アウラの巣立ち

 

◇◇◇


 アウラから二度目の気持ちを告げられて十日ほどが経過した日の朝。

 デイヴィッドは彼女から思いもよらぬ言葉を告げられた。


「家庭教師になる? あなたが?」


 二人きりの朝食。

 アウラが告白をした翌日こそは彼女はデイヴィッドと同じ朝食の場に姿を見せなかったが翌日からは何事もなかったかのように一緒の食事を再開した。


「ええそう。プロイセ夫人の紹介なの。リーズエンドの街で住み込みの家庭教師をさがしているんですって」

 アウラはあっさりと言った。


「リーズエンドなんて、ここから列車で五時間もかかるところじゃないですか。どうしてそんな田舎町へ」


 デイヴィッドは動揺のあまり声を上擦らせる。

 寝耳に水だった。

 あの告白劇を二人は心の奥底へと追い払った。穏やかな生活は実は薄い氷の上で生活をしているようなものだったらしい。

 アウラの方から独立宣言を放った。


「わたし、本格的に独り立ちをしようと思って。家庭教師として仕事をして、ちゃんと一人で生きていけるようにしたいの」

「生活のことなんてあなたは考えなくていいんです。これまで通り僕があなたの面倒を見るんですから」

「それで、あなたの言うとおりに結婚をするの? あなたはわたしの気持ちを知っているのに? それってとても残酷だわ」


 アウラはまっすぐにこちらを見つめてきた。デイヴィッドはさすがに何も言えなくなる。


 彼女ははっきりと、デイヴィッドに気持ちがあると言い切った。

 デイヴィッドは何も言うことができなくなった。


 アウラはふうっと息を吐いて朝食を再開した。

 デイヴィッドは何も食べる気が無くなってしまったというのに。


 それから数日後、彼女は身の回りの物を詰め込んだトランク一つと大きなカバンを持ってデイヴィッドの元から巣立ってしまった。別れはあっけないものだった。


◇◇◇


 アウラが旅立ったのは夏の終わりの頃だった。

 寄宿学校へ入学をしてから、デイヴィッドは彼女のいない生活に慣れたというのに、今回のそれは前回のものとはまるで違った。


 彼女はデイヴィッドから旅立つ決心をしたのだろう。

 デイヴィッドが彼女の想いを受け入れなかったから。寄宿学校時代は頻繁に届いていた手紙が、まったく届かない。


 一応、アウラの所在は把握している。それだけは頑として譲れないとデイヴィッドが主張をしたからだ。

 アウラは、本当にデイヴィッドから距離を置きたかったようで、最初は難色を示していたのだが、さすがに後見人としてそれだけは譲れないと強い口調で言ったら観念してくれた。


 毎日寂しくてたまらない。昔は寂しい時、女性に縋った。適当に誘いをかけてくる女性と一夜を過ごせば、一過性の寂しさなど簡単に紛らわすことができたのに、今回だけは違った。

 まず、女性を抱く気になれなかった。これはけっこうショックだった。女性を思い浮かべるとき、一人の少女の顔が頭に浮かんでしまう。彼女の切なげな表情と、それから胸元から聞こえた声が耳から離れない。


 デイヴィッドはいつのころからか、アウラの中に女性を見ていた。気づかないようにしていたことをまざまざと突き付けられた。デイヴィッドは認めないわけにはいかなかった。何しろ、女を抱こうと考えるとアウラの顔がちらつくのだ。


 結局デイヴィッドは寂しさを抱えたままの生活を過ごしている。

 そろそろ秋も深まろうとする季節である。


「あーあぁ、こっちにきたらアウラにカーリーのことを頼むつもりだったのに」


 デイヴィッドの隣で大げさにため息をつくのはバステライドだ。

 彼がダガスランドの地を踏んだのが二週間前。


「もう何度も言ってますが、すみませんね」


 デイヴィッドはげんなりと返した。

 この話題はすでに何度も繰り返されている。

 今回バステライドは長期滞在の予定で、頑としてトルデイリャス領を離れないと主張をしていた彼の妻カリティーファも一緒だ。


「最初に謝ったじゃないですか。彼女、僕の元から独立を宣言したって」


 カリティーファの付添人役ができなくなってごめんなさい、という書置きが彼女の自室の机の杖に置いてあった。

 代わりにプロイセ夫人に頼んであるからとも書いてあった。


「なんだい、機嫌悪そうに。手紙が来ないからってそんなにも怒ることかな? 娘なんて薄情なものだよ。あれだけ私にべったりだったレインだって、結局恋人ができたとたんに彼にぞっこんになって、私のことなんて放っておくようになった」


 最後は恨み言を聞かされた。

 彼の末娘、ユーリィレインもこの夏結婚をした。相手はロルテームの公爵家の嫡男で、実にユーリィレインらしい結婚である。


「アウラは僕の娘ではないですよ」


 デイヴィッドは素早く訂正をした。

 彼女はデイヴィッドの娘でも妹でもない。


「わかっているよ。きみの大事な養い子だろう」

「その養い子っていうのも……」


 いや、養い子で間違いないのだ。

 彼女は保護するべき対象で、デイヴィッドの欲の対象ではない。

 アウラには幸せになってもらいたかった。


「まあいいよ。きみが悩んでいるみたいだから相談に乗ろうと思ったんだ」

 さあおじさんに話してごらんよ、なんて慈愛に満ちた視線にイラっときてデイヴィッドは書類をバステライドに押し付けた。

「ちょっとは仕事に集中してください。自分の財産のことでしょうが」

「あー、そうだね」


 バステライドはおざなりに返事をする。

 彼は渡された書類に視線を落とした。

 それらをぱらぱらとめくりながらまたもどうでもいいことを話しだす。


「シモーネも結婚をして、あとはきみだけだねえ」

 どうやらどうあっても仕事に集中する気はないらしい。

 デイヴィッドは溜息を吐いた。


「シモーネのことを祝福したいのならどうぞご勝手に。僕のことは放っておいてください」


 可愛がっていたアウラに勝手に出ていかれて今のデイヴィッドはそれどころではないのだ。

 大体、手紙の一つくらいよこしてくれてもよいものを。彼女から音沙汰がないことがデイヴィッドを打ちのめす。

 彼女はもうデイヴィッドを見限ったのではないか。自分が彼女の想いを拒絶したから。


 関係のない人間として、過去のものとして彼女の中でデイヴィッドを断ち切ろうとしているのならそれを尊重しないといけないと思うのに、巣立っていったアウラが恋しくてたまらない。

 ずっと彼女とは縁が続くのだと思っていた。


「きみはさ、アウラをどうしたいんだい?」

「シモーネですか?」


 デイヴィッドは即座に彼女の名前を出した。アウラが旅立った後、一度シモーネが尋ねてきたのだ。


『馬鹿な男ね。あんたって……。酔狂が過ぎて、結局アウラを傷つけた』


 彼女は最初からデイヴィッドを糾弾してきた。シモーネはずっとアウラの気持ちを知っていたのだ。十四歳のころから変わらない彼女の気持ちを。

 だからデイヴィッドを非難した。


『あんたはよかったじゃない。やっとアウラが巣立ってさ。あんたは元の生活に戻るだけじゃない。適当に女遊びをするっていう』


 シモーネの言葉は辛辣だった。

 デイヴィッドは黙って彼女の言葉を受け入れた。たぶんシモーネはアウラが言えなかったところまでデイヴィッドのことを責めていたからだ。


「彼女の気持ちがきみにあることくらい、前回会ったときに気づいていたよ。きみは、もうずっと気づかないふりをしていたんだだろうねえ」

 デイヴィッドはバステライドの言葉に、現実に引き戻された。

「もしも進展がなかったら、つつこうと思っていたのに。思いのほか動きが早かったからびっくりしたんだ」

「なんなんですか、それ……」


 デイヴィッドはげんなりとした。

 アウラが今もまだデイヴィッドの元にいたのなら、バステライドによってかきまわれていたということか。


「アウラが報われるところを見たいなあっていうのと、きみにはちゃんと幸せになってもらいたいからね」

 二人とも仕事の手はすっかり止まっていた。

「僕は、ちゃんと幸せですよ」

「そうかな?」

 バステライドは首をかしげた。


「いまのきみはとても辛そうだよ。アウラが隣にいないのが辛くてたまらない顔をしている。だったらさっさと迎えに行けばいいのに」

「そんなこと……」

 デイヴィッドは言葉を詰まらせた。


「そんなこと、できるわけないでしょう。彼女は独り立ちを選んだんです。僕が寂しいのは当たり前です。彼女は僕の元から離れていったんですから」

「身から撒いた種なのにね」


 ぐっさりと言葉が突き刺さる。

 最初にアウラを拒絶したのはデイヴィッドだ。それなのにいざ彼女が離れていって現在迷宮の中をぐるぐるしている。


「うるさいですねえ」

「うるさくも言うよ。いい年して往生際の悪い男なんて、見苦しいだけさ」

「往生際が悪いとは……ただ少し寂しいだけです」

「そうかな。きみは、アウラに自分の気持ちを伝えたのかい?」

「伝えたから彼女は出て行ったんです。僕が彼女を拒絶したから」


 あの時の光景が瞼の裏によみがえる。

 抱き着いてきたときのアウラの柔らかさとか、彼女の声の近さとか、緊張でまつ毛がゆれていたことなどが鮮明に思い出された。


「そう、きみは彼女を拒絶したんだ。きみのくだらないプライドで」


 バステライドの声がデイヴィッドを攻撃する。

 デイヴィッドは顔を蒼白にした。


「きみはさ、結局自分のことを一番に考えているんだ。きみはちっぽけなプライドを守るためにアウラを拒絶したに過ぎない」

「なんなんですか、それ」

 かろうじてそれだけをデイヴィッドは言った。


「後見人の自分がアウラに手を出すわけにはいかないって、きみの自尊心だろう。まあ、なんていうか、紳士に徹していいことだとは思うけどねえ。じゃあアウラの気持ちはどこへ行くんだい?」

「娘をもつバスティの台詞とは思えませんね。自分はさんざんオルフェリアお嬢さんの恋を邪魔したくせに」


 彼の痛いところを突くと、バステライドは眉根を寄せた。


「うるさいぞ……。私はアウラの父親じゃないからいいんだ」

「なんなんですか、その理屈」

「とにかく、煮え切らないきみがいけない。アウラをなんとも思っていないのならもっとしゃきっとしてもらいたいね。アウラの独り立ちをちゃんと応援してあげるんだったら私だってなにも言わないさ」


 彼はそれだけを言って書類の仕分けを始めた。

 デイヴィッドはもう何の反論もする余力が残っていなかった。

 バステライドから言われた言葉が頭の中でぐるぐると回っている。


 結局は、自分のプライドの問題なのだろうか。拾った少女を女として見るなんて、そんなことあってはならない、と。

 アウラを拒絶した自分はもう、彼女の心配すらしてはいけないのだろうか。今後の人生、アウラがいない生活を送らないといけないのだろうか。


 こちらに興味を失ったとばかりにバステライドは書類を読みふける。

 さんざん人の心を乱しておいて、最後は放置するのだからバステライドも人が悪い。

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