそう考えていた俺なのだが……分速一メートル程の速さで動いていた俺の腕は、あっさりと朝比奈さんの背中で合流してしまったのだった。

 腕に引き寄せられる形で、朝比奈さんの体がゆっくりと近づいてくる。

 そんな状態でも朝比奈さんは逃げ出そうとはせずに、迷うような視線を俺に向けていて。

 思考停止――

 これが夢なら夢で構わないさ、少しでもこの時間が長く続いてくれればそれでいい。

 カーディガン越しに感じる朝比奈さんの体はあまりに小さく、そして柔らかい。

 何かを喋ればこの時間が終わってしまう気がして、俺は何も言わないままじっと朝比奈さんを見つめていた。

 やがて、彷徨い続けていた朝比奈さんの視線が俺の顔の辺りで止まる。

「キョン君」

 ……はい。

「暖かい」

 朝比奈さんの小さな両手が、俺の胸に添えられる。

 もう少しだけ強く抱きしめてみよう。俺がそう思って腕を動かそうとした時、

「暖かくて、離れたくなくなっちゃうから……」

 そう言って、彼女は俺の胸をゆっくりと押し返した。

「朝比奈さん」

 俺は目の前で寂しげな顔をする上級生の名前を口にしたが、それ以上何を言えばいいのかわからなかった。

 何を言えば正解だったのか、今でも解らない。

「……えへへ、凄く、嬉しいけど。きっと怒られちゃいます」

 悲しげに呟く朝比奈さん、彼女は――未来人。

 来るべき時が来れば、彼女は元の時代に帰ってしまうのだろう。

 そして、未来人のルールによればどうやら過去の時代の人間と深く関わってはいけないらしい。大人の朝比奈さんが、私とはあまり仲良くしないでって言った理由も、そんな事が関係している気がする。

 そんな彼女に俺ができる事って、してもいい事ってなんだ?

 無力なただの一般人でしかない俺が、彼女にしてあげられる事は……。

 涙目になっていた朝比奈さんに近寄って、俺は再びそっと腕を伸ばした。

「キョ、キョン君?」

 戸惑う彼女を無視して、その小さな体を包み込む。

 朝比奈さんの手が俺の体を押し返そうとそっと力を加えてくるが、俺は動かない。何故なら。

「今日は寒いから、朝比奈さんを暖めてます」

 ……我ながら、何とも白々しい嘘だ。

 俺の言葉に、朝比奈さんは押し返す手を止めている。

「これは暖めてるだけです、それ以上でもそれ以下でもないんです。この時代ではこれが普通なんです」

 

 

 ――あの日、草むらで見つけたウサギは二度と動かなくなっていた。

 すでに冷たくなっていたうさぎに俺がしてやれたのは、無駄だとわかっていても抱きしめてやる事だけ。

 そして高校生になった今も、俺はやはりこんな事しかできないでいる。

 

 

 俺のくだらない言い訳に、朝比奈さんは俯いて笑っている。

 小さく揺れる朝比奈さんの体をくすぐったく感じていると、

「……ありがとう」

 俺の胸に額を当てて、朝比奈さんはそう囁いた。  



 うさみくる 〆

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