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 茅島さんに引っ張られて、外へ連れ出されると、途端に警察に呼び止められる。

 外では警察はもちろんだったが、救急、マスコミ、野次馬。その他に、カメラが搭載されたドローンが幾つも。一通りの付随物は揃っていた。怪我人も多く、現場には一定の緊張があった。

「君たち、怪我はないか。中に人は?」

 格好こそ警察官の一味だったけど、長髪の、どう見ても警察らしくない風貌の不審な男だった。怪しかったが、疑っても意味はないだろう。

「まだ、数人、倒れてましたけど……」

 そう私が告げると、彼は仲間に無線を飛ばした。しばらくして、救急隊員の人が私と茅島さんを囲んで、身体をチェックすると、大事はない、待っていてくださいと言われて、彼らは去っていった。確かに少し身体をぶつけただけだったし、茅島さんは駆けつけただけで無傷だった。つまり、優先順位が低いと判断された。

 パトカーの近くで腰を下ろしていると、さっきの警察官が戻ってきた。もうひとり後輩らしき男を連れてきた。地面に座っていた私達は、咄嗟に立ち上がって対応した。

「悪いんだけど、話を聞かせてもらってもいいかな」

 長髪のほうが警察手帳を見せながら言った。

 久喜宮くぐみや文宏ふみひろ。捜査一課。階級は警部補。とてもそんなふうには見えなかったが、私に警察のことはわからない。

 胡散臭いぐらい髪を伸ばしていて、それでも帳尻を合わせるように値が張りそうなスーツを着ていた。あまり清潔ではなかったけど。長い髪が邪魔して、相貌はいまいちはっきり見えなかった。背が高く、変な威圧感がある、そもそも警察官と言うよりフリーターみたいに見える。

 もうひとりの後輩らしき男は、久喜宮よりも更に背が高い。正反対に短い髪、機嫌が悪そうな顔立ち。じっと凝視していると、めんどくさそうに手帳を取り出して私達に見せた。

 本庄谷ほんじょうや聡明さとあき。巡査部長。まあらしいと言えばらしい、という感じの風貌。だけどずっと私達を威圧するように睨んでいた。

「この娘は犯人じゃないわよ」

 茅島さんが、私の肩を抱いて、警察二人にそう言った。

「それを調べるのが俺たちの仕事なんだけどな」

「私、この事件の調査で来てるんだけど」

 茅島さんが言うと、久喜宮が怪訝そうな顔をした。

「あんた何者だ? 身分証は?」

「無いわ。医師からの指示って言えばわかる?」

 彼ら知ってるんですか? と茅島さんに耳元で尋ねると、彼女は黙って小さく頷いた。たしかあの施設は、国に認可されていると言ったから、警察との繋がりがあっても不思議ではない。

 予想に反して、久喜宮が舌打ちをした。

「ちっ……本当に送り込んできやがったか……」

「先輩どうするんですか。メンツ潰されますよこのままじゃ」物騒なことを機嫌の悪そうな方、本庄谷が言った。「ただでさえ、ここ最近警察の評判悪いってのに」

「そんなのは俺の知ったことではない」

「でも先輩もその一員でしょうが」

「まあ待てよ。あの施設からの、なんだ? エージェント? とあっちゃ、無下にはできんだろ。面倒にならんように、言う事聞いたほうが良いと思うぜ?」

「……あの施設ですか。そりゃ大層に……」

 本庄谷が、めんどくさそうに呟く。一体どんな施設なのだろうか。入院したことはあっても、実情はよくわからなかった。ろくでもない施設だということは、私も推察していた。

「まあ、適当に現場の邪魔にならんようなところで遊ばせて、さっさと帰ってもらえばそれでいいさ。これで非協力的だなんて言われないだろう」

「それもそうですね」

 本人を目の前にして、どうでも良さそうにそう言いきって、茅島ふくみに久喜宮は向き直った。

「あー、あの医師のね。知ってるよ。わかってるよ。事件の調査ね。まだ話は通ってないんだけど、あとで確認しよう。だけど、今質問してるのはこっちだってことは忘れないでくれよ。その娘が犯人でないという証拠はあるのか?」

「私、彼女の家に今泊めてもらってるんだけど、爆弾の類は何処にもなかったわ」

 茅島さんが、まっすぐ彼を見つめて言うと、疑問よりもそれ以上疑うことの労力を天秤にかけた時の顔をして、久喜宮が呟く。

「うーん。まあ、信じよう。間違ってたら医師とやらににクレーム入れれば良いだけだ。あんた、名前は何ていうんだ?」

「茅島ふくみ。こっちは、加賀谷彩佳。友達です」

 私達は会釈をした。打ち解けられるような雰囲気ではなかったけれど。

「はいはい。茅島さんに、加賀谷さんね。えっとじゃあ早速だけど加賀谷さん、爆発の時、どんな感じだった? スーパーに来たときからで良いから教えてもらえるかな」

 馴れ馴れしく、久喜宮は私を覗き込む。隠すつもりもない作り笑いがへばり付いていた。

 初めての人間と話すと、妙に緊張する。

 深呼吸をしてから、噛まないように気を使ってゆっくり話した。

「えっと……スーパーに来たのは、六時、五十分くらいだったかと……それから普通に買い物をして、出ようとしたときに、急に、爆風が起きて、飛ばされました。そこから先は、よくわかりません、気づいたら、こんな状況で、隠れていたら、駆けつけた茅島さんに助けてもらって……」

「じゃあ、一緒にいたわけじゃないんだね」

「私は爆発音を聞いてすぐに家から飛び出てきたわ」茅島さんが説明した。それは私も気になっていた。「時刻は七時ちょうどよ。スーパーの場所はわからなかったけど、音がした方角と、騒がしい場所を目指していったらたどり着いた。だけど表に彩佳がいなかったから、中まで探しに行ったわ」

「家はどこ?」

「ここから十分程度のところよ」

「そうか。そんな大きな爆発音だったのか」

 本庄谷のほうが、なぜが頷いた。端末にメモを取っていた。

「なるほどね。他の証言とも相違はないな。またこれじゃあ進展ないじゃないかー」

 子供みたいに残念がって、久喜宮は呟く。意外な一面を急に見せられたような気がした。

「今度はこっちが質問、良いかしら?」

 茅島さんが臆せずそう尋ねると、本庄谷が食って掛かった。

「駄目だ。一般人に教えることはなにもない。開放するから、さっさと帰れ。怪我もしてないんだろう。大体、まだ調査の許可は下りていない」

「あら。一般人を扱うのには随分無礼ね。公僕っていう言葉は知ってる?」

「まあまあまあまあ、落ち着けって」

 あからさまに面倒を取り除くように、久喜宮が割って入った。本庄谷は少し短気で、それを久喜宮が丸めて抑え込んでいるというコンビなのだろうか。

 その分、久喜宮とはまだ会話が成立する可能性が少しあった。

「本庄谷。ここは下がってくれないか」

「……またあんた、機密を漏らすんですか」

 ――。

「で、お嬢さん。何が聞きたいんだ? 答えられる範囲なら言うよ。こっちも犯人を追い詰めてくれるなら、それで歓迎だからな」

 無視して、久喜宮は茅島に向き直った。

 今、なんか変な空気になったような……

 茅島さんに向かって「早く帰りましょう」と念じたけど通じていなかった。彼女は質問を飛ばした。

「じゃあ、この事件のことを言える範囲で」

 うーんと唸って、久喜宮は答える。頭の向こうに、救急車が見える。

「じゃあ現場のことを教えてやろう。爆弾の性質さ。あの爆弾はちょっと特殊でね。威力の割には有効範囲が狭い。爆風で吹き飛ばすよりも、火力に重点を置いている。焼夷弾のほうが性質としては近いのかも知れんな。その火力は強力だ。肉片一つ、歯や骨の欠片すら残っていない事が多い。いや、人体にのみ効果的と言ったほうが正確かな。あれは、建物等の無機物よりも、人体へのダメージが大きい。効率よく人間だけを殺せるように調整された爆弾だろう。さ、これで満足か?」

 そんな大事そうな情報を得ても、茅島さんは納得しなかった。

「容疑者は挙がったんですって?」

「ああ……。先の事件で二人。今回でも目星は三人。出口にほど近く、比較的浅い怪我で済んだ加賀谷さんもその一人だが、君がそんなに言うならひとまずは除外。残りは二人」

「名前は?」

田久たきゅう多香子たかこ五十田いそだ沙也華さやか。田久は、爆発寸前に上手く逃げ出していると目撃証言がある。そして、ホテル爆破事件のアリバイもない。五十田は爆発の時刻に、路地裏の辺りに居てスーパーを見ていた。こっちも、ホテルの時は仕事が終わってまっすぐ家に帰ったと言っているが、本当のところはわからない。まあ、どれも確証としては薄いがな。ああ、そうだ。君たちこの二人知ってるか? 参考までに聞かせてくれませんかね」

「知るわけ無いわ。私、この街の人間じゃないもの」

「じゃあ加賀谷さんは? 知ってる?」

 不思議と聞き馴染みがある名前だった。

 五十田?

 田久の方は知らないが、こっちには覚えがあった。

 そうだ。たしかこの人は……

「五十田先生、ですか?」

 私が必死思い出してそう告げると、茅島さんと久喜宮が驚いたような顔をする。本庄谷は、もはや暇そうにタバコを吸っていた。

「そうそう、そうだよ。大学の教員だって言ってた。知り合いか?」

 言いながら久喜宮は写真を私に見せた。隠し撮りのような構図だったが、何も言わなかった。

 確かに見覚えがある。この横顔は、五十田先生に間違いない。授業中に、何回も目にしたことがある形だった。

「はい……授業を取ったこともありますし……そんなに、話したことはないんですけど……」

「これで容疑者の内三人が大学関係者、なのね」

 茅島さんが、訝るように、そして私に言い聞かせるように、そう呟いた。

「ふーん、なるほどねー。わかった。協力に感謝します。じゃあ大学から洗うかな……」

 と久喜宮が頷いていると、本庄谷が彼に耳打ちをした。そう言えばタバコを吸いながら電話に出ていたのが横目で見えた。

 ああ、わかった、と言い返し、私達に顔だけを向けて、言う。

「悪いがこれから取り調べでね。質問タイムはここまでだけど、君たちの連絡先を教えてくれないかな。なにか気になることがあったら連絡するからさ」

 私の端末の番号を教えると、彼は後輩を連れて、手を振りながら去っていった。

 茅島さんと二人、取り残される。気が抜けて、ため息が出た。

「……変な人だわ」

「……同感です」



「ここに居たんですか、蝙蝠女」

 茅島さんと二人で帰ろうかという相談をしていると、不意に背後から声をかけられた。

 蝙蝠女? 聞き覚えのない名前だったが、どう考えても茅島さんのこと以外に思い至らなかった。

 二人で振り返ると、知らない女が一人。

「精密女! こんなところにいたの!?」

 茅島さんが驚いて口を開いた。

 精密女?

 怪しい会合での呼び名だろうか。

「それはこっちが言いたいんですけど。探したんですよ。連絡もつきませんし」

 精密女、と呼ばれた変わった女は、笑顔を浮かべながらぶつぶつと小言を漏らした。

 背が高い、奇妙な女だった。茅島さんよりも長く伸びた髪を、頭の中頃で結んで止めている。それはファッションと言うよりも、単に邪魔だからという意味合いしか感じ取れなかった。顔も派手なほど美しく、なんというか、成人の色香を感じずにはいられなかった。

 だがそれ以上に目立つのは、地味な服装に浮かぶ、その両腕。

 革の手袋こそ先端にはめているが、腕全体が真っ黒い機械で出来ていた。それを皮膜で隠すこともなく、人工的な筋肉で取り繕われた機械部が、そういう装いなんですよとでも言いたげなくらいに、当たり前のようにむき出しにされていた。顔の印象が掠れてしまうくらいに悪目立ちしている。

 ひと目で異様とわかる。

 さっきの警察二人も、相当私の常識を揺らがせたが、この女はそれ以上に理解しがたい。こんな人間、長い人生の間にほとんど会うこともないだろう。

 私はすこし怖くなって、茅島さんの背中に隠れて、精密女の様子をうかがってしまった。

 そんな私を見つめて、にっこりと、不気味なくらいの笑みを浮かべる精密女。

「私、なにかしましたか?」

 慌てて茅島さんが口を挟んだ。

「あんたが怖がらせるからよ。彼女、ちょっと人が苦手でさ」

「あの…………えっと……」不快にさせたことを申し訳なく思って、私は口を開いて挨拶をした。「加賀谷、彩佳……です。茅島さんの、友人の……」

 そう名乗ると、「ああ」と呟きながら精密女は機械の両腕をコツンと眼の前で当てた。わかった、というジェスチャーなのだろうが、これからお前を殴り殺すというサインにも見えなくなかった。

「加賀谷、彩佳さん。この娘が……。よく、蝙蝠女が話していますね」

「わ、もう、彩佳の前なんだから、変なコードネーム止めてよ」

 珍しく茅島さんが顔を赤くした。

「なんでですか。コードネームで呼びあうのは普通ですよ、蝙蝠女」

「わざと呼ばないでよやめてって……」

 ようやく謎が解けた。その変な呼び名は、任務という概念にありがちなコードネムだったのか。それにしてはあまりセンスが感じられないというか、あの常識から少し外れた医師が考えそうなものだった。

「で、何の用? 招集でもかかった?」

「何の用じゃないですよ。探したんですから。急に連絡が取れなくなって、医師に訊いたら『端末が壊れて連絡がつかないが、あいつは知り合いの家にいる』としか教えてくれないんですよ。全くあの人、現場のことをなにもわかってないじゃないですか」

「まあ、リーダーシップは、全然無いわね……。指揮も慣れてないみたいだし」

「そんなことより、です」精密女はそう言って姿勢を正した。武道か何かみたいな動きを感じさせた。「蝙蝠女、一緒に来てください。事態は深刻だって、ひと目見てわかります。ここは、今後の方針をチームで話し合うべきです」

「うーん、面倒くさいのよね、そういうの……」

 茅島さんが頭をかきながら愚痴をこぼすと、精密女が呆れたように怒った。

「もう、そんななんでも面倒くさがってちゃ駄目ですよ。退院した時、社会で絶対苦労しますからね」

 母親みたいだ。

「わかったわよ。ちょっと言ってみただけ。話し合うべきだとは思ってたって。事件の捜査も、全然進展してなかったわけだし。今後のことと、あなた達の話を聞いて考えましょう」

「蝙蝠女、ここ数日は何を?」

「彩佳の家で漫画読んでた」

「はあ…………」

「なによ。そっちは?」

「待機です。そういう指示があったので」

「なんだ私と何も変わらないじゃない」

「一緒にしないでください!」

 精密女が怒ると、茅島さんがケラケラと妹みたいに笑った。

 なんだ、私が思う以上に、二人は仲良いのか。

「とにかく、です」

 また精密女は背中をピンとのばして姿勢を整えた。今度は機械の腕の指先も一本だけ立てた。

「医師からの許可も得ました。これは早急に解決すべき事件です。チームで集まって、本格的な調査を開始してくれ、とのことです。後手と言われればそうですが、ようやく容疑者も挙がってきたそうじゃないですか。そろそろ頃合いかと思います。行きましょう」

 機械の腕を、茅島さんの方へ、手のひらを上に向けて差し出す彼女。

 手を取って、茅島ふくみを何処かに連れ出すつもりだ。

 その手を何の躊躇いもなく掴もうとした茅島さんのもう片腕を、私は慌てて引き止める。

「待って……ください」

「ああ、ごめん。彩佳は先に帰っていて? 目処がつくのが何時になるかわからないけど、必ず帰るようにするから、鍵は――」

「行かなきゃ、駄目なんですか?」

 茅島ふくみを見据えて、私はそんな声を絞った。自分でもなんでそんなことを尋ねたのか、意外に思う。

「だって、これは私の仕事だもん。行かなきゃ駄目よ」

 もうしょうがないな、なんて心の中では思ってそうな顔を私に見せて、彼女は笑いながら言う。その顔を見ていると、私の幸せが、穴の空いた風船のように、音を立てて萎んでいくのを、肌で感じた。

 嫌だ。

 だって、またあなたを失ったら、もう今度こそ、一人では生きていけないんだから……

「あの……私にも、手伝わせてくれませんか?」

「手伝うったって……」

 焦れったそうに、私達を眺めていた精密女が、歩みを寄せて呟いた。

「加賀谷さん、でしたっけ。悪いですけど、あんまり無関係の人を巻き込むわけにはいかないんですよ。警察も手に負えないような、危険な人物を相手にする任務だってことは、わかっているでしょう?」

「私なら…………この辺りの、土地勘に優れています。茅島さんも、このあたりのことは頭に入れておいたほうが良いんじゃないですか? 私が案内します。ですから……」

 意を決してそうは言ったものの、茅島さんは目を伏せて、悲しそうな表情を見せた。

「あのね、彩佳……。無関係のあなたをここまで巻き込んだのは、私の責任だけど、なにもそこまで、自分から深入りする必要ないわよ。それにあなたも爆発で死にかけたじゃない。危険なのよ、普通の人には。ちょっとした出来心だったけど、あなたを頼って、中途半端に関わらせて、悪かったと思ってる。だからここはおとなしく――」

「ま、いいんじゃないですか」

 と、あまりにも意外な声が、精密女から聞こえた。

 私は驚いて、彼女の方へ首を回した。別に表情にさほど変化はなかったが、何かを察されたのかも知れなかった。

「そんな硬いこと言わずに、ね? 蝙蝠女は時折変に頑固なのがいけないんですよね。私は折れましたよ。もうバキバキに」

「でも、彩佳に何かあったら……」

「私達三人いればなんとかなりますよ、こんな小娘一人くらい。それに、道案内だけなら、さほど危険でもないでしょう。あなたなら、爆弾があっても、サイズによっては察知できるじゃないですか」

「…………」

 しばらく黙っていた茅島さんだったけど、やがて意を決したように、私に向かって口を開いた。

「彩佳。じゃあ、道案内だけ、お願いするわ」

 茅島さんが、私にも、まっすぐに手を伸ばした。

「…………ありがとうございます」

「もう……そっちがお礼言ってどうすんのよ」茅島さんは、緊張をほぐすようにはにかんだ。「危険な目には絶対遭わせないわ。危なくなったら、私が助けるから……」

「はい……」

「案内が終わったら、まっすぐ家に帰って、ね?」

「……………………はい」



 別れの時は、思ったよりも早く訪れるものだった。

 事件の解決を早めれば、彼女はそれだけ早く、私のもとから去っていく。そんなことはわかっていた。なるべく彼女を、事件自体から遠ざければ良いんんじゃないかって考えたこともあった。そんなことは無駄な労力だって、言われるまでもなくわかりきっていた。

 彼女なしの生活。

 どうしたら平気なんだっけ。

 どういう心構えで、日々をやり過ごしていたっけ。

 身体が、もうその事を忘れてしまった。

 私はまだ、彼女を無くして生きられない、駄目な自分のままだった。少しだけ好転したように見えたのは、ただの気の所為。

 それでも、ただ近くにいたいと言うだけで、彼女のことを手伝おうとする自分。ひょっとしたら、私に情が移るかもなんて、心の何処かでそんな醜いことを期待している、なんていう自覚があった。

 だけど、私の思いは関係なしに、彼女はここから煙みたいに去ってしまう。

 置き去りにされた私を残して。



      ★



「それじゃあ行ってきます」

 なんて、わたしは部屋の中に向かって、努めて元気よく声をかけた。

 いつものように大きなカバンと、いつもどおりの正装。

 何も変わらない連続する日常の、そのうちの一つ。

「あら、行ってらっしゃい。気をつけてね」

 お姉ちゃんが、いつものようにわたしにそう言った。毎日同じことを口にするのに、毎日同じだけの心配を投げかけてくれている気さえする。

 わたしの、世界で一番大切な、お姉ちゃん。

「あ、そうだ、お姉ちゃん。今日はちょっと遅くなるかも」

「仕事? お父さん、また怒るんじゃない?」

 お姉ちゃんの口から、最も聞きたくもない単語が飛び出して、わたしは顔をしかめる。

「……………………どうだっていいよ、そんなの。口うるさいんだからあいつ。ちょっと遅くなっただけで、馬鹿かよ」

「もう。そんなこと言わないの」

「はいはい。でもまあ、なるべく早く帰るようにはするよ」

「うん、気をつけて……」

「お姉ちゃんも、気分悪くなったら、いつでも呼んでもらっていいから」

「そんな、悪いわよ。仕事中なのに……」

「良いって。お姉ちゃんのほうが大事なんだから」

 早く家に帰らないといけない理由。

 お姉ちゃんは、この部屋から一歩も出られないくらいの重い病気で、日がな一日ずっと寝て過ごしている。早く良くなってほしいけど、一向に回復の兆しは見えない。そのことが、わたしを焦らせた。

 時間は限られている。

 お姉ちゃんを失ったらどうしよう。

 そんな事考えたくもなかった。

 わたしが、わたしが頑張らないと、なんとかしてあげないといけない。

 もうすぐ。もうすぐ治してあげられる。

 そうだ、治ったら、何処か遠くへお姉ちゃんを連れて行ってあげよう。近くの海や何処かのクソ田舎にある山、なんなら宇宙だって行ける。不可能なんて無い。

 ここから出られないお姉ちゃんを救ってあげよう。

 これは絶対。

 だからわたしは、

 たくさんの爆弾を抱えて、家を出る。

 小型の爆弾。誰にも使えない、わたしだけの力。

 早く……

 早くあの娘を、仕留めないと……

 殺しそこねて、逃したあの娘を……

 もうすぐ。

 それももうすぐ終わる。

 お姉ちゃんは、自由を手に入れる。

 ああ、神様。

 わたしの罪は、あの世で甘んじて受け入れます。

 だから、

 ――お姉ちゃんを助けて。

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