デイヴィッドの知人
翌日、デイヴィッドと並んで歩いて向かった先は、彼の住まいからそう離れていない高級住宅街の一角。彼の住まう場所も閑静な住宅街で、周りに住む者は漏れなく高給取りだと彼自身が話していた。
このあたりに建てられている家々はテラスハウスではなく、独立した戸建てだ。
屋敷の前には前庭もついている。
デイヴィッドは慣れた様子ですたすたと門の中へと入っていき、そのまま表玄関の鍵を開けて屋敷へと足を踏み入れた。
アウラも訝しみながらも後に続く。
中の住人の許可も取らずに何を勝手なことを、と思ったけれど玄関ホールの静けさにすくさまここは無人なのだと悟った。
空気が少し埃っぽい。
デイヴィッドはそのまま奥へ進んでいき、部屋の扉を開けていく。
「アウラ、カーテンを開けてきてください」
アウラはこくりと頷いて応接間の窓にかかっている重たいカーテンを開けていく。
薄暗い部屋に光が注ぎ込まれる。まぶしさに目を細めながらアウラは任務を遂行していく。
「ピアノ」
アウラは応接間に置かれた大きなビアノを見た。
「ああそれ。最初からついていたんですよね。バスティ、ここの持ち主ですけど、彼が食事会を開いたときとか、演奏家を呼んでいたんですよ」
アウラはピアノの側へと寄った。
まだリューベルンに住んでいたことアウラはピアノを習っていた。
母に薦められて始めたピアノ。上達すると父も母も喜んでくれた。
「ピアノ、弾くんですか?」
アウラは頷いた。
「じゃあ今度調律してもらいましょうか。そういえばそこまで気が回りませんでしたよ。よかったらアウラ、定期的にここに通って弾いてください」
「勝手に弾いていいの?」
「バスティは現在ロームで暮らしてましてね。ここへはしばらくこないでしょう。ピアノも住まいも人の手が入らないと傷みが早くなるでしょう。現に僕ではピアノのことまで気が回りませんでしたし」
デイヴィッドは話しつつ次の部屋へと移動する。
全部の部屋のカーテンを開けて、次は階段上。
アウラは律儀に彼について回る。
一緒に生活をして分かったのは、彼は雇われた人間だということ。
仕事内容まではよくわからないが、肉体労働者ではない。彼の着ているものは上等だし、それに袖など擦り切れていない。女中を雇う余裕があって、朝は馬車で出かけていく。食べ物だって、毎日肉もチーズも野菜も果物も用意されている。
雇われてはいるけれど、地位は高いのだろうなとアウラは考えている。
「アウラ、この部屋開けてください」
デイヴィッドの示す扉をアウラは開けた。
どうやら女性の部屋らしい。
「あなたの今着ているドレスは元はこの部屋のお嬢さんのために用意されたものなんですよ」
アウラは目を見開いた。
「勝手にいいの?」
さっきと同じことを聞いた。
「彼女はもうこちらには戻ってきませんから」
デイヴィッドはきっぱりと言った。
「バスティが娘可愛さに勝手に作らせたものでね。この間もずいぶん前に注文していたらしい冬物をいつ届けますか、なんて手紙が来ていましたよ。まったく、バスティらしいというか、なんというか」
彼は呆れたように口調で話をしていたが、アウラに聞かせているようではなくて、独り言のような口調だった。
「ここも、カーテンあける?」
「お願いしますね」
デイヴィッドは戸口で待っていた。
アウラは部屋の奥へ進みカーテンを開いていく。
女の子らしい部屋だと思う。壁紙は淡い色で小花模様である。
カーテンを開けてデイヴィッドの元へ戻ったとき、一人の女性が廊下に現れた。
「何してんの?」
茶色っぽい髪をした若い女はアウラとデイヴィッドを廊下の先から睨みつけている。
髪の毛は無造作に肩から流している。女はすたすたとこちらへ歩み寄ってきた。
「ああ、シモーネ。いたんですか。何って、部屋の換気ですよ。あなたさぼっているから」
女の前はシモーネと言うらしい。
デイヴィッドの口調からして旧知の仲のようだ。
「失礼ね。ちゃんと管理しているでしょう。それに換気なら定期的にやってくる掃除婦たちがしていくわ」
「もう少し頻繁に空気の入れ替えをしてほしいですけどねえ」
「正面玄関は開けているわよ」
「大雑把すぎです」
二人はぽんぽんと言い合う。
シモーネはデイヴィッドを相手に遠慮をしないらしい。
アウラは目を白黒させて二人の言葉を聞き取っていく。
「それで、その子が例の?」
シモーネの話題の矛先が突如アウラへ移った。
アウラはデイヴィッドの後ろに隠れるように横へとずれた。
「あーあ、シモーネったら怖がらせましたね」
「失礼ね」
「そんなきつい目をしているからですよ」
「これは元からよ、ついでにきつい顔立ちじゃないわ」
柔和というわけではなく、輪郭がはっきりしている彼女は初対面で少しきつそうな印象を受ける。
アウラは慌ててデイヴィッドの陰から抜け出した。
びくっとしてしまったけれど、彼女に対して失礼だったかもしれない。
「彼女はエウラ・クノーヘンハウバー嬢。今十四歳とのことです。僕はアウラと呼んでいます」
デイヴィッドが取り澄ましてアウラのことを紹介する。
「あんたに聞いてないわよ」
シモーネはアウラに視線を合わせている。
アウラは少し声を上擦らせながら、名前を名乗る。
「はじめまして。エウラと言います。えっと、エウラかアウラかどっちでも……」
「そう。わかった」
シモーネは上から下までアウラをじろじろと眺めてきた。
いささか不躾ともとれる視線にアウラは緊張して硬直したままだ。
「ふうん。典型的なリューベニア民族って感じの子ね。それにしてもあんたも何の気まぐれ?」
最初の言葉はアウラに、後半はデイヴィッドに対してシモーネは言葉を発した。
「気まぐれって。行き倒れた少女に仕事を与えただけです」
「仕事? なにを与えたのよ」
「毎日僕におかえりなさいと言うことと朝食を一緒に取ることです」
「なにそれ?」
シモーネは信じられないものを見るような顔つきでデイヴィッドを見据えた。
ついでにもう一度アウラのことを上から下まで眺めた。
「まっとうな仕事ですよ」
「どこがよ」
シモーネでも納得できかねるようだ。
当たり前だ。アウラだって納得していない。
おかえりなさいということが仕事だなんて。馬鹿にしている? と思うけれどデイヴィッドは本気らしくてそれでいいとそれからさきの議論をさせてくれない。
「ああそうだ。それから今日新しく仕事が増えました。ピアノを弾くのと、この屋敷の世話です。シモーネ一人だといまいち信用になりませんから」
「失礼ね。わたしは忙しいのよ。舞台稽古とか色々と」
「舞台?」
「シモーネはこう見えて実は女優なんです。気取りではなく、本気で」
口を挟んだアウラにデイヴィッドは失礼な説明の仕方をする。
「ちょっと、あんた喧嘩売ってるの?」
案の定シモーネが噛みついた。
「悪女が似合うって褒められてよかったですねえ」
「あんた、絶対にわたしに喧嘩売ってるでしょ!」
◇◇◇
その日、アウラは庭に出ていた。庭は手入れされているとは言い難く、植木の枝は伸び放題、草は枯れたままというかなりひどい状態だ。
冬のお日様はすぐに隠れてしまい、冷たい風がアウラの体を冷やしていく。
たぶんアウラは幸運なのだろう。暖かい寝床と空腹に困らない生活を送れているから。
だからこうして確かめる。
寒空の下、自分がどれだけ幸福なのか。それから思う。自分は一人になってしまったと。
大陸を渡る船から降りたアウラは、毎日を必死に生きてゆっくりと母のことを考えることすらできなかった。
アウラは空を見上げた。この空の向こうのきれいな場所に両親はいるのだろうか。
落ち着いた生活を手に入れたアウラは最近になってようやく両親の死について考えることができるようになった。
「アウラ、何をしているんです?」
ぼんやりと庭に立っていたら背後から少し焦ったような声が聞こえてきた。
デイヴィッドである。
「あ、ごめんなさい。気が付かなかった」
お仕事であるおかえりなさいということができなかった。
デイヴィッドはつかつかとアウラへ近づいてきた。
「それで、そんな薄着で庭になんか出て。あなたはまた風邪をひくつもりですか」
デイヴィッドの声はいつもよりも低かった。
アウラは小さく首を横に振る。
「……少し考えていた」
「なにを?」
「今の幸福と、それからお母さんのこと」
デイヴィッドはアウラの腕を掴んで部屋の中へと連れて行った。
暖炉のきいた部屋の暖かさに体がじんわりと弛緩する。
「わたし、あなたに感謝している。あなたは意味がわからないけれど……わたしはあなたに助けてもらった」
アウラの言葉を受けたデイヴィッドは何かを考えるように宙に視線をさまよわせた。
それからしばらくして彼は口を開いた。
「……あなたを引き取ったのは、なんていうか、僕にもよくわからないのですが……、たまには誰かを救ってみたいと思ったと言いますか。たぶん、さみしかったんです」
「寂しいの?」
アウラは首をかしげた。
アウラはデイヴィッドのことをほとんど何も知らない。
「たぶん。さっきはびっくりしました。あなたがどこかへ消えてしまうんじゃないかって」
アウラはデイヴィッドを見つめる。
デイヴィッドはアウラの視線から少しだけ逸らして、帰宅した荷物から花束を取り出した。
「はい。差し上げます。花売りの少女が困っていましたから」
そういって手渡された花束をアウラは受け取った。
「……ありがとう?」
デイヴィッドはよくお土産を買って帰ってくる。それは花だったりお菓子だったり小物だったり。りぼんをくれたときもあった。
最初は貰う理由がないと突っぱねていたけれど、彼は先回りをして理由を述べるようにあった。曰く、花売りが大量の売れ残りを抱えていたとか、菓子店の店主が急なキャンセルを抱えて死にそうになっていたとか、内職をしている人間を助けるためですとかなんとか。
おかげで毎日デイヴィッドからの贈り物が増えていく。
「そうだ、庭も手入れしましょうか。春に向けてなにか花の苗でも植えてもらいましょうかねえ」
デイヴィッドは窓越しに庭を眺める。
「これまではそういったことに気を留めることもありませんでしたから。アウラが来てくれて、少しだけ普通の家庭生活ってやつに近づいているように思えます」
アウラは少しだけはにかんだ。
相変わらずデイヴィッドはよくわからないところもあるけれど、それでもアウラがここにいることで彼の気持ちが上に向いてくれるなら嬉しい。
「わたし、ピンク色の花が好き」
「はじめて自分の好みを言いましたね。そうですか、ではピンクに合う感じで花を植えましょうか」
デイヴィッドがにこりと微笑んだのでアウラも嬉しくなった。
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