十 はんげしょうず 初めての祈祷

 ご祈祷当日も佐藤家のリビングに、僕ははりきって祭壇を準備していた。

 葵さんは昨日も遅くまで調べ物をしていたようで、少しお疲れのように見える。


「そりゃ、もう迷惑かけるしかないってわかってたらそう思いますよね。香波さんやったらどうします? 私やったらどうするやろう……」

「いやぁ、もう死なせてあげたいって思いますよねぇ」

「でも殺人は殺人ですしね……」


 祭壇を組んでいると、葵さんと香波さんがダイニングで話しているのが聞こえる。

 雀ちゃんは、端によせたテレビでゲームをしている。

 香波さんはそれが気になるようだ。

「雀! そろそろ邪魔になるから片づけなさい!」

「まだ大丈夫ですよ」

 葵さんは笑う。


 祭壇を組みあげると、検証の時と同じようにダイニングのテーブルを囲み、書類の説明を行う。

「今回は、鴨野が祈祷を担当しますが、途中問題があれば、私が補助として入ります」

 葵さんはきちんとその辺りの説明もしてくれた。

 書類にサインをしてもらい、祭壇の前に座ってもらう。

 香波さんの後ろに雀ちゃんが座る。

 お香を焚いて、雅楽を小さく流し、少しゆったりとした時間をおく。

 十分にリラックスしたころ、僕は初めての祝詞を奏上した。

 祓詞をあげる。

 そして、いよいよ香波さんと向かい合う。

 何度か深呼吸を促し、身体の力を抜くように誘導する。

「高橋香波さんの中の者よ、ゆっくり意識の表面に出てきてください。ゆっくり出てきてください。そして、香波さんの口を借りて、私の質問に答えてください」

 手をあわせて、下を向く香波さんは、動く気配はない。

「さぁゆっくりでてきてください。ゆっくりでてきてください」

 確かに僕の誘導はぎこちなかった。葵さんは香波さんの後ろに周り、背中をやわらかくさすった。

 だんだんと香波さんの身体の力が抜け、フラフラと揺れだした。

「まずあなたのお名前を教えて下さいますか?」

 やはり僕の誘導は、自分でも満足いくものではなく、どこかしら不細工だ。

「…… か、か、悲しい。か、悲しい。悲しい」

 香波さんは絞りだすような小さな声で、悲しい悲しいと泣き出した。

それはそうだろう。僕は結婚したことはないが、新婚で病気で寝込んでいるのに、外で浮気されて邪魔だからと殺されては、悲しいを通り越して本当に恨めしい。

 それにしてもその姿は、催眠療法だと云われてわかっていても、鳥肌が立つほど薄気味悪い。声の質や小刻みに揺れる身体から漂う雰囲気は、まさになにか得体の知れないものが憑いていると思わせる。そうでなくても、なにか狂気を帯びている。

「小林、智子さんですよね?」

 おそるおそる名前を確認する。香波さんは、うんうんと大きく何度もうなずいたが、悲しい悲しいと泣くばかりだった。

「なにがそんなに悲しいのか話していただけますか?」

 僕は慎重に言葉を選んで質問をすすめた。

「悲しいぃ。悲しいぃ。悲しいぃ」

 やはり香波さんは泣くばかりだった。葵さんは、僕に代わるように合図をしたが、僕は動かなかった。

「何が悲しいんですか? 殺されたからですね? 旦那さんに?」

 僕は質問を少しずつ核心に近づけていく。

 ところが、香波さんの状態は悪化していた。ぶんぶんと頭を左右に振る。

「わかるもんか! おまえにわかるもんか! おまえも! おまえもおなじや! あいつらとおなじやぁ!」

 香波さんは歯をむいて別人のように僕に罵声を浴びせた。それは、あの明るい香波さんとはとても思えなかった。

 葵さんは急いで僕に代わるように、何度も合図をしていた。それでも、僕のプライドはそれを許さなかった。

「わかりますよ。旦那さんに殺されたことが心残りなんですね? わかります。わかりますよ!」

「わかるもんか! 貴様にわかるもんか!」

 香波さんは、立ち上がって僕を殴ろうとした。葵さんが羽交い絞めにして止めている。

 葵さんはそのまま香波さんを抱きしめた。

「わかりますよ。小林さん。わかります」

 葵さんはそう云って香波さんを抱きしめる。

「旦那さんはあなたを愛していました。心から愛していました。でなければ、自ら殺人犯になるなんてできなかったはずです」

 葵さんがすすめるその内容は、僕にはさっぱりわからないものだった。

「あなたは、自分がガンで死んだときのために、生命保険を余分にかけていましたね。

 そして、死んだあとに旦那さんに新しい恋愛をしてもらうために、いろいろなサークルに旦那さんの名前で申し込んでいた。

 友達が女手一人で困っているからと、手の届かないところの掃除や、配線なんかを口実に友達の家に旦那さんを行かせることもたびたびあった。それがきっかけで新しい恋愛に発展することを願っていたんです。

 そして、そうしたやり取りに使った携帯電話は、旦那さんに見られないようにロックをかけ、見つからないように隠していた。

 ある日、あまりに辛かったあなたは、『殺してくれた方が楽だ』と本音を彼に伝えてしまった。

 彼は、苦しみ悩んだ挙句、あなたをその手にかけた。もう、あなたが苦しむのを見ていられなかったんでしょうね。

 報道は、保険金目当ての殺人と報じ、旦那さんはあちこちで女遊びをしていたように悪人にされてしまった。

 すべて、あなたの配慮が裏目に出てしまったのですね」

 香波さんは葵さんに抱きついて泣き叫んだ。

「許せん! 報道が許せへん! あの人のなにを知ってるって云うんや! たいして調べもせんと! いや、本当はあいつは全部知っててやってたんや! 許せん! 許せん!」

 葵さんは香波さんを抱く力を、ぎゅっと強めた。

「わかります。本当によくわかります」

「嘘ばっかりやん! 嘘ばっかりや!」

「私が何とかします。何とかしますから! もう楽になってください。もうあなたは楽になっていいはずでしょう?」

 葵さんは香波さんを抱きしめてそう語る。

「本当に嘘ばっかりや! 

 結局どちらが儲かるかってことなんやろ? 

 浮気と保険金のために、いずれ死ぬ妻を殺す極悪人として報道するほうが儲かると思ったんや!

 誠は、浮気どころか誰一人とも連絡を取り合うことさえせんかった。それはあいつかってわかってたはずやのに!

 あいつのせいで、世間は誠を悪魔やと思ってんねんで⁉ 

 事実と違う報道をしたって、世間にはわからん。いくらあとから訂正したって、世間はそんなこと関心もないんやから!」

 香波さんは、まだ納得出来ない様子で叫んでいた。やがて体力が保たなくなったのか、声色から力が失せていく。

「許せへん…… 許せへん……」

 葵さんは香波さんのうしろにまわした手でゆっくりと背中をさすった。

「もう、もういいんです。あなたは十分に苦しみました。もう、もういいんですよ」

 しばらく二人は抱き合ったまま、香波さんはずっと泣いていた。  

「やっぱり、真実と違う報道が原因やったんですね……」

 葵さんの問いかけに、ややあって、香波さんは頭をもたげた。

「違うんです! そんなことが云いたかったんじゃない!」

 香波さんはまた声を大きくしたが、さっきまでの狂気じみた様子はなかった。 


 僕にはわからなかった。

 旦那さんに殺された恨みでもなく、報道が事実を報じなかった恨みでもないなら、いったいなにが心残りで小林さんは現れたのか。

 香波さんは、小林さんのなにが心残りだと感じているのか。

 報道を信じていた僕は、小林さんの心残りは旦那さんに裏切られ殺害された恨みだと疑わなかった。

 ところが、葵さんが突き止めた真実によると、旦那さんは小林さんのためにどうしようもなく事を起こし、報道はそれを逆手に取って記事を仕立てた。

 確かにその報道の姿勢には、小林さんも怒りを隠さなかったが、それが心残りなのではないとなると、もう僕にはまったく検討がつかなかった。

 小林さんはなぜ香波さんの中に現れ、なにを無念に思い、どうすれば納得するのか。それは、香波さんのどんな心境と重なっているのか。

 僕は、香波さんのしゃっくりのように酷い嗚咽がおさまるのをじっと待った。

 

「…… どうか、どうか、誠に、誠に伝えてください。ありがとうって、ごめんねって、伝えてください。

 それが一番の心残りです。それを伝えてほしかった。

 どうか、どうか誠に…… ごめんねって伝えてください! 

 私があんなこと頼まんかったら、こんなことにはならんかったのに…… 

 誠! ごめんね! ごめんね」

 香波さんは葵さんの衣をしっかりと掴んだまますがるように云うと、また葵さんの懐に顔をうずめて、「誠、ごめんね、ごめんね」と何度もそう云いながら泣いた。

 あっけない理由だ。

 いや、当の旦那さんにしてみれば、そう単純なものでもないかも知れない。まだ塀の中にいるのか、それとももう出てきているのか、僕には知る由もないが、彼にしてみれば、小林さんのこの言葉ほど慰めになるものはないはずだ。

 そして、云われてみれば確かに、小林さんにこれ以上の心残りはなかっただろう。

 そのあともひとしきり続いた香波さんの嗚咽が静かになったころ、不意に今度は葵さんが顔をあげた。

「ほら、狛犬が迎えに来たのが見えたでしょう?」

 香波さんも顔をあげる。

「ほら、あそこ」

 まるでそこに本当に狛犬が迎えに来たかのように手をあげる。

「さぁ、あれに乗って帰りましょう? 向こうにはもう苦しみはなにもありませんよ」

 そのころには、泣きつかれた子供のように、香波さんはずいぶん脱力していた。

「行きますよ」

 葵さんはそう云うと、大きな声で呪文を唱えて「はい!」と香波さんの背中を叩いた。

「だいじょうぶ?」

 葵さんは香波さんにやさしくそう聞いた。

「だいじょうぶ」

 香波さんも涙を拭きながらそう答えた。

「めちゃくちゃすっきりしました! おお! 身体が軽い~!」

 香波さんはすっと立ち上がって腕をまわした。その顔には生気が戻り、別人のようだった。

「なんか不思議な感じ~」

 香波さんはとても元気になっていた。 

「はぁ」

 いくつかまわした腕をおろすと、香波さんは大きなため息をついた。そして、香波さんの頬をさらに涙が伝った。香波さんは「えへへ」と笑いながら、涙を拭う。

「すごい小林さんの気持ち、よくわかって」

 葵さんと僕の視線を感じたのか、香波さんの方から涙の訳を話してくれた。

「離婚して半年になるんやけど、旦那に、悪いことしたなぁって思うことがたくさんあって……」

 香波さんは、笑顔を作って話そうとするのに、涙はどんどん溢れるようで、話も途切れがちになった。

「もっと、いろんなこと伝えておけばよかったって、最近毎日思うんですよ」

 鼻をすすって話を続ける。

「いっぱいありがとうって思うことあったのに…… 

 いっぱい謝ることもあったのに…… 

 いつも、恥ずかしがったり、強がったり、ちゃんと伝えたことなかった……

 ちゃんと伝えてたら、こんなことにはならなかったかも……」

 香波さんは、それから子供のように「しょうちゃんごめーん」と泣き出した。しょうちゃんとは元旦那さんだろう。


 僕には分からないことがたくさんあった。

 力なく後片付けをして、神社に帰る。葵さんに聞くべきこともたくさんあった。

 それでも、なにも聞けなかった。

「お疲れ様でした。また明日にしましょう」

 葵さんは、そう云って僕を見送ってくれた。

 

 その夜、僕の心境は暗然としていた。悔恨の情を抱かざるを得なかった。

 小林さんが持つ恨みのもとを、旦那さんだと決めつけ、首尾よく駒を進められなかったにも関わらず、ほんのちっぽけな自尊心のために葵さんと代わることができなかった。

 葵さんが真相を話したときには、僕は裏切りにも似た感覚にとらわれた。誰も彼もが心得ている本当のことを、僕だけに知らされていない上で、舞台に一人立たされ、指をさされて笑われているような心地だ。はじめから自分を蔑ろにするための演出だったのかとさえ思う。

 まあどうせ自分の能力なんて、この程度だ。

 物事がうまく運び、自信に溢れているときは、自分はなんでもやれると有頂天になり、まわりなど見えない。やっぱり自分は他とは違う特別な人間なんだと再認識してますます己惚れる。

 ひとたび躓いて硬い地面に頭をぶつけると、途端に己を卑下し、『おまえなんかなんの役にも立たないクズなんだ』と責め苛む。

 僕は、愚かな人間の見本みたいなもんなんだ。

 もう辞めよう。ほかにもっと自分にあった仕事があるはずだ。

やっぱり人と関わる仕事はできない。

もともと興味本位と伊藤からの報酬目当てにはじめたことだし、とくに今のところ葵さんの足しになっているとも思えない。ましてや、インチキだとは思ってもいなかった。辞める理由はたくさんでてくる。

 真っ暗で冷たい海に、ゆっくりと沈んでいくように、僕の思考はどんどん光を失っていく。疲れた僕にはそのイメージが心地よく感じられた。

 そんな暗い気持ちで布団にうずくまり、知らぬ間に夢を見ていた。


 ひどい揺れが寝床を襲った。泥のように眠っていた僕も、さすがに目が覚めた。

 朝の五時だった。メールが来る。

「光琉くん大丈夫?」 

 澪ちゃんからだ。

「だ、い、じ、ょ、う、ぶ、ですと」

 そう云って打ち返す。

 そう云えば、葵さんの携帯番号を知らない。葵さんは、伊藤から僕の履歴書をもらっているはずだから、僕の携帯番号もメールのアドレスも知っているんだろう。そう思うと、メールが来ないのが寂しい。

 ただの仕事の上司だと思えば、あたりまえか。でも、ずっといっしょにいる葵さんを、僕は確かに意識し始めていたようだ。

 パソコンを立ち上げるのがめんどうで、布団の中でスマホの地震情報を確認する。

「まえと同じか。小笠原諸島西方沖。マグニチュード八.五。また日本中震度三以上か」

 僕の嫌な予感は強くなっていった。毘盧遮那仏の涙はどこにあるのか。それだけでも知っておく必要があるのではないか。

 不思議と、辞めたいという気持ちは薄れていた。昨日の晩はあれほど疎外感を抱いて身を焦がしていたのに、一晩眠ると、思い詰めていても冷めるものだ。頭を冷やして考えなおすことも、大切なことなんだなと思った。


「光琉くん、昨日は本当にお疲れ様でした。ものすごくよくできたと思います! 九十点!」

 今朝の葵さんはずいぶん元気だった。もしかしたら気を使ってくれているのかも知れない。僕の方は、葵さんと顔を合わせるのもはばかられるほど、自分を責める気持ちと、葵さんに責められるんじゃなかという気持ちで重かった。

「昨日は本当にすみませんでした。なんにも知らんのに、葵さんに代わってもらわずに、ご迷惑おかけしました」

 僕は、いかにも落ち込んでますといった様子で謝った。

「そんなん大丈夫ですよ。練習中に試しにやってみて、あれだけできたらたいしたもんですよ! 落ち込んでたのに最後まできちんとやりとげたし」

 葵さんは励ましてくれるが、僕は納得が行かなかった。情けない気持ちでいっぱいだった。

「地震は大丈夫でしたか?」

「そろそろ夏祭りの準備しないといけませんね!」

 朝の掃除から、受付の準備から、葵さんはずっと話しかけてくれた。

 僕はその元気な様子にあわせることができず、自分のペースで受け答えをする。

どうして葵さんは黒が好きではないのに黒を身に着けているのか、それを考えていた。別に今考えなくてもいいことだが、朝、葵さんの黒に塗られた原付を見てずっと気になっていた。

 本当は、昨日のことを考えたくなかったからだ。

 それは艶消しの黒に塗られていた。と云うことは、市販の色ではない。わざわざ塗り替えたということだ。黒が好きでもない人が?

 ここで僕は、また素朴な疑問にぶつかる。今までそれを思いつかなかった自分が嫌になるような、ほんの素朴な疑問だ。

「葵さん、彼氏いるんですか?」

 僕の口は、僕の命令を待たずに勝手に行動を起こした。

「え?」

 さすがに、根付デザインを描く手が止まった。

「いや、だから彼氏いるんですか?」

 僕は僕でわざとらしくそこらを雑巾がけしながら聞いた。

「あぁ、いますよ」

「え?」

 今度は雑巾をかける僕の手が止まった。なぜだか胸が強くうつのがわかる。

「あぁ、やっぱり。ですよね!」

 わざと明るく云う。

「どんな人なんですか? 黒が好きなんですよね?」

 朝一番とは逆に、僕が妙に明るく聞き、葵さんはそうでもなかった。

「貿易会社やってます。もうずいぶん会ってないなぁ」

「しゃ、社長ですか? すごいですね!」

 僕はその時点でものすごい敗北感を抱いた。別に葵さんが好きとか、そういうことではなくて、社会人一年生の自分と社長を比べての単純な話だ。

「そうでもないですよ…… 私、恋愛向いてないんですよね。会いたいと思わないし」

 僕が若いからだろうか。その葵さんの言葉はとても違和感があった。好きなら、本当に好きなら、会いたいはずだ。

 現に葵さんの様子は言葉とは裏腹に、妙にさみしそうに見える。思い出すように噛み締めながら話すその言葉を聞いて、僕はすべてを理解した。

 僕だって、伊達にこの一カ月特訓していない。少しの情報から多くのことを得る。そのための訓練をしてきたのだ。

 ようするに、こういうことだろう。葵さんは『彼に会いたい。でも、会えない。なら会いたいと思わないようにしよう』と。

 大人は本当にめんどうだ。

「いくつなんですかー?」

 それでも、ふつうに質問を返している僕も、悔しいが大人になっているんだ。

「三十五です」

 すごい大人だ。僕のやる気は、残念ながらみるみる下がって行った。そういう意味では自分がとても子供に思える。

 子供でいたい部分は大人になりつつあり、大人にならないといけない部分は子供のまんまだ。 

 一旦下降しだした心理状態は、なにをどう考えても悲観的にしか受け取れず、重い気分はさらに重くなる。

「葵さん、携帯の番号かメアド教えてくれます?」

 唐突だが、十分に重い心はやぶれかぶれに僕を動かした。

「あ、今朝の地震とか、なんかあったときに困るじゃないですか?」

 言い訳もいっちょうまえに聞こえるが、僕の胸はそれこそ地震のように波打っていた。

「あれ? 云ってませんでしたっけ?」

 葵さんは、思い切って聞いた僕の緊張感とは真逆の、気の抜けた返事とともに「すみませんでした」とスマホを取り出した。

 この流れはますます僕を沈ませる。つまり、葵さんは僕をまったく意識していないということだろう。

 僕の思考の行方は、道標を失っていよいよ暗鬱な方向へすすんでいく。


 葵さんはなにも気づかず鼻歌を歌いながら仕事をしている。

 うらやましいことだ。

 高校のころから、郵便配達、コンビニ、道路工事、たくさんのバイトをしてきたが、鼻歌が出たことなんか一度もなかった。いつも、人と関わることが煩わしくてどこか緊張していた。

 好きなことをして生活できればいい。楽しみながら仕事をこなし、それで食べていけるなら云うことはない。

 そう思いながら、人は『好きなこと』を発見するのに人生を費やす。うまくして、『好きなこと』を探し当てたとしても、それを仕事に生計をたてるまで、膨大な時間を浪費する。

 ましてや、それも外に任せて自分から尽力することなどなく、たまさか天から落ちてくるのを待つのみである。なおかつ、こんなに一向(ひとむ)きに生きているのに、からっきりよくならないと、不足した心持ちのみが蓄えられていく。それらの鬱屈の始末を真正面から取り組まず、食ったり、買ったり、呑んだりとやるもんだから、いつまでたっても露ほど改まることはない。

 でき損ないの信心をするものはなおのことだ。経にせよ、詣でにせよ、一心に信仰すればするほど、自分の奮励不足のたまものである現状のありさまに『神よ、仏よ、なぜ我を救いたまわん』と仏神のせいにして不貞腐(ふてくさ)れる。あるいは無神論者でも同じことか。彼らは『だから云わんこっちゃない。神も仏もあるもんか』と嘯く(うそぶ)に違いない。

 こうして頭の中を散らかしてみてみると、すべての原因は己にあることがよくわかるというものだ。自分自身を『不適格な人間』と烙印しないよう、『いつかは本当の自分が現れる』と考える。しかし、それに対する試みは何もなく、ただ不平をこしらえて時間を費やし、変わらない塩梅(あんばい)を仏神のせいにして自棄を起こす。その自棄があらためて具合を悪化させ、自身の存在の、ますます社会からはみ出すのを実感して首(こうべ)を垂れる。

 ものの起こりを考えると、話は尚又ややこしくなる。問題は、『いつか現れるであろう本当の自分』なるもののために、己は汗をかいたのかということだろう。つまるところ、この一点に集約される。

 却って云えば、『本当の自分』のために力を尽くさば、万事うまくいくということだ。時間は要るだろうし、それなりに困難があろう。ただ、本当の自分に成り切らずとも、確実に近づくことは間違いがないのだ。

 左様であれば、なぜそうしないのか。これにも因があるのが厄介なのである。

 まずもって面倒極まりない。日ごとのあれこれをやり過ごすために仕事を持ち、日が沈むころには、くたびれた身体は何をするのも云うことを聞かない。そのうえで、意志をもって何かを取りこなすなど、まことに面倒というわけである。

 大抵のものは『日ごとのあれこれ』をやり過ごすことに尽力し、それに対する対価としての『本当の自分』を天に望む。報われない努力がある訳だ。『本当の自分』を得ようとするならば、それに対する努力が必要だ。いくら日常生活をひたむきに生きようとも、それは見当違いなのである。

 こうした愚にもつかぬことを、いつまでも思い悩んでいることを見込んでも、人間とは、なんと煩瑣(はんさ)な生き物か。

 ともあれ、やはり人間が『感じる』ことも、『考える』ことも、『生き残るため』とは云いきれないと思われるのだ。

 葵さんは幸福に見える。

 好きなことを仕事にし、そのために時間と労力を裂き、それなりの報酬を得て、感謝もされる。

 これ以上の幸福があろうかと思う。

 ただ、本人がそう思っているかどうかはまるで違う話になる。聞いたことはないが、葵さんにも言い分はあるかもしれない。

 人から見える自分と、自分が思う自分とは、同一でありながら隔たりがあるらしい。思いがけず、僕を幸福だと見る人もいるかも知れない。

 そうして僕は、自分に幸福な要素があるかと確かめる。

 なるほど、確かに住む家があり、食うに困らず、変化に富んだ仕事につくこともできた。これは幸福のうちだろう。それなのに、幸福だと満足できないのはなぜか。

 それこそ、とりもなおさず、『人と関わらない自分』に会心がいかないのだろう。あるいは、関わろうとしてもうまく関われない自分にか。

 二年前の事故をきっかけに、人と関わることを避けてきた。今にして思えば、これは言い訳に過ぎない。もともとから社交辞令を忌み嫌い、人とは違う特別な人間であると自分に云いきかせてきた。世の中を侮蔑した結果だ。

 あらためて辺りを見渡したとしても、世界がうまくいっているとは思えない。人々は愚鈍であり、真実よりもゴシップを好み、いいように先導され、にも拘らず己は全知全能だと思い、それに溜飲を下げている。

 今回の件がいい例だ。

 真実とは違う報道がされ、世間はそれを鵜呑みにする。それでいて、自分が真実を知らないとは思っていない。

 こうした実情に思い至れば、世の中をないがしろにせざるを得ない。その成り行きから、世間とは関わるまいと考え至る。

 ほかにも、世間と関わらない道理はある。簡潔に云えば、世間が怖いのだ。世間が自分に与える影響も、自分が世間に与える影響も怖い。二年前の事故に繋げるなら、こちらの方が正解だろう。

 僕は世間が怖いらしい。

 とはいえ、僕が世間に関わらなかったことの影響もまた怖い。二年前の事故こそその骨頂だ。もし、ボランティアに参加していれば、あの人は死ななかったかもしれない。澪ちゃんも、苦しむことはなかった。

 いや、過去のifを論じることほど愚かなこともない。過去は教訓のためだけにある。それならば僕は、『よし、これからは後悔することのないように、積極的に人と関わろう』と思ってこそしかり。そうならなかった理由が、先に述べた云々に行き着くのだ。

 煎じ詰めれば、二年前の事故に関係なく、世間と関わることをよしとしなかったということだ。

 自分のことをよく見られたい。悪く見られたくない。自分が原因で迷惑をかけたくない。迷惑をかけた自分を責めないでほしい。

世間と関われば、絶対にそういったリスクを背負うことになる。それが怖いのだ。

 さんざんに話をややこしくしたところで、自分のちっぽけな自尊心を庇うために迷惑をかけたことも、葵さんが自分を大して意識していないことも、なにも変わりはしなかった。

 僕のこの思考癖は、ある意味で言い訳であり、現実に対するごまかしであり、自己憐憫なのかも知れない。


 お昼。ちゃぶ台をかこんで弁当を広げ、昨日の反省会が行われることになった。やる気はないが仕事は仕事だ。聞くべきことは山ほどある。むしろ仕事に集中しようと強く思った。

「なぜ、葵さんは小林さんが旦那さんを恨んでるんじゃないとわかったんですか?」

 僕は追及するように質問する。少し不機嫌に聞こえたかも知れない。実際、いくらかやさぐれていた。

「香波さんの言葉です。『もう殺してくれって云われたのが悲しくて』っていう。やっぱり、本人さんが『関係ないかもしれません』と云うワードは要注意ですね」

 今回の件は、葵さんの考え方でいくと矛盾することばかりだった。それを一つひとつ聞いていく。

「どうして、その言葉だけでわかったんですか?」

「もちろんそれだけじゃありません。

 この言葉をもとに、前日にその背景を調べました。

 確かに、保険金を引きあげたのも、旦那さん名義で出会い系のサークルに入会したのも、表面上は旦那さんが疑わしい。

 ただ、智子さんが自分の死を覚悟していたのなら十分考えられることで、逆に、もうすぐ死ぬとわかっている奥様を、殺す理由が旦那様にはないのです」

 ここまではよくわかることだ。旦那さんには智子さんを殺す理由がない。だからこそ、浮気の邪魔になって、ほんの数か月が待てなかった悪魔だと云われたのだから。

「葵さんがそれを調べたのはわかりました。ではなぜ、香波さんがそれを知っていたんですか?」

 香波さんはこの事件を報道によって知っていた。そのため、香波さんが作り出す小林さんの幽霊は、報道どおり、旦那さんを恨んでいるはずなのだ。

 ところが、香波さんの身体を通して現れた幽霊は、報道どおりではなく、あまり知られていない事実どおりの内容を語ったのだ。

「それは、香波さんを通して現れた幽霊が、小林さん本人だったからではないんですか?」

 葵さんは、僕のきつい追及にも、まったく動じる様子はなく、弁当を膝の上に置いてお行儀よく食べていた。

「光琉くん、催眠術の練習したやろ? 暗示を入れていく訓練したやんな? 祈祷の流れも、私が誘導してたやろ?」

 それを聞いて僕は思い出した。僕が祭壇を組んでいるとき、葵さんは香波さんと話をしていた。あれは暗示を入れていたのか。云われてみれば、祈祷中も葵さんが先にその話を切り出していた。

「でも、おかしくないですか? 催眠療法なら、そこまでしなくても報道どおりの幽霊を作り出し、そのまま成仏させても構わないはずでしょう?」

 葵さんはしばらく黙った。

「光琉くんに、実はお願いがあるんです」 

 あらたまって、葵さんは弁当を置くと、隣の部屋へいき何やら書類を持って戻ってきた。

「これに署名してほしんです。ほかにも、友達で書いてくれる人がいたら書いてもらって! お願いします!」

 それは、佐藤連くんのいじめ自殺の再調査を、学校側に依頼するための署名だった。

「私、光琉くんからみたらインチキかもしれんけど、事実を曲げるようなことはしたくないんです」

 葵さんはそう云ってこちらをじっと見る。

「私、あの人たちに約束しましたから。私が何とかするって約束してますから」

 葵さんは、眼に力を込めてそう云った。

 

 帰ってから、部屋で署名を書いていた。

「おかん、これ署名して」

 母親にも頼んだ。

 それでも、僕は納得していなかった。

 香波さんは、僕達に知り合う前から、『もう殺してくれ』と云われたのが『悲しい』と思い、のしかかるような嫌なものを感じはじめたのだ。

 小林さんの事実を知らなければ、それは不自然ではないか。

 僕はそう思いながら、あるいは、それはあたりまえのことなのかも知れないとも思った。

 今回の事件に関係なく、毎日接してきた大切な人に、『もう殺してくれた方が楽だ』と云われたら、それだけで体調を崩すくらいに悲しいことだ。

 それにしても、やっぱり僕には納得がいかなかった。

 いくら「小林さんが旦那さんに殺してほしいと云ったかもしれないこと」を、暗示として香波さんに伝えたからと云っても、十年前の殺人事件の犯人の名前を、僕は覚えているなんてできない。いくら公表されていても、そもそも知りもしない。

 小林さんの旦那さんは、誠さんと云うそうだ。

 香波さんが金縛りのときに顔に感じた雫は、誠さんの涙かもしれない。

 ふと庭に眼をやると、まるで真実を知ってでもいるかのように、カタシログサがさも悲しげに揺れていた。


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