春 Rainy season
六月――
久しぶりに顔を見せた親戚の様に自分の帰り時がわからないのか、延々と居座る梅雨前線のおかげで、ここ数週間もの間俺は気持ちのいい青空って奴を拝んでいない。
登校途中、時折追い抜いていく教師達の車が跳ねる雨水を避けるのにも慣れ、社会か何かの時間で教師が言った「日本は1年間の約4割が雨季に該当する」ってのも嫌々ながらも納得せざるをえない日常だ。
「ったくそれにしてもよく降るよな……こんなに雨が続いたら、頭の中にカビが生えちまうぜ」
隣を歩く谷口も、やはり一応は人間に分類されるらしく梅雨時となると多少は大人しい。
色で言えば限りなく黒に近い灰色の空をだるそうな目で見上げ、似合わない溜息なんてついてやがる。
本当……いつになったら止むんだろうな、この雨。
誰しも多少は憂鬱になり、普段と違って見える事もある――そんな、雨の日の事である。
Rainy season
放課後、俺が部室の木製の扉をノックして数秒後、
「はぁーい」
梅雨の重い空気を掻き消すような天使的な声がドア越しに聞こえてきて、俺の中の陰鬱とした感情はその瞬間に霧散した。
部室の中に居たのは声の主であるどちらかと言えば天使の朝比奈さん、それと
「……」
想像通りというか何と言うか、むしろその場所に居なければ不安になるのではと思うくらい普段と同じ窓際で読書を続ける長門。
この二人だけだった。
「あれ、ハルヒと古泉はまだですか」
ハルヒはともかく、古泉が居ないってのは珍しいな。
「あの……古泉君は、えっと」
朝比奈さんがお盆を胸に言葉を選んでいるって事はつまり……閉鎖空間か。
ま、解る気もするけどな。
ここ暫くの間、SOS団の活動でハルヒ的評価基準で言えばまともな成果が出た事はない。
それは普段と同じ結果と言えなくも無いのだが、同じ成果無しでも悪天候の中という条件を踏まえて考えれば、よりあいつの機嫌を損ねているのだろう。
大丈夫です、解りました。
そんなニュアンスを篭めて両手を挙げて首を横に振ってみせると、
「ごめんなさい。お茶、淹れますね」
朝比奈さんは申し訳なさそうに笑って、茶器棚の方へとぱたぱたと歩いていった。
閉鎖空間……か。古泉には悪いが、今回ばかりは何もできそうにないな。
椅子に座り、やかんに向かって真剣な眼差しを向ける朝比奈さんのお顔を眺めながら、俺は小さく息をつく。
ハルヒの面倒に巻き込まれてやるくらいは俺にもできなくはない、というか逃げ道が見つからないのだが、 何せ今度の相手は大自然だ。
長門ですら天気を変えるのは躊躇ってたんだし、ここはやはり古泉に耐えてもらうしかないんだろうな。
窓を伝って流れる雨を見ながら、今度テーブルゲームで勝負する時は多少は手加減してやろうか、等と考えている内に
「おまたせしました~」
明るい声と共に朝比奈さんのお茶が到着し、俺は何処かで奮闘中であろう不幸な超能力者の事を綺麗に忘れた。
いつもありがとう御座います。
――暖かい湯のみを受け取り、感謝の意を表しながら朝比奈さんのお茶を頂こうとしていた時、ドアノブが回された音が湿度の高い部室に響いた。
続いて静かに扉が開けられる音。
あれ、古泉が来たのか?
そう思いながら入口へと視線を向けて見ると、
「……何よ」
そこには全力で不満そうな顔のハルヒが立って居た。
自分に向けられた視線はそのまま敵意と見なす、そんな感じの威圧するようなハルヒの目に睨まれ
「いや、別に」
俺は視線を前に戻し、お茶を飲む作業に戻った。
……大人しく部室に入ってくるから古泉かと思えばハルヒとはね……それにしても、古泉がバイトに忙しいだけあってかなり機嫌が悪いらしいな。
団長椅子に座ったハルヒは、朝比奈さんのお茶も無言で受け取って今はPCのモニターに何やら好戦的な視線を向けている。
しかし、モニターに意思がある訳は無く、もしあったとしても長門くらいしか理解できない訳で、ハルヒは次の敵を求めて部室の中を見回していった。
おいおい、頼むからここで暴れるなよ? 暴れるなら外で一人でやってくれ。
ハルヒの視線が俺、朝比奈さんと続き、最後に窓際で沈黙を守っていた長門に止まった。
延々と読書をする長門の姿をじっと見ていたハルヒの視線から――不意に不機嫌さが消える。
おい、何を思いつきやがった?
確信にも似た不安が俺の胃を圧迫した直後
「ねえ有希、髪の毛が跳ねちゃってるわよ」
ハルヒは長門の後頭部を指差し、意外にもそんなごく普通の女子高生みたいな事を言い出して……思わず腰を浮かしていた俺は、再びパイプ椅子へと自重を預けていた。
長門はハルヒの指摘を受け、数回瞬きをした後自分の後頭部へと手を当てている。
「そのまま本を読んでていいわよ、あたしが直してあげるから」
胸のポケットからコームを取り出しつつ、ハルヒは立ち上がり――
「……有希の髪って本当に綺麗よね」
椅子に座っている長門の後ろに立ち、ゆっくりと髪を梳いているハルヒ。
そんな二人の様子を、俺と朝比奈さんはのんびりと眺めていた。
ハルヒにされるがままになっている長門は、普段通りの様子で読書を続けている。
なるほど、以前ハルヒが朝比奈さんの髪で遊んでいるのを見て、古泉が言った感想は今こそ言うべき言葉だろう。
こうして窓際に並ぶ二人はまるで――
「姉妹みたいですね。涼宮さんと長門さん」
俺の向かいに座った朝比奈さんは、穏やかな笑みを浮かべてそう言った。
肯いて答える俺に、嬉しそうに微笑む朝比奈さん。
……こんな平和な放課後を過ごしたのは、さて何時以来だった
「おしまい! さ、次はキョンね」
もう終わりなのかよ。
っていうか、その前に。
「……何で俺なんだ」
誤解の無い様に言っておくが、別に朝比奈さんをいじればいいって意味じゃないぞ? ただ、ハルヒが何故俺を指名したのかが気になっただけだ。
何となく身の危険を感じながらそう聞いてみると、
「あのね、あたしだってあんたの頭なんか触りたくもないわよ。でもね、そんなぼっさぼさの頭で校内をうろつかれたらSOS団の恥だわ!」
そうかい。
人様に迷惑を掛けるような事はしてないと思うんだがな、少なくともお前よりは。
否定する様にコームを左右に振りつつ、ハルヒは近づいてくる。
「だーかーら。この団長であるあたしが直々に髪を直してあげるって言ってるの。大いに喜びなさい?」
へいへい。
妙にご機嫌で俺の後ろに歩いてきたハルヒは、
「で、どれくらい切る?」
いきなり怖い事を言い出した。
「直すだけじゃないのかよ?!」
「バカねー冗談よ、冗談。さ、すぐに済むからじっとしてなさい?」
楽しそうに後頭部から俺の髪にコームを入れ――いってぇ!!!
脊髄反射で俺が立ち上がったのは間違いなく痛みの為で、目には刻の涙が浮かんでいた。
「な、何よ」
思わずコームから手を離したハルヒだったが、コームは床に落ちずに髪に差さったままらしく頭部に違和感が残っている。
「無理やり梳かすな! 髪が抜けるかと思っただろ!」
っていうか、実際に何本か抜けた感覚があった。
「あんたの髪が雀の巣みたいになってるのがいけないの。ほら、座んなさい」
「断固断わるっ!」
この歳で髪の悩みは持ちたくないからな。
「あ、あの、涼宮さん。キョン君は髪の量が多そうだし、ちょっとくせっ毛ですからコームとかじゃ無理だと思います」
そう言って朝比奈さんが慌てて差し出してきたブラシを見て、
「ん~……でも、これっていつもみくるちゃんの髪を梳くのに使ってるブラシだから、キョン
なんかの頭に使うのは気が引けるのよね」
ブラシを手に、ハルヒは無駄に真剣な顔で悩んでいる。
何を迷う必要がある? お前が俺の髪を梳くのを諦めればいいだけだろ。
そんな俺の思考を受信したのか知らないが、
「あ、じゃあみくるちゃんにしましょう」
髪にコームを差したままの俺を残し、ハルヒは朝比奈さんの元へと楽しそうに歩いて行くのだった。
「え?! あ。……はい」
逃げても無駄だと思ったのか、もしかして……俺を助ける為なのか。朝比奈さんは大人しく肯き、ハルヒの促されるまま椅子に座ってじっと身を固めている。
そんな朝比奈さんの後ろに立ち、
「……ん~いい匂い。やっぱり触るならみくるちゃんの髪よね~」
髪に顔を寄せてご満悦なハルヒの意見に何一つ異論は無い。
できるならそのブラシになりたいくらいだ。
「じゃあいくわね~」
鼻歌混じりにハルヒの手が朝比奈さんの髪を梳き始め――朝比奈さんが少しでも苦痛の表情を浮かべ様ものなら止めに入るつもりだったのだが、どうやら杞憂ですんだくれたようだ。
ほっとして椅子に座りなおした時、ふと視線を感じて振り向いた先にあった、無感情な顔
「長門」
いつの間にかそこに居た長門は、俺に名前を呼ばれた後ゆっくりと手を伸ばしてきて――俺
の髪に差さったままだったコームを抜き取ってくれた。
おお、ありがとう――ん?
そして、対面で朝比奈さんの後ろに立つハルヒの動きを真似て手を動かし始める。
「あ、有希もやってみたいの? そうね、キョンの頭ならどうなっちゃってもいいから実験台
だと思って好きにやんなさい」
勝手に請け負うな。
……ともあれ、長門がこうして自発的に行動を起こすってのは殆ど始めての事だし、多少の興味もあって俺はそこから逃げようとはしなかった。
片手を頭に触れる程度に添えて、ゆるゆると俺の髪にコームが当てられると、僅かに沈んで下方向へと流れていく。
……多分、長門は始めての経験だろうし、俺としては少しくらい痛くても我慢するつもりだったんだが――意外な事に、長門に髪を梳いてもらう間、俺は一度も痛みを感じなかった。
それは何故かと言えば、
「……ちょっと有希、そんなにのんびりしてたら日が暮れるわよ?」
そうハルヒが言う様に、長門はほんの少しずつ髪を梳いてくれた為、朝比奈さんの髪型が三度も入れ替わっても、まだ俺の髪は梳かし終わらなかった。
ま……いいけどな。
こうして長門に髪を梳いてもらうってのは、正直悪い気分じゃない。
動かないようにと側頭部に添えられた左手と、ゆるゆると動くコームを持った右手。そして、時折触れる長門の身体……っていうかこれは、その。多分、あれだよな。
これって指摘していいのか? それとも黙っていた方がいいのだろうか?
そんな俺の気持ちに気づいたのか、対面でハルヒに髪で遊ばれている朝比奈さんはくすぐったそうに笑っていた。
数十分後――
「終了」
長門はそう宣言し、俺の髪から手を離した。
「どれどれ? へ~……やっと綺麗になったじゃない」
そうハルヒが言うだけはあって、スタンドミラーで確認した俺の髪型はそれなりに見えなくもない状態になっている様に思える。
驚いたな……正直、梅雨時は髪を直すのを諦めてたってのに。
「長門、俺って結構髪のくせが強いから大変だっただろ」
すでに自分の定位置に戻ろうとしていた長門は、俺の言葉に足を止めて首を左右に振る。
「キョン。有希があんたなんかの為に一生懸命やってくれたんだから、ちゃんとお礼をいいなさいよ?」
言われるまでも無い、わざわざあの長門が俺の為にやってくれたんだもんな。
「長門。ありがとうな」
そう俺が感謝を伝えると、長門は視線を下に落としたまま一言。
「いい」
そう呟いて定位置となっている窓際へと戻っていくのだった。
……やれやれ、また寡黙な少女に逆戻りか。
結局、どうして長門が俺の髪を梳いてくれたのかは解らないが……まあ、一般人には理解出来ないだけで、長門なりに何か理由があったのだろう。
梅雨が人の精神に色んな影響を与えるように、この読書好きな宇宙人にも何かしらの変化があった――そうだな、そう考えればこの憂鬱な空もそれ程悪くはないのかもしれない。
窓の外に降り続く雨に苦笑いを浮かべつつ、俺は長門が直してくれた髪を撫でながら自分の席へと戻った。
Rainy season 〆
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