第423話 水が清ければ何でも美味しいって訳でもないし
オブライエン。
火神教団の革新派の刺客として私の元に送られてきた、邪教の秘薬の中毒患者だった男だ。
それなりに世の中に恨みを抱いていた男は、少しばかりの説得でこちらに寝返った。
揺るがぬ信念なんてものは、生きる事を目的に置いた場合少々邪魔な代物。悪い事じゃない。
私はこの男を蛇男従僕・セバスチャンに預けた訳だけど、あの男意外に自身の生業というのか所業というのか、そういった物に美学があったらしい。
「雑な小悪党をお傍に置かれるなど許せません。きちんとお役に立つよう仕込みます」と、謎の意気込みを見せたものだ。
誰だって雑な小悪党にしてやられるくらいなら、緻密に網を張ってこちらを罠にかける悪党にしてやられる方が良いだろう。気持ちは解らなくもない。
けれど仕込まれる側のオブライエンの感想はちょっと違うようだった。
修業期間はどうだったか尋ねると、物凄く答えにくそうにする。
「率直に言ってくれて構いませんよ。大体貴方の態度で察しはつきますから」
「……死ぬかと思いました」
「おや、雑に扱うなとは言っておいたんですけどね?」
「雑には扱われなかった……と思います。が、そんな問題じゃね……なかったです」
「へぇ?」
行儀悪く机の上に組んだ手の上に顎を乗せて、話の続きを促す。
そうすると男は物凄く嫌そうに話し始めた。
「まず、菊乃井家にお仕えする人間の心得として、所作に気を遣うように言われました」
「ふぅん?」
下町の三下悪党だったオブライエンは、それまで文字通り底辺の生活をしていたとかで、教養や行儀というものには無縁だった。
しかし成り行きとは言え貴族の家に仕えるのだから、そんなままではいられない。
主の後ろに控える時の姿勢から、歩き方、そういった見せる所作から、見せない所作までみっちりと仕込まれたそうだ。
それだけでなく読み書き計算、何処に出しても恥ずかしくない従僕として振舞うに必要なものはほぼ全て。
しかしヤツの教育はそんな表向きの事に留まらず、奴のいう所の「菊乃井の暗部」に関することもだったそうな。
……うーん。
「もしかして、裏切ったらその時は解っているだろうな的な事を言われましたか?」
「……っ」
オブライエンの顔から血の気が引いているあたり、言われたんだろうな。
可哀想に、ちょっと見に解るくらい緊張してる。それでも後ろに控えているラシードさんにはそういう物が伝わっていないようで、彼は私に口パクで「こいつ反省してるのか?」と言ってきた。
それに苦笑しつつ頷いてやると、ラシードさんは疑わしそうにしつつも頷く。
「まあ、私はそんなことは思ってませんよ。貴方は計算の出来る人のようだから、私が勝ち続けてるうちは裏切ろうなんて思わないでしょう」
他、特にセバスチャンはどうか知らんけどな。
アイツはあんなになっても、まだ母を慕っているらしい。だから神罰が一刻も早く解けるようにこちらに協力している。
贖いが済んだところで、長く腐肉の呪いを受け続けた人間が元の姿に戻る事はない。だとしてもあの男は母に仕え続けている。
そんな男がオブライエンを仕込んだのは、やはり贖罪の一環な訳で。このオブライエンが万が一私を裏切り、害を与えることになれば、奴のやって来た償いが水の泡と消える……かも知れない。
アイツが警戒しているのはこの辺りだろうか。
奇妙なことだ。
アレも余人からみれば愛の形なんだろう。決して感動も何もないけどな。寧ろ理解できなさ過ぎて、一周回っても理解できる気がしない。
目の前で冷や汗かいているオブライエンが何となく気の毒そうに見えて来た。
そもそもこの男にとって私と対峙するっていうことすら、本当は相当なプレッシャーだろう。
「兎も角、今日から当家で本格的に働くという事ですね?」
「は、然様に御座います」
「解りました。では早速お使いを頼みましょうね?」
にこっと笑えば、オブライエンは緊張を少しだけ緩める。
そんな彼を一瞥すると、私は机の引き出しから便箋を出して手紙を書いた。
あて先は武神山派の宗主・威龍さん。
用向きは海を越えた大陸の、砂漠の国の闇カジノの周辺事情を調べてもらう事だ。
私の封蝋のついた手紙をオブライエンに渡すと、護衛のためだったんだろう。部屋に控えているラシードさんにも声をかけた。
「武神山派の威龍さんのところに、オブライエンを案内してもらえますか? これから連絡役は彼の仕事になると思うので」
「お? 解りました。でも俺もあの辺の地理あまり得意じゃないから、イフラースも連れてっていい?」
「ああ、構いませんよ。これを機にラシードさんも地理を覚えてもらったらいいし」
「はい、了解です」
ぐっとサムズアップしてラシードさんが頷く。
そしてオブライエンと共に、一礼して執務室を出て行った。
嘘、だな。
ラシードさんは武神山派周辺の地理に不慣れな訳じゃない。アズィーズ達の機動力を頼りに、威龍さんのところにお使いにも行ってもらってるからだ。
その彼がイフラースさんを案内に連れて行く必要はない。彼もオブライエンを見極めようとしているんだろう。
はてさて、どうなるかな?
それに武神山派のオブライエンに対するリアクションも気になる。
威龍さんからも問い合わせが来るかもしれないな。
あれこれ非難めいた事も言えないだろうけども。過ちを犯したオブライエンを非難することは、即ち己らへのブーメランだ。過ちを犯したのは、私から言わせれば同じなんだから。
慣れ合うことなく、仲良くなってくれたらいいさ。
「また、悪いお顔をしてますねぇ」
頭上からいきなり声が降る。
びくっと上を向くと、ロマノフ先生がいらっしゃった。
先生はそのまま私の頬っぺたをもちると、にこやかに「戻りました」と声をかけてくれる。
「お帰りなさい、先生。ロートリンゲン公爵閣下へのご連絡ありがとうございます」
「いえいえ、どういたしまして。そうですね『お祓いするかい?』と、眉間にシワを寄せて仰ってましたね」
「お祓い……」
無理だと思うなぁ。
私もレグルスくんも、姫君の厄除けのお呪いを受けてるんだもん。
その上でやって来る災厄、所謂厄介事はそれ即ち試練らしいから。
苦笑いしつつそう言えば、ロマノフ先生も同じく苦く笑う。
「それで、何がありました?」
「ああ、オブライエンがセバスチャンの元から帰ってきました」
「オブライエン……? ああ、あの人が」
ロマノフ先生には一瞬オブライエンが解らなかったらしい。少ししてから思い出したようで「へぇ?」と興味深そうにしている。
「そうですか。いや、ロートリンゲン公爵邸からこの執務室に直接転移してきたので、気づきませんでしたね」
「ああ、玄関を通っていたらロッテンマイヤーさんから話があった筈ですもんね」
「そうですね。後で詳しく彼女に聞いておきましょうか」
「はい。今日からここで働くので、不慣れな事もありましょうが、オブライエンの事で何かあれば私かロッテンマイヤーさんへお願いしますね?」
「ええ、何かあった時はそうしますね」
穏やかにロマノフ先生は頷く。
使用人の教育は主とメイド長の役目だからね。
まあ、でも、そういう事を言えば、オブライエンにとっては菊乃井邸はまだアウェイなんだよな。
こういう時は料理長や源三さんに声をかけておいた方が良いだろう。
あの二人であれば肝も据わってるから、オブライエンに対して構えることなく接してくれる筈だ。
宇都宮さんやエリーゼ、ヨーゼフに関しては、ロッテンマイヤーさんが気を配ってくれるだろう。
問題はアンジェちゃんか……。
そう考えていたところに、コンコンと控えめなノックがあった。
「はい、どうぞ?」
『だんなしゃ、さま! おちゃのよういがととのいました!』
「ああ、アンジェちゃん。どうぞ、入って」
『はい!』
お茶セットの載ったカートと共に、アンジェちゃんが執務室に入って来る。
カップが二人分あるっていう事は、ロッテンマイヤーさんロマノフ先生のお帰りを察してたのかな?
その用意をえっちらおっちらアンジェちゃんがテーブルに並べていく。
準備が整うのを危なくないように気遣いながら見守って、終わったらぺこりと一礼する頭を撫でる。
それからアンジェちゃんにオブライエンの事を訪ねてみた。
「あのおじちゃん?」
「うん、どう思う?」
「えぇっと、アンジェのこうはいだから、いろいろおしえてあげる。それで、アンジェよりよわそうだから、つおくなるまでまもってあげなきゃ!」
「わぁ、アンジェちゃん素敵な先輩だねぇ」
「はい! アンジェ、がんばります!」
怖がるどころか、これか。
カッコいいこと言うじゃん。流石うちのメイドさんだわ。
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