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 私達が登ったのは古いマンションだった。

 ここには土堀綾乃の部屋がある。五十田先生のマンションから、歩いて数分の場所に位置していた。大学からの交通の便を考えると、この辺りに学校関係者が集まるのは、全く自然な現象だった。

 それにしても薄汚れた、数百年前から建ってるんじゃないかという錯覚を覚えるくらいに、年季の入った建物だった。私の家よりも、ずっと家賃は安いのかも知れない。この都会にまだこんな家屋が存在することが、私にとっては意外だった。

 彼女の部屋は三階にあった。五階建てだったから、半分よりは上に位置していた。廊下に狭い感覚で部屋が並んでいる。今にも腐り落ちそうな手すりからは、落ちたら死ぬ程度の地面が見える。

 表札すらかかっていない土堀の部屋の前まで来たとき、茅島さんが躊躇いもせずにインターフォンを押した。部屋内の隅々まで電子音が浸透していく感覚があったが、どれだけ待っても反応はない。留守だ。

「……まだ取り調べかしら」

 舌打ちと共に、茅島さんが漏らす。

 諦めきれないのかまた茅島さんが窓から中を覗こうとしたけど、カーテンが厳重に閉じられており、僅かな隙間さえも認められなかった。何かを隠しているような神経質さを感じた。よく見ると、カーテンが不自然なほど窓に張り付いている。テープで貼り付けてあるのか、それとも窓の前にタンスでも置いてあるのだろう。

 土堀がそこまでする理由が、私にはわからなかった。

「入念ね……。私みたいな不審者が来るってわかってたのかしら」

 窓のふちを触りながら、彼女はぼそりと言う。

「さあ……。でも学校でもあれですから、誰かに恨まれるってことはわかってたんじゃないかと……。こうやって隠れながら生きてるみたいな様子を見ると……」

「ふうん。不良の子だったわよね、土堀さんって」

「まあ、悪く言えばそうですけど……確か、不登校気味で、勉強もあんまりできなくて、専攻は……経済ですっけ。あんまり覚えてませんけど」

「あなたにしちゃ詳しいじゃない」

「私なんかが変に噂も覚えるくらい悪口言われてます。本当に目立つ人みたいで……」

「そんなにワルなわけ?」

「それもそうなんですけど、頭が」

「悪い?」

「いえ、真っ赤らしいんです」

「赤く染めてるってこと?」不思議そうに茅島さんは目を丸くした。「別に頭を何色に染めようが、どうでもいいけど、確かに人目は必要以上に引いてしまうわね。現場にいたら誰だってそんな頭の人のことを覚えてるわ。現にスーパーでもホテルでも目撃されてるし。でもそれ以前はなんで容疑者が一人も挙がらなかったのかしら」

「……犯人の機能、ですかね」

「おそらくはそうよ。爆弾を爆破させるだけの機能じゃないのよ、きっとね」



「次は……下方さんの家って、確か彩佳の家の方角よね」

「はい。こんな近くに住んでたなんて、今日まで知りませんでしたけど」

 土堀のマンションから出て歩み始めた。

 駐車場を横切ろうとしていた時に、後ろから声をかけられて、私は驚いて地面に転けそうになった。

「おい、何やってるんだ」

 悪いことをした子供みたいに振り返ると、あの刑事の片割れの若い方がしかめ面でこちらを睨んでいた。

 名前は確か、本庄谷だっけ。

 睨まれながら、茅島さんは愛想笑いを浮かべて、堂々と答えた。

「あら、お仕事ですか? 私達もそうなんですよ」

「何が仕事だ。嗅ぎ回りやがって。土堀のマンションから出てきただろ。何してた?」

「いやですね。お仕事だって言ったでしょ」

「民間人が介入する許可は出してない。さっさと帰れ」

「まあまあまあまあ本庄谷くん」

 とさらにその後ろから聞いたことのある軽い声が聞こえた。そしてひょいと姿を見せる久喜宮刑事。やっぱりいたのか。

 久喜宮は、茅島さんの顔を伺うようにして本庄谷に言う。

「残念だけどな、さっき本部から連絡があった。上が、このお嬢さん方には惜しまず協力しろってさ」

「な、なんだよそれ」

 本庄谷は不服そうに目を丸くした。

「いろいろあって、彼女らを蔑ろにするとあとが面倒くさいんだろう。まあ国の認可を受けているとは言え、お嬢さん方は俺たちには得体の知れない組織だ。変に刺激しないほうが賢いと思うが?」

「あんたは、それで良いんですか?」

 睨みの矛先を、上司に向ける本庄谷だったが、久喜宮は少しも臆さず答えた。

「それにな本庄谷。冷静に考えてみろ。この事件は、もう俺たち腑抜けきった警察だけでどうこうできる規模じゃないとは思わないか? 公安の連中も役に立たない、上の命令も支離滅裂、おまけに俺たちは酷い寝不足ときたもんだ。使えるコマは使おうぜ。最後に手柄さえ立てれば文句ないだろう」

 本庄谷はそれには何も答えずに、不機嫌そうにただ一歩後ろに下がるだけだった。了承した、とも言いたくないのだろう。

 それを見届けると、久喜宮は私達に本腰を入れるように向き直った。

「えーっと、茅島ふくみさんと、加賀谷彩佳さん、だったかな。ここはひとつ見逃してあげるから、どうだ、俺たちと協力関係と行かないか? 必要以上のサポートを俺たちがしてやろう」

 火を見るような明らかさを持った、薄気味悪い作り笑いを浮かべながら、彼は手を伸ばす。握手を求めているらしいことは、私でもわかったが、何処か胡散臭い。

 しばらくその手を見つめていた茅島さんは、視線を上げて久喜宮の顔を見ると、手を出しもせずに言った。

「あなた、協力したいなんて微塵も思ってないでしょ」

「当然だよ。これは形式。あんたが手を取るか取らないかで、俺達の今後の態度が変わるっていうイベントさ」

「なによそれ」

「本当は上からの命令なんて出ちゃいないさ」

 ……。

「捜査本部は事件を収束させる能力すら無いくせに、お前たちに協力する気なんて全く無いんだよ、残念だけどな。あれは、本庄谷を黙らせるための口実に過ぎない。ただ、俺個人が捜査に深刻に行き詰まってるから、あんたらを出汁に使おうっていう魂胆だよ。俺は事件が解決すれば、誰が介入しようが、どうでもいいからな。知っていることは教えてやるよ。さあどうだ?」

「それは嘘?」

「その耳で聞いたらどうだ?」

 茅島さんは、しばらく悩んだ挙げ句に、そのままつまみ上げるような動作で手を取った。

「……断る義理もないわ」

「よーし、じゃあ俺たちは今から協力関係だ。よろしくな」

「…………わかったわよ」

「ま、早く解決して、平和に暮らしたいのはお互い様だろ? いやだね、警察の縄張り争いってのは。市民の安全が一番。そんなの当たり前だよな」

 後ろで見ていた本庄谷が、舌打ちをしながら久喜宮に向かって口を開いた。

「久喜宮さん、俺に喧嘩売ってんですか?」

 ……。

「なんでだよ。お前顔が怖いんだから売るわけ無いだろうが」

「…………」

「なんだ、気にしてたのか?」

「してませんよ……」

 そう言いながら、一気に本庄谷の表情が崩れた。私達には見せることは絶対にない感情が露わになっている気がした。

 確かに、この二人を組ませることは、上層部の英断なのかもしれない。

「喧嘩なんか売ってないさ。さっきも言ったけど、俺は彼女らを利用したいだけに過ぎない。お前は警察として手柄が欲しい。だけどそれは、俺たちだけの能力じゃ、現時点では不可能。それを可能なレベルに持っていくのは、当然の知略だよ」

「なにが知略ですか……とにかく、邪魔だけはさせないでくださいよ」

 本庄谷は私達を目で刺した。それでも、さっきと比べると、まるで別人のように随分と雰囲気が柔らかくなっていた。気でも抜けたに違いない。

 茅島さんは、二人を見ながら私に囁く。

「なんか……仲いいわね、あの二人」

「そうですね、ピリピリしそうで、なんか丸く収まるっていうか……楽しそうっていうか……」

 熱意はあるが誰にでも突っかかる本庄谷と、それを扱いきれるが警察としては問題がありそうな久喜宮。悪いコンビではない。二人三脚で言うと、速さはないけど絶対に完走は出来そうな組み合わせだった。

「じゃ、爆弾魔の方は、お嬢さんたちに任せるとして」

 そう気持ちを切り替えるみたいに久喜宮が口にすると、茅島さんは解せない顔をして尋ねた。

「刑事さんたちは、爆弾事件を追わないの?」

「ああ。別に対策本部を立てられて、無能な俺たちは別件を追えとさ。だけど、俺は考えるんだよ。この一連の事件、何処かで繋がってるんじゃないかってな。それを調べるのが今の仕事だ。関連がわかったら、爆破事件の捜査に戻してもらうよ。別件のくだらない捜査なんて、いかにも俺たちに向いてない仕事だろ?」

 へらへらと笑う彼。

「久喜宮さんは、どんな仕事がしたいの?」

「はは、聞いて驚くなよ。まあこう見えても、俺は機械化能力犯罪ではちょっと知られたもんなんだよ。そうだろ本庄谷」

 振り向いて久喜宮が話しかけると、本庄谷が頷いた。電子タバコを吸っていた。

「機械化能力者を相手にして、久喜宮さんよりも優れた生身の人間なんていませんよ」

「おお、素直だな」

「あんたがそう言えって言ったんですよ」

「そうなんですか……」興味なさげに茅島さんが頷いた。「別件って、何を調べるの?」

「ああ、失踪事件さ」

「それって、ホームレスの?」

「その件も含めてな。失踪者の大半はホームレスだ。だが、そうじゃない平凡な市民も含まれている。これらの行方を探すんだとよ。雲を掴む話と言うか、霞を食うと言うか、悪魔の証明のような仕事だろ。まあ市民失踪事件は、だいたい目撃証言を洗えば察しはつくんだが、ホームレスの方は俺たちに常日頃から非協力的でな、少し手を焼いてるんだ。困ったもんだ」

 ホームレス以外にも失踪者がいるという事件は、聞いたことはあった。これもまた、連続爆破事件の影に隠れて忘れ去られてしまったけれど。私も現に、今話を聞いた段階で思い出した。

「それは……大変ですね」

「そこで相談なんだが、俺たちの代わりに、ホームレス連中に話を聞いてくれよ。俺たちじゃ警戒されるから、ろくに捜査にならないんだよ」

「そんなの一般人に任せてもいいの?」

「解決できるなら、どうでもいいね。それにお前たちのことを、俺は一般人だと思っていない」

「しょうがないわね……」茅島さんはしぶしぶ頷く。「これ、私達の仕事が増えただけじゃない?」

「そのかわり情報流してやるっていうことだ。端末の番号は教えたから、いつでも聞いてくれていいぞ」

「あなたロクでもないわね。本当に私達を利用する気?」

「よく本庄谷に言われてるよ。不良刑事ってな」

 さて、と久喜宮は呟いて、踵を返した。

「捜査は勝手にすればいいし、俺たちも協力も惜しまない。だけど、足だけは引っ張るなよ?」

 そう言い残して、彼は去った。本庄谷もいつの間にか、闇夜に消えていた。まるで幻を見ていたみたいに、そこには乾いた地面だけがあった。

「解せないわね、あの男」

 ただ低い温度を保った空気が漂っている空間に向かって、茅島さんはそう呟いた。



      ★1



 彼女についてわたしが知ったのは、単なる偶然だった。とびきり良い耳を持っているという事実が、わたしの興味をトリモチのような勢いで惹きつけた。

 人の嘘を見破り、周囲の音を下手をするとキロ単位で拾うことができ、暗闇も移動することが出来る、卓越した機能。わたしはいままでに、そんな人間を視界に入れたことがなかった。

 そのうえであの容姿。小柄な身体、か細い手足に、妖艶な長い髪。美のイデアがそこにあるかのようだった。いや、人間のイデアかもしれない。

 愛おしい。

 そんな感情さえ覚えた。

 こんなに強い想いを抱いたのは、お姉ちゃん以外では、彼女だけだった。

 愛おしい。

 手に入れたい。

 あなたが欲しい。

 だから、私はあなたの命を狙う。

 どうしても、あなたを殺さなければならない。

 だって、あなたが必要だから。殺さなければならないから。わたしには、それ以外の方法が思いつかないから。そうすることしかできないから。

 美しいものを壊す時の、言い知れない快感を想像するだけで、呼吸が激しくなる。チョコレートを口に含んで、ゆっくりと舐め回している時にも似た、耐え難いほどに甘い官能。このまま頭が壊れてしまえば良いとさえ思った。

 ああ、

 茅島ふくみ。

 あなたを殺す。わたしの望みは、たったそれだけ。

 そして、お姉ちゃんを救うの。

 あなたなんかより、ずっと愛おしいお姉ちゃんを救うために、あなたを殺すの。

 お姉ちゃんも、それを望んでいるの。

 あなたとお姉ちゃんを天秤にかけるまでもない。

 わたしの一番は、お姉ちゃんだった。

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