夏 笹の葉アントラクト
暗い夜の闇を照らす街灯の緩やかな光、そのスペースの中を大気の抵抗によって拡散された細かな粒達が気忙しげに通り過ぎていく。
それは、降雨と呼ばれるただの自然現象。
言ってしまえばそれだけの事なんだが……そんな些細な事にも、物理的な現象以外の何かを感じ取ってしまうのは何故なんだろうな。
静かに続くその光景は俺の様な鈍感な人間をも感傷的な気分に変えつつ、ただ緩やかに夜の時間は過ぎていく。
「雨……止みませんね」
俺の隣に座り、そう呟きながら夜空を見上げる朝比奈さんの顔には、ついさっきまでそこにあった可愛らしいまでの動揺はすでにない。
まるで、この雨が彼女の不安の全てを肩代わりしてくれたみたいに朝比奈さんは落ち着きを取り戻していて、今はその天使の様な御顔で満天の星空――ではなく、分厚い黒い雲がどこまでも広がる夜空を眺めていた。
――さて、降り注ぐ雨が屋根の雨樋を伝って落ちる音と、どこか遠くから聞こえる車の走る音しか聞こえて来ない静かな公園の中、休憩所のベンチに座った俺と朝比奈さんは今、雨宿りをしている。
……こうして、ここで肌寒さに耐えながら雨が止むのを待つのも規定事項って奴なのか?
雲のせいでやけに低く見える暗い空は、俺の問いかけに答える事もなく、ただ延々と雨を降らせるだけだった。
笹の葉アントラクト
七月七日、晴れ――のち雨。
七夕当日であるその日、放課後に朝比奈さんの依頼によって俺は三年前の七夕にタイムトラベルにお付き合いした。
そこでお会いした大きな朝比奈さんのお願いにより、中学校時代のハルヒの軽犯罪行為の片棒を担ぎ、朝比奈さんがTPDDってのを紛失してしまった事により、俺達は過去の世界に取り残されてしまったそうだ。
うむ。数時間前の自分が聞けば、精神病患者のご機嫌な妄想だとしか思わないであろうこの現実を前に……何故か、俺には緊迫感が無かった。
それは長門が託してくれた小さな栞がポケットの中にあったからでもあり、こんな非常識な状況に俺が抵抗した所で何の意味もないって事が、解りすぎるくらいに解っていたからかもしれないな。
この時代で唯一頼れる相手であろう長門のマンションへと向かう途中、急に降りだした雨のせいで俺達は道沿いに見付けた公園で立ち往生させられている。
傘も無く走るには長門のマンションまで多少距離がありすぎるし、万が一長門が不在だった場合はびしょ濡れになるだけというのも笑えない。
まあ俺一人ならそれでもいいのかもしれんが、万一この愛らしい天使様に風邪でも引かれてしまったら一大事だ。
やれやれ……こうして俺が止まない雨を眺めている間、この時代の俺はいったい何をしていたんだろうか?
まったく何も思い出せないんだが……まあ、たいした事はしていないのだけは間違いないな。
「今から三年前の自分が何をしていたか?」何て事を聞かれて、それをさらりと答えられる様な知り合いは、俺には長門くらいしかいない。
宇宙人に創られた、有機ヒューマノイドインターフェース。
何だかんだで月に一度は頼らせてもらっている気がする最後の希望。
頼むぜ長門、あの部屋に居てくれよ? でなけりゃ正直アウトなんだ。
というか、屋根だけで壁の無い公園の休憩所では雨は凌げても夜風は凌げない以上、もしこのまま雨が止まなかったら結局アウトの様な気も――「くしゅん!」
――今のって。
俺のすぐ隣に座り、両腕を抱える朝比奈さんの体は小さく震えていて、自分が今夏制服しか着ていない事を俺は悔やんだ。
どうやら、俺の心配は今そこにある危機だったらしい。
「朝比奈さん大丈夫ですか?」
「は、はい。だいじょ……くしゅっ!」
ダメみたいですね。
確かに夜風は雨の湿気を帯びていて冷たく、かといって暗い公園の中にはここより寒さを凌ぐ事が出来そうな場所も見つからない。
どうする? こうなったらシャツを脱ぐか? それとも朝比奈さんを置いて傘を買いに走るか?
本気でこの近くにコンビニが無かったかを考え始めた俺の二の腕に、そっと冷たい手が添えられた。
その手の先にあるのは、当たり前だが朝比奈さんな訳で。
「……あ、あの。朝比奈さん?」
「…………」
驚く俺へと向けられた朝比奈さんの切なげな視線。
なんだこの意思表示は? ……もしや、雪山で遭難した時に暖を取る為の緊急避難というか役得というかあれをご希望なのでしょうか?
じっと俺を見つめたままの朝比奈さんは、何かを躊躇う様にその小さな口を開きかねている。
あ、でもここは殆ど人通りは無いですが屋外ですし……いえ、俺は構いませんよ? 全然。むしろ自然でいいという考え方の人もいるくらいです。未来ではどうかわかりませんが、遥かに昔は基本は屋外だった歴史も、時には顧みるのもいいかもしれませんね!
脳内で駆け巡る妄想を抑え込みつつ、俺は朝比奈さんの続く言葉を待った。
「……キョンくん」
はい。
――息を飲んだ音が聞かれてなければいいんだが。
「あの……。後ろから……えっと」
へ? あ、はい?!
いきなりそれは……えっと、嫌とかじゃ全然ないんですが俺としては最初は顔が見えていた方がいいなんて、その。
周囲の気温を無視して不自然に上昇を始める俺の体温と興奮は、
「後ろから……ぎゅってしてもらってもいいでしょうか?」
やはりというか、ただの暴走だった。
……欲望をもてあましすぎだろ、俺。
「じゃあ……失礼します」
「どうぞ」
なるべく意識しないようにと視線を遠くに向けたままでいると、おずおずと朝比奈さんが俺の太ももの上に座り、
「お、重くないですか? ごめんなさい、重いですよね!?」
「いえ、全然軽いです」
本当です。全力で太ももに神経を集中してますが、むしろ重みが足りません。
やがてその小さな背中がそっと俺の胸へと倒れこんできて
「わっ! ……キョンくんの体って凄く暖かいんですね……。びっくりしました」
振り向いた彼女の驚く顔に、俺はただ照れ笑いを浮かべるだけだった。
彼女の冷え切った背中に俺の無駄に高まった体温が伝わっていく――熱交換って、こんなに幸せな現象だったんだな。
この場合、複数枚の衣服が肌と肌の間を阻んでいるという事実は瑣末な問題に過ぎない。
その辺をうまく曖昧にして脳内に補完するなんてのは、実に容易い事だ。
自分の置かれた環境が変われば、今まで自分が見ていた物が違って見えてくるってのはこの事なんだろう。
相変わらず止まない雨も、吹き付ける冷えた夜風も、今の俺にはむしろこの状況を持続させる事が出来る好意的なシチュエーションに過ぎない。
よーしいいぞ梅雨前線、夜だからって手を抜くなよ? 朝比奈さんと過去の世界で二人っきりなんて状況は二度と訪れないだろうからな。さっき書かされた校庭の落書きが流されるかもしれんが、俺は一向に構わん。
やがて、俺と朝比奈さんの接している場所の体温が平均化されてきた頃――
「あの……キョンくん。この雨が止んだら、長門さんのマンションに行くんですよね?」
はい、そのつもりです。
あいつが居てくれさえすれば、大体の事は何とかなる。と、思いたいです。
「でもこの時代の長門さんは、まだわたし達の事を知らないんじゃ……」
「俺も、そうだとは思うんですが」
事情を説明する為、俺は部室で長門から渡されていた短冊をポケットの中から取りだした。
「それって?」
「朝比奈さんとこの三年前の世界に来る少し前に、長門が部室でくれたんです。ほら、ここ。謎の記号というか絵みたいなのが描いてあるのが見えますか」
「はい……これ、何でしょう」
まあ、俺も意味はさっぱりなんですが……。
「これ、さっきこの時代のハルヒに描かされた絵と同じ絵が描いてあるみたいなんです。いくらなんでも偶然同じ絵って事も無いでしょうし、多分これは長門なりのメッセージか何かだと思います」
「も、もしかして長門さんはこうなる事も知っていたんでしょうか」
それは……
「無いとは言えないですね、相手が長門だけに」
何となく会話が途切れ、星の見えない夜空を見上げていると―― 同じ様に空を見上げていた朝比奈さんが
「……あの、キョン君。催涙雨(さいるいう)って……知ってますか?」
何も見えない夜空を見上げたまま、そう聞いてきた。
「なんです? その、催涙雨って」
「この前、学校で習ったんです。七夕の日に降る雨は、天の川で再会を果たせなかった彦星と織姫が流す涙だって言われてて、その雨を催涙雨って言うんだって」
再会を果たせないって、そんな事があるんですか?
天気はどうあれ、毎年会ってるカップルってイメージだったんですが。
「それは、どちらかが忙しかったのかもしれないし……もしかしたら、心変わりしてしまったのかもしれないって」
「……何て言うか、その。ずいぶん現実的な解釈ですね」
未来人的には普通な発想だったりするのかもしれませんが、その解釈は朝比奈さんにはあまり似合わない……なんてのは、俺はあなたに対してイメージを作り過ぎているんでしょうか。
「……あのね? わたし、少しだけ……解る気がするんです」
何がです?
「えっと…………ごめんなさい、なんでもないです」
この時、朝比奈さんが飲み込んだ言葉はいったいなんだったのか……俺には解らなかった。
ただ、この憂鬱な黒い空を見上げている朝比奈さんの横顔は寂しげで、そんな彼女の俺が出来る事なんて限られている訳で、
「……この雨が織姫か彦星の涙だったとして……でも、もしかしたら別の意味の涙かもしれませんよ」
「え」
振り向いた朝比奈さんの顔には、可愛らしい疑問符が浮いている。
「だってほら、こうして雲が空を覆って雨が降れば……二人の姿は、誰にも見られる事が無いから、一年に一度の再会を誰にも邪魔されずに二人っきりで過ごせる事に喜んでいて、えっとつまり、二人の嬉し涙だって可能性もあるでしょう?」
なんて、そんなご都合主義じゃ駄目ですか、ね。
思いつくままに喋る俺を見て、朝比奈さんは優しく微笑み。
「うん、そうですよね……キョンくん、ありがとう」
どうやら、朝比奈さんを元気づけようという俺の意図は、あっさり見抜かれていたらしい。
やれやれ……やっぱり俺にはこういう役回りは似合わないよなぁ……。
くすくすと笑うたびに彼女の長い髪が胸元をくすぐり、そのむず痒さに思わず顔が綻ぶ。
――道化と化した俺を見て笑うつもりなのか知らないが、強い風が吹くのに合わせて夜空の雲の隙間から月の顔が見えてきたのはその時の事だった。
おしまい、か。
ようやく雨も終わりを迎えたらしく、こうして夜の公園のベンチに二人で座っている理由も無くなってしまった。
それが少し寂しい様な気も……なんて、元の時代へ戻れるかどうか解らないって時に、少し呑気すぎやしないか? 俺。
やがて、残念ながら俺の膝から立ち上がってしまった朝比奈さんは、まだベンチに座っている俺へと振り向き、雲間から差し込む薄明かりの下で優しく微笑んでくれている。
「じゃあ、いきましょうか」
彼女に続き、俺はベンチから立ち上がった。
「………………はい」
朝比奈さんが今、何かを躊躇いながら頷いていた様な――お、どうやら彦星と織姫は無事再会できていたらしいな。
「わぁ……綺麗……」
まるで幕が引くように雲は流れていき、七夕の夜空はそれまでずっと隠していた満天の星空を俺と朝比奈さんに見せてくれた。
眩い程の星の海の中、この光のどこかにベガとアルタイルがあるんだろう。
そいつを探してみようかとも思ったが……今日はやめておこう、どうせ見つけられっこないんだし――馬に蹴られたくはない。
さて、あの寡黙な織姫様が御在宅だろうかね?
夜空に煌めく天の川に見守られながら、まだ雨露の滴る音が響く夜の公園を、俺と朝比奈さんは歩いていった。
笹の葉アントラクト 〆
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