四 くされたるくさほたるとなる 六月十日
六月十日
「めっちゃ眠そうですね」
僕がバイクをとめて鳥居をくぐると、朝一番で、葵さんは不服そうにそう云った。
「あのっ、実は」
云い訳を考える間もなくあたふたする。遅くまで澪ちゃんとメールしていたなんてとても云えない。
もちろんはじめはそのつもりはなかった。澪ちゃんに関わるのが面倒で先に帰ったのだから、メールのやり取りなんてしたくはなかった。でも、澪ちゃんから来るメールに一々返事をしていたら、朝方近くなっていたのだ。メールをしているうちに最初に感じていた違和感は薄れていたからかも知れない。
「ガス欠したんでしょ」
と、葵さんが云った。もう袴に着替えて表を掃いている。
「なんでわかったんですか⁈」
僕は心底不思議だった。
「昨日、鈴木さんとこでイーベタだったんで、お伝えしようと思ったんですけど、考えごとしてたら忘れちゃいました」
葵さんは顔をあげて舌をだした。
「ゆってくださいよ〜。大変だったんですから〜」
葵さんは、僕が眠そうにしている理由には触れてこなかったので、そのままやり過ごす。
それにしても、イーベタっておっさんじゃあるまいしと思う。イーベタとは、emptyのeに針がベッタリついてること。ようするにガソリンがもうないことを表す。
「あ、すぐに着替えてきますっ」
葵さんが掃き掃除をしているのにあらためて気づき、僕はあわててそう云った。
「いや、すぐ出るんでいいですよ。準備しててください。ガソリン大丈夫ですか?」
葵さんは意地悪な笑顔でこちらを見た。
「次は、その後紐を前に。そうです」
鈴木家に機材を取りに行ってから、昨日もらった緑色、正式には「松葉色」の袴を履くのに、葵さんに着付けてもらっていた。この袴は、神職のなかでも研修生など序列に属さない者にあてがわれる色だと聞いた。
葵さんの手が、何度も僕の後ろにまわる。葵さんが僕の腰を抱くかっこうになり、密着度が高くてドキドキする。
「はい。できました! きつくないですか?」
葵さんはそう云って僕の腰をパンと叩いた。
「なんか、不思議なんですけど、心が引き締まりますね」
水屋に映る自分の姿を確認しながら、正直に感想を述べた。
「でしょ! そうなんですよ〜」
袴姿の僕を満足そうに見ながら、葵さんは嬉しそうに笑った。心から笑っているのがわかった。
「さあ、引き締まった心でお掃除お願いします」
僕は竹箒を渡されて表にでた。
僕は掃き掃除が好きだ。なぜだかわからないが、箒で塵を集めていくのが楽しい。だから、この作業はまったく苦にならない。ただ、竹箒に砂利だと落ち葉がうまく集まらなくて、少しイライラする。しかもあたりは雨で湿っている。
「心を乱さず」
僕の心境がわかるのか、タイミングよく葵さんの声がする。
葵さんの境内を掃く姿は、その色あいもあってか、とても絵になる。
「それにしても、やっぱり父親の霊で決まりですかね」
サーモグラフィにはなんの反応もなかったものの、確認した暗視カメラの映像には、パチパチと音がするラップ現象、本棚の本が勝手に落ちるポルターガイスト、そして、オーブと呼ばれる浮遊物までしっかりと映り込んでいた。
何と表現するのがいいのかとまどうが、材木が軋むようなパキっと云う音が、小さいものを含めると一晩でも結構な数が録音されていた。
また、ちょうど零時を過ぎたころ、螢ちゃんの部屋にある入り口横の本棚から、一冊の雑誌が飛び出して床に落ちたのが録画されていた。それはまるで誰かが引っ張り出したようだった。
さらには、カメラの前を『オーブ』と呼ばれる浮遊物が何度か横切り、その前後に、ベッドで眠っている螢ちゃんが少しうなされているのが記録されていた。
田中さん夫妻にしても、僕にしても、その映像は衝撃的だった。
なんと形容したらいいだろう。背筋が凍るとか、鳥肌が立つとか、そういった言葉ではとても足りない。あいまいだった恐怖が、形をもって現れたとでも云うべきだろうか。
少しパニックに近い状態になっていた三人に、葵さんは一言「大丈夫です。よくあることですよ」とこともなげに云い、それがあまりにあたりまえの事のようだったので、僕たち三人も次第に落ち着いた。
「旦那さんは、奥さんや螢ちゃんや田中さんに何が伝えたいんですかね?」
そんなこともあって、僕はもう螢ちゃんのお父さんの幽霊のせいに決めてかかっていた。
「やっぱり、旦那さん、螢ちゃんの誕生日に、どうしても蛍を用意してあげたかったんですかね」
螢ちゃんの父親が、心残りであの世に帰れていないんじゃないかと思うのが自然だからだ。
「霊が原因という証拠はまったくありません」
葵さんは箒を動かす手を止めないまま、僕のしんみりした話に間髪開けずそう答えた。あんなにはっきりといろいろ映っていたのに、葵さんの言葉はそれを覆すものだった。
「ラップ現象は、気になるほど大きいもので一晩で三回ほどでした。
築年数を考えても、建材が馴染んでくる時期ですし、梅雨入りしたことも含めると、家鳴りの範囲を越えてるとは云えないと思います。
本棚から本が落ちたのは、本棚に無理に積んでいたためだと思われます。並べられた本の上に雑誌が何冊かのせられていましたから。
オーブは蚊などの羽虫の可能性があります。今時期から増えますしね。
現に、オーブが映りこんでいる前後に、螢ちゃんが、寝苦しそうに腕を掻くしぐさをしているのが写っていました。
羽虫は暗視カメラだと、オーブそっくりに映ります。
そうでないとしても、水蒸気である可能性もあります。
そもそも、オーブ自体、水蒸気が映りこんだものだという説もあります。
その証拠として、お風呂を沸かした状態で浴室の扉を開けて撮影すると、必ず無数のオーブが映りこむという話もあります」
さすがに手をとめて反論しようとする僕に、葵さんは隙を与えてはくれない。
「ただ、螢ちゃんや鈴木さん、田中さんが、螢ちゃんのお父さんのことでなにか罪悪感や後悔があり、気に病まれている可能性は否定できません」
その言葉について、僕は考えずにはいられなかった。
葵さんの云うとおり、螢ちゃんや鈴木さん、田中さん夫婦が、父親、旦那、あるいは娘婿の死を悔やみ、それらを幽霊としてつくりだしているということだろう。生きている側の都合だ。
逆に、亡くなられた螢ちゃんの父親も、娘や妻、田中さん夫婦に思い残すことがたくさんあってこの世にとどまっているとしたら、それは亡くなった側の都合だ。
問題は、『螢ちゃんたちが、螢ちゃんの父親に対してなにを悔やんでいるか』だと葵さんは云う。それは、『螢ちゃんの父親がなにを心残りに思っているのか』と差異はないように思う。
「普通に考えると、螢ちゃんの誕生日に用意したプレゼントを渡せずじまいだったこととか、螢ちゃんの将来のこととかですよね」
僕はつい螢ちゃんの父親の視点から答えた。
葵さんの返事はなく、割って入るように自転車のブレーキの音がして、加茂神社に参拝客が現れた。
「ようお参りくださいました」
葵さんの低くてしっとりとした艶っぽい声が響く。
ぎこちなくお辞儀をする少し肥えた少女は、本殿に参拝せず、まっすぐ葵さんの方へやってきた。
「あの」
葵さんは小首をかしげる。
「どうされました?」
「私、高橋っていいます。鈴木螢の知り合いです! ちょっと聞いてほしいことが……」
覚悟を決めたように思い切って話す少女の言葉は、僕たちの興味を十二分に惹いた。葵さんは少女を社務所へ案内した。
少女の名は、高橋雀。鈴木螢とは幼なじみだそうだ。螢ちゃんがお祓いを受けると聞いて、気になることを話に来たという。カギっ子同士だった二人は、いつもいっしょに行動していたらしい。云われてみれば、螢ちゃんの机の上に置かれた写真に写っていた女の子だ。写真よりだいぶ太ったみたいだ。
「三ヶ月前から、螢の様子があきらかにおかしいんです」
雀ちゃんの口ぶりに、話しているうちにだんだん力が入ってきた。
「同じ幼なじみに、ちょっと前に引っ越した子がいて、しばらく連絡が取れてなくて。その子の話ばっかりするようになったんです」
葵さんは神妙に少女の話を聞いている。
「お父さんが亡くなったころは、螢ちゃんの様子はどうやった?」
僕は気になることを聞いてみた。
「…… 螢、しばらく学校休んでたから……」
雀ちゃんもうつむいてしまった。よっぽどつらかったんだろう。
「お父さんが亡くなって、親しい友達が引っ越して、螢ちゃん、寂しいんやろなぁ」
葵さんは、僕の話が耳に入っていないのか、一点を見つめて考えていた。
「螢のお父さんが死んでから、一年ほどで螢は元気になってたし、蓮が引っ越してからも、すぐ元に戻っててん。三か月前から急におかしいねん。独り言が増えたし、だんだんと部屋から出んようになって……」
雀ちゃんはもう一度、今度は強くそう云った。蓮くんとは、引っ越した友達のようだ。
「そうは云っても、お父さん亡くしたらなぁ。やっぱりつらかったんちゃう?」
小学生のころ、僕も父親を亡くしていた。その気持ちはよくわかるつもりだった。
「でも、一年くらい経ったころには、もう普通の螢に戻っててんて!」
雀ちゃんは強くそう云うが、お父さんを亡くして親友に引っ越されたらと思うとにわかには信じがたい。
人前では明るく振る舞えても、心中は察するにあまりある。
「お父さんも、螢ちゃんが心配でしょうがないんやろうなぁ」
僕は思ったことをもう一度つぶやいた。成仏できない理由もわかる。
螢ちゃんにしたって、お父さんを失って、親友に引っ越されてしまい、三か月前にいよいよ心が折れたと考えても、何も不思議なことではない。
「雀ちゃん? その引っ越したお友達の連絡先、教えてくれます?」
葵さんは眼が覚めたかのように、唐突に聞いた。雀ちゃんはスマホを取出し、画面に連絡先を写すと葵さんに渡した。
「あの、あそこってどうやってはいるんですか?」
雀ちゃんは、ぽつりと聞いた。本殿に入口がないのが気になるようだった。よく考えれば確かに不思議だ。
「本殿には人は入れへんよ。何かあったときは、前の格子戸をはずすんやけど、もう百年も開けられたことないん」
葵さんは両手にスマホを持ち、連絡先をスマホに登録しながら答えた。
「ふーん」
雀ちゃんは、もうどうでもいいように葵さんから自分のスマホを受け取った。
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