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突発的に茅島ふくみが、私の部屋に転がり込んできた日から、瞬きをするうちに数日が過ぎていた。
説明した通り休学中だった私は、毎日特に何の用事もなく、かと言って何かをする気力も持ち合わせていなかったが、彼女のために、料理については本気で打ち込んでいた。茅島さんは気を使わなくていいと言い続けていたが、それでもまずいと言いながら美味しそうに食べる彼女の顔を見るのが好きだった。乗せられていると感じたが、どうでもよかった。
料理というものは、暇をつぶすのと、辛い現実から逃れるのには都合がいい。今のこんな私には、これ以上ないくらいにうってつけの趣味だった。包丁で何かを切断することも、ミキサーで何かをぐちゃぐちゃにすることも、何かをむごたらしく火で炙ることも、溜まった鬱憤晴らしに、不健全なくらいとても良く効いた。もっと早く料理を勉強すれば良かったかも知れないと、私は半ば本気で後悔した。
私が料理を作っている間、というか日中はほとんどだったが、茅島ふくみは私の端末を使って漫画を読んでいた。適当に、現実逃避の目的で買い漁った書物が、百冊程度含まれていたが、その内容に統一性はなく、読んですらいないものも多かった。
彼女とて、隠れている身であるために、何もすることはなかった。それにしても、施設では漫画を読んだこともなかったのだろうか。現代人とは思えないくらいに、真剣に読み入っていた。俗世の文化を再び理解するのに必要だ、と彼女自身は語っていた。私は話半分で流したけど。
珍しい生活。
人生において、こんな時間が訪れるなんて、妄想ですら思い描いたことがない。
だけど、現実より、干からびた悪夢のような現実よりも、ずっと、私の心を潤わせた。
生きがい。
そんな言葉では生ぬるい。
だけど確実に、この生活が、私の生きがいになっていた。
失うときのことを、念頭に置きながら。
「じゃあ行ってきます」
夜の六時半。どうしても昼間に出歩きたくなかった私は、この時間に買い物に出かける事が多い。流石に大量に保管していた、食料の買い置きもなくなってきたので、茅島さんが来てから、初めて外に出る。心臓が適度に速くなっている。緊張している。自分の身体のことだから、すぐにわかった。
どうして出かけるだけで緊張を感じるのか、その理由はよくわからなかったけれど。
「誰が来ても開けないでくださいね」
私は茅島さんに、子供に告げるようにそう言い聞かせた。当初は、彼女も着いて行くと言い出したけど、医師に出さないように告げられていたし、連日爆破事件が報道されている昨今では憚られた。もう何日閉じ込めているのか、わからなくなってきた。
「わかったわよ。大家さんだった場合は?」
「……私に連絡するように行ってください」
「わかった。でも、彩佳の端末がないと、暇ね……」
「じゃあパソコン使っていいですから、パスワードは掛けてませんから」
「うわ不用心。変なデータとか入ってないの?」
「大学で出されたレポート課題くらいですよ」
じゃあと言って、外に出て、私は電子ロックが掛かるのを確認した。少しだけ、彼女を監禁しているみたいで、言い知れない興奮を感じたが、首を振ってすぐに忘れた。
二人での生活も、もう慣れてきたかな。
久しぶりに外に出たとき、そんな前向きな言葉が頭から湧いた。ずっと部屋に居た頃の私とは、明確になにかが変わったのかも知れなかった。
これも茅島さんのおかげ……。
彼女のせいで自分を見失い、彼女のおかげで勝手に救われるというのも、奇妙な気分だった。
外の気温は少し寒い。上着を羽織っていたが、本格的な防寒からは程遠い。適当に近場のスーパーに足を運ぶくらいなら、特に命を失うようなものでもなかった。
夜。この街の夜は、明るい。近くの繁華街が、虫が好きそうな明かりをチカチカと灯し続けていて、あまり私が近寄るような雰囲気からはかけ離れていた。少し離れたこのマンションなら、人気もなく静かで、住人は他人のことに無頓着で、おまけに大学にも近い、私の望む環境が整っていた。
さて、目的のスーパーは歩いて数分のところにある。階段を降りて、エントランスで溜まりに溜まった自分宛ての郵便物を処分して、私は歩いてマンションを出る。通い慣れてると言えば、否定はしない。
変な色に照らされて、寂れたビルとビルの間に位置する、さほど暗くもない夜道からは、すっかり気にもしなくなった星空が見える。星はない。そもそも存在しないのかも知れない。吸い慣れていない冷たい空気と共に、星への感慨を吐き出した。実家ですら、そうありがたがって見上げることもなかった私に、星を懐かしむ資格なんて無い。
ひび割れて歩き辛くなったコンクリートを、登山でもするみたいに一歩一歩大切に踏みながら進んでいくと、やがて大通りの方へ出て、一気に車通りが増える。人間の気配。私が居てはいけないような気配。匂いが変わる。思わず咳をした。
こんなところを裸足で歩いてきたのか、あの女は。
私はまた、茅島ふくみの足の裏を心配した。
スーパーはここからすぐ。この軒で、とりわけて古いビルの一階部分全てが、目指すスーパーマーケット。店名を表示する目的の看板も、出るには出ていたが、私は夜にしか来ないので、あまり気に留めたこともなかった。つまり覚えていない。
ビルの三階から、連絡橋が伸びている。この街の建造物は、工夫すれば地上に降りること無くおおかた回れるようになっている仕組みだったが、人とすれ違うのが嫌で、私は地上から徒歩で移動する手段が好きだった。もちろんマンションから、隣のビルへも伸びており、間接的にここへも繋がっていた。
不健康なネオンを浴びながら、私は入店した。
店内は思うよりも広く、食材や日用品を買うという観点では、私の主観だけれど、最も効率化されているような気さえしてきた。まあ、この辺りの何処のお店もこんなものだったけれど。
こんな時間だと言うのに、買い物客が多く入っていることに、私はいつも驚く。仕事帰りだろうか。そう言えば、そんな時刻だ。スーツ姿や、大きめのカバンを下げた客がよく目立つ。反面、高齢者層は薄い。
例によってこのスーパーも、カバンやカゴに必要な物を詰め込んで行き、店を出ると同時に端末が反応し、自動で精算が完了されるという仕組みだった。人類は長らく、このシステムを採用している。ここ最近の人類の進化は停滞しているという説も、あながち嘘でもないらしい。スーパー一つとっても、そんな事を考えてしまう。コミュニケーションが排除されるという利点から鑑みると、私は大好きだった。
店内を歩いた。
えーっと、茅島さんは、まあなんでも食べるので、種類は気にせず、大雑把に調理しやすい物を選ぶ。野菜、肉……私の頭ではそんな程度しか思いつかない。あとはインスタント食品で量を誤魔化す。そうだ、ビールも買わないと。そろそろ彼女も、お酒を飲むだろうか。昔好きだったウィスキーでも買って帰れば喜ぶかも知れない。そう思って、酒の陳列台を覗きに行き、ウィスキーの値段を見て止めた。
時刻は夜の七時になろうとしている。この調子なら、帰ってすぐに調理すれば、彼女に文句を言われる前に料理が完成する。茅島さんには、その間、お風呂にでも入ってもらえばいい。
数日分の食料。これを使い切る頃には、茅島さんは……
考えなくても良いことを考えていると、私の耳に、変わった音声が飛び込んできた。
誰かの、言い争う声。
「…………!」
「!? ……!」
嫌だな……
結構な距離があるので、姿すら見えず、何を言っているかわからないが、とにかく騒がしいことだけは伝わってきた。一つは男性の声。もう一つはよくわからない。こっちも男だろうか。
治安が悪いことだけが、この街の汚点だ。
少し距離を取る。
さっさと出よう。茅島さんが私を待っている。
踵を返して時計を覗き込もうとすると、
爆発音が、
私の耳を引き裂いた――
何が起こったのか、何が始まったのか、私の理解を超えていた。
突然に爆発音がして、
私は少しだけ吹き飛ばされた。
そういう当たり前の理解が、気がつくと出来ていた。
だけどこの後どうすれば……
地面が近づく。
咄嗟に私は頭を守りながら、棚の方に突っ込んだ。
身体が、陳列棚に打ち付けられる。
商品が私の上に落ちてきた。幸い、怪我をするようなものでもなかった。
痛――
地面に転がって、商品に生き埋めになった私は、自分でも驚くくらいに、明瞭な意識を持ち合わせていた。
……何が起こった……?
首を上げようとしたが、強打したのか、身体を動かすこと自体が億劫だった。
耳が、ずっとおかしい。
耳鳴りが止まらない。故障した機材みたいに役に立たなかった。
爆発音で、おかしくなったのかもしれない。
痛む身体を、嫌々動かして、まず腕を持ち上げて、私の上に乗っている商品らを退けた。パスタの箱だろう。そんなことはどうだって良い。
目で確認しようとしたけど、開かない。ゴミが入った。だけどうつ伏せになりながら、ゆっくりと瞼を持ち上げた。それでも何も見えなかった。
そうか、電気。衝撃で、照明が落ちた。それしか考えられない。
首を動かしながら、腕を使って、ゆっくり這っていく。肘に破片が刺さって、躊躇わせる。いつか誰かに踏み潰されて、殺されそうな気分だった。
ようやく見えた光は、最も見たくもない光景。
店内に火の手が上がっている。
私がぶつかった棚よりも、ひどい状態のへし折れた陳列棚。ガラスも割れ、外の空気が流れ込んできていた。
その周りで、死んでいる人、倒れている人、そしてそれを助けようとしている人。
そこでようやく頭の中で要素が繋がった。
爆発事件だ、これ…………
思い至ったときに、逃げることよりも、私はなぜか隠れることを優先した。
近くの倒れている棚に身を寄せると、辺りの様子をうかがった。第二撃目が来るかも知れない。そのことが、何より怖かった。
そうしているうちに、段々と聴力が回復してくる。
悲鳴、泣き声、喧騒。
別に聞こえなくても、想像できる範囲のものばかり……
呼吸を荒くしながら、もう一度くるかもわからない爆発に備えていると、聞き慣れた声が私を呼んでいた。
一番、最も、私が欲していた、その声……
「――彩佳!」
呼ばれて、私は反射的に叫んでいた。
「茅島さん!」
こんな地獄で聞くあなたの声が、
麻薬のように私の心を掴んだ。
そうして伸ばされた手を、私は自分の胸に導くように引っ張った。
「大丈夫!? 怪我ない!?」
私の肩を掴んで、まっすぐに私を見る彼女。なんで茅島さんがこんなところにいるのかという疑問は、ひとまず置いた。
「あの……はい…………大丈夫、ですけど…………」
安心すると同時に、涙が流れてきた。
そうだ……私、死にかけたんだ。
よくわからなかった現実が、途端に痛みを伴って私を襲った。
死ぬのが怖いなんて、人間らしい感情を私が持っているなんて滑稽だった。
涙も、まるで彼女に見せつけるみたいだった。
「落ち着いて、大丈夫よ。深呼吸して……」
そんな私を、茅島さんは慣れた手付きで慰めた。
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