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ああ、頭が痛い。
座り飽きた車の後部座席で、私は歯ぎしりをしていた。
下方さんのホテルに、犯人が立て籠もったという情報を医師から聞いた時は、頭を石で打たれたような気だるさを感じた。
億劫だった。正直に言えばそうだ。こんなこと、警察にでも任せておくのが道理だろう。
だけれど、そうも行かない事情があった。あの忌ま忌ましい犯人から、直々に指名されたからだった。
『爆発を止めたければ、茅島ふくみを連れてこい。彼女を渡せば、この事件は終了する』
狂っている。
でも、逆に考えればこれは最後のチャンス。何処かでそんな確信があった。ここで取り逃がせば、すべてが無駄になる。街は甚大な被害を蒙り、茅島さんは殺されるか施設の不審を買い、中途半端に事情を知っていて存在も認知されている私は、犯人に優先的に消されるだろう。何処か遠くの街に逃げたとしても、殺し屋でも雇われるのかも知れない。
お互いの命を無理矢理に掛けさせられていた。
なんとかしなきゃ……。焦り。またの言い回しを焦燥という。ここで、確実に犯人を取り押さえなきゃいけないんだ。失敗しちゃいけない。その種の強迫は、子供の頃からよく味わっていたものと似ている。
しばらくすると、ホテルに到着した。警察もまだ到着していなかった。医師が言うには、彼女の端末に、直接犯人から連絡があったと聞いた。どこでそんな番号を入手したのか、不気味なくらい疑問だったが今はどうでもいい。犯人の要請には、警察は呼ぶな、という文言も含まれていたし、警察がいないのも当たり前だった。
片足ずつ車を降りた瞬間に、予期しない方向から何者に話しかけられて、私は変な声が漏れた。
茅島さんが驚きもせずに振り返ると、知った顔が二つ並んでいた。
「刑事さん。来ても良いんですか?」
その言葉に本庄谷が不満をあらわにした。
「あのな、本来は警察の仕事なんだよ。来て良いんですかとはなんだ」
「それはすみませんね。あまりに捜査の進展が悪いもので」
「どういう意味だよ」
「まあまあ抑えてくれよ」久喜宮が笑いながらいつもの調子で遮った。「茅島ふくみさん、あんたらの上司から連絡はあったさ。まあ、要するに犯人にバレなきゃ良いんだろう。こんな暗がりで普通の汚いスーツなんか着てたんじゃ、どう見たって警察には見えないだろう? それにパトカーも近くに数台待機させてある。だが、中の様子がわからない以上、突入のしようもないんだよな、これが」
「人質は?」
茅島さんが尋ねると、久喜宮は顎に手を当てながら答える。
「働いていた従業員は全員帰っていない。つまりまだ中にいると考えるのが妥当だ。そこには下方奈々絵も含まれる。被害者なのか首謀者なのか、それは俺の知るところではないがな。当然だが、宿泊客もそのままだ。立て籠もったっていうか、ただ潜伏しただけみたいだ。お客からは、何の通報も入っていない。こいつらがパニックになると不味いから、下手な騒ぎすら起こせないんだよな。さてどうしたもんかね……」
ホテルの方を見上げた。明かりはところどころ点いており、爆弾魔が潜んでいるようには見えなかった。先ほど訪れたときと、何も変わらない。火薬の匂いすら、風に乗って漂ってさえ来ない。潜伏や立てこもり自体が、もしかすると嘘っぱちなのではないか、という疑いさえ首を擡げてきた。
「そうだ、ここ……知ってる」
そびえ立つ、一見すると怪しげな光を放つホテルを眺めながら、土堀が口を開いた。真っ赤な髪が闇夜でも目立った。そういえばなんで彼女、ここまで着いてきているのだろう。
「あの電波が見えた場所だよ。そうだ。ここもマークしてたんだった」
「ちょっと土堀、そういうことは早く言ってよ」八頭司が苦言を呈した。「じゃあここって、初めから犯人が狙ってたの?」
「経験からいうと、そうなる」
「それで、誰が行きます?」
と、身も蓋もないことを、精密女がナイフで刺すような鋭さで口にした。
「おい、待て。そんな許可は出していない。お前たちはここに残れ。一般人が出ていって、何になるっていうんだ」
本庄谷が怒りながら口を挟むのを、精密女は許さなかった。
「刑事さん、悪いんですけど黙ってください。えっと、蝙蝠女をご指名なら、あなたを外すわけには行きませんけど、一人では危険ですよね。一人で来いとも言われていませんし、向こうもそのつもりでしょう。戦慄の三人に彩佳さんと土堀さんも連れていきましょう」
「……待ってよ。彩佳を連れて行くの?」
とんでもないことを叱りつけるように茅島さんが睨む。
そんな反応、しないで欲しい。
「はい。何か問題が?」
「彩佳は……危険よ。何の経験も特殊な機能もない、ただの……大学生だもの。警察に保護してもらったほうが良いわよ」
「それは最善なんですか? 警察が信用できます? あなたがいない間に彩佳さんを狙うかもしれないですよ。あ、久喜宮刑事、今の言葉は気にしないで」
むう、と言い返すこともなく久喜宮が唸った。
「……じゃあ、どうしろっていうの? 彩佳を危険な目に遭わせて、それでなにか意味があるの? 私は耐えきれないよ。彩佳になにかあったら……彩佳を死なせてしまったら、私は正気を失ってしまいそう……」
茅島さんは、強く歯を噛み締めた。
「何を言ってるんですか。良いですか、蝙蝠女、いえ、茅島ふくみさん。彩佳さんには、あなたが必要なんです」
じっと見下ろすような目をして、茅島ふくみに諭す精密女。
きまりの悪そうな表情を、茅島さんも隠しきれていなかった。
「それは…………わかってるわよ。あなたなんかより、ずっと」
「同時に、あなたにも彩佳さんが必要な時が訪れます。例えるなら、そう。私と、演算女のようなものです。あなたはまだ実感はできないかも知れませんが、いずれ近い内にその時は、来ます」
「根拠は?」
「あなたの様子を見ればわかります」
「……そう」
「あなたって、耳の所為か人の感情には敏感なのでしょうけど、自分の感情には疎いんですよ。何故なら、人生経験が二ヶ月程度しかありませんから」
言いくるめられたみたいに、口を結んで黙る茅島ふくみ。
「ここはいかにも突拍子もないことのように感じられるかもしれませんが、年長者の判断に頼るっていうのも、悪いものではないですよ」
「…………彩佳」
ゆっくり首を回して、悲しそうな顔で、私を見る茅島さん。
「彩佳は、行きたい?」
そんなの、悩むまでもない。
「……はい」
「…………」
「茅島さんには、申し訳ないと思います。迷惑も掛けると思います。だけど、茅島さんに、これ以上置いていかれたくないんです。もうあんな経験は、したくないんです」
できるだけ正直に告げたその答えが、まるで良かったとは思えないような表情を、茅島さんは見せると、ふっとため息を吐いて、ホテルの方に向き直った。
「……じゃあ、行きましょうか。彩佳、私のそばを、絶対に離れないで」
そうして、監視カメラの少ない裏口から侵入する運びとなった時に、精密女が私をちらりと見て、
「やるだけのことはしましたよ」
なんて呟きながら、私にウィンクを飛ばした。
「中に入ったわ」
茅島さんが先頭に立って、壁際に隠れながら、医師に連絡を入れた。
裏口は廊下の先に繋がっていた。ここからでは、ホテルと言われようが病院と言われようがスーパーと言われようが、どれも違いはなかった。簡易的な照明が設けられただけの、薄暗い廊下が、ただまっすぐに伸びている。一箇所だけ、大きなゴミ箱が置かれているのだけが目立った。
『そうか。追加で連絡があったんだが、犯人は屋上にいると付け加えている。屋上へは、エレベーターですぐだな。気をつけろよ』
「果たしてそんなにうまくいくかしら。美雪、エレベーターは何処?」
うん、と返事をして、私の目の前で屈んでいる八頭司が、辺りを見回してから端末を開いた。
表示を覗き込むと、ホテルの見取り図が浮かび上がった。公式サイトから表示したようだった。
「廊下を突っ切って、向こうだけど、屋上へは途中から階段で上らないといけないみたいだよ」
茅島さんが歩き始めると、私達もそれに続いた。途中にあったゴミ箱は、調べてみたけれど爆発物が含まれてもいなかった。
横切ったエントランスには、誰もいない。
従業員すらいないなんて、おかしい。やはり、犯人は彼らを人質に取っているのか。それとも、単に深夜帯だからだろうか。こんな時間にチェックインもアウトもする人間はそうそういない。どこか休憩室で、休んでいてくれればと願った。
「どうしたのかな、一般のお客さん。誰もおかしいと思わないの?」
歩きながら八頭司が呟く。
「きっと深夜帯だから、みんな眠っているだけですね。誰も気づいてないのは偶然でしょう。従業員は何処かに捕まっているんでしょうけど、確証はないですね」
精密女が小声で話した。
「じゃあ、なるべく寝てる人を起こさないほうが良いのかな。刑事さんも言っていたけど、騒ぎになったら面倒だよね」
「そうですね。迅速かつ乱暴に犯人を処理しましょう」
そして背負っている鞄を振り回す精密女。ずっと気になっていたけど、何か強力な武器でも入っているみたいだった。私の予想では、トンファーかなにかが似合うと思っていた。
エレベーターホールにたどり着くと、茅島さんはまず爆弾の所在を探った。具体的には、足を鳴らしたり、精密女に拍手させたりした。
「…………大丈夫みたい。呼び出しましょうか、エレベーター」
「ええ、そうですね」
精密女が昇降ボタンを指で押す。電子パネルの表示が動く。しばらく経って、分厚い扉が開いた。
途端に、茅島さんが叫んだ。
「待って!」
私は影を縫われたみたいに立ち止まる。こういう時にこそ、図々しく真っ先に乗り込もうとしていた。面食らった。
彼女は、エレベーターの内部を、屈んで覗き込んだ。
肘をついて、真上を見上げている。
「あるわ」
「なにが、ですか」
「爆弾よ」
――。
「そんな大それたもんじゃないけど、巻き込まれれば大怪我をするわ。肉眼でもはっきり見える」
彼女は首を引っ込めて、エレベーターから離れた。
「どうしようふくみ」八頭司が唸りながら言う。「これじゃあエレベーターが使えないじゃない」
「そうね……。仕方ないけど、階段で行きましょうか」
階段はエントランスに戻って、隅に伸びている廊下の先にあった。
渡ろうとしたところで、私にもわかる問題が目の前にそびえ立っていた。
廊下の両隅に、爆弾が貼り付けられている。
私達が来るのを、待ち構えているように……
「ふざけやがって……」
茅島さんは、舌打ちを漏らした。
ピカピカと、ランプが光っている。
いつでも電波を受信して、起爆するつもりだった。
緑色のテープぐるぐると巻かれて、厳重に取れないように壁に接着されていた。
「これは、遊んでますね」精密女が呆れたように呟く。「児戯では済まされませんよ。何も面白くない」
「どうする、精密女」茅島さんが囁く。「なにか投げる?」
「あの大きさと貼り付け方では……並大抵のものじゃビクともしないでしょうね。むしろ不用意に信管に衝撃を与える方が危険かと。小さいものならともかく、あのサイズじゃ、爆破規模がわかりませんから」
「じゃあ、どこか窓から回る? 私が調べようか」
「いえ、どうせ仕掛けてありますよ。窓枠からなにまでびっしりとね。取れる方法は……うーん、一つしかありませんね」
そう言って精密女は、土堀さんを見た。
彼女は意味がわかっていない様子で、首を傾げていた。
「…………土堀を使う気?」
「そうそう。そのまさかですよ」
精密女の作戦とは、至極簡単だった。
まずは土堀で電波妨害を流し、その間に精密女が爆弾を掴んで、誰もいないエントランスの方へ投げるというものだった。
「危ないわよそんなの! 死ぬつもりなら……」
「あなたに言われたくありませんよ。それに、私、自己犠牲の果てに美しく死のうなんて思ってないんで」
離れていて下さい、と言われ私達は壁際に追いやられた。精密女の持っていた長い鞄は、八頭司に預けられた。彼女は、お金でも入っている鞄みたいにそれを大事そうに抱えた。
微動だにしないように、私は自分の腕を掴んだ。震えがあった。怖いのか。
「じゃあ土堀さん、電波妨害、お願いします」
廊下の真ん中に立った精密女が、宣言するように言った。
それと同時に、土堀が頷いて腕を真っ直ぐに出した。そのままの姿勢で、じっと静止した。
電波妨害が起こっているのかどうかすら、私はわからなかったが、その所為で耳鳴りがするのか、茅島さんは耳をふさいでいた。
瞬間、精密女は走り出す。
爆弾のある位置。左側。爆弾の本体を両手で掴んだ。
見ていられなかった。
今にも爆発しそうな雰囲気を、取り壊せない。
それでも精密女は力を緩めずに、めくるように爆弾を引き剥がした。
「伏せてください」
彼女がそう言うと、私達はさらに姿勢を低くして、頭を抱えた。
頭上の上を、鉄か何かの塊が飛んでいく。
エントランスの中央辺りに、その爆弾は転がった。爆発はしなかった。
あと一つ。右側。
もう一つの爆弾を、精密女が掴んで、剥がして、同じ要領で投げた。
だが、
その爆弾は遠くへも飛んで行かないうちに、
彼女の数メートル先で、爆発した。
熱。
炎。
衝撃があって、暖かい突風が流れてくる。
窓ガラスがすべて割れる。
驚いて、精密女の方に視線を戻した。
彼女は仰向けに倒れていた。
「精密女!」
八頭司が、真っ先に彼女に駆け寄る。
身体を揺する。
外傷はないように見える。だけれど袖の先が焦げていた。腕先は、機械だからよくわからない。耐熱素材なのだろう。
程なくして、呆気ないほどあっさりと、精密女が目を開いた。
「……ああ、畜生……大した爆弾じゃないですね、これ……。遊ばれたな……」彼女は痛がりながら、上半身を起こす。「やられました。すでに手を離していたのと、咄嗟に顔を腕で防いだのが良かったんですが、それでも危なかったですね。火薬の量が少なかったのが幸いでした」
「心配掛けさせないでよ……」
「ごめんなさい!」土堀さんが頭を下げた。「あたしのせいですよね! あたしが……もっと強かったら……」
「いいえ……あなたはよくやってくれました。相手のほうがずっと強力だってことは、あなたが一番わかっていた話ですから。それよりも蝙蝠女」
茅島さんに向き直る精密女。
茅島さんは、息を小さく吐いて言った。
「犯人は、私達を監視しているみたい。監視カメラでも使ってるんじゃないかしら。私達の動きを見て、起爆させてるのよ。もう逃げも隠れもできない。私たちのことは、犯人にバレているわ」
「ええ。では、さっさと上りましょう」
「あなたは、大丈夫なの?」
「まあ元よりこのための機能ですから」
「……そんなこと、言わないでよ」
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