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「どうしたの? 大丈夫?」
席に戻った記憶がなかった。気がつくと、演算女が私の顔を覗き込んでいた。はっとして私は、首を急いで縦に振った。
「気持ち悪くなったのかと思ったよ。本当に大丈夫?」
「ああ、えっと、うん……」
気持ち悪いのには違いがなかった。いっそ吐いて楽になれるのなら、内臓だって吐き出すだろう。
すこし寂しいなと思ったが、よく見ると精密女がいなくなっていた。
「あの…………えんざん、おんな、さん?」
「言いづらい?
「……サラッと本名言っていいの?」
「蝙蝠……ふくみだって、あんたに散々呼ばれてるし、こんなのただの形式だよ。それにコードネームってかたっ苦しくてさ、友だちに教えるもんじゃないよ」
「じゃあ……八頭司、さん」
「うん、よろしくね、彩佳」
演算女、改めて八頭司美雪はそう微笑んだ。というか、彼女が茅島さんのことを「ふくみ」と名前で呼ぶことのほうが、私には天地がひっくり返るくらい意外な事だった。
ニコニコと、新しい友達でもできたみたいに、八頭司は話す。
「でもさー、精密女だけは未だに名前教えてくれなくてさ、付き合い悪いよね、あいつ。ああ、あいつは今、警察に呼び出されて出ていったよ。このチームで一番話が通じそうだからって、代表者としてね。ふくみはまだかな」
「…………まだ時間かかりそうだけど」
「ふうん。医師って、話長いからなー。精密女もいなくなったし、どうしよっか。あ、それよりさ、聞いてよ、精密女の愚痴ずっと言いたかったんだけどさ、ふくみとは連絡取れなかったし、もう溜まりに溜まってるんだけど聞いてくれる?」
「……わ、私に言ってどうするんだよ」
「え、雑談じゃん。一回彩佳と話してみたかったんだよ」
そうして断る暇もなく、精密女のことを一人で話し始める八頭司。それを、ただ暇つぶしのように黙って聞いているだけの私。頭の中では、ずっと茅島さんのことを考えていた。
私は、彼女を失うことなんて望んでないのに、なんだって勝手にそんなことを結論づけて決めるんだろう。いつもそうだ。彼女は頭がいいから、私に尋ねもせずに、なんでも一人で決めてしまうんだ。昔から、そこは何も変わってなかった。
また昔と比べている自分を刺殺したくなった。
身体は正直だった。以前と違う彼女への不満は、どうしようもなく消せない。だけど今更、彼女を失って生きていくなんて、私には無理だった。
破滅。
どうしようもなく、破滅しか見えない。
「でさ、精密女さー」
意識が真っ暗になりそうだったので、八頭司の話に耳を戻した。これは精神安定剤だ。誤魔化しだ。それにはちょうどいい。話を聞いている間は、他のことを考えなくて住むから。
ざっと話を聞くと、精密女はあれでいいと思っているが、八頭司のほうはどう考えても、精密女と上手くやっているとは思えないらしい。意見のすれ違い、そもそも変人気質な精密女を理解しがたい、と殊更強調して彼女は言った。私としても、その部分は概ね同意した。
仕事に関してとなると、特に酷いすれ違いが目立ち、あの腕力でさっさとねじ伏せれば解決するだろう、と八頭司が提案しても、当の精密女はあまり機能を使うことは好まなかった。その理由すら教えてくれないことに、いよいよ激怒しそうになることが、一ヶ月のうちに雨が降ることよりも多かった。
「あいつは、なるべく施設に帰りたくないのかな。それとも捕まえたくないのかな。なんかよくわかんないけど、問題を先送りにしてる気がするんだよね。なんか、そういう態度が、私はちょっと、耐えられないかな」
口をとがらせて、頬杖をつきながら窓の方を眺める八頭司の目は、ここではない何処か遠くを見ていた。そこに精密女が映っているのかはわからなかった。
「だけど、精密女って、あなたがいないと何もできないって聞いたけど?」
水面に毒を一つ投入するみたいな気分で、私はそう尋ねた。
八頭司美雪は、小馬鹿にしたように笑ってから、お酒を一口飲んだ。
「あいつから聞いたと思うけど、腕の動作が不安定なんだよ。ちょっとでも雑念が入ると誤作動を起こすから、機能上の相性が良いとされる私が世話をしてやってるだけだよ。私が入力した数値のとおりになら、自在に腕を動かせるし。あいつ、私がいないと、本当の意味で生きていけないんだよ」
「……八頭司さん的には、それは嫌なの?」
「嫌だよ」
目を伏せて、一瞬だけだけど、周りから遠ざかりたいような表情を見せる八頭司。派手な格好の小娘には、似つかわしくなかった。見てはいけない物を見たような、言いしれない背徳を感じた。
それからルーレットでも回したみたいに、顔を取り替えて、嘘だよ、とでも言いそうなくらいに笑った。
「確かに、私がいないとあいつは生きられない。でも私は、そんなことないんだよ。私は、誰かがいないと生きられないってことは、未だかつてないから。強いて言うなら、音楽がないと辛いかな。趣味が奪われるのは嫌。でも、そこまで人に頼って生きて行くって、価値あるのかな。私にはわからないな。関係ないからさ」
「……私は、茅島さんがいないと生きていけないよ」
「その気持はわかるよ。彼女、凄いよね、何ていうか、存在感? オーラ? みたいなものが。だからさ……」
じっと、私を見つめる彼女。
「ちょっと妬いた。彼女とは気があって、一番の話し相手は私だと思ってたから、施設の外に、こんな女がいるなんて聞いてないなって。あなたのことは、ふくみから聞いたことはあったけど、彼女も全然覚えてなかったし、まったく意外だった。こんなに深い仲だったんだなって。だから最初会った時、ちょっとだけだけど、嫌いだったよ。こうして話してみると、私の考えるような悪い人じゃないってわかったけどさ」
「…………それは、どうも」
「褒めてないよ」はは、と八頭司は微笑んだ。
「結構話すの? 茅島さんと」
「うん、施設で一番歳が近いのが私だったし、チームに分けられる前から、一番仲が良かったんじゃないかな。精密女は……あんな変な性格だし、医師も仕事の話以外はそんなに面白くないんだもん」
「どんなこと話すの?」
「別に。下らないこと、例えば私の趣味の話を一方的にすると、彼女はとりあえず頷いてくれる。本人、音楽は聞かないんだけど、そうやって話しかけると、今度は最近読んだ本のことを話してくれる。私は本なんて読まないから全然わかんないんだけど。それでも一番仲は良いんだって、私は、一方的に思ってたよ。あとは任務とか、医師の話かな。主に悪口だけど」
「へえ。悪口言うんだ」
「うん。嫌ってるわけじゃないけど、あの人弄りやすいんだよね。ああ見えて、実生活はボロボロだから。まあそんなこんなで、私はずっと、ふくみのサポートをやりたかったんだけど、ずっと精密女と組まされてて、不本意な任務につかされてる、ってわけです」
机に顎を置きながら、目だけを上げて、また私の顔を見る八頭司。
「なんであなたなの?」
「なんでって……」
「いやさ、彼女があなたみたいな鈍くさいのと一緒なのが理解できなくて」
「な、急に失礼だなお前」
「あはは、嘘だって。でもなんで? ふくみくらいの人間なら、もっと変わった人と一緒にいそうだけど」
「そんなの…………私だってわからないよ。気づいたら仲良くなってたし……でも向こうから話しかけてくれたのがきっかけだったよ。そこから……喧嘩することもあったけど、彼女が記憶をなくす時まで、ずっと親友だった」
「名コンビですねえ……」
「そっちだって精密女とコンビ組んでますけど」
そう言うと、ため息を吐きながら八頭司は、不機嫌な顔をした。
「解消したいよ」
「直球だね……」
「うん。はっきり言うと、あんまり好きじゃなくてさ、あの人…………」
私も、彼女の性格が、とか意地悪された、とかそういった次元ではなく、もっと人間として根本的な気の許せなさを、彼女に常々感じていた。
「なんか、確かに近寄りがたいよね」
「でしょ? そう思う? 私以外にそう言ってくれる人、初めて見たよ! 嬉しいな」
椅子から立ち上がりそうな勢いで、八頭司は喜びを身体で表した。
年相応というか、それなりに可愛らしい部分もあるものだ。柄にもなくそう思った。
八頭司美雪のことに、私らしくもなく興味が出てきた。
まあ事件を捜査する仲間(その概念を久しぶりに用いた)でもあるわけだし、人となりを知っておくのも、悪くはない。
そのまま彼女のことについて尋ねると、楽しそうに答えた。
「良いけど、話せば長いよ?」
「そんな歳か?」
「あの施設にいると、いろいろあるんだよ」
それでも施設に来た経緯については、言いたくもないのか教えてくれなかったが、彼女が普段、この街に出てこられる理由を教えてくれた。茅島さんは「あの子は気に入られている」と言っていたけれど、本人の口からは「単に態度と歴と未成年だからだよ」とだけ聞かれた。察するに、長いほどではない人生の殆どを、あの施設で過ごしているのだろうか、なんて無粋な想像をしてしまった。
とにかく、何処にあるのかよく覚えてもいないくらい辺境にある施設から、彼女はこの街への外出許可を頻繁に取っていた。街での友達も多く、暇さえあれば毎週のように遊んでいると本人は語った。学校へは行っていないのだろうが、そういうところだけは普通の学生みたいに見えた。友達も選ばないので、不良に見られることもあるらしい話を楽しげに私にした。
一方でコンピューターの技量は私から見ると大したもので、本人はハッカーだかクラッカーだかの友だちから教えてもらった、とだけ言った。なるほど、そう考えると、並外れた技量や、俗世に順応した趣味趣向にも、多少は納得ができた。
「彩佳は食べ歩きが趣味なんだっけ?」
「ああ、うん」
急に話題が飛ぶ女だった。私は話を聞きながら時計を見て、茅島さん遅いな、と思っていたところだったから、完全に気が抜けていた。
食べ歩きが好きなのは、お金を一定額払うと私のような人間でも一般人と同じサービスが受けられるのが妙に気持ちいいから、という理由はなんとなく知られたくなかったので伏せた。
「だから街の構造とか詳しいんだね。他には?」
「うーん、なんだろ。漫画とか読んで現実逃避かな……。茅島さんも好きみたいで、うちにいる間ずっと読んでたよ」
「昔の彼女は、漫画好きだったの?」
「どうだろう。読書はよくしてたみたいだけど…………あの人何が好きなのか、私はあんまりわからないな……」
「なんで。友達でしょ」
「……昔好きだったものが今好きかが、わからないんだよ」
「ふうん……。結構回復したって聞いたけど、全部元通りってわけじゃないんだね」
「なんか…………私だけが覚えてる思い出が、全部嘘っぱちだった、みたいに感じるんだよ……」
……。
「まあまあ、漫画なんていい趣味じゃん。精密女なんか聞いてよ」
私が暗い顔をしたのを察したらしく、話題を反らせた八頭司。
「ジークンドーだよジークンドー。あの女ジークンドーが好きでさ」
「……ジークンドー? なにそれ」
「昔の格闘技。映画とか喧嘩で使われるような物騒なやつだけど、何処からかそのビデオを集めてきて、私に動きを入力させて腕に覚えさせるのが趣味なんだよ、おかしくない? 気持ち悪いでしょ? 一体何に使うんだよって」
「……犯人の制圧じゃないの」
「そんな度胸ないよ、あの人。ただ覚えてるだけ。でもメンテナンスと動作確認にはなるから、しぶしぶ私も付き合ってるんだけど」
……なんだかんだ言って、結構こいつらは仲良いのかも知れない。口に出さなかったけど。世の中の二人組というものは、成るべくして成っているのだろうと私は感慨を覚えた。
一息ついて、お酒を口に運んでいると、店内から聞こえてくる音楽に八頭司が気づいた。一瞬にして、美味しいものを目の前にした人の顔に移り変わった。
私も釣られて、耳を傾けてみた。喧騒でよく聞こえなかったけど、なんとなく輪郭を感じる。気味が悪くて、変な浮遊感があって、リズムすら取れないような音楽だった。いや音楽だろうか、そもそも。
そんな不明瞭な音の波を聞きながら、八頭司は首を揺らしながら、指先でリズムを取っていた。気持ちよさそうな鼻歌まで飛び出していた。私の目にも、彼女が相当この音楽を聞き慣れていることが、明らかにわかった。
私も茅島さんも、音楽は全く耳に入れないので、こんな女を間近で見る機会自体がなかった。
「やっぱり良いねー、サイケデリック・レベティカは」
「サイ……なにそれ?」
八頭司が謎の呪文を口にした。聞いたこともないその単語を、頭の中で反芻しても、意味すらよくわからなかった。
キョトンとしている私を見つめて、八頭司がああ、と言って口を開いた。
「サイケデリック・レベティカ知らないの? クラブ行かない? 流行ってるよ」
こんな変な音楽が流行っていると言われて、大嘘をつかれた気分になった。曲も展開して一層難解になっていき、段々私の気分に影響してきた。なんだか、さほど飲んでもいないのに酔いがますます回ったような感覚があった。
「音楽聞かないんだったっけ」
「うん、全くと言っていいほど聞かない……興味ないんだよね」
「へえ。珍しい。そんな人類いないと思ってたよ。私なんか、週末はこの辺のクラブ、施設に帰ってもサイケを聴き通すくらい好きなんだよ」
サイケという略称ぐらいは聴いたことがあるような……。
「こんな気持ち悪いのが?」
「気持ち悪くないよ!」
茅島さんなら、これを聞いてどんな感想を漏らすだろうか。案外評価しそうな所が面白かった。
「クラブも行かないかー。面白いよ。大音量で音楽聞けて、好きに踊っていいし、変な人がいっぱいいるし」
「変な人がいっぱいいる所が嫌なんだよ……」
「彩佳ってほんと人間嫌いだなあ……。この間クラブ行ったらさ、頭が真っ赤な人と仲良くなってさ」
「いや、あんたも金髪でしょ――って、真っ赤?」
妙に聞き覚えのある単語が、耳を掠めていった。
真っ赤な頭…………
私の覚えている範囲では、その特徴に当てはまる人物は、たった一人しかいない。
「それって、土堀さん?」
「土堀って、容疑者の?」
「そう。取調べ中の、警察が最もマークしてる不良女だよ」
「ああ……でも名前も知らないんだよね、その人。土堀さんの顔写真、ある?」
「持ってないな……」
情報屋で買ってくればよかった。土堀は有名だから、別にいらないと勝手に踏んでいた。
「…………ねえ彩佳、そそういえばさ、クラブで会ったその真っ赤な頭の人さ、面白いこと言ってたよ」
「なに?」
「自分は機械化能力者だ、って」
息を呑んだ。
どうでもいい話から、急激に身のある情報が降り注いで来た。私の動悸が、さっきと比べて明らかに激しくなった。
土堀が機械化能力者なのかどうか、私の知識の範囲では知らないが、その八頭司が会ったと言う真っ赤な女が土堀本人であれば、必然的に土堀が機械化能力者であるという図式が、問題なく成り立った。
そうなると、ますます土堀犯人説が、一層真実味を帯びるんじゃ――
「その、真っ赤な女の機能は?」
身を乗り出して、私は尋ねる。
「えっと……ちょっと待ってね……思い出すから……確か…………電波系だとか言ってたような。詳しいことは言ってなかったけど、そっち方面だって。単純に腕力強化じゃないから、珍しいなってその時は思ったよ」
電波。
上手く操れば、爆弾を遠隔操作で爆破させることも可能だ。監視カメラを妨害することだって出来る。今回の事件に対して、最も有用な能力。
「……土堀に会いに行こう」
「今から?」
「茅島さんならそう言うよ」
「そうだけど……。土堀なら今取調べ中じゃない? 警察署の中だよ」
「――じゃ、早急に警察署に向かいましょう」
声がしたと思ったら、いつの間にか茅島さんが戻ってきていた。私達の会話を聞いていたらしく、真剣な面持ちをしながら、少し楽しそうな様子を見せた。
「茅島さん、電話はもう良いんですか?」
「ええ。くだらない話に付き合わされたわ」
なんて、嘘みたいなことを言いながら、彼女は私に端末を返した。
「いつの間にか、美雪と随分仲良くなったわね」
八頭司の名前を呼びながら、彼女は私を見つめた。
「ええ、まあ……」
「私にも、そんな敬語使わなくていいわよ」
「え? でも、そんな……」
口ごもった。
「そんなことよりさ、本当に行くわけ? アポは?」
八頭司が遮るように言った。
「医師に頼んだわ。再三の警察への協力要請と、土堀さんと会わせてもらえるように。なんなら、久喜宮刑事でも捕まえれば良いだけの話よ。精密女もいるんでしょう?」
会計を済ませて、私達は外に出る。
ここからだと警察署の方面は……北東に位置する。歩くには遠く、私の家の最寄り駅まで戻って、地下鉄で向かうほうが効率的だと思われた。問題は電車の混雑だったけれど、そんなことを気にするのは私くらいだった。
すると、道路沿いまで来た時、私達の耳に、聞きたくもない音が響いてきた。
明らかに爆発音だった。
頭の上で炸裂したような感覚があって、私は咄嗟に伏せてしまった。
爆発……? なんで今頃……? 情報屋は嘘でも掴ませたか……?
「彩佳、大丈夫?」
それでも冷静そうな八頭司は、私のそばで屈んだ。
「ああ……うん……」
「爆発? ふくみ、場所わかる?」
苦い顔をしながら、茅島さんはガードレールの上に器用に飛び乗って、耳を澄ませた。
何処かはわからない方向から、喧騒が聞こえてくる。騒ぎになっていることだけはわかった。近くにいた一般人も、端末を開いてニュースサイトを覗き込んでいた。
こんな時間に爆破されるなんて、前例がない。
「…………彩佳、警察署って、あっちよね?」
茅島さんが指をさす。
「そうですけど……」
「急がなきゃ、不味いわよ」
その方角を、私は思い出す。
北東。
私達が今向かおうとしている方向だった。
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