寂しさを埋める方法とは

 シモーネとの会話は難しいことばかりでアウラにはいささか消化不良なことが多い。彼女はアウラを対等とみなしているようで、言葉を真綿に包んだりしない。

 けれど今日の言葉はいつもよりも歯切れが悪かった。


 アウラはデイヴィッドの帰りを待っていた。

 こういう時に限って彼の帰宅は遅い。


 アウラは律儀に待っていたのだが、さすがに遅くって、ファーカー夫人が先に夕食を食べるように促してきた。

 夕食を食べ終わって、居間で根気強く待っていた。結局彼が帰ってきたのは夜も十時を回ったころのことだった。


 ようやく帰宅をしたデイヴィッドは少し酔っているようだった。


「おかえりなさい、デイヴィッド」

「ただいま、アウラ」


 デイヴィッドはぽんっと頭の上に手のひらを乗せてきた。

 初めての仕草にアウラは少しだけ驚いた。


 彼はアウラの横をすり抜けて階段を上がっていった。

 ふわりと香水の匂いが漂ってきたのは彼がアウラのすぐ横を通ったとき。いつもとは違う香りを身にまとわせた彼にアウラは素早く反応した。反応したが、彼に何を言っていいのか分からなくてそのままそこに立ったままになった。


 よほど香水のきつい女性と一緒だったのだろう。

 それにしてもこんなにも遅くまで?

 これも仕事の内なのだろうか。

 わからないけれどアウラの心はざわめいた。


 アウラはどうして香水一つにこんなにも反応してしまうのか、自分の気持ちもよくわからなくてその日はそのまま自室へと引き上げた。

 結局香水のことは聞けないまま日にちだけが過ぎて行った。


 そのことがあってアウラは気が付いた。

 アウラがこの家に拾われてからも、彼が普段よりも少しだけ帰りが遅かった時が何度かあった。

 そんなとき、彼はアウラの「おかえりなさい」という言葉に対して少しだけ素っ気なかった。


 香水のことまでは覚えていないが、誰をも近寄らせない独特の雰囲気を漂わせていた。あのときも、もしかして……。


 アウラの中で悶々とした感情だけが育っていく。どうしてもデイヴィッドに聞くことができなくてアウラはシモーネを頼ることにした。そろそろ年も終わろうかという頃で、ピアノ教師も今年の営業は終いとのことで、アウラはデイヴィッドから買ってもらったお菓子を持ってメンブラート邸へ訪れた。


 女優をしているシモーネの生活は決まったサイクルにはないらしく、今日はどうかな、と思ったが彼女は果たして自室にいた。

 ただしひどく眠そうだったけれど。


「どうしたの? こんな年暮れに」

「わたし一人じゃ解決しなくて」

 アウラは部屋に置かれた椅子に腰を下ろした。


「なにが?」

「あのね……デイヴィッドから……その……たまに香水の香りがするの」

「あいつだって香水の一つくらいつけるでしょ」

「そういうのじゃなくて……」

 アウラはきゅっと膝の上で手を握った。


「たまに、女性がつけそうな甘い匂い。させて帰ってくる」


 気になるのに彼には聞くことができない。

 でも、直感が告げている。

 これはとても嫌なことだと。


「あー、そっちか。あいつめ」

 だから子供なんて拾うからとシモーネは口の中でぶつぶつとつぶやいている。

「ねえ、どういうことだと思う?」

「どういうことって……」


 シモーネは視線を左右に彷徨わせる。

 言いよどむ様に唇を何度か湿らせている。いつも明快な彼女からはおよそ遠い態度だ。


「シモーネなら答えわかる?」

「あー、まあね」

 シモーネは乾いた声を出した。


「教えて」

「教えてって」

「だって。デイヴィッドに聞いても絶対にはぐらかされる」

「でしょうね」

「だからシモーネのところに来た」

「わたしなら教えてくれると」

「うん」


 シモーネはしばしの間黙り込んだ。


「ま、いいか。いずれ知ることになるんだし、あいつの側にいるんならちゃんと知っておいた方がいいわよね、うん」


 シモーネは一人で勝手に納得したようだ。

 とりあえずアウラの望み通りデイヴィッドの行動について教えてくれる気になったらしい。


「あいつが女物の香水の香りを移されているってことは要するに、あいつが女と一緒に過ごしていたってことでしょう」

「過ごすと香りってつくの?」


「ま、たっぷり香水つけていたら一緒に食事しただけでもつくでしょうね。でも、レストランでそんなんつけまくっていたらマナー上よくないわよね」


 だからもっと親しい距離で男女が過ごしていたってことでしょう、と彼女は続けた。

 親しい距離というところでアウラは反応した。


「それって一緒の寝台で眠ること?」

 この間彼女と話した会話を思い出しながらアウラは口を開いた。

「一緒に眠っていちゃこらするのよ」

「いちゃ……んん?」

「ま、いいわ。全部教えてあげる。何も知らないとそれはそれで身を守れないことだってあるもの」


 シモーネは誰かに言い訳するように独り言を言ってそれからアウラにまっすぐに視線を据えた。

 アウラも神妙な気持ちになる。


 それからシモーネは色々なことを教えてくれた。

 おもに男女の関係について。

 大人の男と女が寝台の中で何をするのか、ということと、男が女を見定めるような視線が意味すること。


 愛人になるなと彼女が忠告したわけをアウラはこのときちゃんと理解した。

 そしてやっぱりというか、男女関係についてアウラはショックを受けた。


 それは別にデイヴィッドとのことじゃなくて、彼に拾われる前に世話になっていたおばの家で起きたことによるもの。


 おばの息子がアウラに抱き着いてきた。

 息子はアウラよりも四つ年上で、働いていた。だから当然アウラよりも力が強くて、その彼がおばの留守を見計らったかのように背後から抱き着いてきた。


 アウラはそのとき声を出すことができなかった。

 突然のことでびっくりして、それからびったりと両腕で羽交い絞めされるような姿勢で、彼の息が耳元をかすめた。


 恐怖で固まった。

 何が自分の身に起こっているのか分からなかった。

 家の中へと戻ってきたおばは悲鳴を上げた。


『何をしているの!』と彼女が叫べば息子は声を上擦らせて『こ、こいつが誘ってきたから……』とすべてをアウラに擦り付けた。


 アウラはまだ体が強張っていて何も言うことができなかった。おばは鋭い視線をアウラに投げつけてきた。氷の矢のようなまなざしでアウラは余計に動けなくなり、結局言い訳もさせてもらえないままアウラは碌な荷物も持たされずに家を追い出された。


『ふしだらな女は出ておゆき』

 おばの言葉が頭の中で何度も繰り返された。


「どうしたの?」

 急に黙り込んだシモーネが心配そうな声を出した。

「ううん……。色々と腑に落ちた」


 行き場を失ったアウラに声をかけてきた男がいた。その男は舐めるようにアウラのことを頭から足の先まで眺めた。

 その瞳が怖くてアウラは慌てて走り去った。

 男たちの視線の意味を正確に理解した。

 だからアウラは今更ながらに恐くなった。


 あのまま路上をさまよっていたらアウラは何も知らないままに男たちに蹂躙されていたかもしれない。

 おばが家に戻ってきてくれてアウラは結果的に助かった。


「ま、あんたも色々と大変なことがあったみたいね」

 アウラの動揺を、おそらくシモーネはなんとなく察したのかもしれない。

「ほら、お菓子でも食べなさいよ」


 シモーネはアウラの持ってきた焼き菓子を手渡してきた。

 お菓子を口にいれたら、その甘さでいささか緊張が解きほぐされた。

 デイヴィットからはそういう視線や空気を感じたことはない。ただの保護者と庇護されている者という距離しかない。


 見返りに体を求められることもない。

 そのことに安堵しつつ、胸の奥がかすかに疼いた。

 彼は寂しさを別の女性で埋めている。

 アウラを拾ったのも寂しかったからだって言っていた。


「どうして、デイヴィッドは他の女性と一緒に眠るの?」

「お腹が空いていたって言っていたわね、あの男」

「お腹がすく? 空腹だと女性と一緒にそういうことしたくなるの?」

「なんていうかもののたとえよ。要するに欲求不満だったんでしょう。あいつも男ってこと」


 アウラはよくわからなくて首をかしげた。

 シモーネはアウラの疑問に答えてくれた。

 男には性欲というものがあって、恋愛感情とかそういうのとは別にして体の欲求が勝るというのだ。だから娼婦という職業が存在する。


「とにかく、今日ここでの内容はあいつには言ったらだめよ」

「どうして?」

「わたしが色々と教えたってデイヴィーが知ったらたぶんわたしが殺される」

「そんなことデイヴィッドはしないと思うけど」


「本気で殺すとかじゃなくて、ああもう、あんたもう少しロルテーム語勉強なさい。冗談も通じないじゃない」


 それはたぶんこれまでのアウラの人生の中でそんな物騒な冗談を言う人間がいなかったからだ。

 大学教授だった父と専業主婦だった母。両親二人はシモーネが話すような言葉は使わなかった。


「とにかく話は終わり。わたし眠たいの。ちょっと寝かせて」

「昨日は夜更かし?」

「ま、わたしだって恋人くらいいるもの。二人で仲良くしていたってこと」


 アウラは顔を赤らめた。

 さっき教えてもらったことを、彼女は恋人としていたということか。

 体よく追い出されたアウラはとぼとぼと帰路につく。


 メンブラート邸からデイヴィットの家まで徒歩で二十分くらい。デイヴィッドならもっと早く着くかもしれない。

 アウラが今身につけている外套もいつの間にか用意されていた。ボンネットはメンブラートのお嬢様のものだった。

 デイヴィッドがわざわざアウラのために丈や袖の長さなどを調節してくれた。

(もちろん仕立屋に頼んでだ)


 もう使わないものだからアウラが好きに使っていいですよ、と言われていて好意に甘えている。それに、これを使えばデイヴィッドに余計なお金を使わせることもない。


 今日一日でたくさんのことを知ったアウラは頭の中がぐちゃぐちゃだった。

 デイヴィッドは寂しさを別の女性で紛らわせている。

 わたしでなにかできることがあればいいのに。デイヴィッドには沢山のものをもらった。


 アウラはデイヴィッドに何も返せていない。

 家に戻るとデイヴィッドのほうが先に帰っていた。


「おかえりアウラ。どこへ行っていたんです? 心配しました」


 デイヴィッドは玄関まで迎えてきてくれた。

 これではいつもとは逆だ。


「ごめんなさい。出迎えできなくて」

「いや、それはいいから。それで、どこへ?」

「シモーネのところ」

「ああ、彼女のところですか」

 デイヴィッドは安堵したように息を吐いた。


「すっかり仲良しさんですね。彼女口が悪いでしょう。いじめられていないか心配です」

 アウラは首を横に振った。

「ううん。彼女親切。わたしの知りたいこと教えてくれるし」


「知りたいこと? 僕だって教えてあげますよ」

「だ、だめ!」


 今日聞いた男女の色事を思い出したアウラは即座に叫んだ。

 というか普通に会話をしていたけれど、デイヴィッドはアウラ以外の女性を抱いているわけで。

 そういうとき、彼は一体どんな風なんだろうと思い至ってアウラは階段を駆け上った。


「アウラ?」

「な、なんでもないっ」


 どうしてこんなことを考えてしまうのだろう。

 アウラは外套を着たまま寝台の上に飛び込んだ。


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