十二 はすはじめてひらく 失敗

 それは巨大な亀のように、のっしりと動き、遅々として進もうとしなかった。

 すでに被害は各地で大きくなりつつあった。

 九百五十五ヘクトパスカル。最大瞬間風速六十メートル。強い台風九号。

 このままだと、十五日には大阪は直撃。夏祭りはやはり中止となる。

 下鴨神社とうちの御祭神にあやかって、「御手洗祭」と名付けられたはじめての夏祭りだった。

 晩飯をすまし、部屋にいた僕は、予期せずスナフキンのテーマを聴く。澪ちゃんからだ。平日にメールはあっても、電話がかかってくることはまずない。

「どうしたん?」

 心配して電話に出る。

「光琉くん、今から家これる?」

 電話先の澪ちゃんの声は、いつもの明るい声ではなく、切迫したものだった。

「どうしたんて?」

「お願いします! 地図、メールで送るから」

「澪ちゃんちは知ってるけど……」

「あ、そうか」

 なにか事件にでも巻き込まれたような緊張した感じで電話は切れた。

 僕は仕方なく、いつものようにTシャツにカーキーのカーゴパンツをはいて、ホワイトハウライトの腕輪をした。財布をズボンのポケットにねじ込む。

「ちょっとでてくるわ」

 メットとキーを取ると、玄関を出た。

 幸いまだ雨は降っていない。風がそこそこあったが原付をとばせば三分もかからない。すぐに澪ちゃんの家が見えてきた。建て替えられて昔の面影はない。原付を無造作に門の前に止め、インターフォンを鳴らす。

「開けます」

 返事があり、門のカギが開く。玄関で「鴨野です」と呼んでみるが返事はない。中に入って二階に上がると、奥の部屋で扉を開けてもう澪ちゃんが待っているのが見えた。

 髪をアップにし、タオル地の明るいボーダー柄のキャミソールと短パンを履いている。明らかに部屋着だ。足が細いのが目立つ。すっぴんでもかわいいのはかわらない。むしろその方が僕の好みではあった。

「どうしたん?」

 僕は空き巣でも入ったのかと心配していた。

「とりあえず入って」

 澪ちゃんは青い顔をしてそう云った。僕は云われるままに中に入った。

 中は、左にベッドが縦に置かれ、右の壁は一面クローゼットになっている。ベッドの向こうにテレビ、冬はこたつとして使っているだろう小さなテーブル。右の手前におしゃれな丸机と椅子があり、小さなノートパソコンが置かれてる。奥はベランダになっているが、白いカーテンがかけられ外は見えない。

 いずれも白と薄いピンクを基調に揃えられて、いかにも女の子の部屋だ。左の壁には、小物を並べる棚がランダムに備え付けられている。そこにはパワーストーンのアクセサリーがたくさん並んでいた。

「恥ずかしいんで、あんまみんといて」

 修行の成果か、職業病か、つい僕はひととおり部屋の様子を見た。澪ちゃんに云われてから気づいた。

「あんまり他の人入れたことがなくて、お客さん用の椅子とかないねん。そこでも座って」

と云って、澪ちゃんはベッドを指した。

 僕はとてもベッドに座ることはできず、奥の薄いピンクの座椅子に座った。

「今、コーヒー入れるし」

「澪ちゃん、どうしたん?」

 僕は立ち上がって、澪ちゃんを見る。

「すっぴんなんで、あんまみんとってって」

 澪ちゃんは恥ずかしそうに話す。

「びっくりやんな? ほんまごめん。でも、光琉くんしか頼める人おらんくて」

 澪ちゃんは電気ケトルのスイッチを入れ、カップにインスタントコーヒーの粉を入れた。

「砂糖とミルクどうする?」

「ブラックでいいよ」

 僕は、柱にもたれ、澪ちゃんを見ていた。

「なにをすればいいん?」

 澪ちゃんは唇をかんで黙って、沸いたお湯をカップに注ぐ。

「できました。」

 澪ちゃんは、カップをトレーにのせて奥のテーブルへ運んだ。僕はあとについていく。

「あ、光琉くん座椅子使ってな」

 一つしかない座椅子をすすめ、澪ちゃんは奥のテレビの前に座った。

「私、もっとケバいイメージなかった?」

 澪ちゃんは、部屋のかわいらしいイメージが恥ずかしいのか、そう云ってそばにあった薄いピンクのヒラヒラのクッションを抱きしめた。

「女の子~っていう部屋やもんね」

 僕はほめたつもりでそう云った。澪ちゃんは顔を赤くしていた。

「それで?」

 僕はコーヒーカップに手を付けた。

「……そばに、いてほしいねん」

 澪ちゃんは聞こえないような小さな声でそう云った。僕はほんの少しうれしい反面、ちょっと怒りに似たものが沸きあがってくるのを感じる。

「違うねん!」

 それを打ち消すように澪ちゃんは今度は大きな声をだした。

「ちょっと聞いてくれる? 長くなるんやけど……」

 そう云って澪ちゃんは話をはじめた。

「あれ、もう一年くらい前かな。

 私が鍼の先生のところへ通いだしたころ。

 ちょうどこの時期から八月にかけて、体調がすごく悪いねん。

 あのときも、私、発作がでて、鍼灸院のマンションの前でしゃがみこんでしまったん。

 もう身体中痛くて、気を失いそうになってて。でも、人に見られたら救急車を呼ばれてしまうし、どうせ病院行っても一から検査して、結局効かない痛み止めを処方されるだけやし。

 やから、私、必死で路地に入ってん。

 そしたら、光琉くんが私を見つけてくれて、やっぱり救急車を呼ぼうとしたんやけど、私が首を横に振って手を出したら、光琉くん、何も云わずに私の手を握って、私の隣に座ってくれてん。

 私、そのまま寝ちゃったから、たぶん何時間もそのままやったと思う。

 あのとき、なぜか痛みが引いたねん。

 すごく安心した。

 一度発作が出たら、一日は痛みが引かへんのに、あのときはすぐに引いて、私眠っちゃたん」

 そう云われてみれば、そのできごとははっきり覚えていた。

「あれ、澪ちゃんやったんや」

 あのとき、救急車を呼ぼうかどうか本当に迷ったことを思い出した。それでも、彼女が寝息を立てて寝てしまったことと、勇気さんがすぐそこにいるという安心感で、僕は結局救急車を呼ばなかったのだ。

 地味だったころとは違い、茶髪に染めてつけまつ毛をつけ、化粧も濃く、げっそりと痩せていて、マスクをしていたし、ほとんど話さなかったので、澪ちゃんとは全く気付かなかった。目を覚ました澪ちゃんは「すみませんでした。もう大丈夫ですから」とそっけなく行ってしまった。

「やっぱり覚えてへんよね」

 澪ちゃんは力なく笑った。

「あのとき、ほんまに死にそうに苦しかったから、私にとって光琉くんはものすごい人やねん。何時間も黙っていっしょにいてくれたんやもん。なかなかできんよね。

 だから、実際、お話しできたときは、本当にそのあと一週間くらい機嫌がよかったし。でも、自分から話しかけることはなかなかできんかったん。

 意外やろ?

 あのとき偶然眼の前でバイク押してる姿みて、本当にドキドキやったし、お父さんが何も考えずに声かけるからびっくりした」

 僕は本当に意外に思っていた。澪ちゃんみたいに明るい子は、人に話しかけるなんて簡単なことなんだろうと思っていたからだ。もちろん、僕は知らない人に話しかけるなんて、仕事以外では絶対ありえない。 

 それにしても、こんな僕のことをそこまで想ってくれるには、そんな理由があったのか。

「それから、私、ひどい発作が少なくなってたん。でも、一カ月くらい前から、私、気付いたら気を失ってることが多くなってて、その間の記憶がなくて、ものすごく怖くて」

 抑えきれなくなった涙が、ぼろぼろと大きな瞳から零れ落ちる。クッションを抱く手がきつくなる。

「もうほんまに怖くて、どうしたいいかわからんくて、それで、光琉くんを呼んじゃってん」

 葵さんが聞いたら笑うかも知れない。それでも僕は、ものすごい邪気を感じていた。間違いなく霊障だ。

 僕は澪ちゃんの涙を見て決意し、単独で現場検証をはじめた。


「そもそも、一番最初に発作が出たのはいつ?」

 僕はいつもの癖でメモを取りたくて、澪ちゃんにかわいらしいメモ用紙とペンを借りた。

「もうずいぶん前。小学生のころやったかな? はじめのころは、一回出たらしばらくならんかったん。一年とか、二年とか」

 澪ちゃんはクッションを抱いたままコーヒーをすすった。

「続くようになったのは?」

「最近。だから、二年くらい前かな。おととしの夏がひどかったんで、去年は先生の所で見てもらってん」

 順を追って考えないとさっぱり見当がつかない。二年前と云えば、あの事件が真っ先に思いつく。だが、小学生のときからとなると他にも訳がありそうだ。僕は慎重に質問を続ける。

「はじめてなったときの場所は?」

「ばーばんち」

「おばぁちゃんちはどこ?」

「鹿児島」

 メモを書く手を休め、ぬるくなったコーヒーを一口飲む。打つ手なしだ。まったくわからなかった。

「そう云えば……」

 澪ちゃんが何か思い出した。

「関係ないかも知れんけど……」

 このフレーズ。僕は次の言葉を息をのんで待った。

「ばーばんちにいるとき、よくじーじの幽霊が出るって云ってた」

 間違いない、それだ。僕は強くそう感じた。

「おじいちゃんはいつ亡くならはったん?」

「昭和二十年て。戦争で……」

 戦死だった。もう七十年以上前のことだ。

 澪ちゃんのお父さんはバツイチで、五十歳で二十五歳年下の澪ちゃんのお母さんと一緒になったという。

「おじいちゃんはどこでどんな風に亡くなられたか知ってる?」

「私、よく知らへんねん」

 不機嫌とも取れるその返事は、澪ちゃんがあまりその話をしたくないことを明らかにしていた。それは、問題の原因がそこにあることを表している可能性がある。

 その死に方は、全身が痛かったに違いない。僕は確信していた。

 すぐにスマホを澪ちゃんに借りた充電器に刺し、手前の机に立てる。これで、今晩の部屋の中を撮影するのだ。

 澪ちゃんはどういうわけか疲れ切った表情をしていて、すぐにでも眠ってしまいそうだったが、僕が帰るというと、聞かなかった。おっちゃんが仕事の関係で二、三日帰ってこないらしい。お母さんはちょっと前に別居したそうだ。

「お願いします! 今日だけでもいいから、ここにいてください!」

 その姿は、もうなにか他のものを憑依させているんじゃないかと思わせた。僕は、澪ちゃんをベッドに寝かせ、撮影の邪魔にならないように奥のテーブルをどかせて眠ることにした。部屋の灯りはつけたままだ。

 

 深夜、澪ちゃんはやはり香波さんと同じように三時ころにうなされはじめた。低い声で咳き込むように何かを唸っている。その声は男のようだ。しばらくは様子を見ていたものの、あまりに苦しそうなので僕は立ち上がって声をかけた。

「澪ちゃん! だいじょうぶか!」

 僕は何度も声をかけて身体をゆする。なかなか目を覚まさないので、背中をパンと叩いた。

「大丈夫?」

 澪ちゃんがゆっくり目を覚ます。

「う~ん」

「どんな夢見てたん?」

 澪ちゃんは寝顔を見られるのが恥ずかしいようで、両手で顔を隠した。

「はずかしい~」

 そう云って布団に顔をうずめた。

「夢は?」

「覚えてない~」

 僕はすぐにスマホの映像を確認する。

 三時前、澪ちゃんがうなされだす少し前、ベッドの周りを無数のオーブが飛ぶのが見える。明らかに虫ではない。

「やっぱり……」

 それから、僕はベッドの横に座り、澪ちゃんの手を握って彼女が寝るのを見ていた。やがて朝が来て、僕は部屋を出ようとした。

「澪ちゃん、これは僕の手には負えないから、葵さんを連れてまたくるから」

 そう云って説得するが、彼女は聞かない。光琉くんじゃないとダメだ。光琉くんなら大丈夫だ。最初の時も痛いのとってくれたやん。と泣くばかりだった。

 仕方なく、僕は今日も仕事のあとに来ることを約束して部屋を出た。


「おはようございます。朝帰りですか?」

 僕のレインコートの隙間から顔を見るなり、黒い傘をさす葵さんは云った。

「えぇ?」

 どこかで見られたかと思い、僕は不審な声をあげた。

「あら、ほんまに朝帰りですか?」

 葵さんはいつものように笑った。

「もう! なんでわかるんですか? てゆーか、違いますけど!」

 僕はあわてて云い訳をする。

「別に隠すことないじゃないですか。仕事に支障はないんでしょ? いや、その朝から疲れた感は支障ありますね」

 二人は別々の部屋で袴に着替えた。今日は表を掃くのは無理そうだ。雨風が強くなっている。

「あの、朝帰りとかじゃないですからね!」 

 何度もそう云いながら、中の掃除をはじめた。詳しく説明できないのがもどかしかった。

 掃除をしながら、何度も昨日のことを葵さんに話そうかと悩んだ。なにか嫌な予感がつきまとい、ひとりで何とかする自信が出てこなかった。簡単にいうと、僕のエネルギーが十なら、相手のエネルギーがそれを大きくうわまっているという予感だ。


「あ」

 ついと葵さんが声をあげた。

 雀ちゃんのことがあってから、毎日本堂を確認するようにしていた。ちょうど葵さんが本堂の格子戸を確認していたところだ。

「どうしました?」

 僕は受付の窓を開け、身を乗り出して確認する。よく見えないので、気になって傘をさして葵さんのところへ歩をすすめた。

「うぉ!」

 雨風が強く、傘が反り返る。葵さんはちゃんと黒いポンチョ型のカッパを着ていた。その姿は、黒いてるてる坊主のようで、さしずめ黒頭巾ちゃんと云ったところだ。

「格子戸が、キチンと閉まってないんです」

 葵さんが、ズレた格子戸を指した。

「ホンマですね」

 僕は格子戸を戻す。

「雀ちゃんの他にも、毘廬遮那仏の涙を狙ってる人間がいるんですかね?」

 格子戸をはめながら、思い当たる人物を探してみるが心当たりはない。僕の予想では、盗み出した犯人は伊藤だ。伊藤以外は思い当たる人物はいない。台風の風で外れるようなことはないと思う。

「びしょ濡れじゃないですか」

 葵さんはうしろから小さな黒いハンカチで背中を拭いてくれた。

「この勾玉をまうけしものの祈りのみが、その命と引き換えにそれを止むべし」

 葵さんはもう一度例の文を暗唱する。

「そんなわけないですよね~」

 葵さんは独り言のようにそう云った。

 ここまでの経過を整理しようということになり、部屋に戻って順にまとめていく。僕はあいかわらずそれをメモに落としていた。

 そもそも、どこからか「毘盧遮那仏の涙」が何でも願い事をかなえるという噂が起こった。その噂をもとに伊藤がテレビでそれを流し、螢ちゃんと雀ちゃんは、幼馴染の蓮くんの無念を晴らすため、「毘盧遮那仏の涙」を盗み出したと思われた。

 ところが、実際は二人が盗んだのではなかった。

 それに「毘盧遮那仏の涙」は、願いを叶えるものではなく、人類滅亡を止める働きをするものだった。しかも、それを祈った人物は死ぬという。

 そのことを知っているのは、葵さんと僕と葵さんのお父さんということになる。

  

 この一カ月の間に、練習のためにおおぬさを何度か手作りしたことがあった。それをタンスから引っ張り出し、ごみ袋へ入れてしっかりと縛る。

「なにに使うんですかそんなもの」

 葵さんはどこまで勘付いているのか、不思議そうに僕を見ていた。

「いや、うちでも練習しようと思って」

 なるべく不自然にならないように返事をえらぶ。

「ずいぶん熱心ですね。睡眠不足に気を付けてくださいよ」

 今朝の疲れ切った顔がよくなかった。

「それより、毘盧遮那仏の涙はどうするんですか?」

 葵さんのデザインを描く手が止まった。

「どうしましょうねぇ~」

 めずらしく打つ手がないようだ。

「僕、伊藤やと思うんです!」

 僕は思い切って話した。

「私もそう思います」

 やっぱり葵さんはわかっていたのか。動機もはっきりしている。僕らの過失にして、ひどい災害があれば、それに合わせて記事にするつもりだろう。あとは、伊藤がいつ、どうやって持ち出したのか、その証拠を突き止めなくてはいけない。

 そこまで考えて、もう一つ疑問にぶつかった。

「でも、伊藤以外にも狙ってる人間がいるってことですよね……」

 僕の呟きに、葵さんは「なにか大事なことを忘れてる気がするんですよね〜」と大きなため息をついた。


「おしゃれですね」

 葵さんは何気なく僕の腕を見て話を変えた。普段仕事ではしてこないんだが、今日は澪ちゃんの家からレインコートを取りに戻ってそのままきたので、左腕にホワイトハウライトの腕輪がついていた。

「ホワイトハウライトですね。忍耐力を高め、身代わりになってくれる石ですよね。ネガティブな感情や、不満による怒りをしずめ、冷静さと洞察力を取り戻す癒しの石。純粋さや平穏を象徴し、心身を浄化する働きがあり、精神や身体を強化します。冷静になれるという意味合いから、浮気防止としても贈られることがありますね」

 葵さんは、澪ちゃんより丁寧に説明をしてくれた。何と答えてもダメなような気がする。

「えっと、これはもらいもので……」

「でしょうね」

 そんなことはわかっていると云わんばかりだ。僕が頭をかいて下を向くと葵さんはさらに続けた。

「流行ってるんですね」

 僕が返答に困り果てていると、葵さんはその話はここまでといった風に次の話題に移った。

「これどうですか?」

 そこには白と黒の勾玉を根付のようにしたもののデザインが描かれていた。それぞれ別物だが、合わせると太極図になる。見たことはないが、本物の毘盧遮那仏の涙もこんな風なんだろう。

「これやったら、カップルとかにも売れそうですね。縁結びにも効果があればなおさらですね。意外とぴったりはまる勾玉ってないですもんね。まぁ、もともとそういう用途ではないか」

 葵さんは満足そうにデザインを見た。

「色のバリエーションつけてもいいですよね。好きな色同士でとか」

 根付の紐の部分の色とか、素材をどうしようかと、真剣に考え始めた。

「夏祭り中止の分、こっちで稼がないとね~。ブームが終わる前に」

 云いながら、葵さんは奥のパソコンへ行ってしまった。


 帰り、バイクで帰るのはかなり危険な状態ではあった。

「送りますよ」

 葵さんはそう云ってくれるが、今日はそうもいかない事情がある。

「いや、まだだいじょうぶです。カッパきて帰ります!」

 葵さんはきょとんとしている。外は暴風雨で、とてもじゃないがバイクで帰れるような状態ではなかった。

「嫌ですか? 私の車」

「いや、そうじゃないんですよ~。今日、どうしても知り合いのうちによらなあかんくて……」

 葵さんはそれを聞いて察したように「あぁ」と何度かうなずいた。

「それはお邪魔しました。お疲れ様でした」

 そう云うと葵さんは割とそっけなくすぐに帰ってしまった。

 

 僕には『隠す』癖がある。

 小学生の時に父親を亡くしたうちの家庭は、母親がきりもりをしてきた。今にして思えば、大変な苦悩があったのだろうと推しはかれる。  

 論もなく、母親はいつも疲れ切っており、たいていはイライラしていた。八つ当たりは日常茶飯事で「誰のために苦労してると思ってんねん!」と怒鳴られることもしばしばあった。僕は、そんな母親の顔ばせをたえず伺って生きてきた。母親の不機嫌の種を一早く嗅ぎ分け、先まわりして対処してきたのだ。

 母親の人格を疑われても困るので、簡単に弁護しておくが、けして悪い人間ではない。看護師として、朝な夕な働き、僕をここまで育ててくれた。

 なんにせよ、そうした経験に基づいて、いつの間にか『嘘』をつくことも、『隠す』ことも、入り用の智恵だと思うようになった。事実を告げて、格闘するくらいなら、小さな方便を用いて、あるいは事実自体をなかったことにして、事なきを得るにこしたことはないと思えたからだ。

 ここに来て、芯まで染み付いたその発想が、自分を縛っている要素となっていると思うことがある。こうしたことは、多かれ少なかれ誰にでもある悪い癖だろう。

 悪い癖。

 これは誰もが持ち合わせているであろう難儀と云えはしないか。大衆はいかにすると、この難儀から逃れることができるだろうか。

 僕には他にも、人と関わろうとしない悪い癖がある。理想の自分になれない不満が、買食いや無駄遣いに迷い込ませたり、疲れに任せてものぐさな間を過ごす。こうした悪い癖が、自分の目指す幸福な人生への壁となって立ちふさがり、新たな鬱積の元となる。

 とどのつまり、葵さんに黙って行動することも、こうして話をややこしく仕立て上げることで本質を曖昧にし、僕は罪悪感から一時的に逃れようと画策しているのだ。それがいずれ自分に返り、多かれ少なかれ、あらたな惨苦を生むと知りながらだ。

 

 澪ちゃんのマンションについたとき、僕はもうびしょ濡れだった。

「うぁー大変やん! すぐお風呂入って!」

 僕はゴミ袋に入れたずぶ濡れの荷物を玄関に引っ張り込む。

「ごめん。玄関もびちゃびちゃになった」

「いいよー。ほらはやく!」

 玄関から浴室はすぐだ。澪ちゃんは浴室でお湯の調整をしていた。

「体調は?」

「だいじょうぶ! 昨日よりすごくいい! これ使って」

 バスタオルを受け取る。

 僕は迷った。人のうちで風呂に入るってことは、そこそこ親密な関係だ。ましてや、付き合おうかどうか悩んでいる相手のうちでとなると、だいぶ重要な意味を持つ気がした。

「ほら、風邪ひくよ!」

 澪ちゃんは強引に僕を脱衣スペースに押し込み、扉を閉じた。僕がきちんとした態度をとらないから、澪ちゃんのペースに流されてしまっている。

 シャワーに打たれながら、僕はよくよく考えた。

 どうするのが正しいんだろう?

 人はどう生きるのが正解で、ゴールはどこにあるんだろう?

 今わかっているのは、澪ちゃんを何とかしてあげたいということ。そして僕は、それが何とかできる「霊能師」という仕事に就いたこと。たとえインチキでも、葵さんのやり方は成果を上げてきた。ということは、本人にそのつもりはなくても、何らかの作用はあったということだ。それを僕は一から学んだ。必ずできる。

 僕は風呂から出ると、澪ちゃんが用意してくれていた着替えを着て脱衣スペースをでた。

「なんで男もんのトランクスとかあるん?」

 澪ちゃんは狭い廊下で、僕をよけながら答えた。

「お父さんの予備」

 僕は頭を拭きながら玄関のごみ袋を空ける。

「なるほど」

「Tシャツもジャージも私のやからちっさいかな」

 確かに少し丈が足りないが気にならない。それより色が黒いのが嫌だ。なぜだろうか、僕は黒があまり好きではなくなっていた。

「大丈夫」

 僕はタオルを首にかけて道具を一つひとつ取り出した。三種の神器もこっそり持ち出した。

「チャーハンでいい?」

「え? 飯作ってくれんの?」

 そう云えばなにやらいい臭いがする。

 おおぬさを取り出すと、はらりと何かが落ちた。

「祭壇は東側につくること。自信を持つこと。それでも手に負えない場合はあきらめて後日私を連れていくこと」

 そう書かれたメモが荷物の上にのった。それは根付のボツデザインが描かれたメモの裏だった。

「葵さん…… やっぱ知ってたんや」 

「…… くん!?」

 澪ちゃんは何度も僕を呼んでいたようだったが、僕には全く聞こえていなかった。

「ごめん。なに?」

「チャーハンできたよ」

 澪ちゃんの部屋で澪ちゃんはテレビの前に座り、僕は座椅子を渡されてこたつの上でチャーハンとオニオンスープを食べた。

 この家は新築だから大丈夫だろうが、外ではごとごとと風があたる音がひっきりなしにしていた。

「おいしい! 澪ちゃん料理うまいな! 作るのはやいし」

 僕の中で澪ちゃんの評価がまた上がる。いい女の条件二つ目クリアだ。

「お世辞はいいよ~。おかわりあるから」

 二人は機嫌よく食事をした。あまり難しいことは考えない方がいいのかもしれない。

 食事のあと、一緒に皿を洗った。

 

 テレビをどかしてこたつを置き、その上に鏡、剣、勾玉の三種の神器を並べて、榊木をたて、水、塩、米、酒に見立てた水を並べる。

 澪ちゃんは「もうそんなんいいやん。ゲームしようや」と僕の腕をひく。

 憑依霊が、払われるのを嫌って邪魔をするのだと聞いたことがある。

 葵さんは、潜在意識で治るのを恐れているからだと云っていた。長い間患っていると、治ったあと社会に溶け込めるかどうか不安になり、治るのを恐れるのだという。

 祈祷の直前や、最中に「もうやめる」と云い出す人がたくさんいるらしい。なかには暴れる人もいるそうだ。そういったことを踏まえて、祈祷を最後まで行うよう書類で説明し、了解を得るのだ。

 澪ちゃんを云いくるめて後ろに座らせ、僕は祈祷をはじめた。

「澪ちゃんの中にいて、身体に痛みを起こすものよ、潜在意識から出てきてください。澪ちゃんの口を借りて、その理由を話してください」

 僕は澪ちゃんの横に座り、澪ちゃんの背中をゆっくりとさすりながら、何度か同じことを云った。

「澪ちゃんの中にいるものよ、この子の口を借りて理由を話したまえ」

 澪ちゃんは下を向いて気を失ったようにしている。かと思えば、しばらくして「痛い痛い」とわめきだした。

「体が痛い! 熱い!」

「あなたはどなたですか? 名前を教えてください!」

 僕は強くそう聞く。右手にはおおぬさをもち、左手で背中に手を添えている。

「痛い! 痛いー!」

 澪ちゃんはバタバタと暴れる。

「あなたは、この子のおじいちゃんでしょ?」

 僕は今度はやさしくそう聞いてみた。

 何度かそう聞くが、澪ちゃんは暴れるばかりだ。

「どうされたんですか? なぜお孫さんを苦しめはるんですか?」

 僕の質問に澪ちゃんは眼を向いた。

「かぁー!」

 動物が牙をむくように、僕を威嚇する。

「澪ちゃんは、ほんとうに困ってるんですよ?」

「許せん! 許せん! 許せん!」

 今度は許せないと連呼しだした。いったい何が許せないのだろうか。爪をたててフローリングをガリガリとひっかく。

「痛い! 痛い!」

 そう騒ぐ澪ちゃんの背中をゆっくりとさすりもう一度聞いてみた。

「何が許せないんですか?」

「わからんのか?」

 男の声でこっちを見る。

「わからんのかぁ!」

 澪ちゃんは立ち上がり、辺りのものに当たり散らした。比較的何もない部屋だが、テーブルとイスが倒され、パソコンが落ち、パワーストーンもあちこちに散らばった。簡易に作ったコタツの上の祭壇もコタツごとひっくり返された。

「澪ちゃん! 落ち着いて!」

 僕は澪ちゃんを後ろから抱きしめて、抑えつけた。

「もういいから、もういいから」

 僕はそう云って澪ちゃんの背中を何度か叩いた。澪ちゃんは力が抜けたようにその場にへたり込んだ。


「ごめんな、ごめんな、僕がもっとできれば……」

 僕は部屋を片付けながらもうずっと謝っていた。

「だいじょうぶ…… 私が悪いねん。でも、じーじのせいで身体が痛かったなんて、それがわかっただけでもなんか納得」

 澪ちゃんも疲れ切ったように、石を拾ってはケースに入れた。

「ごめんな。ほんまにごめんな」

「いいから〜。ほんまに大丈夫やから〜」

 澪ちゃんの声の疲れ具合が、余計に申し訳なく思わせる。

「ごめんな。ほんまにごめん」

「もう謝らんといてよー。なんか、私、責められてるみたい……」

 澪ちゃんは泣き出してしまった。

「ごめん! ちゃうねん。そんなんちゃうねん!」

 僕はあわてて澪ちゃんの背中をさする。

 台風の目に入ったのか、さっきまでの暴風は嘘のようにおさまっていた。

「雨やんでるね……」

 澪ちゃんのその言葉を聞いて僕は帰り支度をはじめた。

 なにか云いようのない重い空気が流れていて、その場にいるのが息苦しい。

「ごめんな。絶対何とかするから」

「こっちこそ、今日のことは忘れてください。嫌いにならんといてね……」

 僕は逃げるように外へ出た。


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