冬 ティンクルスター
日本語には、複雑な感情という表現方法がある。
それは、喜怒哀楽の様にはっきりと区別できない感情の時に使う事もあれば、あまりに多くの要因の前に自分の感情を明確にできない場合も含まれるのだろう。
今の俺に当てはめて言えば、それは後者にあたる。
「ごめんなさい……お、重いですよね? 絶対重いですよね?」
背後からでありながら上方から聞こえる――客観的に言えば、四つん這い状態の俺の背中に座っている朝比奈さんの申し訳なさそうな声に
「いえ、全然軽いですよ?」
俺は首を横に振って答えたのだが、真っ赤な衣装に身を包んだ朝比奈さんは、申し訳なさそうな顔でこちらを見ている。
ちなみに、朝比奈さんは本当に軽かった。
「ちょっとキョン、何でトナカイが人の言葉を喋ってんのよ。ここではトナカイの言葉で喋りなさい。舞台裏だからって手を抜かないの」
無意味なプロ意識を強要してくる我らが団長様も、何処で買い足してきたのか今日は朝比奈さんとお揃いでサンタ姿だ。
「それにみくるちゃんも! 今日は何も喋っちゃ駄目って言ったでしょ?」
「は……はいぃ」
好き勝手言ってくれるハルヒの顔色を伺いつつも、朝比奈さんは俺の背中にかかる自分の重みを気にしていらっしゃるらしい。
何故ハルヒが俺をトナカイ等と呼び、朝比奈さんが俺の上に座っていて喋ってはいけないのか?
――まあ、それはもうすぐわかるだろうよ。わかりたくもないが。
「ではここで、本日の特別ゲストをご紹介したいと思います! みなさん、拍手を持ってお迎えください!」
スピーカーから響く無駄に饒舌な古泉の声は舞台裏までしっかりと届き、俺はそれに溜息をもって答えるしかなかった。
何でこんな事やってんだろうな……とテンションを下げる俺に対して、
「いよいよ出番ね! さあキョン、きりきり歩きなさい!」
ハルヒから無慈悲な命令が飛んだ。
……へいへい。
「キョン君、本当にごめんなさい……」
朝比奈さん、そんな悲しそうな顔をしないでください……正直なところを言えば、貴女の重みを感じるのは苦痛だけではなかったりしますし。
俺は渋々と前足……右手を、前へと動かした。
最初、舞台袖から顔を出した俺の姿を見て、期待に満ちていた観客のテンションが面白いように下がっていくのがわかった。
そりゃあそうだよな、トナカイの着ぐるみを着た男子高校生の登場如きで最近の子供が喜ぶはずも無い。 未就学児でも半笑いだろう。
「……ちょっとキョン! 早く行きなさいよ?」
わかったから、尻を蹴るな。
俺は後ろでせっつくハルヒを意識しながら、膝に痛みを与える板間の上をゆっくりと這って進み、
「…………わーーーー!?! サンタさんだーーーー!!!!」
割れんばかりの歓声と拍手。
ステージ裏から姿を見せたサンタコスの朝比奈さんの前に、会場のテンションは一気に最高潮を向かえた。
子供達の歓声を前に、朝比奈さんは笑顔で手を振って返している。
そんな朝比奈さんを乗せた俺はトナカイなりに何となく誇らしい気持ちでいたんだが、そんな時に限って会場で司会をしていた古泉と目があってしまう。
何だよ……ん、ブロックサインか。えっと、お……に……あ……い……で……す?
角で刺すぞ。
半眼で睨む俺に無駄な笑顔で答えつつ、
「今日は大変お忙しい中をお願いして、サンタさんに来て頂きました! みなさん、もう一度盛大な拍手をお願いします!」
古泉の言葉で再び起こった拍手の中に、今度は歓声とは違う言葉が混ざっていた。
「DS頂戴ー!」
「プレステが欲しいー!」
「携帯! 携帯!」
「キョン君トナカイだー!」
口々に自分が欲しいプレゼントを叫び続ける子供達、気持ちはわからんでもないが顔が本気だ……あと、何か聞きなれた声が混ざっていた様な気がする、気のせいだと思いたい。
どうしていいかわからずあわあわと手を振る朝比奈さん(サンタ)の隣に、赤いサンタ帽子だけを被ったハルヒが立った。っていうか俺の顔の前に立つな。
「ごめんねみんなー! サンタさんは日本人じゃないから日本語はわからないの! だから、みんなが欲しい物はお父さんかお母さんに伝えてね! そしたら、お父さんやお母さんはサンタさんが読める字で手紙を書いてくれるわよ! わかった?」
なるほど、一応筋は通ってるしうまいこと言うもんだ。 朝比奈さんがいつぞやのカラーコンタクトを付けているのも、喋らないように厳命してたのもその為か。
説得に納得したらしい子供達の「はーい」の連呼が終わるのを見て、再びハルヒは口を開く。
「今日はなんと今年一年いい子にしてたみんなに特別サービスがあるの! お願いとは別に、もう一つプレゼントをくれるんだって! さーみんなサンタさんの前に並んで並んで!」
火に油。いや、この場合は油に火だろうか。
ハルヒの言葉を聞いた子供達は、我先にと舞台の上へと上がって来る。
それを見た朝比奈さんが立ち上がろうとすると、
「だ~め、サンタさんはそのままトナカイの上に座ってて! 子供とは目線を合わせて接するのは大事なんだから!」
一瞬軽くなった俺の背中に再び朝比奈さんのお尻が圧し掛かった。
……こらえろ俺、ここでにやけでもしたら一生ハルヒに馬鹿にされるぞ?
背中に感じる柔らかで豊かな感触と戦っていた俺の隣に、白い大きな(本当に洒落にならないサイズ)の袋を担いだサンタ帽子の長門がやってきて
「さあサンタさん! お願いします!」
ハルヒの声に笑顔で返しつつ、朝比奈さん(サンタ)は長門が袋から取り出したプレゼントを子供達へと配っていくのだった。
って。俺は最後まで四つん這いのままなのかよ? ……と苦情を言いたい所だが今日は我慢しようか。
「ありがとうー!」
「サンタさん可愛い~」
「来年も来てね!」
プレゼントが手渡されるたびに響く、子供達の感謝の言葉。
そしてそれを聞く朝比奈さん(サンタ)の零れそうな笑顔。
……ひねくれちまった俺だが、今日だけはサンタの存在を信じざるをえないね。
やたらと寒いだけで雪が降る気配は感じられない無い十二月二十五日、子供に夢を与えるサンタは確かにそこに居たんだ。
その日の夜――
「あれ? キョン君もう寝ちゃうの?」
ああ、サンタによろしく言っておいてくれ。
コーラにピザにアニメ映画という完全武装でサンタを待ち伏せている妹にそう言い残し、俺はリビングを後にした。
ハルヒ立案による子供会へのゲスト参加も無事に終わり、慣れない運動に疲れきっていた俺の体は、空想上の赤福じーさんとの出会いよりもベットを求めている。
心地よい疲労って言えば聞こえはいいが、どんな形容詞を付けたとしても疲労は疲労な訳で、この体は何よりも睡眠を求めている……はずなんだが、今の俺の中には休息とは違う欲求を叫んでいる奴が居た。
それは背中に感じられていた朝比奈さんとの接点の感触によって大いに刺激された……まあ、あれだ。三大欲求の中の食欲と睡眠欲以外のもう一つだ。わからなくていいからそっとしておいてくれ。
子供には可愛い天使にしか見えていないであろう朝比奈さんのサンタコスだが、健全な男子高校生である俺には取扱いに注意が必要な刺激物でもある。
目を閉じた俺の脳裏に浮かぶのは、狙って買ったとしか思えないぎりぎりのミニスカートに身を包んだ朝比奈さんのお姿で……ええい! さっさと寝ろよ俺!
必死に煩悩を振り払いながら眠ろうとしていたせいなのか知らないが――その夜、俺は変な夢を見たんだ。
それは、できるならもう一度見たくなるような夢でもあった。
……部屋の扉が閉められる僅かな音、疲れきって眠っていたはずの俺は、何故かその小さな音で目が醒めてしまった。
薄目を開けてみると、どうやら部屋の入り口の辺りに誰かが立って居るらしい。
といっても、カーテンの隙間から入る明かりだけしかない室内では、それが誰かなのかまではわからない。
妹がサンタの捜索に来た……わけでは無いらしいな。あいつなら俺が寝ているかなんて気にはしないだろうし。その人影はベットで寝ている俺の様子を伺いつつ、恐る恐ると近寄ってきて――いまいち危機感も現実感もわかない状況にぼんやりとしていた俺だったんだが……侵入者の顔がわかった瞬間、これが夢なのだと確信した。
何故なら、そこに居たのはサンタコスに身を包んだ朝比奈さんだったんだよ。
いくら未来人という特殊な背景を持っているとはいえ、朝比奈さんが深夜に俺の部屋に忍び込む理由なんてあるか? しかもコスプレ姿で。
ベットの傍に屈んだ朝比奈さんは、俺の顔をまじまじと確認している。
……ここは寝たふりをしておこうか。
夢の世界で思い通りに動けた事はないが、せめて少しでも長くこの夢が続く様にと俺はじっと動きを止めていた。
しばらくの間俺を見つめていた朝比奈さんだったが、やがて小さく息をついてから俺の枕の辺りで何かを探し始めた。
……何を探しているんだろう?
ベットの上には俺と枕と布団しかないのを見て朝比奈さんは少し困っていたようだったが、やがて諦めたようにベットから離れて、俺の机の上に何か四角い物を置いて……ああ、なるほどな。
シルエットでしかわからないが、どうやら机の上に置かれたのはリボンのついた箱の様だ。
俺の深層心理って奴はサンタに来て欲しかったのか。
確かに今日はクリスマスなんだし、早々とサンタの存在を否定していた俺だって少しは期待してしまう日だもんな。
……だが、正直今の俺が欲しかったのはプレゼントではなく朝比奈さんの方で間違いない。クリスマスに限らず毎日そう思ってるのも間違いない。
そんな俺の欲求が夢に影響したんだろうか?
部屋を出て行こうとしていた朝比奈さんの足が止まり、ベットに寝ている俺を顔をじっと見ている。
俺は目を伏せた振りをして、そんな朝比奈さんの様子を薄目で固定したままじっと見つめていた。
やがて、ゆっくりとベットに近寄ってきた朝比奈さんは、そのままベットの上に腰掛けてきた。朝比奈さんの自重にベットが小さく軋み、その音が消えてから彼女は少しずつ俺の顔の方へと近づいてくる。
朝比奈さんの髪が俺の頬に当たる、それはくすぐったくもあり……あまりに魅惑的な匂いに、俺はこれから起きるかも知れない展開に期待していた。
頼む、ここで目が覚めてくれるなよ? 麻酔銃をお持ちのお子様が居たら、迷わず俺に撃ち込んでくれ。
「……」
本当に俺が寝ているのか確認しているのだろうか、彼女の吐息が感じられる程近くに朝比奈さんの顔がある。
このままじっとしていればもしかして……? と思う俺の気持ちと、どうせ夢なんだから思うが侭に動いてしまえよ! という気持ちが揺れ動く中、俺の頬の辺りに朝比奈さんの指が伸びてきて――
「あっ」
一点に掛かった負荷に反発しきれなかったのか、それともシーツの座面抵抗がいい仕事をしたのか。朝比奈さんの身体を支えていた腕は支えを失ってしまったらしく、そのお体は重力に従って俺の上に落ちてきて……思わず目を開いてしまった俺が見たのは、俺に抱きついている朝比奈さんの顔だった。
深遠を覗く時、深遠もまたこちらを覗いているわけで、朝比奈さんの顔を見つめている俺の顔を、朝比奈さんもまた見つめている。
どうしていいのかわからないのだろうか。朝比奈さんは視線を重ねたまま、離れようとしないでいる。
呼吸すら感じられる位置にある天使の顔と、押し当てられてその大きさと柔らかさを主張している二つの感触に勝てる男など居るのだろうか? 居たとしても今の俺には関係ないのでどうでもいい。
自分でも気づかないまま俺の手は朝比奈さんの背中に回っていて、より強く押し当てられた朝比奈さんの体が、その柔らかさを俺に伝えてきて……。
逃げられないと思ったのだろうか、朝比奈さんの顔に脅えた表情が浮かんだのが見えた時――俺の中で動き始めていた欲望が、まるで雪だるまに熱湯を注いだみたいにあっさりと消えていくのがわかった。
基本的人権には思想の自由って物がある以上、夢の中くらいは好き勝手に振舞ってもいい。ハルヒも規模は違えど同じような事をやってるらしいしな。
それでも、だ。何ていうか……無理、としか言いようがない。
朝比奈さんの小さな背中に回していた手を離しながら、俺はこれが夢だとわかっていたんだが自分の気持ちを口にしていた。
「正直に言えば……まあ、色々したいんです」
本当。朝比奈さんは魅力的ですから。
今こうやって言葉にしている最中も、惜しいという気持ちが凄いのも本当です。
「でも、たとえ夢の中だとしても、朝比奈さんに酷い事はできないですよ」
自由になっても、朝比奈さんはそのまま俺の上から離れようとしないでいる。大きな瞳が間近で俺を見つめていて、ただそれだけだ。
さて、これはどんな深層心理が見せている夢なんだろうな。
単純に意気地なしとでも言いたいのであれば、そんな事は分かっているとしか言いようが無い。だとしても、だ。それでもしたくない事はしたくなくて、それでもしたい事があって、何だやっぱりしたいんじゃねーかと言われれば深層心理ならそれくらい把握しておけと言いたい。
我ながら意味不明なロジックの繰り返しではあるが、とりあえず理性の継続には役にたってくれている。でも、あんまり長持ちしそうにないので、そろそろ離れていただけると嬉しくて悲しいです。
そんな思いが通じたのか通じなかったのか、朝比奈さんの口がそっと開いて
「キョン君――――
「朝だよーーー!!」
極上の柔らかさと共に感じられていた魅惑の体重は、その瞬間打撃に近い衝撃に変わった。
……眩い光と共に視界に入ったのは、俺の腹の上ではしゃぐ妹の姿。
いつの間にか朝になっていたらしい俺の部屋を見回してみたが、愛らしいサンタさんの姿はどこにも見つかってはくれなかった。
「ねぇねぇキョン君! 見て見て! サンタさんがくれたの! プレゼント!」
カラフルな四角い箱を両手にはしゃぐ妹を押しのけ、俺は淡い期待を持って机の上も確認してみたんだが……そうだよな、机の上には何も置かれていなかったよ。
翌日、休日だというのに部室に呼び出されていた俺が部室のドアを開けると、
「さっさと出しなさい!」
意味不明な言葉と共に、俺の襟首はハルヒの手によって掴まれていた。
「いきなり何しやがる? それに何の話だ? っていうか何でお前はそんなにご機嫌なんだ?」
とっている行動とは裏腹に、ハルヒの顔は意味不明な程に輝いていやがる。
「下手に隠すと酷い眼にあうわよ? ほら、さっさと出しなさいよ!」
なあ、せめて一つくらいは質問に答えようぜ?
おい古泉、代わりに説明しろ。
既に部室に来ていた超能力者は無駄に嬉しそうに頷くと
「昨日の夜の事です。子供会の行事を終えて部屋に戻ったところ急に眠気がさしてきまして、気がついた時にはもう朝でした。そして、テーブルの上にはこれが置いてあったんです」
そう言って古泉が取り出したのは、小さなプレゼントの箱だった。
なるほど、優しい親御さんだな。 大切にしろよ?
高校生相手に、まだサンタの存在を信じさせてやろうなんて涙物だぜ。
「そうですね、と言いたい所ですが……僕の部屋の鍵は朝起きた時、中からかかったままだったんですよ」
……おい、また何か企んでるのか?
古泉の言葉を欠片も信用せずに俺が疑ったのも無理はないだろう、孤島での前科があったからな。だが、
「私の状況も彼のケースに酷似している」
窓際の席に座った長門がプレゼントの箱を取り出した時、それはに疑問に変わった。 長門が嘘をつくという可能性とサンタが存在する可能性、どちらの可能性が高いかと言われると、正直迷う。
長門に続くように朝比奈さんも控えめにプレゼントの箱を見せてくれ、更に――
「ほらこれ見なさいよ! これ!」
近い! 見えん! 痛い!
プレゼントの箱らしい物を俺の顔に直接押し付けてくるハルヒによれば、やはり他の二人同様、朝起きてみると差出人不明のプレゼントがあったらしい。
……まあ朝比奈さんはともかくとして、だ。ハルヒや古泉、何より長門に気づかれずにそんな事をできる奴がこの世に居るとしたら……それは……まさか
「サンタよサンタ! サンタクロース! あんたがどうせ居やしないって馬鹿にしてたサンタが本当に居たのよ! これはもう、何としてでも見つけ出してどうやって一晩で世界中を回ってるのかとか、どこからプレゼントを買う予算が降りてるのかとか聞き出すしかないわよね! で、みんなのプレゼントにサンタの痕跡が無いか調べてるわけ! さ、出しなさい。あんたのもらったプレゼント!」
……かつてなく絶好調な所悪いんだがな。
俺は向日葵の種を前にしたハムスターの様な顔をするハルヒの前で、ひらひらと手を振ってやった。
それを見て、ようやくハルヒは俺が手ぶらだと気づいたらしい、
「何で持ってこなかったのよ!?」
違う、そうじゃない。
「……え、あんた貰えなかったの?」
間の抜けたハルヒの声に、俺は頷いた。
微妙な空気が流れた数秒の沈黙の後、
「ま、まあそんな事もあるわよ、気にしない気にしない!」
そう言いながら何故ヘッドロックをかけるんだ?! ぐっ、待て、言ってることとやってる事が違わないか? もしかしてだが、これはお前なりに慰めてるつもりとかじゃないよな? !
気道を確保すべく無駄に完璧なヘッドロックに抵抗する俺を
「大丈夫大丈夫安心しなさい? これから一年あたしの言う事を素直に聞いてたら、来年はちゃ~んとあんたの所にもプレゼントを持ってきてくれるわよ!」
意味不明な発言の前にこのヘッドロックを外してくれって、マジで! 来年を迎えさせないつもりかよ?!
「ね~みくるちゃんもそう思うわよね?」
そうハルヒに同意を求められた朝比奈さんは、いつもの様に微笑み。
「はい……期待してます」
優しげな声で、そう答えるのだった。
ティンクルスター 〆
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