3章 過保護の内臓を薄い窓が脅す

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 窓。

 私達の前には、今、馴染みのまったくない窓がある。私の家のものとは、そもそも材質からして異なっていた。それなりの家賃を支払っていることに対する、一種の見返りなのかも知れないと、私は愚痴みたいに心の中でそう思った。

「こう……隙間から……見えないかしら」

「駄目ですって。普通に犯罪ですよ」

 茅島ふくみが、窓を覆っているカーテンの隙間から中を覗こうとしていたけど、さすがにそれは見過ごせないと思って、私は止めた。

「警察だって、こんなこと許してくれませんよ」

「なによ、そんなこと言ってられる状況?」

 演技みたいに真面目な顔をして、茅島さんは私に訊き返した。そう言われると、じゃあしょうがないか、なんて気分にはならないでもなかったけれど、首を振って自分を律した。

「駄目ですってば。連絡したんだから、大人しく待ちましょうよ」

 私と彼女は、廊下の柵にもたれ掛かりながら、吸い込まれそうなほど遠くにある地表を、唾でもかけるみたいにじっと見下ろしながら、呼び出した人間をじっと待った。

 ここは、五十田先生が住んでいるマンション。その八階。さっき窓から中を覗こうとしていた部屋は、あたり前のことだが五十田先生の自宅。流石に学生マンションとは、比べ物にならないくらいしっかりとした、喩えるとしたら扱いの良い刑務所のようなところだった。

 学校からは羨ましいくらい近い。周辺にはコンビニも飲食店も数軒あった。こんな所に住んでいたのか。もちろんのことだけど、先生の家になんて初めて訪れた。

 普段から、あまり実生活を感じさせないような先生だったけど、彼女もしっかり利便性で部屋を選んでいたのか。なんだか、人工知能にも生の感情があったときのような、決まりの悪い変な気分になった。

 容疑者の素性を知りたい、とは茅島さんが言い出したのだけれど、学校から最も近くにあるのが、五十田先生の自宅だ。突然伺っても失礼だろうと電話を入れると、彼女はまだ出先だ、と話した。とっくに帰っているものだと思ったけど、なんでも買い物に出ている、と言う。待たせてもらうことを伝えると、寒いけど風邪引かないでね、とだけ答えて、彼女は電話を切った。

 とりあえず、私達の目的を知りながら、それでも拒むつもりはないらしい。あとは怪しまれないように、先生の素性と、事件の様子、警察に話したことを聞き出すだけだった。

 しばらくそのままじっとしていると、私達の隙を伺うみたいにエレベーターが動いた。

 ドアが開いて、姿を見せたのは、私達が待ち望んでいた五十田先生だった。大学で別れた時から、姿形は当然だけど何も変わっていなかった。軽く息を上げながら、両手には、ビニール袋と鞄を抱えていた。

「こんばんは、おふたりさん。で、何の用なの?」

 涼しい顔をして開口一番に、そう尋ねる彼女。

 茅島さんは臆すること無く、至って良い生徒のふりをして、答えた。

「こんばんは、先生。お時間盗らせて申し訳ないんですけど、事件のことを聞かせて欲しいんです。よろしいでしょうか?」

 茅島さんの手には、さっきコンビニで買ったお土産が掴まれていた。私が選んだ、お酒に合うつまみだった。魚介類の固形エキスの類だ。大した味もしないが、大した値段もしない。

「……まあ、とりあえず入ってよ」

 見られてまずいものなど無い、という風に、彼女は自宅のドアを開けて、そのまま私達を招き入れた。



 中は思ったよりも殺風景だった。

入って手前の居間は、神経質なくらい綺麗に片付けられていた。それが却って、生活感を殺していた。仕事で使うのであろう随分大きなコンピューターと、折り畳まれて積み上げられた持て余したような大量の衣類。あの先生からは想像もつかないくらい、変わった趣味の服もある。普段休みの日に着ているのだろうか。あとは整えられたベッド、タンス、多くの化粧品が置かれた机、仏壇。そんなものしかない。日用品。それだけ。怪しいものはない。

 その居間で待っていて、と彼女に言われて、私達は床に座った。

 正座をする茅島さんが、きれいな姿勢を保ったまま、辺りを見回している。その度に長い髪が揺れるのが、少し面白かったが声に出して言うことはなかった。

「大きなコンピューターね。相当ハイスペックじゃない? これ」

「うー、ちょっと、わからないです。機械って、苦手なんで……」

「そうなの。五十田先生の授業って、どんな感じ?」

「さあ……なんでしたっけ。人体解剖学? そんな感じの授業は受けたことあるんですけど、私の専攻とズレてますから……」

「ふうん……」

 ばたばたと、着替えてきた五十田先生が、缶ビール三本を片手に居間へ入ってきた。普段のスーツ姿と違って、あまりにもラフな、そのまま横になったら眠れそうなくらいの薄着。折り目の入ったシャツと長くて動きやすそうなズボン。いくら室内はそれほど寒くはないとは言え、その格好では風邪を引くんじゃないだろうか。

「飲む?」

 眼の前に座って、先生が缶ビールを私達に向けた。私は喜んで受け取ったが、茅島さんは首を振って拒否した。本当に、一滴も飲むつもりがないらしい。代わりに彼女は手に持っていたお土産を先生に渡すと、先生は嬉しそうに受け取る。

「おお、気が利くじゃん」

「まあ、夜分遅くにお邪魔するんですから……」

「そうだよ。まったく、今日は早く帰ろうと思っていたのにさ……引っ越しの準備もあるっていうのに、警察はそんな事お構いなしなんだから……それがあいつらの仕事だとはわかってるけどさ……」

 彼女は缶ビールを空けて、一口ありがたみもなしに飲む。もはや普段から飲み慣れていて、特別に何の感慨もない、という様子だった。私もその気分はよくわかった。口をつけたが、いつものビールの味だった。おいしいけれど、泡沫のようにただそれだけで終わった。

 それにしても、先生が引っ越しを控えていたなんて、聞いたこともなかった。休学しているから、当然だったのだけれど。

「引っ越し、するんですか」

 飲み食いせず、ただまっすぐに座っているだけの茅島さんが、話の切り口なのか、そのことについて尋ねた。

「うん。そろそろ契約が切れるし、せっかくだから新しいところ探そうかなって。どうせ、大学の近くにはなるんだろうけど、なんだかここも飽きちゃって」

「ご家族は?」

「……その前にさ、一つ聞いてもいいかな?」

 遮りながら私達の方を向いて、一つ言う。

「あなた達、私を疑ってる?」

 ……。

「好奇心です」

 茅島さんは、笑顔を絶やさずに、そう答えた。猫をかぶっているという表現が浮かんだ。

「……学校でも言ったけど、ただの好奇心だけで、そんな事に首突っ込むもんじゃないよ。警察志望ったって、刑事課だけは止めたほうが良いね」

「でも、決めたことですので……」

「そう……。あの茅島さんが、ねえ……」

 先生はため息を吐きながら、缶を見つめた、茅島さん本人がもう覚えてもいない、記憶の彼方にある彼女の姿を、懐かしむように思い出しているように見えた。味のしなくなったガムを、いつまでも噛み続けているような、意味の無さを感じた。

 まあいいけど、と先生はお土産を開けてまた無遠慮に口へ放り込んだ。魚介類の何らかの味がし続けるらしい。実は食べたことはないので、よくわからない。

「……えっと、家族は、いないよ。数年前に父が他界して、母親は知らない間にいなくなってた。死んでるんだろうけど。父親の趣味で、仏壇はずっと飾ってるよ。家族代々受け継がれてきた、なんて言ってったけど、私そういうの興味ないし、邪魔だから次の引っ越しで捨てようと思ってるけど、どうしたらいいのかな。そのへんの寺にでも言うかな」

「じゃあ今は一人暮らし、なんですか」

 そう尋ねながら、茅島さんは周りを見る。その視線を追うと、タンスと机の周りに目が向いていた。折り畳まれた着替えと、ごちゃごちゃした化粧品の類。一見違和感がないようだったが、一人暮らしの人間が普通に用意する分にはどちらも数が多かった。何処かへ出かける時の特別な装いが、この先生にもあるのだろうか。

「そうだよ。恋人もなし。そういうのも興味ないし、どうでもいいんだけどね。それで、父の遺品やなんやで、引っ越しの準備が大変だからさ、早く帰りたいっていうのに、こんな事件に巻き込まれて、最悪だよ。あなた達も疑われたんじゃない?」

「まあ、はい……」何も話さないのも悪いと思ったので、私が茅島さんの代わりにそう答えた。「スーパーが爆破された時、私現場にいたんです」

「あら本当? 大丈夫だった?」

「はい。怪我はないんですけど、それが逆に警察にとっては怪しいみたいで……」

「なんてザルな仕事してんのよ、まったく……私も、たまたま近くにいただけで疑われちゃってさ。そうそう爆発も見たよ。そんな派手じゃない分、現実感があって怖かったな。でもさ、あの現場、土堀さんもいたらしいじゃん」

「土堀さんが?」

「うん。事情聴取も終わって数日後にまた爆破事件に出くわすって、逆に狙われてる立場なんじゃないかって、私は心配になったよ。あの子、今学校も休んでるしさ」

 話を聞きながら、茅島さんは今度はコンピューターに目を向けていた。余程気になるのようだが、私にはそれほど詮索するべきもののようには見えなかった。

 それでもお目が高い、とでも言いたげに、五十田先生は茅島さんに、嬉しそうに笑いながら話しかけた。

「あ、それ、気になる?」

「ええ……何をするものなんですか、これ」

 コンピューターということくらいは、茅島さんだってわかっているだろうけど、それすらもよく理解していないバカな学生を彼女はわざと演じた。

「大きすぎてわからないだろうけど、それはコンピューター。授業で使うデーターを作ってるんだよ。あれ? 授業出たことなかったっけ?」

「ああ、えっと、人間解剖学、でしたよね」

「うーん、まあ、そんなようなもんか。それにはね、人間の動きをトレースしたデータが詰め込まれているんだけど。加賀谷さんも見たことあるでしょ?」

「ああ、まあ、なんとなく……」

 覚えてなかったが、適当に答えた。

「データは自分で用意したんですか?」

「うん。そうそう。人を雇ってサンプリングさせてはもらったけど、最終的には自分で組んだ」

「じゃあ、あれなんかも先生が作ったんですか?」

 意外な方向を指差す茅島ふくみ。棚の上の方。そんなところ、今言われるまで着目すらしていなかった。よく見てみると、なにか機械がずっしりと乗っている。なんだ? 魚の骨で出来たみたいなヘリコプターのような形をしている。

「ああ、うん、自分で操作系統は作ったけど、パーツは流石に市販だよ」

「あの……一体何なんですか、あれって」

 なにもわからなかった私が尋ねる。

 気持ちよさそうに、先生は胸を張って答えた。酔いが回ってきているみたいだった。。

「ドローンだよ。ドローン。知らない?」

「ああ、ドローンですか……」

 小型のプロペラ式遠隔操作型娯楽飛行物体。大昔からある、年寄りが好む娯楽だった。爆破現場でもマスコミが飛ばしたものが、いくつかあった。形が独特だったので、ドローンだとは気が付かなかった。

 一般的に見かけるドローン本体よりも無骨だが小さめだった。ほとんど骨組みしか無いようにも見える。さらにアームのようなパーツまで数本付属していた。自作品だろうか。

「好きなんだよね、祖父の影響で。でも最近は条例が厳しくてさ、町中じゃ変な許可もらわないともちろん飛ばせないし、公園も駄目。海辺も駄目。じゃあどうすりゃいいのよって感じよ。仕方ないから、川辺か、学校の屋上で飛ばしてるよ。毎日空き時間に改良して、その成果を週末に発揮するのが私の趣味だよ」

「川辺って広いんですか?」

「うん、そういう場所もある。同業やホームレスがいっぱいいるけど、ドローン飛ばすだけなら、迷惑にならないって言われた。まあホームレスがいると警察も近寄りがたいんだろうけど……。あいつら仲悪いからさ」



 ひたすら飲みつづけている五十田先生に配慮して、そろそろ、と言い残して私達は立ち上がった。先生は「もう帰るの?」と寂しそうに私達を見つめていたけれど、完全に酔いが回っていて彼女から身のある話はもう聞けなくなった。

 滞在時間はわずか十数分。こんなペースで飲んでいると、すぐに記憶もなくすんだろうな、と私は先生が心配になった。

 外に出て、エレベーターに乗り込む。見ると、茅島ふくみが、難しそうな顔をしていた。

「どうしたんですか?」

「…………彩佳」

 切れ長の瞳で、私を見つめた。

「五十田先生、家族いないって、本当?」

「どういうことですか?」

 思わず訊き返す。

「家族のことを聞いたときに、明らかに嘘をついていたわ」

「嘘?」

「耳で聞いたのよ、呼吸音とその間を。確かに私の耳の感度は昔より下がったようだけど、彼女の反応は、今の私でもわかるくらい明らかだった。はっきり言って、耳を使わなくても感知できるくらいだったわ。彼女は確実に嘘をついた」

 彼女がそう断言するくらいのなら、それは間違いではない。

 恥ずかしながら、私は気づかなかった。

 嘘か……。

「…………恋人でもいるんですかね。そんな話は聞きませんけど」

「あまり着られていない着替えに、普段遣いとは明らかに違う化粧品。これは休日用でしょうね。恋人がいる可能性はある。そもそも同棲してるか、仕事終わりにいつも会っているか。つまり、情報屋が言ったように、十九時以降に帰らなきゃいけない予定があっても、不思議ではないみたいだけど……」

 それでも、憶測の域は出ない。

 しかし私は実感する。そうだ。茅島さんは、こういう人だった。良く言えば鋭い。悪く言えば目ざとい。

 久しぶりに実感して、私は感動する。

 あなたの、綺麗に保たれて変わっていない部分に。

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