シモーネの忠告
「あんた、あの男に気を許しちゃだめよ」
ある日そんなことを言ってきたのはシモーネだ。
バステライド・メンブラートというのがこの屋敷の持ち主の名前で、あれからアウラはこの無人の屋敷へと通っている。
「デイヴィッドのこと?」
「それ以外にいないでしょう」
デイヴィッドはビアノの教師をアウラにつけてくれた。久しぶりで勘がにぶっているでしょう、と余計な気をまわしてくれたのだが確かに以前よりも指が動かなくなっていたから彼の推測は正しかった。
十二月も中頃に近づき、たまに小雪が舞う。
ピアノの練習の日にはアウラが先にメンブラート邸へ行く。女中も一緒に行って火を起こして部屋を暖めておいてからピアノ教師を招き入れる。そういう日はデイヴィッドはあらかじめ菓子を女中に渡しておいてくれる。
ファーカー夫人ではなくて、アウラの看病をしてくれた女中である。彼女はチャコン夫人といって、アルンレイヒ系アルメート人。彼女は素性も知れないアウラに対していまだに素っ気ない態度だ。けれどアウラにしたらそちらのほうが逆にありがたい。
「あの男は質が悪いわよ。利用こそすれ、情を移さない方がいいわよ。それがあんたのためってもんよ」
現在アウラはシモーネと二人台所の隣の小さな食堂でお茶をしている。使用人用の区画である。
クッキーをかじったシモーネはしたり顔でアウラに諭してきた。
「利用するの?」
「せっかくいい生活させてもらっているんだから利用してやる、くらいの気持ちでいた方がいいわよ。あ、でも愛人になったらだめよ」
「あい……じん?」
「そう」
シモーネの言葉は難しい。
十四歳のアウラにはよくわからない大人の事情が混じっていて、アウラはどこまで聞いていいのか分からなくなる。
彼女は最初こそアウラを観察していたが、お互いに少しずつ素性を明かしていった今ではかなり打ち解けてきたと思う。
お互いに生まれはディルディーア大陸で、縁あってダガスランドへと流れついた。
たぶんそういうところで似た、なにかを感じ取ったのかもしれない。
「あいじんってなに?」
「そこからか」
そんな言葉アウラの人生では一度も耳に入ってきたことはなかった。
「愛人って言うのは……むずかしいわね。要するに生活させてもらった見返りにデイヴィッドと寝るなってことよ」
「一緒の寝台で寝るの?」
「あーもうっ。そこからか」
シモーネは天を仰ぎ見た。実際に見えるのは天井だが。
「今はあの男、あんたの後見人ってことになっているんでしょう」
シモーネの言葉にアウラはこくんと頷いた。
デイヴィッドは仕事が早い。
『僕はあなたの後見人ということにします。僕がかつてリューベルンの大学で研究発表に行った際意気投合した教授の娘がアウラ、あなたです。あなたはダガスランドで僕と偶然出会った。そして持っていた手紙からあなたの素性を知った僕は縁あった教授の娘さんであるアウラの後見人となることを申し出た、こんなところでしょうかね』
とある日彼は書類をそろえて言ったのだ。
要するにアルメートでのアウラの身辺監護をする人間になるということで、ダガスランドの住民登録まで済ませてきた。
住民登録をして、一定期間問題なく過ごすとアルメート共和国の国籍を申しこめる権利を得ることができるらしい。
移民国家であるアルメートには大勢の移住希望者が海を渡ってやってきており、そういう人たちのために政府は移民制度を整えている。
デイヴィッドはほかにもアルメートの歴史や政治に社会制度など色々と教えてくれたけど、アウラにとってはまだ難しい。
「だから、後見人とその養い子の範囲を逸脱しなきゃいいのよ。あいつと……ちがうな。あいつにそれ以上の感情を持ったらだめってこと」
「それ以上の感情?」
「好きになるなってこと」
「シモーネはデイヴィッドのことを好きなの?」
「はあっ? 違うわよ。なんでわたしがあんな胡散臭い奴」
シモーネは心外そうに大きな声を出す。
「だって。いきなりそんなこと言うから」
アウラは最初シモーネがやきもちを焼いてアウラに釘を刺したのだと思った。
「ごめん。わたしにはあの男の相手は無理」
「そのわりには仲良しさんみたい」
アウラは平素からぽんぽんと言いたいことを言い合う二人を頭の中で再生する。
「それはわたしとあいつは同じ人物、バステライド様にお仕えしていたからよ。ま、元同僚って間柄ね」
「同僚?」
ロルテーム語の単語が分からなくてアウラはシモーネの言葉を聞き返す。
「ええと、昔一緒に働いていたことがあるの」
「なるほど」
それからシモーネはかつて一緒に働いていたときのことを少しだけ話してくれた。
内容は主に、そのときのデイヴィッドがどれだけ嫌味で鼻持ちならない男だったかということで、アウラも話のいくつかには同意を示した。
たまに彼は人を食った言い方をするし、本心を見せないところがある。
「あいつ人の所属する劇団員の女二人同時に手を出したのよ。信じられなくない? 普通同じ場所で同時に手を出す? いくら向こうから誘われたからって。ばっかじゃないの、って思うわよね」
「ええと……うん」
手を出すとかいまいち意味が分からなかったけれどシモーネの気迫に押されたアウラはとりあえず頷いた。
「とにかくさ、わたしは一応あんたの心配をしてあげてんのよ。あんたみたいな子供があいつにころっと騙されるのはさすがに、ね」
「だまされるの?」
アウラはきょとんとする。
もしかして今優しくしておいてあとでアウラを売り渡すのだろうか。などと聞いてみたら「さすがにそれはないわよ。たぶん」という答えが返ってきた。
「と、とにかくわたしがいいたいのは、あいつに情を移さないで踏み台にしてやれって話よ」
シモーネの話はそこで終わった。
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