第23話 夜の海 1

「ラメル様!」

 立ち尽くしていた私に駆け寄ってきたのは、深く頭巾を被ったエルーだ。

「ラメル様……?」

 覗きこんできた緑の瞳は、心がこもっていた。

 こんなにも、自分は弱っているように見えるのか。

「……エルー」

 今までの自分が崩されたような気がしたのは、相手がレインだったからか。

「…………質のよいものではありませんが」

 差し出された木綿のハンカチは、エルーが大事に使っているものだ。

「……ありがとう」

 泣いていない。

 少し目にゴミが入っただけだ。

 それでも心配させてしまうことにかわりはない。

 ラメルはハンカチを受け取り目許をふいた。

「差し出がましいようですが」

 前置きしたエルーは、スカートの裾をぎゅっと握りしめていた。

「……殿下は、ラメル様を必要としています」

「……けれど」

 今や私は、名ばかりの専属騎士だ。

「執務室へお茶を運ぶとき、殿下はいつもご機嫌斜めです」

「……執務が、お忙しいのでしょう」

「いいえ、ラメル様が側を離れてからというものの、気むずかしくなって、私たちの間では、早くラメル様に戻ってきてほしいといつも話しています」

 オーバーなほどにおどけたエルーは、いつもの彼女らしくない。

 励まされているのだろうか。

 嘘でも、嬉しかった。

 本当のことなら、落ち込んでなんていられない。

「今の話は、聞かなかったことにするよ、エルー」

「それは……」

「誰かに聞かれたら、よろしくない」

 口をあわてて覆ったエルーはかわいらしい。

「それと、様は禁止。ラメルがいい」

「……はい。……あの、ラメルさん」

「ん?」

「レオン様が探されているようでしたが……」

「あっ!」

 巡回の時間はとっくに過ぎている。

 ラメルは大急ぎで配置場所へと向かった。


 門の前に立っていたジル・レオンは、足音に気づいて振り返った。

 口を尖らせようとしていて、けれど何も発しない。

「遅れてすみません、ジル・レオン」

「わ、私が、ラメル様を引き留めて……」

「いいえ、エルーは悪くありません」

 大層なため息を、相方はついた。

「ラメルさん、サボるなら目立たない配置のときにしてくださいよ。俺、通る人みんなに腹痛はらいただって触れ回っちゃいました。夕食、あんまりとらないでくださいね?辻褄合わせたいんで」

「……感謝します」

 深くを聞かずにフォローしてくれたことは嬉しかった。

「エルーちゃん、俺になにか用事?」

 にっこりとしたジル・レオンは、女たらしの顔になっている。

「エルー、本気にしなくても」

「あ、レオン様にも、お世話になったので、伝えておきたくて」

「……?」

 神妙な顔つきのエルーにはたと気づく。

 どうしてエルーはこの時間、こんな場所にいるのだろう?

「私、城勤めを辞めることになりました」

 一息に言われた言葉に、呼吸を忘れた。

「え、もしかして、まさかの結婚!?」

 曖昧に微笑むエルーは、何も言わない。

「ジル・レオン、根掘り葉掘り聞くのは野暮ですよ」

 ラメルの助け船に、エルーはほっとしたようだった。

「今まで、お世話になりました。ラメルさんや、レオン様にたくさん助けていただいて」

「こちらこそ、王子のわがままに付き合わせて、無茶を聞いてもらってありがとう」

「んー、でも寂しくなるな~」

 言葉少なに、エルーはうなずく。

「私は、エルーの幸せを願っています」

「……ありがとうございます。ラメルさんも、お元気で」

 ぺこりと頭を下げ、エルーはゆっくりと遠ざかっていった。

 ジル・レオンは安全を守る騎士の顔をしながらも、どこか所在なさげだ。

「……エルーさんの持ち場って、どこでしたっけ」

「王子付きの雑用担当ですね。何でも屋です」

「嫌な話しますけど、エルーさんクラスだったらあり得なくないですか?」

 王族の近辺には、身分の確かな人間が配置される。

 エルーは平民の親を持つ孤児だ。洗濯女や掃除婦として働くのが一般的なルートとなる。

「使用人にも見えない階級がありますからね。王族に付いたほうが付加価値は高く、給金も多くなります。殿下は将来のためにと、一年前にエルーを登用しました」

 エルーには後ろ楯もない。いずれ寡婦として生きていくなら、武器は多いほうがいい。

「……なるほど。お優しい人のようだ」

 どこか棘のある言い方に感じたのは、余裕がないからだろうか。

「……任務に集中しましょう」

 私はそういうしかなかった。


 ――異変もなく終わった任務。夕暮れは人々の足を急がせる。

 腹を壊した見習い騎士達も鍛練に本格的に戻り、疑われた食堂も客足を取り戻していた。

「ラメルさん、とりあえず部屋戻ってください」

「何を言って」

「腹痛ってことになってるでしょ?あと、ラメルさんほんとにお疲れみたいだし」

「そんなことは……」

 にゅっと手をのばされて、頬に触れられる。

「なんか無理してる、そんな気がしてる」

 ゆっくりと、手首に触れる。

 思いの外、固かった。頬から体温が離れる。

「…………お言葉に、甘えて、休みます」

「はい。日報は俺に任せてください」

「……ありがとう」

「明日は一緒にレティ修道院行く日ですからねー!」

 それまでには直せと言うことか。

「本当に、先輩使いが荒い…………」

 ラメルは張りつめていた緊張を少しずつ解いていく。

「明日は、9時に正門前でいかがですか?」

「いいっすね!じゃあそれで」

「では、また明日、レオン」

 後輩を残し、一人でゆっくりと立ち去るラメルは、後ろですっとんきょうな声をあげる相方を振り返らない程度には疲れていた。



 †

 全てを飲み込みそうな闇は、一面に広がっていた。

 曇天で、僅かな月明かりしかない場所に、冷たい風が吹き抜ける。

 刀は重く、抜こうとしても錆び付いてひっかかってしまった。

 目の前には、遠ざかっていく王子の姿がある。

 ちゃぽりと水につかり、どんどんと吸い込まれていく。

 ラメルは剣を捨て、海へと走った。

 冷たさが身体に伝わる。

「……レイン!」

 精一杯手を伸ばす。

 夜と同化した人に、触れることはできない。

「レイン!」


「――――っ!」

 跳ね起きると、あたりはまだ暗い。

 夜明けまでまだ時間があるだろう。

 動悸を深呼吸して鎮める。

 届かなかった手を、次に立て掛けている剣を見た。

 なにもかわりはない。

 以前よりは使う時間が長くなった、自分の部屋だ。

 ラメルは髪を整えると、灯りと一番小振りな剣を持って部屋を出た。

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