サマードレスの出来事

SMUR

プロローグ

      序



 生産性を燃やした光の海が、眼下に宇宙を作っている。

 相応に値段のするホテルに備え付けられた、豪華な展望レストランからは、そんな美しくもないような景色が一望できた。下世話、品がない、この街の夜景はそんな消極的な印象さえ抱かせた。見ていたくもない、だが何故か心だけは惹かれてしまう。ちょうど、はみ出した内臓から、不思議と目が離せなくなるような感覚に近かった。

 レストランは盛況。評判の良い料理と、食べたいものを好きなだけ食べられるというシステム。時刻は八時になろうとしていた。食事時のため客足も多く、時々食べるという行為が億劫になるほど、耳障りに賑わっていた。

 その中にあって、ただ一点あまりに目立つ女が、一人で大人しく腰を下ろしている。適当に取ってきたであろう雑多な料理を目の前にして、なお暇そうに携帯端末を触っていた。

 意識して伸ばされた長い髪、もうこの地上の誰にも着こなせないだろう、見ている方が恥ずかしくなるような真っ赤なドレス、陶器で作られたみたいに整った顔立ち。この世の空間に白い亀裂を走らせているかのような、細長い四肢。これだけの人の中で、全く埋もれることのないその容姿は、生きる上では時として不便にさえなり得そうだった。

 どうでもいい夜景に見飽きた人間には、彼女は程よい芸術品のように映った。

 美しさに惹かれる人、変人だろうと軽蔑する人。なにかの催しだと信じる人。全てが一度は彼女を気にかけた。一方で、その彼女の方はどうでもいいと言いたげに全てを無視して、ずっと同じ体勢を取っていた。

 指輪の形をした携帯端末から、彼女の目の前の空中に投影されてる、解像度の低いウィンドウには、輪をかけて意味のない情報が流れていた。ニュースですら無い。ただ適当に文字を打ち込んで、適当な情報を得ているだけだった。

 これはこの女の趣味だった。どうでもいいことを調べて時間を潰し、知識だけをただ蓄える。時々理解されないこともある、趣味とも言えないような遊びだったが、癖のように、いつの間にかもう、やめられなくなっていた。

 女が画面を眺めながら、その片手間に、ある種めんどくさそうに食事をしていると、横槍を入れるように端末に通信が入った。ウィンドウには『医師』とだけ表示されている。

 食器を置いて、ため息を吐きながら女は応答した。

「はぁい」

『蝙蝠女、今何してる?』

 聞き慣れた、使い潰したような女声が耳に届いた。

 女は薄く微笑んで返事をした。

「誰よそれ」

『お前だよ。茅島かやしまふくみ』

「コードネームはどうしたのよ。本名は禁止じゃないの?」

『別に、格好のためにつけた名前だ。どっちで呼ぼうが不都合はないさ』

「蝙蝠女って、全然可愛くないんだけど……」

 茅島ふくみと呼ばれた女は、気を取り直すように足を組み替えた。医師との付き合いは短いが、自分の面倒を見てくれる人間は、今ではこの医師以外にいない。ちなみに医師とは愛称のようなものだが、彼女ですら本名は知らず、本当に医者なのかすら知らされていない。

『気に入らないのか? 他に候補が二つほどあったんだが』

「どうせロクでもないんでしょ」

『反響女と足蹴女だ』

「なによそれ。ただの蔑称じゃない」

 そうして安らぎのように茅島は笑う。医師のことを心から信頼しているわけではないが、暇を潰せる話し相手にはなることも事実だった。素性の知れない相手に利用されているのだから、これくらいの遊びは息抜きに必要だった。

「今食事中なんだけど、食べながらで構わないかしら」

『好きにしろ。だが二度は言わないからよく聞けよ。今回の任務の概要だ』

「今伝えるわけ? 出発前に教えてくれたら良いのに」

『教えると断るだろう、お前は』

「ひどい職場ね……」

『さて。昨日一日で大体察しはつくと思うが、ターゲットは……』

「爆弾魔」

 問われる前からその答えを用意していた。今この街で、他には話題になるような事件もない。あらゆるメディアが洗脳でもされたみたいに、そのことだけを報じていた。

『そうだ。奴はここ数週間で何件もの爆破事件を起こしている。建物への被害は少ないが、死者は多数。これだけ大規模だと言うのに、容疑者の一人も挙がっていない。警察連中は、犯人は完全に頭が狂っていると判断したらしい。つまりはまあ、お手上げというわけだ。まともな捜査で対応しきれないってことさ。お前たちはその爆弾魔の素性を調べてくれ』

「頭がおかしくなきゃ爆弾魔なんかやらないわよ」

『蝙蝠女。最近、多数の機械化能力者が、気でも狂ったみたいに変な事件を起こしている事は知っているな?』

 茅島ふくみは水が注がれたグラスを弾いた。身が引き締まる用な高い音がした。

「今に始まったことじゃないじゃない。それ、今年に入ってから数カ月は続いてるって聞いたわ。あんたから」

『その犯行に至った原因が、犯人の人格にあるのか、それとも粗悪な部品を取り付けた際に、何かのはずみで脳がおかしくなるのか、それを調べる必要があると我々の上層部は判断している。お前たちに課せられた任務は、犯人の機能、そして何処の誰であるか。これを調べて私に報告する。以上だ』

「頭が狂ってるかどうかは調べなくていいの?」

『それはお前たちの後に、より専門的な人員を送り込んで、接触し、最終的な判断をする。お前たちはただ報告するだけでいい。だが、必要があれば犯人と交渉をしてくれ』

「要するにいつもと一緒ね」

『そんなところだ』

 足を上げてくつろぐ茅島。その動きに合わせて、長めのスカートが揺らめく。

「それで、犯人が機械化されてて、その能力で犯罪を犯してるっていう根拠は?」

『それを調べるのも任務だ』

「毎回その答え」

 言いながら食べ物を口に運ぶ。

 おいしい。外の料理はやっぱり違うな……

 彼女は内心でそう呟いた。料理の名前も、そもそも材料すらもよくわからないが、食べられると言うだけで彼女は随分と気に入った。写真も数枚ほど収めていた。

『ところで蝙蝠女、耳の調子はどうだ?』

 言われてから、確かめるように彼女は耳を触った。人間の生の肉に似せて作られた感触。とても中身が精密な機械で構成されているとは、彼女自身も信じられなかった。

 耳を澄ませば、この空間の隅々まで意識が届くような感覚がある。

「ええ。すこぶる良好。ここから全員の足音を判別できそう」

『最近仕入れたばかりの新しいパーツだが、流石に馴染むのが早いな。わかっているだろうが、メンテナンスは毎日行い、食事からのエネルギー補給も怠るなよ。あと過酷な環境での使用は厳禁だ』

「もう。あんたは母親かっての……」

 周りを見渡す。いや、見渡すまでもない。彼女が耳の機能を立ち上げれば、周辺の音は一つとして拾い漏らさなかった。カーペットが敷き詰められている床を踏み鳴らす音。どうでもいい内容の話し声。食器の擦れる音。フロア内には人数にして三十人。音源の一つ一つを確かめていけば、性別や年齢層だって判明するだろうが、彼女にそこまでの気力はない。

 確かに、メンテナンスに適した新しいパーツは、初めの内こそ少し違和感があったが、慣れれば延長された両手足のように感じた。思えば、以前のパーツは性能こそ飛び抜けていたが、普段のメンテナンス性に大きく欠けていた。衝撃に弱く、脆い。そのくせ予備の用意が難しく、代えが効かなかったので扱いには苦労していた。

「そうだ、他の二人は何処に?」

 茅島ふくみは思い出したように尋ねた。

『お前とは別行動だ。場所は、漏洩が怖いから、お前にも教えられない。少なくとも、あいつらは常に一緒に行動させているから心配するな。お前の二日前から現地入りさせて、早速事件の調査に当たらせている』

「ごめんなさいね、耳の調整に手間取っちゃって」

『私が命じたことだ。気にするな』

「気にしてるなんて言ったかしら?」

 は、と医師は呆れたように笑った。

 茅島ふくみと医師との付き合いはまだ二ヶ月程度だが、茅島ふくみの適当な軽口を真に受けないで流す医師の器量が、彼女らの適切な距離感を保っていた。お互いの印象はさておいて、この二人の相性は存外悪いものではないらしい。

 大まかな連絡事項を済ませて、食事も終えたのでそろそろ部屋に引き上げようかと思った茅島ふくみだったが、雑踏の中にある一人の足音が、明らかにこちらに向かっていることに気づいて、持ち上げようとしていた腰を無意識に下ろした。

「誰かこっちに来るわ」

『おい、目立つようなことはしてないだろうな?』

「いや、まあ……ちょっとお洒落してるだけよ」

『……どんな格好だ?』

「真っ赤なドレス」

『バカ野郎が』

「たまには良いじゃないの。一旦切るわ」

 医師との通信を閉じて、ゆっくりと首を後ろに向けると、一人の女が近づいてきているのが認められた。ホテルの従業員、つまり給仕だった。何もルールに反することはしていないつもりだったが、少しだけ変な汗をかいた。

 給仕は彼女の側まで来て、立ち止まる。

「失礼ですけど、茅島ふくみさん、ですか?」

 可愛らしい音色で、給仕は予想に反して彼女の本名を口にした。チェックインも偽名で通してあるのに、珍妙なことだった。これは医師に問い詰めたほうが良いだろう。

「えっと、私なにかやっちゃいました? ごめんなさいね、こういうホテル初めてでー」

 否定も肯定もしないで、笑って適当な返事を投げたが、裏腹に給仕は意を決したように言葉を紡いだ。

「ああ、いえ、そうじゃなくて……懐かしいなって、思ったの」

「……懐かしい?」

「ええ……」

 きょとんとする茅島ふくみを見つめる給仕の表情が、少しほころぶ。スパイスに砂糖を少しだけ零したみたいな。

「私のこと、覚えてる? ほら、大学で一緒だった……」

「…………」

 一応考え込んでみる茅島だった。外見を確かめる。頭の上で結んでいる髪、細身の長身、全体的に清涼感が漂う、いかにも給仕に向いてそうな人。

 当然覚えているわけがなかった。

 早々に結論を出して諦めた茅島ふくみは、口を開く。

「あー、ごめんなさい、私、記憶喪失中で。友だちの顔だって全く思い出せないんですよ。すみませんね」

 なるべく深刻に受け止められないように、軽く微笑みながら彼女はそう言うが、意に反して給仕は大げさに驚いた。無理もない。人生で知り合いが記憶喪失になる機会なんて、滅多にないはずだった。

「え? あ、そうなの……それは……ごめん」

「いえ、こちらこそ、すみません。友人らしいのに、思い出せなくて」

「良いのよ。そんな……大した仲じゃないわ。お大事にね」

 頭を下げながら、給仕は去った。

 給仕にいきなり話しかけられることは想定していたが、かつての知人ということまでは予想すらできなかった。

『知り合いだろうな』

「え? 勝手に聞いてたの? 通信切ったじゃない」

『悪いがその端末は、お前からは一方的に切ることが出来ないようになっているんだよ』

「あなたも悪趣味ねえ……。さっきの娘に心当たりはないの?」

『わからん。声しか聞こえないんだぞこっちは。それに私だって、以前のお前の交友関係を全て把握してるわけじゃないさ。お前のことだってよくわからないというのにな。一応こっちで調べてみるが、くれぐれも一般人に軽率なことは漏らすなよ。この前の任務だってお前勝手に……』

「あー、いつまでも昔のこと出してくるなんて、悪い上司ですよ。いけないんだ」

『お前の癖が抜けるまで何度でも言ってやるよ』

 ふふふ、と笑おうとした。

 しかしその時、茅島の耳が異音を捉えた。

 息が止まる。

『……どうした?』

「待って。何か、変な音がした」

『何処からだ?』

「わからないけど、微細な、聞き慣れない音よ」

 見る。

 別に、客が食事に右往左往しているだけの光景。さっきから何も変化がない。近くのテーブルには家族連れが陣取っており、怪しい様子はない。だがここは窓際。狙われるとしたら、あまり安全な位置関係ではない。迂闊と言えば迂闊。少し後悔する。

 程よく炊かれた照明が、客を浮かび上がらせていたが、やや明度が低い。ムード作りというくだらない名目だろう。視認性には欠けた。

「畜生、私って目は悪いからな……」

 慎重に息を吸った。

 身体はすでに臨戦態勢。

 もう一度同じ異音を捉えれば、すぐに自分の身体を後ろに跳ね跳ばせる自信はあった。

 客。

 何もない。

 客。

 何も持っていない。

 客――

 なにもない筈がない。

 これは勘の範疇になる。嫌なことが起きそうだと、彼女の耳が告げていた。

 いっそこのまま、ゆっくり退出しようか。

 だけど、誰を狙っているのかもわからない。いや、そもそも爆弾魔なのかさえも。さっきの給仕みたいに、彼女のかつての知り合いである可能性も拭いきれなかった。

 目的がわからない以上、逃げるのは得策ではない。

 これは任務。任務には危険が髪のように付随している。

 犯人を捕らえられるなら、多少の冒険は……

 すると、何かが風を切った。

 この音、このサイズ。

 思い出す。

 記憶から、釣り上げてくる。

 これは、

 手榴弾――?

 こっちに向かって……

 とっさにテーブルの下に身を隠した。気休めかもしれなかったが、他の判断は浮かばない。

 完全に身体を隠すと同時に、耳の機能を完全に切った。

 身構えていると、隙間から光が見える。

 閃光弾……?

 強烈な光と、爆音を発生させる、非致死性兵器。

 耳を断ったことは功を奏した。

 だけど、間髪入れずに、身体が浮いた。

 爆風――

 テーブルごと後ろに飛ばされる。

 床に叩きつけられる。

 テーブルは割れた。

 埃を吸ったのか咳がしたくなった。

 何が起こったのか、冷静に分析する。

 閃光弾で隙を作った後、本命で爆殺しようとでも企んでいたのか……

「私を……誰だと思ってるのよ……」

 呟きながら、壊れたテーブルの中から身体を起こす。

 暗い。照明が飛んだのだろうか。夜景が嫌味なほど目に入る。

 逃げる人と、倒れている人。そして抉れた床、灰になった何か。破壊された調度品。火の手。

 地獄だ。

 素直にそんな言葉が、彼女の頭からはじき出された。

 クラクラする。頭をぶつけた所為だろうか。視界もはっきりしない。真っ直ぐに歩けることも怪しい。

 端末が光っている。

 耳を再起動させて、通信を開いた。

『お…………大丈……』

 ノイズ。衝撃で端末が狂ってしまったようだ。

 医師の声がバッテリーの切れた玩具みたいに聞こえる。わきまえずに笑ってしまいそうになった。

「ええ……生きてるわ。問題ない」

『問題な……だよ……! 状……?』

「悪いけど、この端末、もう駄目みたい。全然声が聴こえないわ。新しいの買っておいてね……」

『そん…………逃…ろ!』

 犯人が何処かに迫っている。そう考えるのが自然だった。

「後でなんとかして連絡するわ。無事を祈ってて」

 通信を切った。切ったというより、指から外してポケットに放り込んだ。

 耳を最大に活用して、彼女はフロアから出る。姿勢を低くして、辺りを気にしながら。途中で死んだ人を踏みつけてしまうたびに、立ち止まって謝った。

 綺麗な、そして人でごった返している短い廊下を抜けて、もはや機能していないエレベーターを素通りし、非常階段まで来たところで、自分が今靴を履いていないことに気づいた。何処かに飛んでいってしまった。破れてしまったストッキング。何かを踏んでしまったのか、足の裏からは血が出ている。痛みは薄いが、あまり遠くまでは移動できないか。近くの人間は、もはや彼女を気にかける余裕すらなくなってしまっていた。

 人に紛れて外に出る。鉄でできた階段は、素足には冷たかった。

 排ガスにまみれた空気が新鮮だった。近くには警察や消防が集まっていた。マスコミや、誰かが飛ばした遊び道具に見える小型ヘリコプターのようなものまで、いくつか飛んでいた。

 見つかると面倒ね……。

 交渉の問題からか、警察にはまだ接触するなと医師に言われている。

 さっきまで自分がいた、煙を吹いている高層のホテルを見上げてから、彼女はその場を後にする。ポケットに仕舞っていた端末は、いつの間にか起動すらしなくなっていた。

 息を切らせて街を歩いた。

 段々、脚の痛みが広がっていった。

 薄汚れた真っ赤なドレスのまま、高いビルとビルの合間で腰を下ろして、彼女はこれから先のことを考えた。無粋な商業看板の光が、彼女の行く末を邪魔しているように照らしていた。

 チームの他の二人と合流しようにも、医師は場所を伝えてくれなかった。情報漏洩よりも、現状の方が問題だろう。一度医師を殴らなければ気がすまなくなった。

 こんな、なんでもありそうな街で、ひとりぼっち。

「今夜は、野宿かな……」

 そんな間の抜けたことを呟いたときに、ある一つの考えが思い浮かんだ。

 この辺りは確か、茅島ふくみの記憶を無くす前の友人が住んでいるはずだった。以前の知り合いらしい給仕が話しかけてきたことが、その証左でもあった。ここは、茅島が昔住んでいた街に違いない。

 住所は記憶してある。

 街の案内板と照らし合わせていけば、いくらこんな複雑な都会だからといって、たどり着けないわけでもなかった。

 歩くには少し遠いが、他に頼る宛もなかった。

 だけど、彼女は突然現れた私を見て、どう思うのかな。



      ――



 裸足から血を流しながら、黙々と歩いた。

 車道は広く、車通りも多い。歩道はほとんど人一人通れる程度の幅しかない。歩く人間自体が、普段から数少ないのだろうか。こんな発展しきった都市では無理もなかったが。

 茅島ふくみは車を眺めながら歩く。車という実物を見たことが無いわけではなかった。ただ、これほど多くの車両を一度に目にしたことはなかった。珍しいというよりは、少し圧倒された。趣味の悪いネオン管の光に照らされて、得体の知れない不気味な動物のようにも見えた。

 もう名前も失念してしまったこの街は、とにかく迷いやすい都市だった。古びた高層ビルが接ぎ木のように立ち並んでおり、自分が今、外の地面を歩いているのか、それとも屋内を歩いているのかすら曖昧になっていった。

 頭がおかしくなりそう。淀んだ空気を吸いすぎたせいだろうか。繁華街を横切るまでは人とすれ違うこともあまりなく、世界に生き残ったのは自分ひとりなのではないかと考えてしまった。

 ようやく街の中心部を通りがかると、傍目には何処かに押し込められていたかのように、大量の人の姿が目に入る。だが同時に、流石にこの格好では目立ちすぎた。得体の知れない人間に話しかけられることが増えたので、茅島ふくみは急いでその場を立ち去った。恐れよりも、深入りされることが嫌だった。

 人間が多い。

 息苦しい。

 誰も眠ることを忘れたように、夜の街で日を潰していた。

 肩をぶつけて謝った。声が届いたかどうかは、彼女にはわからない。

 何処だろうここは。

 同じところを、さっきからぐるぐると巡っているような気さえしてきた。

 電飾の看板を見げてみても、何もわからなかった。『薬』『部品』『食』簡素な単語のみが広がっている。合理的な宣伝と言えなくもなかった。だが、それ以上のことは読み取れない。

 青い。

 大量のその種の看板で、街全体が青く見える。住民の姿もちらほら増えてきたが、同じ種族には見えなかった。

 黄色い。

 次の区画では、街が黄色く見える。

 真っ赤な服装は、ドレスコードに反しているのかも知れない。

 赤い区画にたどり着いたとき、案内板を見つけた。読むと、彼女の目指す場所が程よく近くにあった。導かれたみたいだった。縁とは時として、そんな不思議な力さえ感じさせる。

 真上を見上げても、空がない。あるのだろうが、視認できるほどはっきりとした顔を地上の人間に向けていない。いや、地上が上空から目をそらしているのだろう。

 この季節ともなると、肌寒い。十月の頭か。足の痛みすら、感じなくなってきた。あの娘の家は、まだだろうか。

 適当な路地を二度三度曲がると、人の姿もまた減ってきた。そうして、インターネットから引き出して記憶にとどめておいた建造物が姿を表した。

 緑の外壁の、十五階建て。大通りから少し奥に入ったところにある、ごく普通の大衆向けマンション。辺りは集合住宅しか存在しない。『学生』という文字もよく散見された。確かに彼女が住んでいそうな趣があった。

 住人と思しき人間に変な顔をされながら、エントランスをくぐり抜けて、表札を一つ一つ確認した。

 彼女の目は、すぐに友人の名前を見つけた。

加賀谷かがや……彩佳さいか……」

 記憶の通りの字面。指でなぞると、懐かしさが擬似的に読み取れそうだった。六○七号室。他に加賀谷という名前は見当たらない。ここで間違いはない。そう確信した。

 階段はさすがにもう苦痛だった。エレベーターに乗って、部屋の前まで直接向かった。下に呼び出すのは、なんだか気恥ずかしかったし、すこし驚いた顔を見せたかった。もう茅島ふくみは、友人の顔も覚えていないのに、なんでそんなことを思ったのかわからない。

 降りて、一番遠いところに彼女の部屋はあった。

 なんだか、緊張する。

 殺人犯を目の前にしたときよりも、呼吸が浅くなっている。

 どんな顔されるのだろう。医師から聞いたことはあった。茅島の記憶喪失を、誰よりも悲しんだのは、彼女、加賀谷彩佳だと。記憶を失った自分だったが、加賀谷彩佳という名前だけは、何故かずっと覚えていた。遺伝子レベルで、彼女自身に刻まれているのかも知れなかった。

 記憶を失って自分を置いて消え去った人間がいきなり現れたら、どういう反応をするのが正しいのだろうか。茅島ふくみにはわからなかった。

 躊躇いながら、呼び鈴を押した。

 しばらくすると、返事もなくドアが開いた。

 怯えるように、顔をのぞかせたのは、死にそうな顔をした女。

 ああ、そうか。こんな感じだった。

 加賀谷彩佳。記憶には殆どないはずなのに、なぜだか妙に懐かしい。今、脳がインスタントに生成した懐かしさだろうか。

 顔はやつれているが、身体はすこし丸い。肩先くらいまでのばした髪が、整えられて見える。全体の印象は、地味だが可愛らしい。

 努めて冷静に、まるで記憶なんて失ってないみたいな声色で、茅島ふくみは口を開く。

「こんばんわ、彩佳。久しぶり」

「ふ………………茅、茅島、さん…………?」

 なんて、驚きながら泣きそうな加賀谷彩佳の顔を、茅島ふくみは生まれて初めて見た。

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