六 くされたるくさほたるとなる 六月十二日 祈祷の日
六月十二日
いつもと違い、葵さんの軽自動車で鈴木家に来ていた。たくさん荷物があるからだ。意外なことに軽自動車は黒じゃなくベージュだった。
いつもと同じなのは葵さんの運転だ。よく云うとメリハリがあってうまい。
「こんなん好きなんですか?」
ダッシュボードには、太陽の塔だとかカエルだとかキノコだとか昆虫だとか、食玩やガチャの景品が賑やかに並んでいる。女の子らしくはない。僕はその内の一つを手に取って聞いてみた。ヘラクレスオオカブトだ。
「めっちゃかわいいでしょ⁉」
葵さんは興奮してそう云うが、僕は承服しかねた。
「いや、僕はめっちゃ好きですけど、かわいくはないですよね……」
葵さんは「なんでなんですか~!」と反論していたが、間もなく車は行先に到着した。
「黒じゃないんですね」
車を降りてそう聞くと、さらに意外な答えが返ってきた。
「私、別に黒が好きってわけではないんですよね……」
その返事にあっけにとられている僕をおいて、葵さんは鈴木家に入って行った。
仮の祭壇は、それほど豪華なものでなく、必要最低限なごく簡素なものだった。僕はさっそく仮の祭壇を組んでいく。前日によく予習をしておいただけあって、作業はスムーズだった。
一段目に鏡をお祀りし、二段目に、榊木をたて五色絹をさげた剣と勾玉を左右に配置し、瓶子などを用意する。
本当は野菜やら乾物やら果物やらも備えるようだが、とりあえず神酒、水、米、塩を並べる。
もちろん今日は白衣に浅葱(あさぎ)色(いろ)の袴、下っ端の正装だ。
午後にはリビングに仮の祭壇が完成していた。
まずは重要事項を田中さん夫婦と鈴木さんに説明する。
ダイニングのテーブルに、田中さん夫婦と鈴木さん、葵さんが席に着く。
葵さんが、話をはじめた。
「これから、ご祈祷を始めますが、祈祷中は、何があっても中断することのないようにお願いします。霊障の場合、途中で『もうやめる』と暴れ出す方もよくおられますが、私たちは最後までご祈祷させていただきますので、その点よろしくお願いいたします。
また、祈祷後のフォローもさせていただきますが、初穂料の返金などには応じられませんのでよろしくお願いします」
田中さん夫婦も鈴木さんも神妙に葵さんの話を聞き、書類にサインをした。
なにかと多いトラブルを避けるため、きちんと書類にすることになっていた。
「あと、もし田中さんの幻覚がひどくなるようなら、受診されるのもひとつかなと思います。と云いますのは、手が不自由だったり、震えたり、幻覚、物忘れ、それから足の弱りなど、認知症など疾患の一種である場合がございます」
葵さんは、ごく当たり障りのないように話をすすめる。
「ありがとうございます。さっそく検査に行ってみます」
田中さんは、機嫌を損ねずに聞いてくださった。なかには、「まだ若いのに認知とは!」「病気のせいにするのか!」など、怒り出す方も当然おられると聞いた。
いよいよ祈祷がはじまる。
葵さんは白衣の上から立派な千早を纏っている。葵家の家紋である『牡丹に獅子』が緑色で刺繍されている。通常、千早には鶴と松が刺繍されており、牡丹に獅子というのは他には例がないはずだ。葵さんの趣味だと云っていた。
祭壇に葵さんが向き、そのうしろに螢ちゃんが座る。さらにうしろに鈴木さん、田中さん夫妻が座る。螢ちゃんは左手に加茂神社のお守を握りしめている。
葵さんの祝詞がはじまる。祝詞も種類があるらしいが、まだ素人の僕にはわからない。
腹の奥から出ている声だからか、普段の葵さんの声とはずいぶん違う。
祭壇に向かって祝詞を唱えながら、ときおり大きくおおぬさを左右に振る。これにも振り方があるらしいが、僕がそれを学ぶのはまだ先だ。
数分それが続く。
やがて祝詞は終わり、両手を合わせて眼を閉じる螢ちゃんと、葵さんが向き合う。
葵さんは螢ちゃんの前に膝をついた。
「それでは、少し深呼吸をしましょう。吸って~吐いて~」
葵さんの誘導に従って、螢ちゃんは深呼吸を繰り返す。
「はい。もっと深~く呼吸しましょう。鼻から吸って~、口から細~く、長~く吐きま~す」
吸う息に比べて、ずいぶんと長く吐く。
「はい。それでは、身体の力を抜いていきましょう。まずは頭から、首、肩の力を抜きま~す」
葵さんに、全身の力を抜くように誘導されていく。
「腕~、手の先まで~、それから胸、お腹、背中、腰、お尻から、足へ~全身の力を抜いていきます」
螢ちゃんは、素直に力を抜いたようで、椅子の上でぐったりと頭を下げ、両手をたらした。
「さあ、螢ちゃんの中の方、表にでてきてくれるかな」
葵さんは螢ちゃんの肩にそっと手をのせて、覗くように目線を合わせた。その語り方はゆっくりとしていて柔らかい。子供に語りかけるようだ。
「さあゆっくりでておいで。お話しよ?」
螢ちゃんへ向けられたその言葉にはじめに反応したのは、意外なことに螢ちゃんのお母さんだった。陽菜さんは、葵さんに云われるままに、螢ちゃんと一緒に深呼吸をしていた。その誘導に合わせるようにだんだんとうつむいて、力が抜けていくのがわかる。そして、葵さんの呼びかけが始まると、陽菜さんはふらふらと身体を動かしはじめた。
「どうされました?」
葵さんは陽菜さんに聞く。
「…… は…… はな…… はなしを」
うつむいたままの陽菜さんから、声を出しにくそうに途切れとぎれに言葉が発せられた。僕らはその悲しそうな声に、じっと耳を澄ました。
「話を…… きいて…… きいてくれるんか」
ラジオのチャンネルが合うように、だんだんと陽菜さんの声がスムーズに出始めた。
「陽菜!」
田中さんは心配そうに陽菜さんの肩をつかみ顔を覗き込んだ。
「田中さん」
葵さんは一言田中さんをたしなめ、首を左右に振った。
「どうぞ」
葵さんは、螢ちゃんの前にしゃがんだまま、陽菜さんの方を向いた。
「お、俺が…… つた…… 伝えたいのは……」
陽菜さんは、痰が絡んだように言葉に詰まりながら先を話した。
「くさ…… くさ、くされた、る…… くさ、ほた…… ほた、ほたるとなる」
陽菜さんはそこでさめざめと泣いた。
「あなた、螢ちゃんのお父さんですね?」
葵さんは陽菜さんに向かってそう云った。
「そう! そうや!」
葵さんの質問にチャンネルがぴたりとあったのか、陽菜さんは比較的流暢に語り始めた。
「ほ、螢、螢に、聞いてほしいねん。螢が生まれたのは六月十一日。く、『腐れたる草蛍となる』という暦や。
蛍は、梅雨の雨で湿ったじめじめした草の中から、綺麗な光を放ってでてくる。それになぞらえて、環境がどんなに苦しくても、蛍のように輝いてほしいという願いを込めて、螢という名をつけたんや。それを忘れてほしいないから、毎年蛍をプレゼントしててん。
今かってつらい思いをしてると思う。無理はせんでええ。それでも、人として輝いて生きてほしい。やさしい子でいてほしい……」
陽菜さんは、途中何度か詰まりながらも、涙ながらにそう話した。それだけ話すと、落ち着いたのか、うつむいて動かなくなった。
間をあけず、今度は螢ちゃんの様子が変わる。同じようにうつむいて頭を揺らし始める。ガタガタと震えだし、髪を振り乱し、カチカチと歯を鳴らしはじめた。長い髪が前に垂れ下がり、それこそ幽霊のようだ。
「ほ、ほたる」
田中さんご夫妻は、今度は螢ちゃんを心配そうに見た。
葵さんは僕に合図をする。僕は螢ちゃんの後ろに周り、彼女の身体を支えた。
「そう。寒かったんやね。もう大丈夫やで」
葵さんは母親のように、螢ちゃんの両肩を温めるようにさすりながら、やさしく語りかける。葵さんの言葉にあわせて、僕は田中さんに毛布を用意してもらう。
螢ちゃんは、しくしくと泣き始めた。
「さあ、話してみて? なにがあったんか」
田中さんが持ってきてくださった毛布を螢ちゃんの肩にかける。それでも震えは止まらない。
「あなた、螢ちゃんのお父さんちゃうやろ? 蓮くんやろ?」
葵さんのその一言で、螢ちゃんは号泣しだした。激しくウンウンとうなずいている。
僕にしたって、田中さんたちにしたって、葵さんのその言葉の意味は皆目分からない。
「ひ、引っ越しなんかしたくなかった…… 引っ越しなんか……」
はじめて口を開いた螢ちゃんの声は、螢ちゃんのものではなかった。
「引っ越しなんか…… 引っ越しなんか……」
僕が螢ちゃんの身体を抑えてなければ、螢ちゃんの身体は倒れていただろう。それくらい、右に左に、前に後にと身体を揺さぶる。その姿はどことなく常軌を逸していて、はっきり云って気持ちが悪かった。
「…… つらかったなぁ」
葵さんは云う。
「寒い…… 寒い……」
螢ちゃんは、ガタガタと震える。
「寒い? 寒いんかぁ」
葵さんは毛布の上から身体をさする。
「許せん! あいつら許せん! 許せん!」
螢ちゃんの身体の揺れが激しさを増す。
「なにがあったん?」
悔しそうに両手で膝をバシバシと叩く。
「僕、なんもしてへんのに! なんもしてへんのに!」
螢ちゃんの涙は止まらない。
「なにもしてへんのに?」
葵さんは覗き込むように顔を下げ、閉じられていても螢ちゃんの目線の高さに合わす。
「無視するん。あいつら無視するん。僕の言葉がちゃうからって!」
螢ちゃんは、前に見たときとはまるで印象が違う。それは、まさに別人に憑依されていると云われて納得できるものだった。
蓮くんの話は、途切れがちなこもった掠れ声で、嗚咽とともに、ないしは空咳とともに、螢ちゃんの小さな口から発せられた。
その内容は、聞くに堪えないひどいものだ。
「順序よくいこか。引っ越したんはいつ?」
葵さんはとても落ち着いていて、螢ちゃんの異様な状態には関心がなさそうだ。
「き、去年の…… 九月」
螢ちゃんは喉にひっかかる痰を吐き出しでもするかのように、一生懸命に声を出した。そのこめかみには、じっとりと汗がにじんでいる。
「新しい学校はどうやった?」
葵さんの質問は躊躇なく続く。
「は、はじめは…… た、楽しかった」
転校して初めての授業は歴史だった。ちょうど大正デモクラシーのあたりで、権利と自由の話を、歴史を担当している担任の先生が力を入れて話してくれた。なんでも先生はクラスを持つのが初めてで、転校生も蓮くんが最初だったそうだ。
先生は「普段、私たちが当たり前に思っている権利と自由は、歴史上のたくさんの人物の努力で勝ち取られてきたものなんです。だから、大切にしましょう」と、いきいきと教えてくれた。
蓮くんにとって、いろんな意味で印象的な授業だった。
それから蓮くんは、持ち前の明るさと関西人らしいユーモアで、たちまちクラスの人気者になっていた。
「つっこみしてみて」とか「おもしろいことして」とか、無茶な注文にも応えてみんなを笑わせていた。
そのころは楽しかった。
「ほんで?」
葵さんの簡潔な質問には、そこからどうして自殺するに至ったのかという意味合いが含まれている。蓮くんを憑依させた螢ちゃんは、その意図を汲んで話を続けた。
「せ、成績が一番で、た、体育もよくできる学級委員長がいて……」
「いて?」
葵さんは合いの手を入れる。螢ちゃんは話を続ける。葵さんはそうやって、少しずつ話を聞き出していく。
学級委員長のクラスでの信頼は絶大だった。『学級委員長が云うのならそうなんだろう』とクラスの誰もがそう思うくらいだ。
新米の若い担任教師も同じに、学級委員長に甚だしい信任を抱いていた。それはむしろ、委員長の云うとおりにしておけば、クラスが波立つようなことはないといった類のものだ。
その学級委員長の一言が、事態を一変させることになったのだ。
「佐藤くんの言葉ってウザいよね。大阪弁って、どこか気味が悪い」
この一言以来、蓮くんはクラスの誰からも話しかけられることがなく、次第に無視されるようになった。親しくなっていた友達も「佐藤くん関西弁やめれば?」とそれ以上取り合ってくれない。
「先生に云わんかったん?」
葵さんは、蓮くんをいたわりながら、俯いた螢ちゃんの顔を覗き込み、ごく優しく聞いた。
「か、関西のこ、言葉はきつく聞こえることもあるから、ら……」
「あるから?」
「は、早くこっちの言葉に慣れなさいって……」
さらに質問をつなごうとする葵さんを遮って、螢ちゃんは続けた。
「せ、先生だって、佐藤くんがいじめられたら困るんだからって……」
うつむいた螢ちゃんの身体が小刻みに揺れている。その揺れ方も、どことなく人間らしくなく、狂気を感じさせて、いかにも不気味だ。その表情は真っ白で、眼の下だけがやたらと黒い。
「ほんで?」
葵さんはさらに先を促した。相変わらず螢ちゃんの奇怪な様子には関心がないようだ。
螢ちゃんは、葵さんに促され、身体を揺すりながら話を続ける。
ある日、蓮くんの机と椅子が校舎裏の粗大ゴミ置き場に運ばれていたことがあったらしい。粗大ゴミを捨てておくように云われた委員長が、間違えてやったというのが表向きだ。
蓮くんは、机と椅子がない以上授業にもでないで探し回るしかなかった。一日探してやっと見つけたのだ。蓮くんは、委員長につかみかかった。
「おまえどういうつもりやねん! 間違えるわけないやろ!」
それを受けて、委員長はみんなの前で先生に頭を下げるパフォーマンスをやってのけ、「そこまでさせるなんて、佐藤くん最低。委員長がかわいそう。間違えただけなのに」といった声がいくつも上がった。
出席を取るときに名前を呼ばれなかったこともあった。出席簿に修正テープがひかれ、先生が気付かなかったのだ。蓮くんは真相を知るまで、先生にも無視されたと思いショックだったという。
「先生は、なんとかしてくれんかったん?」
葵さんの云うことに、鈍い反応をし、螢ちゃんの返事は必ず一拍遅れた。それも、無性に苦しそうに、絞り出すように話す。
「い、委員長には…… か、勝てんかった……」
その言葉の意味は、あとに続く話を聞けば理解できた。
先生は、蓮くんが無視されている問題について、なんとかしようと尽力したが、誰も無視などしていないと云いはる。そう云われては先生にはやりようがない。
ほかにも、「誰としゃべろうが僕たちの『自由』でしょ」とか、「友達を選ぶ『権利』がありますから」とか、口の立つ生徒も多い。いや、それは委員長の入れ知恵だったのだろう。歴史の授業を受けて、先生が力を入れて話すのを見て逆手に取ったのだ。
きつく叱ると、委員長のひと言で、授業をボイコットされることも考えられる。ボイコットと云ってもあからさまなものではなく、全員が風邪をひいたと云って学校を休むのだ。これこそ、風邪と云われるとどうしようもない。以前、ほかのクラスでそういったことがあったことを先生は知っていたから、証拠をあげて深く追及することはなかった。
さらに、蓮くんの性格も災いした。
勝ち気な蓮くんは、「おはよう」とあいさつしても応えてくれない連中に「なんで無視すんねん!」とくってかかるようになり、そういった状況を先生が目撃することも多くなる。そうすると先生は、蓮くんに注意せざるを得ない。
特別蓮くんを悪く思っていなかった子までもが、だんだんに蓮くんが悪人に見えてくる。自然、蓮くんに対する嫌がらせが増える。
嫌がらせをされれば、「云いたいことあんねんやったらはっきり云えや!」と誰にともなく叫ぶこともあった。ときには机を蹴ったり、物に当たったりすることもあった。誰もその訴えに応えず、蓮くんはその場に取り残される。まるで、蓮くんだけが調和を乱す悪者のようだ。
やがて委員長の親から『暴力的な生徒がいる』とクレームがくるようになり、新米先生は蓮くんをさらに指導するはめになる。
それでも先生は蓮くんを庇ってくれて、さりげなく委員長たちに注意をした。
『僕らは生徒ですから、きちんと授業を受ける権利があるでしょ? 授業の妨げになる人がいるなら、何とかしてもらわないと。大事な権利を放棄するわけにはいきませんから』
これが彼らの言い分だった。
まんまとクラスの問題児に仕立て上げられた蓮くんは、委員長以外の親からも多数クレームが来るようになった。
そうなると、リスクを嫌う組織の体質、危機管理の観点から、新米先生はもうなにもするなと云われ、蓮くんが直接校長先生に何度も呼ばれては、「ほかの生徒に食って掛かってはいけません。早くこちらの言葉に慣れなさい。関西弁は使わないように」と強く云われることになったのだ。
生徒たちは、さらに歴史の授業になぞらえ、『すこやかに授業を受ける権利』やら、『友達を選ぶ自由』やら、そう云った標語を作って教室に貼ったり、ホームルームで、『すぐに怒鳴ったり、物にあったりする人のせいで、怖くて安心して授業を受けられません。私たちには、安心して授業を受ける権利があります!』とか、『友達を選ぶのは人それぞれ自由です』と、蓮くんの名前は一切出さずに議論したりした。
蓮くん自身が、あきらかに蓮くんを無視した例を挙げて反論すると、『声が小さいから聞こえなかっただけでしょ? 声の大きさも自由にさせてくれないの?』とか、『あのときは他の事してたからわからなかったんです。他の事する権利も許されないんですか? 僕らは、佐藤くんに話しかけられたら、何してても中断して返事しないといけないんですか?』といった具合で、まるで埒があかない。
先生が口をはさんだとしても、『権利と自由は、たくさんの人が血を流して勝ち取ってきたものだから大切にしないといけないって習いました!』といった調子だ。
権利と自由。それを掲げられると、反して声を上げる方が悪者のように見えてしまう。
授業で先生が教えたことが、先生をこの件から遠ざけることになったのだ。
「なるほど…… 委員長に負けた…… か」
葵さんは小さくそう云ってうなずいた。
「あ、あとは…… も、もうみんなの…… い、云いなりで……」
螢ちゃんの話は続く。
三月のはじめのある日、その日は三月には珍しく零下となり、昼前から降りだした霙(みぞれ)は午後には雨となっていた。
男子トイレの個室で用を足していたとき、蓮くんは上からバケツの水を浴びた。個室の外では「死ね! 死ね!」と大勢が手拍子しながら大合唱している。
「迷惑なんです。佐藤くん」
「私たちのクラスに要らない存在だよね」
「しーね! しーね! しーね! しーね!」
個室から出た蓮くんは、少し距離を置いて大勢に取り囲まれた。彼らと蓮くんとの間には、見えないクッションでもあるかのように、彼らが一歩前に出ると、蓮くんは一歩後じさる。
九月の終わりから始まった一連の出来事は、約半年で幕を閉じた。
冷たい笑い声と、しんしんと降る雨の音がつららのように胸に刺さり、蓮くんはそのまま五階のトイレの窓から、生徒たちに押されるように飛び降りたということだ。
「し、死にたくなんかなかった! でも、そ、そうするしか…… な、なかった!」
螢ちゃんは、まるで蓮くん自身のように狂ったように泣き叫びながら語る。
「む、無視されんの、どれだけつらいかわかる?
半年も、じ、自分の存在を認めてもらえないって、どれだけつらいかわかる?
話しかけても返事してくれへんくて、視線の先に行ってもおらんように扱われて。
教室に席がなくて、校舎の裏に机と椅子が捨てられてたときの惨めな気持ちとかわかる?」
螢ちゃんは、葵さんを責めるように云う。
「つらかったね」
葵さんは螢ちゃんの頭をゆっくりとなでる。
「無視されたのが許せなくて、それで帰れないんや……」
葵さんは確認するように聞いた。
「違う……」
螢ちゃんはきっぱり云い切った。
「なんで?」
葵さんは少し驚いた表情をした。
「許せへん。僕のようにいじめられてる子はたくさんいるやろうけど、それをほっとく学校も許せへん!」
葵さんは黙って螢ちゃんの頭をなでていた。
「学校って、そういうのなんとかするとこやろ?
僕にも、いじめられる子にも、なんか原因があったのかも知れんけど、だからっていじめていい理由にならんやろ。
先生は一生懸命何とかしようとしてくれたのに、なんか規則とか、危機管理とか、本当はいじめなんかの問題を起こさないためにあるもんが、なんにもせーへんことの云い訳になってるやん!」
螢ちゃんは、膝も手も真っ赤にして叩いた。狂気じみた様子はますますひどくなっている。
「学校なんか大嫌いや! 許せへん!」
葵さんは納得したように云った。
「それが心残りなんやね……」
螢ちゃんはガタガタと身体を激しく揺らしながら、文字通り気が狂ったように叫ぶ。
「寒い…… 寒い…… 許せん! 許せん! 許せん!」
螢ちゃんは、バタバタと両手を激しくふる。
葵さんは螢ちゃんを抱きしめた。
「しまいには、校長先生が、関西弁が耳障りやからしゃべるなって…… そしたらいじめられんからって…… しゃべるなって……」
「許せへんな……」
じっと葵さんは動かない。螢ちゃんはかなり暴れている。
「蓮くん…… 大丈夫、私が何とかするから大丈夫……」
葵さんは、ギュッと螢ちゃんを抱きしめて、耳元でささやくように何度もそう云った。
だんだんと螢ちゃんの動きもおさまってくる。
「生徒を守るための権利や、生徒の自由が、いじめる側を守ってるんやで?何とか出来んの?」
抱きしめながら、螢ちゃんの背中をさする。
「大丈夫。帰ろう? もう楽になりたいやろ? 大丈夫。蓮くんはもう楽になっていいんやって」
背中におおぬさをあてる。
「なんとかしてくれんの?」
「大丈夫。大丈夫よ。なんとかするから。蓮くんは、もうなにも苦しまなくていいねん。そのまま帰り。もう苦しまなくていいねんで。そのまま」
螢ちゃんは葵さんに抱きしめられながら、本当の親子のように、母親に甘えるように云い、葵さんもそれに答えた。
会話が止まると、きつく降りだした雨の音が目立って届く。
「いやや! ずっとここにおる!」
雨音を聞いて何かを思い出したように、抱きしめる葵さんを引き剥がすと、螢ちゃんは突然駄々をこねはじめた。今までとは明らかに様子が違う。
「あいつらに! あいつらに復讐するんや! 許せへん! やっぱり忘れるなんか無理や!」
螢ちゃんは眼を吊り上げて立ち上がる。その様子は、今にも何かに飛びかかりそうだ。
「あかん。蓮くん。螢ちゃんはどうなんの?」
葵さんはきつくならないように諭す。
「螢がずっと一緒にいていいって! だから、あいつらに復讐するねん!」
螢ちゃんはヒステリックに怒鳴り散らすが、葵さんは冷静だ。
「螢ちゃんは関係ないやん。螢ちゃん、巻き込んだらあかんやろ? 螢ちゃん、ずっと蓮くんのこと心配してたんやで?」
螢ちゃんの表情がさらに歪む。さっきまで自分の味方のように見えていた葵さんが、どうやらそうではないらしいと感じて戸惑っているようだ。
「うるさい! そんなん知るか! あんたもあいつらと一緒か! 僕を自由にやらせてくれんのか! 僕の権利を奪うんか!」
野生の動物が威嚇するように、そう云って叫ぶと、葵さんの方は眼を閉じて黙ってしまった。
螢ちゃんは血走った眼を剥いてよだれを垂らし、ふぅふぅと息をする。狂犬病の犬のようだ。
しばらくの間沈黙があって、外から雨音がその隙間に飛び込んでくる。額から頬を伝い、顎から汗が落ちていく。
数分経っただろうか、ぱちりと眼を開けると、葵さんが再び口を開いた。その眼はやはり、本当に『ぱちり』と音がしそうだったし、何か魂が宿ったように鋭かった。
「おまえ、なんで螢がずっと一緒にいたいって思ってるか知ってるか?」
その声は低く、とても冷ややかだ。
「螢は小さい時から僕のことが好きやから」
螢ちゃんは、何のためらいもなく子供っぽい無邪気な返事をした。それは、葵さんの怒りの炎に油を注ぐには十分な返答だった。
「なめんなよ。螢はおまえのおもちゃやないぞ?」
ゆっくりと、冷酷に言葉が発せられる。
螢ちゃんに憑いた蓮くんは、その言葉の意味がいまいち理解できないようだった。
「螢はなぁ、自分の身体を壊しても、学校を何日も休んでも、それでもおまえといてくれとんねん。このまま、螢が病気になってもいいんか? 螢がちゃんと大人になれんでも、おまえはそんでいいんか?」
蓮くんはうつむいた。が、すぐに眼を吊り上げて反論した。
「僕の自由はどうなんねん! あいつらに復讐する権利があるやろ! 螢も一緒にやってくれる!」
「そんなもんあるかい!」
雷のように、立ち上がった葵さんの声が間髪空けずに響いた。その両こぶしは固く握りしめられ、小刻みに震えていた。
「ええか? 権利ちゅうのは、『人を幸せにする権利』や! それ以外に権利なんかない!」
蓮くんは一瞬言葉につまる。
「で、でも…… そんなん僕の自由やんか!」
つまりながら何とか反論したが、それは何倍にもなって反ってきた。
「そんな自由はない! あるのは『人を幸せにする自由』だけや!」
葵さんの迫力に、蓮くんはすっかり意気消沈し、再び椅子に座り込むと下を向いて黙ってしまった。
「今おまえが螢ちゃんにやってることは、あいつらがおまえにしたことと一緒や。
自分の権利や自由を行使すんのに、螢ちゃんの権利と自由を奪ったらあかん。それやったら委員長らと同じや。
人の弱みにつけこんで利用する。そんな奴は、絶対許さん!」
蓮くんは、その話を聞いて今度は椅子の上でしくしくと泣きはじめた。
「じゃあどうしたらええん? 僕の権利と自由はどうなんの?」
蓮くんは泣きながら力なく、誰に聞くでもなく聞いた。
「自由には責任が伴うねん。蓮くんが選んだ『自殺』っていう自由の責任を果たさなあかんねん。それはな、権利を振りかざす前に義務を果たすってこと。蓮くんの義務は、逝くべきところに逝くことやろ」
葵さんは丁寧に返事をする。実際、蓮くんが理解するまで、何度でも言葉を選んで説明するだろう。
「でも、螢がいつまでもいていいって」
蓮くんのその言葉には、本当は復讐なんかどうでもよくて、ただ螢ちゃんのそばにいたいだけなんじゃないかと思わせる、悲しみのようなもの、心残りのようなもの、すがるようなものが感じられた。
「あかん。螢ちゃんの顔見てみいや。かわいそうに痩せてもうて、このままやと螢ちゃん病気になんで? 下手したら死んでまうで?」
それでも、葵さんは情けを見せない。厳しく蓮くんを諭し続けた。
「……」
それは、そこで甘さを許すと、二人を助けられないことを痛いほど知っているからだろうと思う。葵さんの額にも、たくさんの汗が玉となって噴き出していた。
「自分のやったことの責任はとろ。大丈夫。あとはなんとかするから」
葵さんはまたそっと螢ちゃんを抱きしめる。螢ちゃんは葵さんにしがみついて少しの間泣いていた。
「約束。おばちゃんと約束」
葵さんは身体を離すと小指を出した。その声はもとの優しい葵さんの声だ。螢ちゃんも小指を結んだ。
「おばちゃん、委員長は、蓮くんがうらやましかったんやと思うねん。蓮くんがみんなとあっという間に仲良くなってしまったから、それで、寂しかったんとちゃうかな。
自分の立場とか、人気を、蓮くんに取られてしまうと思ったんかな? 蓮くんのようになりたかったんかもね。
確かに、今は何の仕事でも、規則とか、危機管理とか、自由とか、権利とか、本当は被害者を守るためのものがうまく機能していなくて、加害者を守ってしまってるのかもね。
権利を主張する前に義務を果たさなあかんし、自由には責任が伴う。学校は、むしろそれを教えるべきところなんやけどな。
だから、約束。
お姉ちゃん、絶対に人を思いやる学校に変えていく。ちゃんと義務と責任を教える学校に変えていく。いじめる側が守られるような学校にはせーへんから、蓮くんは、帰るべきところに帰ろ?」
「そんなこと、できるん?」
螢ちゃんは不思議そうに聞いた。
「わからん。でも、やってみる。だから。な?」
螢ちゃんはこっくりとうなずくと、下を向いて動かなくなった。長い髪が前に垂れ下がる。
「いい? 狛犬が見えるやろ? 金色に光ってる狛犬。それにまたがって帰りぃや。狛犬が連れて行ってくれるから。向こうはすごいいいとこやから。さぁ、螢ちゃんのお父さんと一緒に」
葵さんはゆっくりと、囁くように云うと立ち上がり、螢ちゃんと陽菜さんの方を向いておおぬさを左右左と振る。
やや攻撃的な、呪文のような大きな声をあげ、それに合わせてさらにおおぬさを振る。
「ハイ!」
最後にそう云って螢ちゃんの背中を叩いた。パンと大きな音がして、その場の空気がガラッと変わった。
「はい、もう大丈夫やで」
葵さんはそう云って力を抜いた。
「大丈夫やろ?」
螢ちゃんの顔をのぞきこむ。
螢ちゃんは、ハンカチで涙を拭きながらエヘヘと笑った。顔に赤味がさしている。
「蓮くん、なんて云ってた?」
葵さんが、螢ちゃんの耳もとで話すのを聞き逃さなかった。
「ずっといっしょにいたかったって」
螢ちゃんの頬に、また大きな涙の粒が転がった。螢ちゃんはまた泣いた。
「もう、蓮くんは大丈夫。心配ないよ。お父さんも大丈夫」
葵さんは、螢ちゃんの頭をいつまでも撫でていた。
螢ちゃんは、きつく握りしめていた加茂神社の小さなをお守りを、僕らに見せるようにその手を開いた。
「去年、蓮が、私の誕生日とお父さんの命日が同じ日やったらお祝いしにくいからって、一日前の日にくれてん」
螢ちゃんは誰に云うでもなくそう云った。
僕は陽菜さんを介抱していた。陽菜さんの顔色もよくなり、すっきりした顔をしている。
「なんか不思議な感じ。ほんまに草介がいたみたい」
陽菜さんは眼をぱちくりしてそう云った。草介とは螢ちゃんのお父さんだろう。
祈祷が済んだあと、僕は祭壇を片付ける。葵さんは、陽菜さん、田中さん夫婦に、佐藤蓮くんのいきさつを説明した。
「今回のできごとは、螢ちゃんのお友達のいじめによる自殺が原因のようです。
螢ちゃんには、佐藤蓮くんと云う幼なじみがいましたよね。螢ちゃんの机の上の写真に写っていた子ですね。
この子は、一年前、中学二年生の二学期に関東の方へ引っ越しています。この前、螢ちゃんのお友達の高橋雀ちゃんからもらった連絡先から確認しました。
この蓮くんは、ちょうど三ヶ月前に、いじめを苦に自殺をしています。
学校側がいじめを認めず、名前なんかは伏せられていましたが大きく報道されたものです。現在も学校側はいじめ自殺だと認めてはいません。なんしか、螢ちゃんの話にも合ったように巧妙で証拠が挙がらないそうなんです。
お父様の草介さんは、私の呼びかけに呼応して、心残りだったことを話に来られたようでしたね」
葵さんの説明を聞いて、陽菜さんはうんうんとうなずき、田中さんの奥さんは、「引っ越す前は毎日のように遊びに来てくれた。とてもいい子だった」と涙を流しておられた。
僕は今度こそ、葵さんも云い訳をできないだろうと思い、意気揚々としていた。
ひととおり片づけもすんで、あとは帰るだけだった。
「あの、今日晩飯でもどうですか?」
僕はどうしても今日の祈祷の話が聞きたくて仕方がなかった。
「ごめんなさい。仕事の話はできるだけ仕事場でお願いしたいんです」
僕はどこでも構わなかったが、なんとなくふられた気分がした。別に下心があったわけではないが、いい気分ではなかった。
思えば、葵さんの方でも、きちんと説明しておく思惑があったんだろう。二人は社務所のちゃぶ台をはさんでコンビニ弁当をつまんでいた。
「今日のご祈祷のようすは、除霊としか云えないと思うんですけど」
葵さんは、確かに螢ちゃんに憑いていた蓮くんと会話をしていた。
「…… 催眠療法って知ってます?」
葵さんは膝の上においた弁当を両手で持ち、僕のプライドを傷つけないよう配慮してか控えめに云ったのがわかった。
「え? あれが催眠療法やって云うんですか」
弁当を食う手が止まる。
「退行催眠とか、前世療法とかの催眠療法ですか?」
突拍子もない葵さんの言葉に戸惑い、僕はもう一度確認した。葵さんは、小さくうなずくだけだ。
「そもそも催眠術って、受ける側の協力がないと成り立ちません。絶対にかからないぞ! かけれるもんならかけてみろ! って人にはかからないんです」
葵さんは催眠術について説明をはじめた。
「私たちの仕事は、依頼のあった時点で、催眠術にかけてくださいと云われているようなもので、とても暗示にかけやすいんです」
葵さんは弁当をかかえ、お行儀よく食べながら続ける。
「なかにはそうでない人もいます。とくに男性は、女性ほど感情的ではなく、理性で動かれますから、なかなか除霊も難しいそうです。でもそれは催眠術でも同じで、三対七の割合で女性の方がかかりやすいんです」
僕は、ご祈祷の様子をよく思い出す。催眠術では説明のつかない部分がないかを探すためだ。
「催眠術では、まず受け手に信頼してもらわないといけません。
私たちが事前に検証にうかがったのはそのためでもあります。
そこで、お父さんの死や、亡くなり方、その他いろいろ云い当てることで、私たちへの信頼はもちろん増しますよね。
そして、現場ではリラックスしてもらわないといけません。
祝詞を唱える間、いっしょに手を合わしてもらうことで、リラックスをしてもらい、深呼吸で力を抜いて、ゆっくり何度も問いかけることで、催眠状態に入ってもらうわけです。
それから、『蓮くん』と問いかけてみたり、『寒かったね』など、私が知るはずのない言葉で誘導していくわけです。
結果、螢ちゃんの心の中で蓮くんができあがり、できあがった蓮くんが私に誘導されて成仏していく。
もともと、蓮くんへの罪悪感や後悔から幻覚や幻聴を起こしているとすれば、蓮くんが成仏したと思い込んでいる以上、今後の症状は治まるというわけです」
「でも、じゃあなんで蛍ちゃんがあんなに詳しく蓮くんのこと知ってたんですか?!」
催眠療法なら、蛍ちゃんが蓮くんの状況をあんな風に知ってる訳がない。
「蛍ちゃん、蓮くんとずっとメールのやり取りをしてたんですよ。
蛍ちゃんだけが、蓮くんの拠り所だったんでしょうね。
陽菜さんの方は私も予想外でしたけど、あれは、草介さんの心残りというより、陽菜さん自身の心残りなのかもしれませんね。草介さんがつけた名前の由来を、螢ちゃんに忘れてほしくなかったんでしょう」
僕はぐうの音もでなかった。黙りこくった僕を見て、うつむいた葵さんは云った。
「インチキですよね……」
これが本当ならインチキだ。だましてる。初穂料もばかにならない額をいただいている。ぼったくりと云ってもいい。
「…… インチキですね……」
ただ、葵さんを責めるのが正しいのか、僕にはわからなかった。結果的に、螢ちゃんは救われたんだ。
「でも、螢ちゃん、ホッとした顔してました」
僕はそれだけ云うのが精一杯だった。
「ありがとう…… 光琉くんが来てくれてよかった……」
うつむいた葵さんは、僕には聞き取れないくらい小さい声でそう云った。
でも、やっぱり僕には納得が行かなかった。
あの時、螢ちゃんの部屋は、すみずみまで片づいていた。本棚も、僕が見た時点では、無理に重ねて積まれていることはなかったのだ。
そして、螢ちゃんの誕生日の前日に落ちた雑誌の表紙には、『Happy Birthday』と大きく書かれていた。
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