第436話 ネクストステージへのステップ
鬼ごっこから二日後、皇子殿下方は帰って行った。
と言ってもまたロートリンゲン領で少し過ごしてから、帝都にお戻りになるそうだ。
来た時もお忍びなんだから仰々しくいないようにって言ってたから、帰る時も同様仰々しくないよう見送った。
鬼ごっこに翌日は、私達全員普段使わないような筋肉まで使って応戦した結果、滅茶苦茶な筋肉痛に苛まれて。
それすら何だかおかしくて、皆で身体を突きあっては悲鳴を上げて笑い転げもした。
帰ってしまわれた後は、何もかも楽しかった気がする。
ここ数日賑やかだった分の静けさは、少しの寂しさを運んできた。
でも今生の別れではないのだから、またいつか会う日も来るだろう。
数日間の事だったのに、まるで数か月のような濃密な時間を送った感覚があった。そのせいか、どうにも翌日の今日は気が抜けて気が抜けて。
「おーい、旦那様。この綴り間違ってんぜ?」
「あ? どこ?」
「ここ」
ラシードさんが書類に書かれた文字の羅列の一か所を指差す。
見ればたしかに、そこに誤字があった。
「あー……書き直しかぁ」
「大丈夫かよ? 三回目じゃん」
「大丈夫じゃない~。身が入らないー!!」
「明日から夏休みだろ? ここにあるの処理してかないと、気になって休めなくなるぞ?」
「うー……解ってるよぅ」
解っちゃいるんだけど、なんか身が入らないんだよね。
レグルスくんや奏くん・紡くんも身が入らないらしくて、今日は座学も修行もちょっとお休み。
三人は空飛ぶ城の図書室で、ノエくんと一緒に識さんに本を読んでもらう会に出てるそうだ。
あの図書室、大昔の古典を子供向けにかみ砕いた本が沢山あるから、教養を身に着けるために丁度いいってロマノフ先生が太鼓判を押してた。
因みに私にはその古典の原典が渡されて、現代文への訳が宿題に出されている。
「あー!! ダメだ! お茶! お茶にしよう!! 気分転換!!」
「仕方ねぇなぁ。じゃあ、俺が厨房に……」
「行って来るよ」とラシードさんが言葉にする前に、執務室の扉がゆっくり叩かれる。
『旦那様、お茶を持ってまいりました』
低い男性の声。でも源三さんでも料理長でもヨーゼフでもない。
入室を許可すれば、オブライエンがお茶の用意一式の載ったカートを運んできた。
「……実にいいタイミングですね」
「は、ロッテンマイヤー夫人が……」
「ああ、なるほど」
緊張気味のオブライエンは言葉が少ない。
そんなに怖がらなくても何にもしないんだけどな。
そう思ってると、お茶の用意を手伝うために動き出したラシードさんが、オブライエンの肩を叩いた。
「おっちゃん、そんな怯えなくても。悪い事さえしなきゃ、旦那様はわりと優しいって」
「わりと?」
「あー……結構?」
「なんで疑問形なのさ」
「え? 厳しいとこはあるだろ? 俺にも『ハイ』か『解った』しか要らないとか言うし」
いや、あの時は本当に断らせる気がなかったからだけどな。
お蔭でエフェ・パピオンの材料費は、格安に抑えられている。その分職人さんや、ウチのメイドさん含めて従業員に還元できるし、そうすると労働の成果が目に見えるからか作業効率や士気なんかが向上した。
巡り巡って菊乃井の景気上昇にも繋がっているんだから、あの時のやり取りはとてもいい取引だったように思う。
それがラシードさんにプラスに働いているなら重畳だ。
とは言え、それは個人個人感じ方や価値観で違いが出るものだから、一概にオブライエンにも良いとは言い難い。
オブライエンの方も微妙な表情だ。
「仕事をきちんとしてくれるなら、私は心からの忠誠なんて求めない。その辺は気楽にやってくれたらいいですよ」
「は」
声をかけると、またもオブライエンは紅茶を私の机に置いた。
音を立てることなく、静かに。
その仕草は洗練されていて、たしかに何処に出しても立派な従僕が務まる事を物語っていた。
あの蛇男、人に物を教えたり、執事に近い働きが出来るのは間違いないらしい。
ほんの少しだけ沸いた興味を、そのまま口に出してみる。
「貴方、セバスチャンの仕事を引き継いだんですよね? 情報網的な物もですか?」
「は。そう言ったものも半分ほどは」
「半分ね。何か気になることは入って来てますか?」
尋ねるとオブライエンは動きを止めて少し考える。
それから何か思い当たる物があったのか、固く引き結んでいた唇を解いた。
「象牙の斜塔が、大賢者様の居場所に気が付いたようです」
「へぇ? 逆にまだ菊乃井にいらっしゃる事を知らなかったんですか……」
「そのようです。ただ気が付たのは一部の人間で、大多数は単に旅に出ているだけだと思っているようです」
「……気付かれた時のデメリットは?」
「斜塔の長が菊乃井にツナギを求めてくるかと。人となりは俗の一言。研究より太鼓持ちで出世したような男です」
「研究費を集めたり、広く世に成果を知ってもらうためにはそう言う人も必要ですが、それだけじゃないんですね?」
「軍事転用できるような研究成果を、密かに諸国に売り歩いています。その金は長個人の懐に……」
「なるほど、お近づきにはなりたくないタイプですね。菊乃井にツナギをつけたがる理由は?」
「金と名誉と空飛ぶ城に遺されたレクス・ソムニウムの遺産かと」
薄く笑う。
自身の陣地に眠っていた大それたものの管理も出来ないくせに、もっと大きなものに手を伸ばそうとするなど、破滅したいって言ってるような物じゃないか。
でもそれより気になる事がある。
「よく調べましたね?」
「この位の事が出来なければ、菊乃井では生きていけないと言われました」
「セバスチャンに?」
問いかけにこくりとオブライエンは頷いた。
すると黙って聞いていたラシードさんの顔から血の気が引く。
「俺、出来ないぜ?」
「ラシードさんにそんな事求めないよ。どっちか言うと、今の話を聞いて、相手がちょっかいかけて来た時の対策、もしくはちょっかい出しにくい状況を作り出す。そのために必要な事や手段を考えるのが、私やラシードさんの立場では求められるんだよ」
「そっちも出来る気がしないんですが、それは……?」
「出来るようになるしかないねぇ」
へらへらと笑って手を振れば、がくっとラシードさんの肩が落ちた。
一部族の長になろうというなら、危機管理と対策を立てられるくらいの力はどうしたって必要なのだ。
この辺は領主の私と、一部族の長になろうと思うラシードさんに違いは特にない。ただラシードさんが気付いていないのは、そういう事が苦手ならば得意な人を探し出して手を貸してもらう事が出来るってことなんだけどな。
それに気づくのも勉強のうちだ。
私だってルイさんにその辺を担ってもらったり、先生方にお知恵を借りたりで補ってるし。
それは横に置いといて。
象牙の斜塔がこちらに何か仕掛けてくるとして、それはまだ少し後の事だろう。
慌てなくとも良いけれど、ルイさんや先生方、大根先生には伝えておく必要はあるかな。
机に手を組んで「他には?」と問えば、またオブライエンは考えながら口を開いた。
「雪樹の方から近くの村によく族長の長男が降りているそうです」
「!?」
「ふぅん?」
ラシードさんの顔が強張る。
長男というと、ラシードさんを可愛がってた方の兄貴か。
あれからかなりの時間が経っているけど、漸く探し出したのか、それともずっと探し続けているのか……微妙なところだな。
「目的は?」
「探し人があって、何でもいいから手がかりがほしくて……と。族長には人間との接触は許可されていないらしいところを、隠れて聞き歩いているようです」
「その探し人の特徴は?」
「金の髪に、透けるような白い肌、紅い瞳、山羊のような角の少年を、と」
「……ですって、ラシードさん」
水を向ければラシードさんはきゅっと唇を噛んだ。
捜されていない訳じゃなく、方法が限られていて後手に回っている。ラシードさんは見限られている訳ではない。
さて、それでも決着をつけて菊乃井に来る選択をするのか?
そういう意図を乗せて首を傾げて見せれば、ラシードさんがぎゅっと拳を握って眉を吊り上げた。
「それとこれとは別だ。いくら家族で大事でも、道を分かつことはある。だからって兄貴やお袋を嫌ったり憎んだりする訳じゃない」
「その決断を悔いることにならないよう、頑張らないとね」
私も貴方も。
最後まで言わなかったけど、十分伝わったようでラシードさんは「勿論」と胸を張った。
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