勝ち組

OKAYAMA

第1話

「お疲れ様です」

「お先に失礼します」

 灰色のツナギを着たままで、黒いリュックサックを肩にかけながら、まだ工場に残って作業をする皆に挨拶をし、家路につく。工場の裏に設けられた駐車場に向かいながら、スマートフォンのアプリでプロ野球の試合状況を確認する。

 試合はまだ2回の裏。エース同士の投げ合いで、両チームともまだ得点はしていない。試合展開にもよるが、5回裏が終わるくらいまでには家に帰ることができるだろう。


 職場の工場から家までの、通いなれた道を運転する。道すがら、酒を切らしていたことを思い出し、途中でコンビニに寄る。

 到着したコンビニで発泡酒を一本買って車に戻るとき、ふと、向いの学校のグラウンドでネットを張ってティーバッティングをする親子が目に留まった。子供の方は小学校6年生くらいだろうか。線の太い、恵まれた体格をしている。きっと少年野球のチームでは主力選手として活躍していることだろう。いまはまだ漠然としているかもしれないけれど、プロ野球の選手になりたいとも思っているはずだ。あるいは、今の子たちはメジャーリーグに憧れるものなのだろうか。

 いずれにせよ、バットを振る彼の後ろ姿は輝いていたし、とても頼もしく感じた。試合に出たり出られなかったりで、レギュラーにもなれなかった、二十年前の僕の後ろ姿とは、きっと雲泥の差があるに違いないのだった。





 「バッチこーい」

ーー飛んでくるな。

 ライトのポジションで腰を低くして、打球に備えながら、気持ちとは裏腹な声を出す。嘘をついていることへの罪悪感は、いつからか感じなくなった。

 一回の表。初回からピンチだった。ヒットとフォアボールで一死一二塁。同級生のピッチャーがセットポジションから、投球動作に入る。

 ピッチャーの指先から放たれた球は、打者のバットに弾き返される。金属バットの打球音とともに、ライナー性の当たりが飛ぶ。そして、それは僕の人生最後の守備機会となる。ライナー性の当たりは内野を超えたあたりでバウンドし、ゴロとなって僕の守るライトに抜けてきた。僕はほんの一瞬バランスを崩してしまい、対応が遅れた。打球の正面に入ることはできたが、腰が浮いてしまう。

 この感覚はよく知っていた。このあとどうなるのかも予想がついた。練習のときに何度もしているミスだった。案の定、打球はそのまま僕の脚の間を抜けて、彼方後ろへと転がっていく。

 そのあとのことは良く覚えていないけれど、恐らく僕はそのボールを拾いに行ったはずだ。

 もう、どんなに頑張ってもバッターランナーがホームに還ってくることができるのは分かっていたが、そのときの僕はそれでも全力疾走でボールを拾いに行ったはずだ。何も覚えていないけれど、それは断言できる。ただ、そこにチームの皆に申し訳ないからとか、チームの士気を保つためとか、そんな意図はなかった。ただ、そうするべきだからそうした。ただ、そうするように教わってきたからそうしただけだった。

 そして、ここからは覚えている。そのプレーのあとでタイムがかかって、監督が僕をベンチに下げた。監督は怒鳴ったりすることは決してなかった。このときもそうで、ただ優しく一言

「あれは捕ってあげないと……だめだ」

 そう言われた。僕はすぐに

「すいませんでした」

 と大きな声で言った。けれど、そこには謝罪の意味などは籠もっていなかった。ただ、そうするべきだからそうした。そうするように教わってきたからそうしただけだった。

 ベンチに下がってからも、ただそうするように教わってきたからという理由で、声を出した。同級生の6年生は僕以外全員試合に出ていた。だから、下級生に混じって、大きな声を出した。

 今試合に出ている彼らは、ひとり残らず本気で勝ちたいと思っているように見える。僕らははっきりと言えば弱いチームだけれど、それでも誰も勝つことを諦めていない。本心として諦めていない。少なくとも、打球が来なければ良い、なんて考えていそうなやつはひとりもいなかった。

 僕の方はというと、もちろん勝てたら嬉しいけれど、でも絶対に負けたくないかというと、そうでもなかった。手を抜くつもりもないけれど、本当の意味で真剣ではないのかもしれなかった。楽しく野球ができればそれでよかった。

 ただ、このチームにはそんな気持ちで取り組んでいるのは僕以外にひとりもいなかった。

 いや、いた。かつて、いた。ひとりだけ、いた。僕が、入るより2ヶ月早く入っていた水谷君だ。彼は絶対に勝つという強い信念を持っているわけではなかった。楽しく野球ができれば、それでよかったはずだ。そういう意味では僕と同じだった。けれども、彼は野球を辞めてしまった。たしか、学習塾に通うとかで、辞めてしまったのだ。

 結局、チームはその試合に敗けた。僕は、いつものことだから、敗けたこと自体には何とも思わなかったけれど、チームの雰囲気は暗く落ち込んでいた。僕はその日以来、野球をしていない。塾になんて通わないけれど、チームは辞めた。

 野球が好きだから、という単純な理由で「将来の夢」の欄にはいつだって

ーープロ野球選手

と書いてきたけれど、それももうお終いだった。





 助手席に、買った発泡酒を置いて、車のエンジンをかける。

 グラウンドの少年を眺めながら少し物思いに耽っている間に結構な時間が経ったようだった。

 スマートフォンのアプリでプロ野球の試合経過を確認する。一点先制されていた。スタメンに抜擢された若手選手のタイムリーエラーだとか。

ーー逆転してくれよ

 極めて無責任な期待を抱きながら、改めて家に帰る。

 

 家に帰り、ツナギを脱ぎながらテレビをつける。九回裏二死満塁のチャンスで四番バッターが打席に立っていた。スコアは変わらず一点ビハインド。一打サヨナラの場面で、しかし四番バッターは空振りの三振を喫した。外角に逃げるスライダーをフルスイングでの空振りだった。僕はすぐにテレビのチャンネルを変えた。

 なんとなく、ニュース番組を見るともなく見ながら、スマートフォンでSNSを起動する。タイムリーエラーを喫した若手選手やサヨナラのチャンスで三振した四番打者、あるいは彼らを起用した監督に対する文句がたくさん流れてきた。

 曰く、野球の才能がない。

 曰く、去年の成績が良くて調子に乗っている。

 曰く、実力のない一部の選手を贔屓している。

 などなど、枚挙に暇がなかった。

 テレビに目を向けるとコメンテーターが、国民的俳優の不倫問題について苦言を呈していた。

 僕はテレビを消して、買ってきた発泡酒を開けた。

 一口、飲んだ。

 

 SNSもニュース番組も、本当にくだらなく思えてしまった。同時に、今日、見たもの聞いたものの全てがくだらなく思えてしまった。唯一、価値のあるものと言えば、帰りにコンビニの向いのグラウンドで練習していた少年くらいのものだろう。

 彼は、夢を叶えるだろうか。

 彼は、価値ある大人になるだろうか。

 彼は、勝ち続けられるだろうか。

ーーいや。

 夢を叶えることこそが価値で、夢を叶えることこそが勝ちだなんて、そんなことが言えるだろうか。

 だって、そうじゃないか。

 ニュースもインターネットも、有名人や成功者の批判と揚げ足取りばかりだし、居酒屋に行けば、会社の偉い人の文句と愚痴ばかり聞こえてくる。

 そうやって文句を言われて、批判される人間になんて、誰だってなりたくない。そんなことの為に努力なんて、したくない。

 俗にいう「勝ち組」というのは、夢を見て、それを叶えるために絶え間なく努力して、どんな辛い目にあっても諦めず、耐えて、堪えて、我慢して、そしてついに、やっとの思いで叶えた挙げ句、世間から疎まれ、妬まれ、揚げ足を取られ、忌み嫌われているような人たちのことではなく、それを画面越しに見て安全なところから文句を言って、それでいて自分は何一つ我慢せず、努力せず、安寧を満喫している僕のような人間のことを差す言葉なのではないだろうか。

 夢は叶えてしまったら、その瞬間、現実となる。

 夢を叶えてプロ野球選手になったその結果が、SNSで見も知らぬ大勢の人たちからの罵倒なのだとしたら、夢を見るだけで叶えることなく、ときどき「プロ野球選手になったら登場曲は何にしようかな」などと意味もなく空想に耽ることの方がよっぽど幸せだろう。

 夢を叶えて会社員として出世して、居酒屋で文句と愚痴の対象となることが幸せなことだとは思えない。

 夢は見るもので、叶えるものではないのだ。

ーーそりゃあ、誰も努力しないわけだ。

 僕は一人で乾いた笑みを浮かべながら、再びSNSを開く。

 すると、懐かしい名前が目に留まった。

 塾に行くからと野球チームを辞めた水谷君の投稿だ。

 見ると、彼が部長に就任することを祝うパーティが開催されたらしく、そのときの写真とともに部長としての意気込みや、周りの人々への感謝の言葉が綴られていた。

 僕はその投稿のコメント欄に

ーーおめでとう

 と入力して、しかし、送信することなくスマートフォンを仕舞った。

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