第37話 朝の海

 ‡

 その瞬間をどう例えよう。

 少しだけ重たく、塩の香りをはらんだ空気。

 水面に光るきらきら。

 寄せては返す波。

 初めて見た海は、自分の瞳と色味が似ている気がした。

「来てよかった」

 傍らのレインは、大きく伸びをした。

 隣国シェルへの表敬訪問。

 その途上で、私たちは海に立ち寄っている。

 目の前一杯の光景に、思わず全てを忘れてしまった。

「きれい……」

「だろう?」

 誰のものでもない風景だけれど、レインはなぜだが自慢げだ。

「こんな機会滅多にないんだ。海に入るのもありだと思うぞ」

「けれど護衛は……」

 ラメルはレインに連れられたまま、軽装でここまでやってきた。一番小振りなファルシオンを持ってきているものの、自分まで一緒になって戯れると警戒が薄まる。

「大丈夫、誰も来ないって」

「ええ、護衛はこちらにお任せを」

 ぬっと姿を現したのは、訪問団を実質的に統括しているアズナヴールだ。

「おまえ、いつから……!」

「最初からです」

 にべもなく答える騎士に、レインは頭を抱えていた。

 隙のない騎士は、気配を消して尾行してきたのだろう。

 思えば隠し通せると踏んだのがどうかしていた。

「ラ・メール。これは殿下の命令ですか?」

「それは」

「予定外の行動に出て、誰にも告げずここまできたのは殿下の命令ですか」

「ああ、俺が無理やり……」

「殿下にはうかがっておりません」

 レインが言うと、嘘でも本当のことにするしかない。

 そして事実確認を重視する先輩には、嘘は言えない。

「……何も言われないまま、宿から出ました。伺うと、海へ行こうと、言われました。一度でいいから見たかった。そんな思いが勝ちました。私の過ちです」

 役職上はラメルが上に当たる。

 けれど実質的にはアズナヴールがトップだ。査問にかけられてもおかしくはない。

「……殿下の意向に沿わないのは難しいでしょう。それに、ラ・メールの知見を深めるのはいいことです」

「見逃してくれるのか?」

「他の者には殿下は散歩に出たと伝えています。ラメルはその護衛と。あと15分ほどでしたらこちらでお過ごし下さい」

「ありがとう、アズナヴール」

「……ありがとうございます」

「礼には及びません」

 円滑な職務の遂行。そのためのお忍びの息抜きが有用か。

 アズナヴールは天秤にかけたにすぎない。

 けれど今は、触れてみたかった。

 海に。

「タオルも持っていますから、海に入っても構いませんよ」

 曖昧にうなずいて、その場から動こうとしないアズナヴールに背を向ける。

 言葉のままに、手を引かれるままに、ラメルは海へと近づいていった。

 靴を脱ぎ、スラックスの裾をあげる。

 さらさらとした砂、湿っぽい砂、いくらか素足についてきた。

 先に入っていたレインがこちらに手を伸ばす。

 私は恐る恐る手をとり、海へと一歩進む。

「んあ……」

 ひんやりとした感触が足を撫でた。

 こそばゆいようでいて、気持ちがいい。

「なめてみても面白いぞ」

 試しに手を海につけ、口に運ぶ。

 確かに、水とは違ったしょっぱさがある。

「海水を乾かして塩を作るって信じられなかったんだけど、これでわかった」

「……本当に」

「海がすべての生き物を生み出したっていう学者もいるんだよな」

「はい。大元は海になると」

「だったら海は可能性か」

「……可能性?」

「何かを生み出す可能性。もしくは、何かを変える可能性。ラメルみたいに」

「……もったいない言葉です」

 レインはかつてとは違い、暇を見つけては本を読むようになった。図書館へも足を運ぶ。専用の閲覧室ができたほどだ。

「……敬語」

「え?」

「ここの話は、アズナヴールも、他の誰も聞いていないから、今だけ」

 懇願のように錯覚してしまった。

 いたずらっぽく笑っただけなのに。

 今だと信じられないくらい無礼に話していたのは、たった数年前まで普通だった。けれど、かなり昔に思える。

「…………努力します」

「かたいなあ」

「レイン様が奔放すぎるんです」

 いつものように突き放すと、レインは微笑んだ。

「ラメルは真面目だ」

 それには反応せずに、ちゃぽりと水を混ぜた。

「……不良な人は、騎士にはなれない」

 だからラメルは血のにじむような努力をしてきた。

「見られるからな。けれどラメルは、最高の騎士だ」

「誉めすぎですよ」

「いいや。……そんなラメルに聞きたいことがある」

「一体何を?」

「守るとはどういうことか」

 毛色の違う質問に意図をはかりかねてしまう。

 波の音だけが満ちていた。

「……レイン様は」

「先にラメルの意見を聞きたい」

「……私個人の信条を?」

「もちろん」

 守るとは。

 仕事にして、人生の根幹。

「…………大事なものは、命に代えても守ること。鍛練を続け、側にある大切なものを守り抜くこと。時には盾となり、刃となる。私はそう考えています」

 自分の全て。ラ・メール=イスリータの在り方。

「例えば絶対絶命の時に、俺がラメルの前に立つのは?」

「愚問です。私が前です。レイン様は生きなければ」

「敬語」

「………………私は、レイン様を守るためにいます」

「……俺は、ラメルに傷ついてほしくない」

「努力します。レイン様を守り、私も傷つかないように」

 レインが何かを言いかけたとき、強い風が吹いた。

 思わず顔を覆ってしまう。

「あっ!」

 手を離した際に、裾がついてしまった。

 濡れる裾。

 隠れる素足。

「……ラメルらしくないな」

「油断しました」

「……敬語、とらないんだな」

「私は騎士ですよ」

 そろそろ時間だろうか。

「きっと今日のことを忘れないと思う」

「…………私もです」

 穏やかな時間だった。

 たった15分。けれど、かけがえのない時間。



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