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 二十二時。

 干からびるくらい歩いて、身体がずっしり重くなった私の目の前にあるのは、「ロッターズクラブ」という、ヴィエモッドよりもまともな食事が出てくる有人のダイナーだった。繁華街の大通り、そこに並ぶなんとかビルの二階に存在した。行ったことはあったと思うが、覚えていない。

 さすがにこれだけ歩くと空腹を嫌でも覚えるが、それでも食欲自体はあまり湧かなかった。

 手動のドアをくぐって中に入ると、演算女と精密女が先に席についていた。ここで待ち合わせをするという電話を、さっき茅島さんが入れていたが、いくらなんでも早すぎる気さえした。電話を入れてから、まだ数分しか経っていない。

「早いわね」

 茅島さんが席に座る。精密女の前。私はその隣に崩れるように座った。

 凝った内装に、おしゃれなテーブルセットが数組しつらえてあり、代えがたい雰囲気が漂っていたが、この街の人間が、そんな事を気にするとは思えなかった。客は私達以外に二組ほどいた。こんな時間でも来るのか。

 今日はここで打ち合わせ、そして報告をして、解散、という流れらしい。やっと家に帰れる、と私は心の中でため息を付いた。

「もともと来てたんだよ」ケロッと演算女が答えた。「コーヒーしか飲んでないけど。なんか食べようよ」

「それが良いわね……」

 備え付けのディスプレイから料理を注文する。私は何も考えずにオムライスを頼んだ。茅島さんはチャイニーズヌードル、つまりはラーメン。演算女は聞いたこともないような料理と、精密女はまた寿司だった。これ以外食べられないのかも知れない。

 店員が持ってきた料理にがっつくと、茅島さんが合間を見て話し始めた。今日仕入れた情報。情報屋のこと、予想される犯人像、容疑者のこと、刑事に出汁に使われている話、ホームレスの噂。いろいろ。

 ホームレスの噂は、さっき久喜宮に連絡を入れて伝えた。すると「やるじゃん」だけ言って電話を切った。なんてやつだ。私は久喜宮への信頼度を出来る限り下げた。

 私達の仕入れてきた情報を話すと、演算女は接待みたいにわざとらしく驚いた。一方の精密女は、ずっと絵を描きながら寿司を食べていただけだけど。

「そっちは何か、進展あった?」

「全然。なにも無かったよ」残念そうに演算女が呟いた。「うーん、というより、現場は警察が取り仕切ってるんだよね。それも私達を目の敵にしてさ……。許可も得られてないなら、納得だよ。医師のやつ、なにやってんだか……」

 不機嫌そうな本庄谷の顔が、何故かそこで思い浮かんだ。

「なにか犯人に動きはあった?」

「それもなかったよ。さっき蝙蝠女が言ったように、本当に爆発させるだけさせてさっさと帰った、みたいな感じ。でも、大学に仕掛けられていたのも妙だし……なんかまだあるような気がしてる」

「私がいなかったら、皆さん死んでましたね」と精密女が横槍を入れたが、誰も返事をしなかった。

「容疑者は、一応全員の家に行って話を聞いたけど、情報屋が言っていたような、家に家族がいる人自体少なかった。下方さんだけかな。でも彼女はしばらく自宅には帰ってないって言ってたし。あと怪しいのは五十田先生だけど、どこかに家族同然の恋人か何かがいると推測される。でもそれって、毎日早く帰る理由になるかしら。情報屋の言うことがおかしいんじゃないの。信じなくていいんじゃないのもうこの情報」

「まあ……それでも、蝙蝠女のことは全員知ってたんでしょ」

「田久さんは憶測だけど、全員当てはまるわ。それに私のことを、情報屋が流してる可能性があるし。情報屋を利用したであろう人物は、下方さんと土堀さん、五十田先生はどうだろう。でも存在は知ってるはずじゃないかしら」

 オムライスを食べ終わった私は、店内のテレビジョンから流れるニュースを、何も考えずに眺めていた。ずっと爆破事件のこと。とくに代わり映えのしない報道が、穴を開けたバケツみたいに垂れ流されている。スーパーの事件が新しく加わったが、現場の映像すら見られない。

 演算女も暇つぶしにテレビジョンを見つめて、鼻で笑うようにして言った。

「うわー、ずっと爆破事件のことだけやってるよ。つまんないだろうな」

「何日もずっとこうだよ」

 私が言うと演算女は嘲るように笑った。

「でも気味悪いよね、ずっと容疑者すら挙がってなくてさ、証拠も、被害者の特定すらされてないじゃん。よくそんな綺麗にできるなって、最初聞いたときはちょっと感心しちゃった」

「被害者すら特定できないことは、最大のネックみたいね」茅島さんが言った。「無差別なのか、実は一人を殺そうとして、多人数を誤魔化すために巻き込んでいるだけなのか、それすらわからないじゃない」

「見えない爆弾魔、なんて言われてるみたい」

「見えない、ねえ……」

 茅島さんはまだ残っているラーメンを啜る。彼女の口に、蛇みたいに麺が吸い込まれていくのを、じっと見つめてしまう。

「警察は、どう? なにか掴んだ気配は?」水を飲んで、茅島さんが尋ねる。

「特に無いよ」演算女が首を振る。「まあ盗み聞きした程度の情報だけど、やっぱり現場は悲惨らしいよ。被害者の話に関わってくるけど、肉片や歯や骨すらまともに残ってないってさ。これも聞いたとおりだね。あとは……そうだ」

「なに?」

「スーパーの爆破時刻だけ、他よりズレてるんだって。他の現場では、だいたい十九時には爆破されてるんだけど、スーパーだけそこから十分あまりも遅れてるってさ」

「なんかの誤差じゃないの?」

「あれだけ今まで周到だった犯人が、十分もズレさせることって、考えられる?」

「私はおかしいと思いましたよ」精密女が胸を張りながら、割って入った。「時限爆弾という説があるくらいに正確なんですから、それくらい時間がズレると、手動での爆破を嫌でも疑ってしまいますね。策略なのかも知れませんが、それはそれとして」

「警察はなんて言ってるの?」

「時限爆弾の線はもう薄いだろう、と。だけど正確な理由、原因はわかりかねています。警察も、そういう予想の範囲でしか展望はありません」

 それで二つの現場にいた土堀に焦点を絞っているのか。なんでも良いから吐かせれば、警察のメンツは保たれるのだろうけど、彼女が真犯人でない場合、それで事件は収まるとは思えない。それとも、逮捕者が出た時点で、自分がもう疑われる可能性は消え去るのだから、犯人もそこからは大人しく暮らすのだろうか。いや、そんな人間が、爆弾なんか使って人を殺さないだろう。

「後そうだ、頼まれてたこと、調べたよ」

 演算女が、端末を立ち上げてこちらに向ける。

 女の顔写真と、名前が記されている。本庄谷和海。先程、茅島さんが演算女に調べるように頼んでいた、下方先輩の友人らしい人物だった。本当に実在したんだ、と間の抜けた感想を私は抱いた。

「あら、ありがとう。すぐにわかった?」

「区役所に行けばすぐですよ」不機嫌そうに演算女は言う。「写真は、まあ、イリーガルな方法で入手したけど。彼女、本庄谷刑事の妹で間違いないみたい。年齢と家族構成と出身が殆ど一致するし」

 念のために、本庄谷和海の写真を私の端末にも保存した。知らない女の写真が増えていくと、なんだか腑に落ちない妙な気分になった。

「じゃあ……このあと早速行きますか……今夜は、徹夜かしら」

 茅島さんが、そうぼやく。

「徹夜って……帰らないんですか?」

 ぎょっとして、私は訊いた。

「……そんな暇があったら苦労ないわ。明日には下手すると死んじゃうかも知れないわけだし」

「…………」

「ああ、ごめん。彩佳が無理に付き合うことないわよ」

「いえ、そうじゃなくて……」

 明日のことを思い出す。すでに必要なものも買ってあった。

 なのにあなたがいなくちゃ、意味ないじゃない。



 精密女が突然アルコール(焼酎)を注文したので、それに釣られて私達もお酒を頼んだ。経費で落ちますから、と精密女は優しく私にそう言った。喉も乾いていたので、私はその誘いに乗った。

 この後また本庄谷の妹にでも聞き込みに行くのだろうかと思うと、吐きそうなほど気が重くなった。飲まなければやっていられなかった。

 それでも茅島さんは水だけを飲んでいた。

「飲まないんですか?」

 ビールを飲みながら私が尋ねると、彼女は首を振った。

「お酒、好きじゃなくて」

 はっきりとそう告げられる。

 ウィスキーが好きだった茅島ふくみは泡になって消えた。

 記憶の損失は、味覚まで変化させるみたいだった。現に、食べ物や味付けの好みまで変わっていることもままあった。以前好きだった料理を作っても、全く何の反応もなかったり、悪い時ではあまり好きじゃないのよね、と残したりもした。不味いと言いながらも、食べ残すことはほとんどなかったけど、よほど嫌いなのだろうか。以前は、嬉しそうに平らげていたというのに、随分と変わってしまったものだった。

 ビールを傾けて流し込むように飲んだ。この味は、いつも私を暗い思考から救い出してくれた。特に苦い所が良い。自分自身に、なにか罰を与えているみたいで、それが少しだけ気持ちよかった。

「蝙蝠女、施設でも珍しく全然飲まないよね」

 演算女がカクテルの類を舐めながら、言った。というか、彼女は未成年じゃないのか。アルコールの入っていないものなら良いけど。

「だめですよ、そんなんじゃ」と精密女。「頑張った自分への活力剤ですよ。経費で美味しいもの食べて、飲んで、明日から頑張ろうって」

 茅島さんが、呆れたように言う。

「次頑張ろう、なんていう気持ちでやってないわ」

「へえ。いつでも全力ですか?」

「いえ、いつ死んでも未練がないのよ」

「そんなんじゃ耐えられないよー」演算女が嫌悪するように漏らした。「まだ死にたくないな、私」

「私だって死にたいわけじゃないけど……」

 その時、誰かの端末が鳴った。顔を見ていくと、精密女も演算女も蝙蝠女さえも私の方を見ていた。慌てながら、私は端末を開いた。医師。そう表示されている。医師からの電話が鳴っていた。

「はい……もしもし」

『加賀谷さんか。悪いが、茅島ふくみに代わってくれ』

「あ、はい、わかりました……」

 そのまま茅島さんに端末を渡すと、彼女は席を立ち上がって、話しながら店の外へ出て行った。急ぎの用事だったのかは予想もできなかったが、少なくとも医師の様子は、さほど慌てているようには見えなかった。警察との交渉もうまく行っていないのに、呑気なものだ。私は医師のことを訝りながらそう思う。

「なんだろう。定期連絡かな。そんな時間だよね」

 演算女が時計を見た。夜十時半。眠気が頭をもたげて来る時間帯だったが、普段からあまり健康的な生活をしていなかった私は、まだ寝るような時間でもない。

「うーん、捜査に進展はないですし、連絡に困りますね……」

 精密女は、焼酎を飲みながら、茅島さんが消えていった方の窓の外を見ていた。

 手持ち無沙汰だった。二人の顔を見て、私は急激に居心地が悪くなった。茅島さんがいるから付き合っていた連中に過ぎないこの二人と、友達みたいに接しろだなんて、私にはあまりにも難しいことだった。

 不安になりながらビールを飲み干して、私はいそいそと立ち上がる。

「ちょっとお手洗いに……」

「ああ、いってらっしゃい」

 フラフラとトイレに駆け込む。

 ふう……。

 疲れた。

 彼女がいないだけで、こんなにストレスを感じる身体になっていたなんて、自分でも少し驚いた。もはや身体が紙で出来ているのかと思ってしまうくらいだった。

 個室にも入らず、深呼吸をしながら、洗面台で髪を整えて手を洗っていると、開いた窓から話し声が聞こえた。店の外の廊下に通じているようだが、位置が高く、首を伸ばしても外は覗けなかった。

 だけど、漏れてくるこの声は茅島さんだった。

 まるで盗み聞きしているような形に、私は気持ちの悪い罪悪感を抱えたけれど、その場を立ち去ることも、物音を立てて誤魔化すこともせず、聞き耳を立てて、自分の手をじっと見つめた。

 ――だから…………久喜宮刑事が…………

 事件のことだろう。演算女が言った通り、定期連絡を交わしている。何を気にしているのかわからないが、少しだけ安堵しながらも、私はまだその場を動けないでいた。

 次第に話題は移り変わっていく。

 加賀谷さん、彩佳、などの単語が出てきたところで、私は完全に首を窓に向けて、目すらも離せなくなる。

 茅島さんの綺麗な声が、嫌に透き通って、私の鼓膜にも届いた。

「…………彩佳、全然昔のこと吹っ切れてない。私がなにか答えるたびに、納得できないって顔をするの。普通の人の反応じゃないわ。もっと、心的外傷を抉られてるみたいな……」

『余程のことらしいな』

「ええ。で、彼女をよく分析すると、それが苛立ちや不安、そんな感情だってわかったわ。私、前よりはいくらか劣るとしても耳が良いから、そういうの、わかりやすい人のなら全部わかっちゃうでしょ。彩佳って、私の中に、彼女の記憶の中の私をずっと見てるんだけど、それと今の私との齟齬が、彼女の辛い思い出を刺激するみたい」

『…………無理もないさ。ただ一人の、大切な友達だったんだよ。私が、そういう言葉で片付けてはいけないくらいのな』

「だから……その度に申し訳なくなるけど、でもどうすることも出来ない自分に、もどかしさを感じる。出来ることなら、今の私なんて消えてしまってもいいから、記憶が戻ればいいなんて、そんなこと初めて思った。でも、そんなのは不可能だって、あなただって言うじゃない? 彼女は私のことを吹っ切って、私のことなんて忘れてしまうのが、一番健康的だと思うわ」

『……そう簡単に行くかな』

「彼女を救うためなら、死んでもいいって思ってる」

『バカを言うな』

「本気よ。私が死んで、彼女がもっと……まっとうに生きられるなら、それが良いんじゃないかしら。人間、一人じゃ、元には戻れないわ。私の所為で、狂わせてしまったのだから、元に戻せるのも私。私のことを、彼女がどうでもいいと思ってくれればいい。そのためだったら……」

『…………』

「……やっぱり、中途半端に、彼女の前に現れないほうが、良かったのかしら。危険な目に巻き込んで、私のことで嫌な気持ちになるくらいなら、会わないほうが、良かったのかしら……」

『どうだろうな……』

「でも、彼女をこうしてしまったのが私。だとすれば、治せるのも私しかいないわ。私には、その責任があるの……」

 トイレから出た。

 それ以上は、私の精神力では、とても聞いていられなかった。

 吐きそうになった。

 なんで、そんな事を言うんだろう。

 だけど、彼女の言葉を否定する事実を歩んでいなかった。

 確かに、ついさっきだって、私は彼女を過去と比べて、歯ぎしりをしていた。

 全部、バレていたのか。

 恥ずかしい。

 恥ずかしさのあまり、私のほうが死んでしまいたくなった。

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