第24話 夜の海 2
夜の散歩はあまり行ったことがない。
明かりもまばらで、他の住民も死んだような時間だ。
なにより、見なくてもいいものを、ラメルは見たくはなかった。
「………………」
夜這いの現場も通りすぎる。
認知されなければ、起きなかったのと同じ事。
目撃者に気づかずに、当事者達は扉の向こう側へと行った。
こんな夜更けだ。厨房の火も消えているだろう。
お腹が空いた。空腹は無視してやり過ごすに限る。
暗がりの廊下に剣の音が響く。
くぐもった声が時折聞こえる。気づかない振りをして通りすぎた。
愛だの恋だの欲望だのと、昼間に出すにははばかられるものを、夜は覆い隠してくれる。
専属騎士時代、日中は王子に張り付いていたラメルが、夜の警護に入ることは稀だった。
貴重な休息、睡眠時間。
単純にそう考えていた。そして、遠ざけられているとも思えた。王子やラメルへの静かな配慮として。
奔放に振る舞う一部の城勤め達とは、捉え方が違っていた。
実際に仕事柄休まなければ身体がもたない。第一、夜に遊ぶ趣味もない。
それなのになぜだろう。
足は自然と王子の居室のほうへと向かっていた。
廊下を曲がろうかというときに、ラメルは歩みを止める。
――ヴァルテルミー副騎士長のこともある。
また誰かに見つかったら面倒だ。
それにこの時間、妙な疑いをかけられても困る。
お腹が空いたから、夜食を溜め込んでいる夜間警護者へ食べ物を恵んでもらいにきた。――そんな言い訳が通用するのはきっとジル・レオンくらいだ。
諦めよう。拒絶されたのだから。
そう考え直し、背を向けたときだった。
「……っ……ひっ…………」
泣き声が、微かに聞こえる。
若い女性のものだ。
城勤めの人間だって、迷惑をかけない限り、多少羽目を外してもいい。
ただ、意に添わない思いをしてもいいとは思っていない。
剣を握り、明かりを自身に引き寄せて、様子をうかがった。
聞こえてくるのは、空き部屋の一つだ。
そっと扉に手をかける。
音をたてずにゆっくりと開けると、声が止んだ。
「……誰かいるのですか?」
見回りを装い、闇に向かって声をかける。
幽霊――いや、違う。
殺気はないが、確かにここには、人間の気配がある。
「……いるなら出てきてください」
明かりを掲げ、部屋をくまなく照らす。
椅子、本棚、サイドテーブル。壁にかけられた絵画。
壁づたいに、人の足。
「……!」
剣と明かりを向けると、涙に濡れた女性が目の前に現れた。
驚いたのか、彼女は頭巾を目深にかぶる。
「……エルー?」
剣を下ろすラメルの問いに、先客は答えなかった。
他に人はいない。
「……なにか、あった?」
「いえ」
「けれど」
泣いていた跡がみてとれる。
「……お城を離れることを思うと、感慨深くて、つい」
泣き笑うエルーの本心は、影になってよく見えない。
「エルー、嫌なこと、望まないことがあるなら、言って」
望まない結婚か。はたまた、嫌がらせか。
人知れず泣くなんて、よっぽどのことだ。
「……私は、大丈夫です」
すっくと立ち上がるエルーに、なんて声をかければいい。
触れることを、やんわりと断られているというのに。
「……そうだ、ラメルさん、お腹がすいているのでは?夜間警護の方に出したお夜食、いらないと言われたものがありますよ。持っていってください」
エルーは傍らに置いていたバスケットを差し出した。
ガラス瓶に入った干し葡萄。
パンもある。
「……エルーの迷惑には、ならない?」
「なりません。ほら、遠慮なく」
慌てて刀をしまい、渡されたバスケットを握ってしまう。
いつになく、強引で。
「見つけてくれてありがとうございます、ラメルさん」
暗がりから出てきたエルーは、晴れやかな表情だった。
「送ろうか」
「大丈夫です。先に戻りますね!」
そう言われてしまうと、引き下がるしかない。
騎士と使用人では身分が違う。業務上をのぞくと、 共に歩くことはほとんどない。
特にラメルやエルーは特例尽くしだ。
こんな時間とはいえ、注目を浴びないような用心はやりすぎではない。
「気をつけて」
見送るラメルに、エルーはゆっくりと微笑んだ。
「……ラメルさんが道に迷ったら、そのときは、夜の海を見てください」
囁きはすぐに闇へと溶けた。
聞き返そうとしたときは、すでに彼女は姿を消してしまっていた。
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