第176話 縁、芽吹く

 朝靄が菊乃井に冷たい風を運んできた。

 冬が来る。

 運命の日がついにやって来た。

 早朝、レグルスくんの手を引いて厩舎に行くと、まだ閉まっている筈の扉が開いていて、ギィギィと風に揺れる。


「にぃに、とびらがあいてるよ?」

「本当だ。ヨーゼフが来てるのかな?」


 今日はケルピーの運命の決まる日、ヨーゼフも落ち着かなくて様子を見に来たのかもしれない。

 レグルスくんと顔を見合わせて、走って厩舎に近付くとやっぱりヨーゼフがケルピーに話しかけている声がする。

 「大丈夫、上手く行くよ」という彼の言葉には、とても自信がこもっているようで、ちょっと妙だなと思う。

 ヨーゼフはなんだか、周りの人の評価に反して、凄く自分に自信がないみたい。

 なのに、かなり今の言葉には力が籠ってた。

 なにか、ヨーゼフが大丈夫って確信出来ることがあったのかな?

 風に揺れる扉から、レグルスくんと厩舎に入る。

 すると藁の匂いに混じって、ふわりと花の香りが漂う。

 しかも、厩舎にはヨーゼフだけでなく知らない人がいた。

 凄く驚いたから「え……?」と呟くと、ヨーゼフと一緒にいた人が、ふわっと濃い金髪を翻して、私とレグルスくんの方に顔を向ける。

 背はヨーゼフより頭一つ低く、尖ったお耳、翠のお目目は長い睫毛に縁取られ、唇は桃の花の色。

 エルフの女の人だ。

 私たち兄弟を視界に捉えた瞬間、花の顔を綻ばせ、スウェードのようなグレーの暖かそうなローブと、少し覗くその下のスカートの裾を閃かせて小走りに駆け寄ってくる。


「あの……?」

「あなたがあっちゃんで、小さい子がれーちゃんね!」

「その声……!」


 軽やかで明るい、柔らかな女性の声には聞き覚えがある。何より、私を「あっちゃん」と呼ぶのは──


「ソーニャさん!?」

「ええ、そうよ! ばぁば、来ちゃった!」


 来ちゃった!?

 今、来ちゃったって言ったよ!?

 帝都からここまで十日はかかるし、冬は雪深くなって更に動きにくいのに、わざわざこの時期に……!

 びっくりして目を丸くしていると、人見知りを発揮して、レグルスくんがぎゅっとしがみついてくる。

 ソーニャさんはそんなピヨピヨひよこちゃんに気付いてか、膝を折ってレグルスくんと目線を合わせた。


「初めまして、私はソーフィヤ・ロマノヴァ。アリョーシュカ……アレクセイ・ロマノフのお母さんよ。ばぁばって呼んでね?」

「せんせーのおかあさん?」

「そうなの。あっちゃんとれーちゃんとかなちゃんに会いに来たのよ!」


 軽やかに笑うと、ソーニャさんはぎゅっと私とレグルスくんを纏めて抱き締める。

 近くで見ると、その顔にはロマノフ先生と似たところがあった。

 って言うか、エルフさんって本当に年齢不詳。

 お母さんって時点で、ロマノフ先生より年上だって解ってるのに、見た目がなんだかロマノフ先生のお姉さんで通じるくらいのお年にしか見えない。

 ところで「来ちゃった」は良いんだけど、なんで厩舎にいらっしゃるのかしら?

 不思議に思ってお訊ねすると、ソーニャさんが口元に手を当てて「うふふ」と笑った。


「実は昔あっちゃんのお家に来たことがあるのよ」

「へ?」

「『菊乃井』って聞いてもしかしてって思ったんだけど、ここは菊乃井稀世ちゃんのお家でしょ?」


 稀世というのは祖母の名前だ。

 それがどうしてソーニャさんの口から出るんだろう?


「稀世は確かに、祖母ですが。何故……?」

「ずーっと前に、ダンジョンの大氾濫があった時に偶々いたの。その時に稀世ちゃんがとっても頑張ってたから、私と友達でお手伝いしたのよ」

「あ!」


 そう言えば、祖母の日記に久々に起こった大氾濫を乗り越えるのに、凄く強い人達が手伝ってくれたって書いてあった。

 それがロマノフ先生のお母さんのパーティーだったなんて。

 なんて偶然!


「稀世ちゃんと稀世ちゃんの義理のお父様に、お家に招いていただいてとても美味しい蜂蜜いりのお茶をご馳走になったのよ。それでお家の場所は解ってたんだけど、お家の中に突然転移する訳にはいかないし、じゃあお庭なら良いかしらと思ったんだけど」


 ソーニャさんの言うにはお家にも庭にも、微妙に固い結界が敷かれていたらしく、それをすり抜けられたにはすり抜けられたけれど、厩舎の近くに降りてしまったそうだ。


「ヴィーチェニカも強くなっちゃって……。すり抜けるのがやっとだったわ」

「ヴィーチェニカ……ヴィクトルさんですね?」

「ええ、そうよ。あの子は私の妹の子だし、ラルーシュカは弟の子なの」


 ヴィーチェニカがヴィクトルさんなら、ラルーシュカはラーラさん。

 ロマノフ先生たちは従兄弟同士に当たるのね。

 幼馴染みで従兄弟なら、絆も強い筈だよ。

 それはちょっと脇に置いておくとして。

 転移魔術でやって来たのは良いんだけど、ソーニャさんは厩舎の近くに降りちゃって、だから玄関に行こうとしたらしいんだけど、たまたま厩舎に人の気配がするから覗いてみたら、朝早くからケルピーやポニ子さん、グラニの世話をしていたヨーゼフと出くわしたそうだ。

 それで自己紹介してケルピー達の様子を一緒に見ていたところに、私がレグルスくんとポテポテやって来た、と。

 ソーニャさんの後ろに控えていたヨーゼフも、その説明にコクコクと頷いて肯定している。

 兎に角、お客様をいつまでも厩舎にいさせる訳にもいかない。

 ケルピーのことをヨーゼフに頼むと「お任せ下さい!」と、胸を張って応えてくれた。

 なので姫君様の所に行く前にまた厩舎に寄ることにして、私とレグルスくんはソーニャさんを屋敷に案内することに。


「ここ、あまり変わってないわねぇ」

「祖母の代から改修はしてないそうです」

「そうなの……。サンルームもそのまま?」

「はい。私の使い魔のタラちゃんとござる丸がよく遊んでます」

「あらまあ」

「れーも、あそこすき。でもごほんのおへやもすき」

「だねぇ」


 レグルスくんと繋いでるのとは逆の手を、ソーニャさんに取られてポクポクと屋敷の正面玄関に向かう。

 その間にも、レグルスくんはケルピーが気になるのか、何度も厩舎を振り替えって。

 それに気付いたソーニャさんが、また軽やかに笑った。


「ケルピーちゃんとヨーゼフちゃんならもう大丈夫よぉ」

「へ?」

「ほんと?」

「ええ、ソーニャばぁばが特別にお呪いしたから大丈夫よ」


 ソーニャさんからぱちんっとウインクが飛んでくる。

 そんな仕草も似た者親子だ。

 でもそうか、それでヨーゼフはリラックスした感じだったのか。

 何にせよ、ヨーゼフとケルピーにはとても苦労をかけている覚えはあるから、それが少しでもマシになったなら良かった。

 ソーニャさんに、レグルスくんと二人でお礼を言うと、丁度屋敷の玄関に到着。

 扉を開けると、ロッテンマイヤーさんが私達の帰りを出迎えようとして、エントランスに立っていた。


「お帰りなさいませ」

「はい、ただいま帰りました」

「ただいまかえりましたー!」


 軽くお辞儀をするロッテンマイヤーさんだけど、ソーニャさんを見ると動きが止まる。

 なのでソーニャさんのことを伝えて、ソーニャさんにロッテンマイヤーさんを紹介すると、途端にソーニャさんの顔が輝いた。


「そう、貴方が……! 貴方がハイジちゃんなのね。会いたかったわ!」


 えっと思う間もなく、ソーニャさんがロッテンマイヤーさんに抱き付く。

 そして頬と頬をくっつけると、何度も「会いたかった」と繰り返す。

 どういうこと?

 目を点にしていると、ロッテンマイヤーさんがソーニャさんの肩にそっと触れて。


「初めまして、レオニード……レーニャの末裔のアーデルハイドでございます、大お祖母様」


 スカートの裾を持ち上げてお辞儀するロッテンマイヤーさんは、とても姿勢が美しかった。

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