第146話 なんて素敵にイル・マーレ!

 前足には水掻き、胴体と後ろ足が魚の尾鰭のようになった海の馬・ヒッポカムポスが牽く四頭立ての戦車クアドリガが、水を掻き分け海底を進む。

 頭上を青や赤の鱗の美しい魚や、ヒレがリボンのようにたなびく魚、頭のコブが帽子のように見える魚、それから鰯の群れや、それを餌にするペンギンぽいのが行き過ぎるのを、私たちは口を開けたまま眺めたり。

 なんて綺麗なんだろう。

 レグルスくんなんか、上を見すぎて頭が重くてぐらつくのを、宇都宮さんが支えるほどだ。

 そう言う私も、上を見すぎてるタラちゃんを抱えてるし、奏くんもござる丸を抱っこしてくれている。

 そう、二匹とも海底神殿を泡に包まれて出ていこうとした時に、ロマノフ先生のバッグから飛び出て泡の外に縋り付いたのを、ロスマリウス様が「中々の忠義ものだな」って泡の内側に入れてくれたんだよね。

 普通の使い魔は神様の気配があったら、いかに主に何か差し迫ってても本能から来る恐怖で竦み上がって動けないらしい。

 でもタラちゃんとござる丸は、それを捩じ伏せて私に着いてきた。

 「見上げた根性だ」とロスマリウス様は白い歯を見せつつ、二匹を誉めて下さったんだよね。

 お家に帰ったら沢山ご飯あげようっと。

 んで、私たちは気泡ごとクアドリガに乗って何処に向かっているかと言うと、コーサラの遥か沖の人魚族の集落で、そこにはロスマリウス様の娘さんである人魚族の太母様がいらっしゃるそうだ。

 だかだかとお馬さんが水を駆ける度に大きなうねりが生まれて、フグやらハリセンボン、海老やイカが舞うようにその流れを泳いで渡る。

 段々と見上げる水の色が濃くなっていくのは、深く潜って行ってるからかな。

 しんしんと降るマリンスノーが幻想的だけど、これの正体とか今は気にしちゃ負けだ。


「……海とはこういうものなんだな」


 あえかに唇を震わせて、ネフェル嬢が呟く。

 そっと伺い見た色違いの瞳は、恍惚と感動に揺れていた。


「どうだ? 怖いか?」


 ロスマリウス様が戦車を御しながら、ネフェル嬢へと尋ねる。

 その目には深みがあって、おおらかな笑みが口の端に浮かんでいた。

 静かにネフェル嬢が首を横に振りながら、言葉を紡ぐ。


「怖い……と思っていました。でも、凄く綺麗で……」

「うむ、それでいい。海の美しさに畏れを抱くのは当たり前のこと。だが恐怖することはない」

「はい」

「海は命を内包して、ただそこにあるだけ。恵みと呼ぶのも人間なら、恐怖を抱くのも人間の性だ。そして俺はそれを赦す」


 やがて光が遥か遠くになって、海面を見上げている筈なのに夜空を下にいるような気分になった頃、お馬がひたりと止まる。

 目の前には豪華な、螺鈿で細工してあるのかキラキラと輝く巨大な門が聳え立っていた。

 「開門!」とロスマリウス様が一言叫べば、巨大な門が観音開きに開き、そこをまたクアドリガが進む。

 左右に巻き貝を象った街灯がある大きな道を行くと、正面には栄螺のような象牙色の建物が見えて来て。

 その建物の足下に到着するとまた門があったけど、今度は何も言わずとも開いて、栄螺型の建物の中に招き入れられたかと思うと、私達を包んでいた気泡がぱちんっと破ける。

 建物の中には一滴の水もなく、空気もあって驚いていると、沢山の着飾った女の人が現れた。


「帰ったぞ」


 そうロスマリウス様が声をかけると、皆一斉に「お戻りなさいませ」とひれ伏す。

 すると一人、薄桃の長い髪の毛を結い上げて、美しく織られた布を身体に巻き付けるようにした──前世でいうところのサリーみたいな巻き方なのかしら──女性が、すすっと前に出てきてそっと胸に手を当てた。


「お戻りなさいませ、お父様」

「うむ、帰ったぞ。言っていたちびたちを連れてきてやった。日没には家に返さなければならんが、お前たちの心尽くしで楽しませてやれ」

「ありがとう存じます」


 ぺこりとロスマリウス様に頭を下げると、薄桃のひとが戦車から降ろして貰った私達の前でゆったりとお辞儀する。


「お初にお目にかかります。わたくしは海神が娘にして人魚族の族長・ネレイスと申します。この度はわたくしどもの招待を受けて下さり、ありがとう存じます」

「お招きありがとうございます。私は……」


 名乗ろうとしたところで「うふふ」と微笑むネレイス様に、人差し指で唇を押さえられた。


「父からお聞きしてます。でもここには名を知ることで、まじないをかけることも出来る呪術師も住んでいるので、お名前を預かるのはよしておきましょう。あなた方のお国は我らと敵対はしていませぬが、実は関係が良いとは言えぬのです」

「そうなんですね……。それなのに歓迎してくださって、ありがとうございます」

「いいえ。あなた方はわたくしどもの恩人。お名前の件は、わたくしたちが悪心を抱かぬための用心と、お許しくださいましね」


 柔らかな微笑みを、柔らかそうな唇に乗せて、金の瞳を細める美しいひとに、私たちは頷く。

 帝国ってもしかして、孤立し始めてるんだろうか。

 いや、単に人魚族含めたコーサラと拗れ始めてるだけなのかも知れないけど。

 そんなことを考えていると、「あ」っとネレイス様がネフェル嬢の顔を見て息を飲む。

 さっとネフェル嬢の顔色が青くなったけど、対照的にネレイス様の頬が赤くなった。


「まあ、なんと美しい瞳でしょう! それぞれ海の色をしていらっしゃるのね!」

「え……」

「夜明け前の瑠璃の海、夜が明けた碧の海。貴方は海に祝福されているのだわ!」


 「素敵!」とはしゃぐネレイス様に、ネフェル嬢は一瞬ぽかんとして、それから耳も頬も真っ赤に染める。

 あー、解るぅ。

 美人に誉められたら一瞬唖然とするし、その後むず痒いよねー。

 解るわー。

 「もっとよく見せて」と迫るネレイス様に、あわあわするネフェル嬢は何か可愛い。

 それは私だけの感想じゃないみたいで、奏くんや宇都宮さんも、ほわっとした顔で和んでいる。

 と、ツンツンとレグルスは私の裾を引いた。

 どうしたのかと下を向くと「きゅるり」と小さくレグルスくんのお腹が鳴る。

 それを敏く捉えたロスマリウス様が、パンパンと手を打ち鳴らした。


「ちびの腹の虫が鳴いてるぞ。旨いものをたらふく食わせてやれ!」


 そうして侍女さんたちに連れられて、私たちは客間に案内されたんだけど、これがまた!

 天井には鼈甲や珊瑚、他にも宝石が嵌め込まれた海の様子のモザイク画が広がり、光るクラゲがシャンデリアのように並んで漂ってたり、同じく光る魚やイカがネオンのように明るく宮殿を照らしていたりするんだもん。

 豪華絢爛で目がチカチカしてきちゃったくらい。

 螺鈿やシーグラスで作られたモザイクタイルの床に、目にも鮮やかで細かい紋様が沢山の絨毯を敷いて、クッションが沢山置かれたローソファー。

 そこに座れば真正面に置かれた、緻密な刺繍のクロスの掛かったローテーブルに、これでもかってくらいのご馳走が並べられて。

 見たことあるやつから、ないやつまで、物凄く美味しそうなものばっかりで、本当に凄い!

 フィンガーボウルで手を洗うと、それぞれ手を合わせて頂きます……の筈だったんだけど、宇都宮さんがちょっとまごつく。


「あの、私、やっぱり使用人ですし……」

「でもお客様として招いて頂いたんだから、ここは一緒に食べようよ」

「うちゅのみやもいっしょでいいよね……ですか?」


 尋ねたレグルスくんに、ネレイス様は「勿論」と頷いてくれた。

 それを見てお礼をいうと、宇都宮さんも揃って今度こそ頂きます……なんだけど、手を合わせて「頂きます」と言うとネフェル嬢が固まる。


「今のは?」

「今の……? ああ『いただきます』のことですか?」

「私の国にはああいうのはないんだが……」

「ネフェル姉ちゃんの国式で良いんじゃね?」

「そうか……。うん、そうする。でも今のはどんな意味があるんだ?」


 小首を傾げると、さらりと白い髪が揺れる。

 もう前髪をあげていることは気にしていないのに、何かホッとしていると、私の隣に座ったロスマリウス様が片胡座に頬杖をつきながら。


「あれは『命を頂戴します』ってことさ。肉も魚も野菜も果実も、元はと言えば命の塊。それを食すというのは、他者の命を自らに取り込むこと。命は誰にも一つきり。それを貰うというのだから、礼を尽くして当たり前だろうよ」

「命をいただく……」


 呟いたかと思うと、ネフェル嬢は私達のしてたことを真似して、食事に向かって手を合わせる。

 すると片胡座のロスマリウス様が、ニカッと歯を見せて笑った。


「さて、飲み物は行き渡ったな? 乾杯するぞ!」


 言われて、虹色に光るグラスをそれぞれ手に取ると、「乾杯!」とロスマリウス様の音頭に合わせて、グラスを掲げる。

 これが宴会の始まりなようで、銅鑼が鳴らされたかと思うと、着飾った女性や楽器を持った男性がワラワラと部屋に入ってきた。

 チターやリュートに似た、でもどこか違う音や、帝国でされている発声とは違う方法で歌われる歌は、どれもエキゾチックで本当に外国に来たんだなって感じる。

 ご飯だって、もちもちの白いお饅頭の中身がお肉だったりお魚だったりするのや、焼売に似た蒸し物、鮑や蛤をお野菜と一緒に煮たスープもあって、凄く美味しい。

 食べてる間も歌だけじゃなく、ダンスや曲芸を見せてくれたり、手品や吟遊詩人が詩を吟じてくれたりで、物凄くオモテナシされて。

 段々とお腹が一杯になってくると、今度は色んなお話を聞かせてもらった。

 人魚族は陸で生活出来ない訳じゃないし、陸に上がれば普段は魚みたいになってる下半身も、人間のそれに変化するとか、この建物は陸から来た人を歓待するための建物だとか。

 料理だって特別仕様の料理で、人魚族は知る人ぞ知る美食家一族で、その本気の結晶が今テーブルに並んでいる料理なんだそうな。

 そんなことを聞くと。


「ロマノフ先生やお家の皆にも食べさせてあげたいな」

「うん、じいちゃんや紡、父ちゃんや母ちゃんにも食わせてやりたい!」

「そうだな。ばあややイムホテップ、それに待ってるあの二人にも……」

「れー、ジャヤンタたちにあげたい……」

「宇都宮もロッテンマイヤーさんやエリーゼ先輩、ヨーゼフ先輩、料理長さんと御一緒したいです……」


 モショモショと話していると、ネレイス様とロスマリウス様が顔を見合わせて頷き合う。

 そしてパンパンと手を打つと、宴の終わりをロスマリウス様が告げた。

 陸ではもうかなり良い時間で、帰る前に連れていきたいところがあると、ロスマリウス様は仰った。

 なんだろう?

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