1章 贈与は返しのついた針

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 星空よりも美しくて、空気よりも簡単に私の前から消えたあなたが、平然と眼の前に立っている事実を、煮えたぎった湯のようにしばらく飲み込めなかった。

 そして感じたのは、希望と絶望だった。

 またあなたに会えたという希望と、

 こんな私を見られたくないという絶望。

 青天の霹靂という単語を使う機会はないと思っていたが、今がその時だった。

「こんばんわ、彩佳。久しぶり」

 最後に途切れた思い出と、数ミリの違いもない話し方で、彼女は私に口を開いた。

 何を返そうか迷った。数秒の間が開いただろう。迷ってはいたが、その実頭は何も考えてなかった。

「ふ…………」

 その名を告げようとして、口をつぐむ。

 ふくみは、もういない。

「茅、茅島さん…………?」

 装いこそ変だったが、私は彼女の顔を、声を、全体のバランスを、忘れるわけがなかった。現に、見てくれは少しも変わっていなかった。それが余計に悲しい気持ちを加速させた。

 記憶を失って、私の前から消えた女が、私の顔を見て笑った。

「なによ、その顔。突然で悪いんだけど、上がらせてもらっていいかしら?」

「…………茅島さん、なんですか? 本当に? 本当に茅島ふくみ?」

 私が咄嗟にした質問に、彼女は首を傾げた。長い髪が、艶かしく揺れた。

「どういう意味よ。この顔忘れたっていうの? 失礼ねえ。それとも記憶のこと? 残念だけど、全く戻っていないわ。あなたの顔だって、今日初めて見るもの」

「…………そう、ですか」

 少しだけ期待した自分がいた。私のことを思い出して、私の知っているふくみになって戻って来たんじゃないかって、無責任に私の頭はそんな算段を立てた。ありえないって、私もよく知っているというのに。

 あなたはもういない。

 その事実だけが、より強調される形で浮き彫りになった。

 思い出と同じ女を見て、私はようやく最初に問いただすべきことを、ひとつ思いついた。

「……なんですか、その格好」

 真っ赤なドレス。時代錯誤的な美的感覚と言えばそうだったが、彼女には不思議なくらい似合っていた。全体が美しいと、何を着ても変にならないから羨ましかった。それでも、真っ赤なドレスというのは、どう考えても変な格好ではあったが。

「これ? 貴族の立食パーティに参加してたんだけど」

 裾を持ち上げて、飄々と茅島さんはそう言うが、破れてストッキングから露出した裸足で、しかも血を流していた。かなりの距離を歩いてきたことはわかる。それにパーティドレスにしては、やけにドレスが汚れていた。なにか土埃を被ったみたいに汚らしかった。

「とりあえず、上がってください……」

 私は小さく開いていた扉を、ぐいと押し広げて彼女を招いた。何故かそこで、食虫植物を思い出した。

「ごめんね。急に……」

 そうして、私は彼女を、私の檻に導いた。



 自室は何もない。最低限の生活用品があれば、この町ではそう困るものではないし、私自身、全く多趣味でもなかった。そもそも趣味に興じられるほど、心に余裕のある人間でもない。

 突き当りのキッチンの手前に、リビングへの入口がある。この部屋の構成要素の殆どが、このリビングだった。北向きの窓際には、西に向かって置かれた机。コンピューターが乗っている、その隣に雑多な物が押し込められている棚、机の反対側、キッチンの真裏に位置する当然一人サイズのベッド、南一角は備え付けの押し入れが占領している。

 そして中央には、実家から送られてきた炬燵。これこそ時代錯誤も良いところだったが、暖を取るには最適だった。もっとも、今の季節は使う機会があまり無いので、とにかく邪魔なだけだったが、畳むことすら面倒だった。

「ふうん。結構まとまった部屋ねえ」

 茅島さんは入るなり、物色するような目つきでそう呟いた。この程度の部屋なら、近くにいくらでもある。物件のサイトに載っている。

「どんな部屋を想像していたんですか」

「もっと散らかってるかと」

「生憎ですけど、散らかす物すらありませんよ」

 茅島さんは、部屋を汚すのを気にしているのか、リビングの入り口から立ったまま、部屋を眺めていた。怪我をした脚にはスリッパを貸した。彼女の普段の生活はもはや私の知るところではないが、ずいぶんと物珍しそうにしている。

「別に入ってもいいですよ。どうせそんなに綺麗じゃないんで、汚してもらって結構です。とりあえず……なんか飲みますか? あ、そうだ包帯とか必要ですよね」

 私がそう尋ねると、彼女は表情を崩して言う。

「お腹空いた……」

「立食パーティはどうしたんですか」

「いや、食べるには食べたけど、消化しちゃってさ……」

「じゃあ……なんか見繕いますから、座って待っててください」

 私が炬燵を指差すと、茅島さんは意味がわからないという風に固まった。

「……なにこれ?」

「炬燵ですよ。知りません?」

 もはや彼女が日常の何を覚えているのか、私もわからなくなった。

「あーはいはい。ちょっと聞いたことはあるわ。確か、知り合いの祖母の家とかにあるって聞いたんだけど」

「足を入れたら暖かいですよ」

 私の言った通りに彼女は炬燵に足を入れて、ふーん、なんて暖かいんだかバカにしているんだか、不明瞭に鼻を鳴らすだけだった。真冬なら気持ちいいものだが、十月ではそんな感想しか出ないものだろうか。

 棚から救急箱を取り出していると、彼女が口を開く。

「あら、彩佳、風邪?」

 不意に、出しっぱなしにしていた薬瓶を指さして、茅島さんは私にそう尋ねた。

「……ええ、ちょっと。もう治りかけですけど」

「そうなの。気をつけてね。裸足で歩いてたから、私も風邪引かないかな……いやだな……」

 言いながら、ふう、とテーブルに頭を乗せる茅島さん。長い髪が床にも広がって、そんな様子がすこしだけ面白かった。まるで蛸みたいだ。

 さて、とため息を付いて、私はキッチンに向かった。彼女に料理を食べさせないといけない。腕に自信はまったくなかった。だけど、頼まれたからには出来ない、なんて言うつもりもなかった。

 ましてや他でもない、茅島さんのためなら、と出来もしないことに意固地になっている自分が、心底嫌いだった。

 とりあえずインスタント食品の買い置きが大量にあるので、それで誤魔化せばなんとかなるだろうという見込みはあった。つまり、いつもの私の食事と変わらなかった。ここで背伸びをするから、失敗というものが生じる。手堅く行けば間違いはない。そう自分に言い聞かせる。

 そうして、手は作業をしながら、ようやく冷静になった頭で、茅島ふくみのことえお考えた。

 なんで……

 なんで、私のもとに戻ってきたのだろう。

 願ってもないくらい嬉しかった。だけど同時に、現実味が少しもなかった。まだ夢の中なのかという疑念は消えなかったし、指でも切り落とせば目は覚めるだろうという気持ちも拭えなかった。

 久しぶりに見る彼女。何処も変わらない。ただただ綺麗だった。

 一体、彼女は何が目的なのか。何がしたかったのか。あんな奇妙な格好をして、しかも怪我までしている。よほど危険なことをしているみたいだけど、尋ねてみたいが、怖くなって訊けなかった。私に触れてはいけない領域に、彼女は踏み込んでいるようだった。

 記憶を失ってあの施設に収容されてから、彼女がどうなったのか、なにをしているのか、そんなことさえ私には、何も知らされなかった。基本的にはただ友人というだけで、私は無関係の人間と言えばそれまでだった。その扱いに、不満があるわけではなかった。ただわがままに、腑に落ちなかったというのが本音だった。

 よくわからない感情に、涙が出そうになる。

 彼女の来訪を冷静に対応できた自分を、すこしだけ褒めたくなった。いや、ただあまりの衝撃に感覚が麻痺していただけだったのだろう。今では手すら震えてきた。包丁を持つ手で、自分を刺してしまいそうだった。

 枯れ木のような生活を送っていた私が、久しぶりに感じる心臓の高鳴り。それが気持ちが良いものなのかは、私にはわからなかった。

 じっと背中を見ているのも辛くなって、私は彼女に声を掛ける。

「そうだ、茅島さん。起きてます?」

「…………ん? なに? ほとんど寝てた」

「お風呂使ってもいいですよ。なんでそんなに汚れているのか知りませんけど、そのままじゃなんなので」

 そうね、と呟いて、彼女はゆっくりと立ち上がった。そのまま倒れてしまいそうなくらい、気だるそうな趣があった。手を差し伸べて、支えたほうが良いのだろうか。

「そうさせてもらおうかしら……。ごめんね、後で全部説明するから」

 私の耳元で、申し訳なさそうにそう告げる。

「あ、でも着替え持ってないわよ、私」

「なんだ。貸しますよ、そのくらい……」

 悪いわね、なんて、妙に他人事みたいな声色で、彼女は私の家の風呂場へ消えた。た。

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