五 くされたるくさほたるとなる 六月十一日

 六月十一日

 昨日の夜半から降り出した雨が止まず、しとしとと辺りを濡らす。

 僕は、前日の汚名を晴らすため、葵さんより早くに出勤し、驚かせてやろうと張り切って早起きした。

 バイクを外に止めて、鳥居の前でお辞儀をしてから境内にはいり、着ていた厚手のレインコートを脱ごうとした。

「うぉあ!」

 本殿を見て思わず声にならない声を挙げた。レインコートや長靴、手袋など、マスク以外は黒で統一された葵さんの姿が眼に入る。先を越された。

 葵さんは僕の奇怪な声を聞いて振り返る。その眼は、驚きと悲しみを宿していた。

 本殿の格子戸が外され、中が丸見えの状態だったからだ。

 この神社の本殿は、左右に開帳できるような両扉になっておらず、格子戸を外して開くタイプになっている。もちろん、むやみに開かないことが前提のつくりだった。もう百年以上開かれたことがない。

 その格子戸の上方が外されて、さい銭箱の上に投げ出され、本殿の中がはっきりとうかがえた。 

 そこには、百年も放置されたとは思えない、比較的よく磨かれた銅製の丸い鏡がまつられ、その奥に、奈良の大仏を等身大に小さくしたような仏像が置かれていた。おそらく、国宝とか、重要文化財とかに指定されて然るべきものだろう。その両側には八咫烏の、写実的で見事な彫刻が羽を広げている。いつかみた平等院の鳳凰のようだ。

 鏡の前には、おそらく銅製の剣であろうものが、美しい刺繍の施された橙色の袋に入れられ、五色絹が括られて置かれていた。袋と絹も、百年の時間は感じさせない。

 仏像の左の手のひらには、小さな紫の座布団が置かれ、おそらくその上に安置されていたであろうものの姿がなかった。

「葵さん……」

 僕は、頼りない声で葵さんを呼ぶ。

「嫌な予感はしていたんです」

 葵さんは、キッと格子戸を強くにらみながら小さくそう云った。

 僕は、まっさきに伊藤の「持ち出せへんか?」という言葉が頭をよぎっていた。異様に毘盧遮那仏の涙への執着を感じる。

 嫌な気持ちをぬぐえないまま、さい銭箱の上に放置された格子戸をもとの位置にはめようと、本殿に近づいた。

「あ、いい機会なんで、中、全部掃除しましょうか」

 葵さんはもういつものように明るい声で、マスクとレインコートの間から出た眼をくしゃくしゃに閉じて笑った。切りそろえられた前髪が、まっすぐな眉毛にまばらにかかって、それがなぜかかわいく思えた。

 僕たちはレインコートだけ脱ぐと、私服のほうが掃除がしやすかろうということで、そのまま本殿の掃除をはじめた。外は強くはないが相変わらず降っている。

 中はとても暗く、冷房を強くかけたようにひんやりとしている。奥の土壁に防音効果があるのか、とても静かだ。

 はたきで埃やクモの巣をおとし、壁を雑巾で拭いてまわる。几帳面な僕は、濡れ雑巾で一度拭いた後、からぶき雑巾で拭きなおす。

「ぐっじょぶです!」

 葵さんはそれを見て満足そうに親指を立てた。

 床は、ほうきでざっと履いたあと、最後に社務所の小さなクリーナーをかける。

「ご本尊はどうします?」

 僕は、二体の八咫烏、仏像、鏡、剣には手を付けていなかった。

「さすがに恐れ多い気がしますね。父に任せましょう」

 葵さんもそう云って本殿をでた。僕は、少しホッとした。葵さんにもそういう気持ちがあるんだ。

 格子戸をはめる。いとも簡単にはまった。

「でしょう?」

 葵さんは格子戸をはめた僕にそう云った。

「何がですか?」

「簡単にはまるでしょう?」

 そう云えば、僕くらいの大人がやれば、この格子戸は簡単にはまる。そして、きちんともとのように格子戸をはめておけば、中のものを盗んでも、おそらく誰も気づかない。中が暗くて外からでは眼を凝らしても何も見えない。

 ということは、盗んだことを気づかせたいのか、もしくは、格子戸をはめられない、大人じゃないものが盗んだということ、あるいは格子戸をはめる時間などの余裕がなかったかだ。

「なるほど~」

 僕はつい大きな声をあげた。僕にも犯人の目星がついたからだ。

「もしかして、雀ちゃんですか?」

 掃除道具を片づけながら、葵さんに聞いてみる。しばらく返事はない。それでも、螢ちゃんの現状と、今日が誕生日であることを合わせて考えると、誕生日プレゼントに持ち出した可能性は、動機としては考えられなくもない。

昨日の訪問は下見だったのかもしれない。

「どうでしょう…… この件はもうひとつ何か絡んでいるようですよ」

 葵さんが真相を語ってくれると唾をのんだとき、その男が現れた。

「全部見とったで」

 高そうなスーツに身を固めながらも、だらしなくネクタイを緩め、シルクのシャツのボタンをいくつか外したままにしてある。

「…… 伊藤…… さん」

 なぜだか僕は、家族の悪口を云われたような、とても疎ましい気分を抱いていた。

「あなたが伊藤さんですか」

 葵さんの声も少し厳しく聞こえる。

「おう。はじめましてやな」

 透明なビニール傘を手にした伊藤は、鳥居をくぐって境内にいるにも拘らず、タバコをふかしている。

「お願いしてもいないのに、光琉くんのようないい人を紹介してくださったことは、心からお礼申し上げます」

 葵さんは棘のあるもの云いながら、深々と丁寧に頭を下げた。葵さんにそう云ってもらえて、いささか気分が戻った。

「ただし、境内は禁煙です」

 頭を上げたとたん、葵さんは冷たい声色で云った。

「それどころやないやろ」

 伊藤はタバコを境内へ放り投げ、湿った石畳に落ちた吸い殻を、艶のある重そうな靴で踏みつけた。

「持ち出したら世界が滅ぶ、毘盧遮那仏の涙。どないすんねん」

 葵さんは黙って伊藤の行動を見ていた。刹那、その顔色が変わった。

「おまえ今なにした?」

 それは低く小さな声だ。伊藤は自分に云われたのかもわからないように眼を瞬かせている。

「おまえ、今、なにしたかって聞いとんねん」

 葵さんはもう一度同じトーンの声をゆっくりと発した。

「タバコのポイ捨てか? それと世界の破滅とどっちが大事なんや。自分のしたことは棚の上か!」

 伊藤もようやく自分の行動に対する言葉であることを知り、一流の記者とも思えない幼稚な反論をした。

「関係あるかい! 拾えや。もしくは出て行け」

 それはやはり葵さんの口から発せられているとは思えない乱暴な言葉で、男の声のように低い。

 伊藤は仕方なくポケットからティッシュを取り出して吸殻を包むと、神経質にティッシュを何重にも巻いてポケットに戻す。

「まるでヤクザやな」

 伊藤は反対に冷静につぶやいた。 

「あなたですよね? 毘盧遮那仏の涙を、都合よく記事にしたのは」

 葵さんも冷静さを取り戻したようだ。

 伊藤はぱっと振り返る。

「さぁな。また飯の種ができそうや」

 伊藤はそのまま境内を出て行った。境内には、なんとも云えない嫌な空気が残る。

「葵さんは、伊藤さん…… 伊藤にあったことないんですか?」

「ないですよ」

 葵さんは掃除道具の片づけを再開する。

「てっきりお知り合いなのかと……」

 すぐに葵さんの片づけを手伝う。

「光琉くんがくる何日か前に履歴書が送られてきました。それから前日に、あの男から電話がありまして、『フリージャーナリストの伊藤いいます。アルバイトさん募集してはりますよね? 明日から一人行きますんでみたって下さい』って」

 葵さんは伊藤の声色と表情を真似てそう云った。

「微妙に似てますね」

 二人は顔を見合わせて笑った。

 そのときふと、僕の頭に一つの仮説が思い浮かんだ。よく、『犯人は現場に戻る』という。伊藤は現場に戻ってきたんじゃないのか?

「毘盧遮那仏の涙を持ち出したんって……」

 掃除道具を片付けながら、そうつぶやいた僕に、葵さんは「さぁ」とだけ云った。  


 僕は葵さんに従って、仮の祭壇やおおぬさなど、ご祈祷に使うものを準備していた。そのあと、社務所で打ち合わせを行う予定だ。いよいよ明日がご祈祷の日だ。

「まず、今回の依頼の真相をまとめていきたいと思います」

 葵さんが話をはじめる。僕は相変わらず頼まれてもいないが、メモをとる準備をしていた。

「三ヶ月前から、鈴木家の、主に螢ちゃんの部屋で、ラップ現象やポルターガイストが起こり、螢ちゃん自身や田中さんが螢ちゃんの部屋で、男性の幽霊を見るようになった。 

 同じ時期に螢ちゃんの様子がおかしくなり、部屋に引きこもって独り言を云うようになった。

 それらを改善してほしいというのが依頼の内容ですね」

 葵さんはいつもどおりだが、はじめての祈祷を明日に控え、僕はいくぶんか緊張していた。

「これを、私は精神的な、なにかストレスによるものと考えて検証しました。

 まず、ラップ現象は、検証の結果家鳴りの範囲を越えていないということ。

 ポルターガイストと田中さんの見た幽霊は、田中さんの認知症の可能性があること。

 そして、螢ちゃんの見た幽霊は、精神的に追い詰められた幻覚である可能性があること」

 葵さんはそこで一呼吸おいた。

「明日は、慎重かつ丁寧に依頼主様と接し、誠心誠意取り組んで、祈祷を成功させましょう……」


 家に戻り、入浴して部屋で横になって読書をしていた時だった。

「晩飯まだぁ?」

 足で部屋の扉を開けて母親に聞こえるように声を出す。

 返事がないのに頭に来た僕は、立ち上がって部屋の扉に手をかける。そのとき、扉が生きているように上下に動いた。

 突然辺りは地鳴りに包まれ、ゆっさゆっさとなにもかもが揺れ始めた。

 地震だ。しばらくは動くこともできない。

 二分ほどで収まり、「だいじょうぶか~」と母親の声がした。

 僕は「だいじょうぶ」と返事を返し、パソコンを立ち上げて地震情報を確認した。

「小笠原諸島西方沖…… 小笠原村震度七! …… マグニチュード八.五…… 東京五弱、神奈川五強、大阪は三…… あれで三? 関東以外日本中どこもかしこも震度三。範囲でかぁ」

 その地震情報の地図は、まるで日本地図を数字で示す図のように、北方領土から沖縄の端まで震度三より上を表す数字がぎっしりと入っていた。

「ちょっとこっちの部屋散らかったから片付けんの手伝って」

 母親の声がして奥の部屋に行ってみると、普段無理やり積んでいる本や、洗濯の山が散乱していた。

「ちょっと災害対策考えろやぁ」

 僕は母親に説教しながら本を拾った。なにか嫌な予感がする。もし、毘盧遮那仏の涙が関係していたら…… そう思いかけて、そんな話、さすがにあるわけがないともみ消した。


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