十一 はすはじめてひらく デート

    はすはじめてひらく


 よく晴れた京都ほど、気持ちが踊ることを僕は知らない。

 待ち合わせの時刻より一時間早く着いて、ゆっくりと鴨川に下りる。

 京都の朝は遅い。店なども十一時くらいから開きだし、観光客もそのころから一気に増えだす。それまでの時間はとても静かで、鴨川沿いにもほとんど人が見えない。それでも、祇園祭の期間に入っているので何処と無く雰囲気があわただしい。

 僕は、鴨川沿いを三条方面へ歩く。待ち合わせは出町柳だ。二、三駅手前の祇園四条で下車し、ゆっくりと歩くことにした。川床が並びいかにも涼しげで京都らしい。

 中学生の頃、模試かなにかで京都へ来て以来、僕は京都のとりこになった。なにがどういいのか、口では云いあらわすことができない。

 やはり伝統ある町並みと、歴史ある風情がそう思わせる。そう云うと身も蓋もなくなる。そういった言葉では、やはり表すことができないなにかが、この町にはあるのだ。

 あれから、なにか嫌なことがあったり、気分を変えたいとき、僕は自然とここへくる。

 北山を正面に見て、並木の美しい鴨川沿いを歩く。

 うそみたいに澄んだ空に、真緑の山。柳や桜の木が、青々と、そしていきいきと迎えてくれる。鴨川のせせらぎも透明で、耳あたりのいい音を奏でている。

 クマゼミの少ない年に当たるのだろうか、遠くで聞こえるアブラゼミやミンミンゼミの鳴き声が、反って涼しげに聞こえる。アオサギや、カルガモ、カラスなどの野鳥もたくさん憩い、ここだけは、時間がゆっくりと流れているようだ。

 ときおり犬を散歩させる人、走る人、読書する学生にすれちがう。

 神を信じられない人は、この神の都に一度来てほしい。きっと、偉大な意思を感じざるを得ないだろう。僕は、葵さんを思い浮かべてそう思った。

 鴨川沿いを延々と北へ上ると、やがて『鴨川デルタ』と云われる高野川との合流点にあたる。ここが出町柳だ。

 時間にして三十分ほどだろうか。毎日走っている僕にはまったく苦にならない距離だ。それだけ景色が美しい。

 約束の時間にはまだ二十分ほどあった。僕は読みかけの文庫本を取り出して川沿いに腰掛ける。くしくも京都を舞台にしたチープなミステリーだった。

 僕は、これほどゆったりと読書ができることにとても幸せを感じていた。


 スマホが乾いたギターの音でスナフキンのテーマを奏でる。

「はい。ついた? 駅までいくわ」

 僕は、駅まで澪ちゃんを迎えにいく。まったりとした一人の時間はそうして終わりを迎えた。

「せっかくのお休みやのに、私なんかといていいん?」

 澪ちゃんは会ってすぐそう云った。

「なに? 澪ちゃんは嫌なん?」

「めっちゃうれしい!」

 澪ちゃんは力強くそう云った。素直な子だなと思う。うらやましい。

「体調はどうなん? 身体痛くないの?」

 僕は澪ちゃんの症状がとても気になっていた。全身が痛くなるなんて尋常じゃない。

 たまに起こす腹痛でも、そのときは死んだほうがマシだと思うもんだ。たいがいは前の日に食べ過ぎたとか、お腹を冷やしたとか、思い当たる理由があって、二度としないと強く誓う。この痛みさえ取れれば幸せだと思う。

 喉元過ぎれば熱さ忘れるの言葉どおり、治ってしまうと誓いも痛さも忘れ、なお、痛みのないことの『幸せ』をも忘れてしまう。そうしてまた眼の前の美味そうな料理にしこたま食らいつく。

 人は、失くしてから、与えられていた幸せにはじめて気づく。そして、まだ持っている幸せに気づかないまま、失った幸せをことさら嘆く。

 でも、澪ちゃんの誘いにのったのはそれだけが原因ではないようだ。なぜだか僕は、とても人恋しかった。

「最近はないんやけど、これからの時期がいつもひどいん。ちょっと心配してはいる」

「これから?」

「毎年、八月ごろが一番ひどいん」

 澪ちゃんはそれほどつらくないように話す。気を使っているのだろう。

「沖縄は台風で大変やのに京都は晴れてよかった! 最近地震とかひどいし、なんもなくてよかった!」

 本当にうれしそうに澪ちゃんははしゃいだ。

 しばらく北へ歩くと、糺の森にはいる。下鴨神社の参道である。

 急に黙った澪ちゃんはなにやらもじもじしている。

「ん?」

 僕は気になって澪ちゃんを見る。

「あの…… 手、つないでもいい?」

 澪ちゃんは真っ赤な顔でそう云った。

 そのときはじめて、澪ちゃんの姿が眼に入ってきた。ベージュを基調にしたインド柄のワンピースに、腕輪をたくさんつけて、首からもネックレスをさげ、茶系のサンダルを履いている。いつもはカールしている髪も、後ろで束ねていた。

 かわいかった。申し訳なさそうにするしぐさも、愛らしかった。

 僕は、なぜか返事ができなかった。

 相手に気を使うということも、人と関わることを疎ましく思わせる。配慮してやったことが余計だと云われたり、遠慮して成さなかったことが指摘されたり、人と関わることは本当に難しい。

 いつもはなんの遠慮もなしに腕を組んでくるのに、今日の澪ちゃんはケバケバしくもなく、ナチュラルメイクに、髪も落ち着いた色で、ネイルもしていない。高校のころの澪ちゃんに戻ったようだった。

「あ、いいねん! まだ、そんな感じじゃないやんな。いい!」

 澪ちゃんは僕の様子を見て、あわててそう云った。

 僕は、澪ちゃんの手を握る。澪ちゃんは驚いて僕を見た。

「まだそんな感じじゃないから、じゃあ練習ってことで」

 わざとおどけた風をよそおった。

「うん!」

 澪ちゃんはとたんに元気になって、僕の手を振ってスキップをはじめた。

「ここ、めっちゃいいとこやんなー。空気もきれいし静かー」

 そう云って深呼吸をする。

「明治天皇陵の参道はもっといいで」

「そうなん? じゃあ今度いこ!」

 それからしばらく、澪ちゃんの趣味の話をした。パワーストーンが好きらしく、石の種類や持っている力なんかの話をした。

「これは虎眼石なんやけど、お金を引き寄せてくれるねん。それに邪気を祓う力もあるんやって。こっちはホワイトハウライトってゆって、勇気とか強さをつけてくれるん。否定的な心を断ち切って、潜在能力を引き出すん!」 

 澪ちゃんはそこまで話すと、ハッとなにか思い出したように一瞬考え込んだ。

「これあげる!」

 そう云って、白い石が数珠繋ぎになった腕輪を、自分の腕から外し、僕の左手につけてくれた。

「え? いいの? 高いんちゃうん?」

 澪ちゃんはいたずらっぽく笑う。

「それ、浮気防止の力もあるねんて。だから強制」

 澪ちゃんは笑って舌を出した。さっきの話を聞いて、今の僕にぴったりの石だと思っていた。

「あ、ありがとう……」

 正面に朱色の鳥居が現れた。

 右手の手水舎に向かう。

「あれ? 私、重い?」

 澪ちゃんは僕が黙ったのを気にしてそう云った。

「ちがうねん。今の自分にぴったりやなと思って、うれしくて」

 僕はひしゃくを手に取った。

「あ、澪ちゃんこれのやり方知ってる?」

 澪ちゃんは得意げな表情でひしゃくを取る。

「もちろん! 神職の人と付き合おうと思ったら勉強しないと!」

 澪ちゃんはそう云ってひしゃくですくった水で左手を洗い、右手を洗い、左手に水をのせて口をゆすぐと、最後にひしゃくの柄を洗った。

「昔の人はすごいね。ひしゃく一杯の水で、手も口も洗って、おまけに次の人のことを考えてひしゃくの柄まで洗うなんて」

 しみじみそう云う澪ちゃんを見て僕は笑った。

「僕の見せ場がないやん」

「あ、そうか、ごめん!」

 澪ちゃんも笑った。

 二人は鳥居の前でお辞儀をし、中に入った。鳥居から境内の門まではまだ少しある。左手に小さな土産屋がある。少しずつ参拝の人も増えてきた。

 やがて本殿に入り、二礼二柏手一礼の作法どおり参拝を済ませた。中にはたくさんの神様の社があり、僕は知っている範囲で説明をした。

「ここの神社って、光琉くんの神社と同じなんやろ?」

 澪ちゃんの質問は、ご祭神がってことだ。

「うん」

「なにか関係あるん?」

 その話はしたくなかった。実は関係は大有りなのだろうが、僕はあまり知らなかったからだ。妙な自尊心が、知らない自分を隠したいと思わせる。

「いや、実は僕、その辺のことはまだ知らんねん」

「まだ、一ヶ月くらいやもんね。光琉くん、もう何でも知ってるから何年もやってるみたい」

 澪ちゃんはすぐにフォローをしてくれた。澪ちゃんとは、あれからずっとメールのやり取りをしていて、僕が加茂神社に勤めていることもうまく伝えていた。

 僕は完全に休日の気の抜けた感じになっていたが、よく考えれば、今までのやり取りからある程度、澪ちゃんの状態がわかるはずだと思った。

「飯くいにいこか。安くてうまい店知ってんねん」

 僕は以前澪ちゃんに云われたことを活かして、あえて澪ちゃんの希望を聞かなかった。

「うん!」

 二人は京阪電車で三条まで戻り、駅を北東に出たすぐにある定食屋に入った。

「ここのお勧めは中華そばなん。でも、京都名物のにしんそばもあるで」

 その古めかしい昔の定食屋さんを見渡しながら、澪ちゃんはあきらかにご機嫌な風だった。

「めっちゃ雰囲気でてる! じゃあ私中華そばにする!」

 建物自体はとても古く、テーブルや椅子もくたびれた様子だが、よく掃除をされていて清潔なお店だ。京都は高くてまずい店が多いが、ここは安くてうまい。自慢の店だった。

「じゃあ、僕にしんそばにするから、二人でわけようか」

「うん! もう付き合ってるみたい!」

 澪ちゃんのそういう言葉は、なぜかチクチクと僕の心を刺してくる。まだ、他人に深く関わるということを、できるだけ避けたいと思っていたからか。それにしては、頭の中に葵さんのことばかりが浮かんでくる。今日は何をしてるんだろう? 休みの日はどうすごしているんだろう? どんな部屋に住んでいて、どんなものに興味を持っているんだろう?

「ここ、テレビでも紹介されたことあるらしいで」

 食べながら僕が云うと、澪ちゃんも口をもぐもぐさせて話した。

「すごいやん。おいしいもんな」

 昔ながらの中華そばも、澪ちゃんは気に入ってくれた。にしんそばもおいしそうに食べてくれた。

 その後、新京極を通って四条までいき、四条通をとおって八坂神社へ向かった。新京極でも、澪ちゃんはとても元気だった。両側に若い子むけの店やお土産やさんが並び、二人でからあげを食べたり、抹茶アイスを食べたりした。

 ふと、勾玉のおみやげが眼に入る。また葵さんのことが頭によぎった。

 途中、「誓願寺」という僕のおすすめのお寺による。ここの阿弥陀如来は、とても大きくて優しいお顔をされている。眼に残る金箔のせいで、まなざしに生命が宿っている。

 境内の隅の湯船のように大きな鉢は、底の見えない泥でいっぱいだが、皿のような葉がいくつも浮かび、黄緑色の美しい茎がすらりと伸びて、白くて先端のみが薄紅い蓮が、みごとな花をつけている。そのつぼみは命毛に紅墨を蓄えた穂首のようだ。

 新京極という賑やかな商店街の中にあっても、静寂がある。パワースポットだ。

 澪ちゃんにも同じように説明し、二人で手を合わせる。

「神職の人が仏様に手を合わせるのはいいん?」

 澪ちゃんは不思議そうに聞く。

「もともとは神仏習合って云って、神様と仏様はいっしょに祀られてるとこもあったんやで。うちの神社はその名残で今もいっしょやけどね」

 そのあとも、たくさんの土産物屋や、店を通り、四条通を歩く。もうすごい人だ。

 やがて、八坂神社の立派な門が見えてきた。ここも京都の中でもおすすめのスポットのひとつだった。

「なにがお勧めって、この狛犬と獅子がお勧めやねん!」

 説明するのにも力が入る。その造形は、ほかにはないリアルなものだ。まるで、生きた狛犬と獅子がそこにいるように思われる。この狛犬と獅子を作った人には、本物が見えていたんじゃないだろかと疑うほどだ。それを見るたびに、半世紀以上、ここから四条通を見渡してきたこの狛犬と獅子に、畏敬の念を抱かざるにはおれない。

「光琉くんていくつなん? 十九の云うことじゃないで~」

 その話をすると澪ちゃんは笑った。

 そう云えば、葵さんは祈祷の最後に必ず狛犬を登場させる。天から降りてきた狛犬の背に乗って、迷える霊をあの世へ送るのだ。何故だろう。阿弥陀如来ならともかく、狛犬が死者を送るなんて聞いたことがない。本当に不思議な人だ。今までどんなふうに育ってきたんだろう。どんな友達がいるんだろう。どんなものに惹かれ、どんなものに感動するんだろう。

「光琉くん?」

 つい考え事をしてしまった僕の顔を覗き込んでいる。

「ごめんごめん」

 蘇民将来、猿田彦、事代主、ひとつひとつの社に祭られる神様の説明をしながら、本殿へと足を進める。本殿の手前に大国主が祭られる社があり、縁結びの神様として、そこだけがやたらとにぎわっている。

「ならぶ?」

 大国主が縁結びの神様に特化しているというのは、僕には異論がある。それでも、人心を掌握する手段に「縁結び」が効果があるのは一目瞭然だった。

「うん!」

 澪ちゃんは「もちろん!」といった風に列にならんだ。

 澪ちゃんとよりそって縁結びの神様にお参りすることに、とても恥ずかしい思いをしながら、そこにともに祭られている少彦名の神に、澪ちゃんの病の改善を祈った。

 いよいよ本殿の素戔嗚尊にお参りし、おみくじを引いた。

「何番?」

「四番。光琉くんは?」

「九番……」

「死と苦やな」

 澪ちゃんは笑う。

 案の定、二人とも凶だった。

「明けぬ夜はなし! 静かに朝をまつべし! か。ようするに夜なんや」

 澪ちゃんは少しがっかりした様子だった。さきを読んでさらに肩を落とす。

「縁談、迷い起こりて先に進まず…… 光琉くんが迷ってるからかな……」

 ぼそっと鋭いことを云う。

「でも、ほら、病気、長引くとも全快すって!」

 僕は聞こえない振りをしてその部分を指さした。

「光琉くんは?」

 今度は澪ちゃんが僕のおみくじを覗いた。

「縁談、急げば悪し! もう!」

 澪ちゃんはそこだけを読んでほっぺたを膨らませた。

「おみくじはね、大吉とか、凶とか、関係ないねん。これは神様からのメッセージやから、よく読んで思い当たることを改善しなあかんねん」

 日ごろ、参拝する人に話す話をする。そして自分のおみくじを見返した。

「人の背負いし修行の道を光明とせよ。か」

 澪ちゃんはもう一度僕のおみくじを覗いてその部分を読んだ。

「なんか、かっこいいね!」

 そう云って笑う澪ちゃんは、本当にかわいいと思った。

 そのあとも、高台寺を通って清水の方へ行こうと思っていたのだが、のんびりしていたのでもう六時を過ぎていた。京都は、早いところでだいたい四時ころから店が閉まりはじめる。

「じゃあ、続きはまた今度来よう? 約束やで?」

 澪ちゃんは次の口実ができて満足そうにしていた。

「晩飯どうする?」

 僕はそう聞きながら、いいところを思いついていた。

「弁当でもいい?」

 澪ちゃんは何でもいいと笑ってついてくる。

 僕たちは大和大路通まで戻り、そこを北へ折れ、白川ぞいのコンビニに入った。

「?」

 澪ちゃんは不思議そうにしている。

「ここで弁当買って食べよう」

 僕はそう云って塩だれの豚めしとお茶をかごに入れた。

「なんか、おもしろそう!」

 澪ちゃんも、京都らしいということで寿司とお茶を買った。

 二人はそのまま二階へ続く階段を上がる。そこはイートインスペースになっている。

「すご~い!」

 澪ちゃんも、僕の意図がわかったようで声をあげた。奥のカウンター席は、白川を見下ろせる特等席になっているのだ。

「大満足! 料亭みたい」

 そう云って澪ちゃんは寿司をほおばる。

 澪ちゃんは、ひととおり食べ終わって、デザートを追加で買いに降り、上がってきた。

 デザートは、やっぱり京都っぽいという理由でみたらし団子だった。京都の人は、寿司もみたらし団子も京都っぽいとは思わないだろう。

「私、催眠術とか興味あるねんなぁ」

 その澪ちゃんの突然の発言に僕は冷や汗をかいた。よく考えなくとも、僕たちのやってることはインチキなんだ。みんなの前で正直に話せる仕事じゃないんだ。そういう思いが一気に溢れ出てきた。

「催眠術できんの?」

 僕は表には一切そういう気持ちを出さず、話を続けた。

「練習はしてんねんけど、なんせ相手がいーひんやんかぁ。あ、練習台になってくれるぅ? 私の部屋でやけど」

 澪ちゃんはまたいたずらっぽい笑顔で誘惑する。

「それ、どんな催眠かけられるかわからんやん!」

 その日はそうしてずっと笑って過ごした。心にいろいろなわだかまりが残るにせよ、とても楽しい一日だった。ほどなく電車で地元へ戻り、二人は何事もなく家路についた。

「今日一日、死ぬほどしあわせでした! でも、次はもっと遅くまで付き合ってくださいね?」

 澪ちゃんはあらたまってそう云うと帰って行った。僕は、澪ちゃんのおっちゃんにメールで報告をした。

『光琉くん、ほんまにありがとう。澪も喜んでます。また付き合ったってな』

 すぐにそんな返事が来た。 

 

 次の日、僕はいつも以上に気合を入れて仕事に取り組んでいた。

 葵さんは夏祭りの準備といって事務スペースにこもっている。

 昨年までは、地元の人の協力で秋祭りのみが簡単に行われていたようだ。葵さんは、なんせ経営能力がある。彼氏が社長なのも関係しているのだろうか。今年は屋台も並べて大々的に夏祭りをやりたいと、もうずいぶん前から計画していたらしい。

 外は日本列島をなぞるように北上する台風の影響か、少し風が出てきていた。

 沖縄、九州を直撃し、本州四国へ向かいはじめた台風のせいで、梅雨が明けても雨が降っていた。

 この台風の進路。気にならないわけがなかった。日本全国を揺らす地震、そして予測通りなら日本中を巻き込む台風の進路。

「葵さん、毘盧遮那仏の涙についての文献って、お父様からお借りできないんですか?」

 僕が極まってそう聞いたとき、葵さんもいよいよそれを考えていたようだった。

「そうですよね。この台風で夏祭りもできそうにないですし」

 葵さんが楽しみにしていた夏祭りは七月十五日。明後日だ。台風のピークは明日の午後だが、明後日だとどうなるかわからない。

 昨日から、業者さんや町内会の人との打ち合わせで本当に忙しそうにされていたが、どうやら中止の方向で話がすすんでいるようだった。

 僕にできることがないのがとても申し訳なかった。

「光琉くんがいなかったら絶対できませんよ~。ここのことやってくれるから私が動けるんです」

 それはよくわかっている。わかっているのに、なにか物足りない。葵さんの彼氏さんだったら、たくさんの人と物を引っ張ってくるんだろうと思うと、とてつもなく悔しくなる。

「もしもし? あ、私。お父さん、あの文献ってどこにある? ほら、毘盧遮那仏の涙。え? ここにあるん? あぁ、ちょっと探してみる。ありがとう」

 葵さんはすぐにお父様に連絡を取ってくれた。文献はどうやらここにあるらしい。

「あの、父が云うには、こないだこっちに持ってきたらしくって……」

 葵さんはそう云いながら受付の下の棚を探った。

「あ、これですね」

 葵さんは、あっさりと棚の下から文献を取り出した。それは端を紐でくくられた本になっている。表紙の劣化は激しく、ハゲがあって題がわからない。

「意外といい加減な扱いなんですね……」

 なんの蓋いもなく無造作に棚の下にしまわれているのを見て、ついそう思った。ふつう、木箱に入っていたり、風呂敷に包まれていたりするものじゃないんだろうか。

「なんか、書かれたのは明治初期なんですけど、正式なものではないらしくて、価値はもちろんありませんし、当時のいたずらかも知れないって父が云ってましたから、それでかもしれませんね。そういえば、こないだ父が云ってましたが、二年前の修復の時に出てきたらしいですよ」

 葵さんが中を開くのを、僕は横で見ていた。

「あぁ~」

 葵さんが納得したような、脱力したような声を出す。

 当然毛筆で書かれた内容は、同じ日本語とは思えない。はっきり云って全く分からなかった。

「わかります?」

 葵さんはこちらに本を向ける。

「わかるわけないっす」

 僕は苦笑した。

「どうしましょう~」

 葵さんはたいして困ったような口ぶりではないが、そのままへたるように座った。

「困ったなぁ」

 そのとき、渋いギターの音が流れた。スナフキンのテーマだ。僕は仕事中はマナーモードにしているはずだ。すぐに確認する。

「あ、お父さん? こんなん読めるわけないやん。うん。うん。そうなん? わかった。じゃあ待ってる」

「え?」

 僕は葵さんの顔をじっと見た。

「ん?」

 それに気づいた葵さんもこっちを見た。

「訳を書いたのを父がメールでくれるそうです」

 葵さんはいつものようにニッコリと笑った。

「葵さん、着メロムーミンなんですか?」

 葵さんは、「あぁそこか」という表情で答えた。

「なんか好きなんですよ〜」

「僕もなんすよ! ムーミンの原作読んだことあります?」

 興奮してついマニアックな内容に踏み込む。

「もちろんです! ムーミンって子供の話じゃないですよね」

「ですよね! あれは哲学ですよね!」

 ずいぶん二人でもりあがったあと、葵さんは、奥の事務スペースのパソコンにメールを確認しにいく。しばらくして大量のプリントアウトを持って戻ってきた。

 歴史的な背景の説明など、長々とあったものの、大切な部分の内容はごく簡単なものだった。抜粋すると次のとおりだ。

『やがてくる人類滅亡の時のために、ここに我がたまへし天の言葉を記しておく。

 この書とともに安置されたる毘盧遮那仏が持つ勾玉は、この毘盧遮那仏が、人類滅亡をかこちて流しし涙の結晶なり。

 この勾玉が、毘廬遮那仏の手を離れ、世に出でるとき、封印解かれ、秋津島より人類滅亡の危機が始まる。

 天変地異がここそこで起こり、やをらいみじくなる。

 この勾玉をまうけしものの祈りのみが、その命と引き換えにそれを止むべし。

 ただし――

 これをどう使ふやはのちの世の人次第なり。

 我はこれを善人に託したし』

「これが本当ならやばいかも」

 葵さんはもう一度メールを読み直し、ぽつりと呟いた。

 僕もメールをのぞく。

「ただしの後がないですね」

 僕はすぐに原本のその部分を確認した。

「あぁ」

 その部分は雨にでも濡れたのか、カビが生えぼやけてしまって読めない。葵さんも僕も、それ以上はその部分について追及することはなかった。

「内容が本当でなくても、人類を滅亡させたい人が身近にいるということですね。なんか、寂しいことです」

 葵さんはそう云ってため息をつき、メールを印刷した用紙をトントンと整頓した。

「そこまで知らない可能性もありますよね? 願いが叶うという部分しか知らない人の方が多いわけですし」

 僕はそうであってほしいと思いながら云う。

 それから、台風に備えて、飛んでいきそうなものを社務所の中にしまうことにした。ほうき立てや、塵取りなどを中に取り込む。

「前に、光琉くんが話してくれた除霊の話。単純な算数やって」

 不意に葵さんが話をはじめた。

「除霊でも催眠でも同じですって云いましたよね。私、だから光琉くんにきてもらったんですよ? 私が十しかなくても、光琉くんも十あれば、二十になるでしょ?」

 二人で大きなほうき立てを運びながら、そう云えば、このほうき立てのドラム缶も、一人で運ぶのは大変だなと思った。

「仲間は多い方がいいですもんね!」

 葵さんはいつものように笑っていた。夏祭りのことで、直接手伝えないことを情けなく思っている僕の気持ちを理解してくれているのだろう。



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