七 なつかれくさかるる
なつかれくさかるる
「光琉くんて、幽霊とか詳しいんですか?」
その日はこれといって珍しいことはなく、朝から日常の通り袴に着替えて境内の掃除をはじめた。仕事のおおかたは清掃だ。はたき、雑巾がけ、掃き掃除、ごみ拾い。くる日もくる日も整頓する。これには、おそらく心を綺麗にするという意味合いもあるのだろう。掃除自体は嫌いでは無いけども、三日もすれば飽きる。たいして汚れもないが、小さなお社といっても二人でこなすには手間がかかる。
それに毎日箒を振っていると、すぐにまめができる。僕の手の、箒の柄が当たる部分には、たくさんの絆創膏が張られていた。
お守りのいろいろあるのや、おみくじの口分けなんかも覚えなくてはいけない。おまけに葵さんはなにも教えてはくれない。まだ、勤め出して七日と過ぎていないのだからやることはいくらもあった。
「私、あんまわからないんですよね」
うちの神社には、本殿のほかに「金毘羅宮」と「御手洗大明神」の小さな社がある。社務所の裏には遥拝所もある。そちらの方もしかるべく片付けなくてはいけないし、それぞれの御祭神についてもよく知っておかないといけない。
よくよく聞くと、この神社に人が駐在するようになったのは、ほんのこの頃のことで、そうなるまでは、田中さんのような地元の人が好意で掃除をしてくださったり、京都の大きな神社から定期的に人が来ていたという。
「光琉くんは詳しいんでしょう?」
葵さんは箒の柄に両の手を重ねて乗せてこちらを見ていた。
「あぁ、基本的なことは知ってますよ。ほとんどネットから仕入れた知識ですけどね」
集めた落ち葉なりを塵取りに放り込む。小さな雑木林に囲まれているので、この時期でも毎日何かしら掃くものはある。ただ、濡れているので掃除はしにくい。
葵さんがそんな話を聞いてくるのは、履歴書に「超常現象が好きでよく調べる」と伊藤が書き加えたのが原因だろう。嘘ではないが強調することでもない。
「ほんまは、人は死んだらどうなるんやろう……」
葵さんは僕から竹箒を受け取って、箒立てに使っているドラム缶に立てる。社務所の外にあり、ボランティアの人でも自由に使うことができるようになっている。
僕は、塵取りのゴミを袋に入れると、塵取りも箒立ての横につけた。
「神社的には、天上界か、黄泉国かってとこですよね?」
境内の掃除を済ませて社務所の中に入る。葵さんは、そう云うことが聞きたいのではないらしい。それはむつかしそうにする顔に書いてある。なんだか今日は機嫌が悪そうだ。
「簡単に説明すると、正しい生き方をした人は天国に帰り、悪いことをした人は地獄へ行きます。なかでも、この世に恨みやなにか執着を残した人、自分が死んでいることに気付いてない人が、この世に残って幽霊になる。葵さんと僕が相手にするのは、この人たちってことですよね」
僕はちゃぶ台の前に胡座をかいてメモをとって見せながら説明を続けた。
「実際、私が相手にするのは生きてる人間ですけどね」
僕に聞こえないように云ったつもりだろうが、葵さんも向かいにちょこんと正座して聞いてくれてはいる。
「幽霊にも種類があって、恨みなどの執着で自分を縛る自縛霊、その土地に執着している地縛霊、自分が死んだことに気付いていなかったり、子供のように、頼りになる人を探して歩くような浮遊霊、あとは動物の霊なんかの低級霊とか」
葵さんは半ば興味がなさそうに「ふ~ん」といったようすで僕が書くメモを見ている。
「そのうち、積極的に悪さをするものを悪霊、その内容がひどいものを怨霊、憑りついたものを憑依霊とか云いますね」
葵さんは納得いかない様子でメモを一枚引き剥がすと、そこに落書きをはじめた。
「話聞いてませんやん」
僕は苦笑いをする。子供のようだ。
「正しい生き方とか、悪いことって、どうやって決まるんでしょうね」
葵さんは誰に話すでもなく、深い息をつくようにそう漏らした。
「それは、やっぱり人間である以上、持って生まれた善悪の基準ってあるじゃないですか? 子供を大切に思うような気持ちとか、お年寄りをいたわる気持ちとか、思いやりとか」
僕は、役目が済んだと見て取って、お守りの並んだ白木の盆の整理をし、ご利益と値段を一つ一つ覚えていく。小さな神社なのでそれほど数はない。
葵さんからの返答はいっこうにこない。
葵さんは商売っ気のある人なので、カモノハシを模った根付やお守りを売っている。
たいして知られてはいないが、カモノハシのオスには棘や毒がある。それにメスには棘も毒もないことから、女の子のお守りとして葵さんが考案したものだ。そういったものを売ってるのは前にも云ったが、今は「毘盧遮那仏の涙」を模したものを売る計画を立てている。落書きも、そのデザインのようだ。
そもそも、さい銭とおみくじやお守りで得られた収益では僕の人件費はもちろんでない。僕が雇われたのは、昨日のような出張の祈祷のためだ。除霊の初穂料は法外だと云っていい。そっちの仕事が入るようになって、葵さんはこの神社に常駐するようになったと思われる。
受け付けのシャッターを開け、お守りと根付を並べる。おみくじの筒も置いた。
「これどうですか!」
デザインが書けたようだ。さも得意気に僕に見せる。それは普通の陰陽マークだった。
「なんか、ふつうですね……」
僕は正直な感想を漏らした。葵さんは頬を膨らませる。
「今日は私、デザイン考えるので、ここ任せますね」
そう云って葵さんは隣の部屋に行こうとする。
「葵さん、盗まれた本物はほっといていんですか?」
僕は大事なことを思い出した。
「あ、それどうしましょうねぇ」
葵さんは特に気にする風でもなく隣の部屋へ行ってしまった。
「もし、昨日のあれが、催眠とかカウンセリングとかでなく、除霊だったとしたら、どういうことが起こってたんですか?」
間もなく隣の部屋から葵さんの声が聞こえてきた。
「幽霊のこの世に残りたいという思いのエネルギーが十としますよね。葵さんのあの世に帰したいという思いのエネルギーが二十とすれば、葵さんの方が強いので幽霊はあっさりあの世へ帰ります。単純な算数です」
僕は部屋の中の気になるところを見渡して、雑巾で拭きながら説明する。
「幽霊が二十、葵さんが十だとすると、幽霊が強いのであの世へは帰りませんよね。それを、ひとつひとつ裏をとって説得することで弱らせていくのが昨日の様子じゃないですかね。一ずつ引いていくというか、最終的に、葵さんが十、幽霊が九になれば、除霊は成功ってことですね」
葵さんから返事は聞こえない。デザインに集中しているんだろう。もしくは話が面白くなかったか。
「それって、生きてる人間でも同じですよね。除霊じゃなくて、カウンセリングや催眠療法だったとしても、やる方の感覚は同じですよ」
ずいぶん後になって、葵さんはそう云った。僕は聞こえないふりをした。どう返事をしていいのかわからなかったからだ。
幽霊は信じられないが、自分がインチキをしているとも思いたくない。葵さんには、そんな葛藤があるのかもしれない。
「そもそも、葵さんの考えでは、あの世はないんですか?」
答えられずにまごまごしたあと、なんとなく口をついて出たのは、そんな質問だった。
「死んだあとのことは、誰にもわかりませんよね…… でも、幽霊とか、臨死体験が偽物だってことが科学的に解明されはじめていますから、やっぱりナンセンスですよね……」
僕はあえて反論しなかった。なぜなら、どういうわけか、葵さんの声が寂しそうに感じたからだった。できればあの世があってほしい。本当はそう思っているんじゃないだろうか。
その夜、僕は何年かぶりに居合剣術の師匠の下を訪れた。
駅からほど近いマンションの一室に鍼灸院があり、そこの院長をしているのが僕の師匠だ。阿倍野勇気という。
僕がまだ小学生のころ、勇気さんと同じく居合剣術の師範をしていたのが僕の父である。二人は仲のよい友人だったと聞いている。その父の影響で僕が居合を始めたのが小学二年の時。間もなくして父が心不全で亡くなってから、僕の父親代わりをしてくれているのが勇気さんだ。
予約制のため、待合にあてがわれた六畳の部屋には僕のほかには誰もいない。壁は一面白い珪藻土に塗られ、パイン材でできたテーブルが置かれている。施術室の中には前の患者さんがまだ残っているようで、内容まではわからないが、勇気さんと会話をするのが聞こえてくる。
「先生、ありがとうございました」
扉を開けて出てきたのは澪ちゃんだった。
「光琉くん!」
「み、みおちゃん?」
あれからおおよそ毎日澪ちゃんとメールをやり取りしていた。はじめは戸惑いもあったが、メールを続けるうちにそんな気持ちもなくなり、二人はメールの上でとても打ち解けていた。見た目と違って、メールでは澪ちゃんは昔のまま変わりなかったからだ。
「どうしたん?」
澪ちゃんは僕が治療に来たのだと思ったのだろう。
「僕、院長と昔から知り合いやねん。澪ちゃんこそどっかわるいん?」
僕はそう聞きながら、たくさんの陰鬱な噂話を思い出す。
「うん。ちょっといろいろ身体のバランス悪くて……」
その返事は、頭の中でぼやけた嫌なうわさを鮮明にさせるには十分だった。
「でも大丈夫。ちゃんと先生に診てもらってるし」
彼女の笑顔は、悪く云うと芝居がかっていて、よく云うとかわいかった。
「それって、やっぱりあれが原因なん?」
僕は恐る恐る聞いてみた。それは二人の関係を図る重要な質問だった。まだ、打ち解けているのがメールの上だけの話なら、澪ちゃんは真実を語ることはないだろうと思う。
しばらく沈黙があったものの、澪ちゃんは静かにうなずいた。
「やっぱり、私のせいで人が死んでるわけやから……」
澪ちゃんはそう云いながらも、僕の表情を見てすぐに後をつなげた。
「でも、引きずってへんで。人生一度しかないねんし、若いころなんかすぐ終わってまうし、楽しまなあかんって思ってんねん」
澪ちゃんは急に明るい表情を作ってさらに続ける。
「なぁ! 今日はご飯いけるん? まっとく!」
僕には、なんとなくそれを断ることができなかった。
「どうや仕事は」
待ち合いとは雰囲気の違うバリ風に設えられた部屋の、真ん中に置かれたベッドの上に腰掛け、勇気さんから渡されたコーヒーを受け取った。
「まあまあです」
勇気さんに嘘は通じない。よく考えると、この人には葵さんとそっくりなところがある。
「人と関わることができるようになっただけマシか」
年は父と同じらしいから、四十五だと思う。髪型やセンスがよく、見た目は二十代に見えた。
そして、勇気さんの話はかなり的を射ていた。
二年前の事件について、僕なりに考えなかったわけじゃない。あのとき、変な嫉妬やプライドを捨てて参加していれば、もしくはなにか変わっていたかも知れない。人が死ぬことも、澪ちゃんが苦しむこともなかったかもしれない。そんな風に思って眠れなかったこともたびたびあった。
結局、その罪悪感のようなものを払拭するために僕がだした結論は、逆に『世間とは関わらない』というものだった。
僕と世間とは関係ない。そう思うように生きてきた。
自分の存在で、なにか他人に迷惑をかけたり、ことがダメな方へ運ぶなら、関わらなければいい。自分一人なら、誰も迷惑しないだろう。そう思って、なるべく世間と関わらないようにしてきたし、僕が関わっていないことで起こる不幸は、僕には関係のないことだと思うようにしてきた。そうすることで、二年前の事故も『自分には関係のない出来事』と思うようにしたのだ。
澪ちゃんとの接し方に素直になれないのは、そういった背景も関係があるからだ。
「そうなんですかね」
僕は、自分が世間と関わろうとしているなんて、これっぽっちも思えなかった。むしろ、伊藤にしても、葵さんにしても、澪ちゃんにしても、深く関わりたくなかった。
全部、他人事でいたかった。
僕には厄介な癖があって、突然愚にもつかないことを考え込む。
その時は、決まって「難しい言葉」を使う。
なんだろう。その方が、「俺今考えてる!」って気がするからだろうか。勇気さんの言葉が、この癖を発動させた。
細かく云うなら、人と関わりたくない理由は、やはり他にもうんとある。
たとえば、たいして親しくもしない知り合いに出会い、「今日はいい天気ですね」などと、つまらない話をあたりまえにするのがおもしろくない。世間ではよくあるように、「もう紫陽花が咲きましたね」とか「今年の梅雨はよく降りますね」とか、そんな瑣末なことを一々確認しあうのがいかにも俗っぽく、そんな話をするくらいなら、知り合いをやめてもいいとさえ思う。
あるいは、自分はそうした『組織』や『社会』といった、つまらない人間を大量生産する工場のようなところに属するつもりはないとばかりに、一匹狼を気取り、どこか『おまえらとは違うんだ』と見下していたり。
一方では、僕は必ず大を成す男だと自分を担ぎ上げながら、格別他人と違うことをするわけでもなく、ただ毎日を無目的に消費している。いつか退屈極まりない日常から脱する日が突如やってくると、自らはなにも労苦することなく他力に任せて、怠惰の泥沼から足を抜こうともしないのだ。
その裏側で、自分に対する罪悪感だけは、ゴミで埋もれた屋敷のようだ。つまるところ、なにもせず、なにも生まない自分を責め、また、いろいろなものを育んでいる『組織』や『社会』より劣っている己を発見して呻吟する。
何をするべきなのか、何をしたいのか、それさえも心当たりがない。どう生きるべきなのか、どう生きたいのかも思い当たらないのだ。
機嫌のよい日は人とも話す。良かれと思いあれこれ骨を折る。人と人とをつなぐ言葉や行動は厄介なもので、こちらの善意をあちらにまっすぐに伝えないことも多い。それが裏目となって相手を深く虐げる。そこに『もっとうまくやれはしなかったのか』といった罪悪感が再び生じ、ますます人と関わることを億劫にさせる。
どだい人と関わってろくなことはない。一人静かな茶店の隅にでも座り、大正明治の文学作品の中にのめり込んでいるのが至高の時間だ。誰も傷つかず、罪悪感も生まれない。
人はなぜ、感じたり、考えたりするのだろう。どうしてそれを意図的に止めることができないのだろう。それができれば、僕はもっと穏やかでいられるのにと思う。
勇気さんは、いっぺんにそこまで深い考えに及んだ僕を見透かすように「ゆっくりでええんちゃうか?」と一言云った。
「どこいく?」
澪ちゃんは、何も知らないみたいな笑顔で腕を組んできた。
「なんでもいいで」
僕は慣れない境遇に尻込みしていた。それは見た目からでもわかっただろう。
「そういうの、一番あかんねんで」
いたずらっぽい眼で僕を見る。こういうのが、昔の澪ちゃんとは違うところだ。僕の知っている彼女は、もっと純粋だったように思う。もしくはそれも僕の作り出した幻想なのかも知れない。
「そうなん? じゃあラーメンにしよっか」
僕はいつものラーメン屋に行こうと思いながら、女の子に勧めるにはラーメン屋はどうなんだと思いなおした。
「え〜ラーメン?」
案の定、澪ちゃんは露骨に嫌な顔をする。
「いや、ラーメンってゆっても、イタリアラーメンってゆうちょっと変わってるとこやねん」
澪ちゃんは僕があわてるのを見て笑った。
「なんでもいい!」
「それ、一番あかんのんちゃうん?」
「女の子はいいねん」
勇気さんの鍼灸院から南に少し歩いた線路沿いに、その小さなラーメン屋はある。
イタリアの塩を使った塩ラーメンが店の看板で、トマトやホワイトソースのラーメンもある。女子にも人気のある店だ。
僕はその中でも異色のトムヤムクンラーメンを注文し、澪ちゃんはカルボナーララーメンを頼んだ。
「なにこれめっちゃおいしい!」
予想通りのリアクションを見せてくれた澪ちゃんは、不思議なことを云った。
「なんでおいしいもんて食べれるもんなんやろ?」
僕は質問の意味が理解できず、首をかしげて澪ちゃんを見た。
「だって、ゲロとかおいしいって思わへんやん? 土とかプラスチックとかおいしくないやん?」
澪ちゃんのたとえは酷く下品だったが、云いたいことはわかった。
「ゲロって! フグとかキノコとか毒のあるもんでもおいしいやん」
澪ちゃんは「そっかなー。でもだいたい食べれるもんやん?」と答えながらも、そんなことはもうどうでもいいようにカルボナーララーメンを楽しんでいた。
澪ちゃんも、僕と同じようなことを考えているんだな。そう思うとなぜだか少し安心した。
「光琉くんて今何してんの?」
澪ちゃんは唐突に話題を変えた。ラーメンを食べ終えて、替リゾットを注文したところだ。
「いまぁ? 霊能師の助手」
澪ちゃんは水を吹いた。
「なにそれ! めっちゃおもろいやん」
でも、勤めているのが加茂神社ということを鑑みると、この話をこれ以上広げるわけにはいかない。
「澪ちゃんは?」
僕はすぐに話を返した。
「ん~。私はニート」
澪ちゃんのテンションは見ていてわかるくらい下がっていく。話の振り方に失敗したことに気づく。
「体調が安定しんくて、ちょっと仕事はまだできひんねん」
明らかに小さくなった声に、僕も言葉を返すことができなかった。
「なんで人間って、痛いとか、しんどいとか、うれしいとか、悲しいとか感じるんやろう。いちいち感じんかったら楽やん」
僕は澪ちゃんに心を見透かされたのかと思い、ただ彼女を見た。
「なんか憑いてる? 絶対憑いてるよな!」
その視線に気づいた澪ちゃんは、身体を後ろに反らして面白おかしく自分を指さした。
「光琉くん、そんなんわかるん?」
「ま、まだ、そういうのは……」
澪ちゃんのすがるような雰囲気に、少したじろぎながら、しどろもどろになって返事する。
「ほんなら、できるようになったら、光琉くんが治してや。私、絶対なんか憑いてると思うねん」
ラーメン屋を出たところで、澪ちゃんは次の約束をさりげなく切り出した。
「光琉くん、今度いっぺん京都行こうや」
ラーメン屋で二人とも京都が好きということがわかって、盛り上がったのがきっかけだ。
正直なところ、とても複雑だった。二年前はなにも食べられなくなるくらい憧れた人だ。考えるだけで胸が苦しくなるくらい、ずっと意識していたこともある。
でも、今は誰にも深く関わりたいと思えない。親密になっていくにつれ、仲良くなっていくにつれ、その関係を保つのが重荷になっていく。前に会った時より楽しくできるだろうか。しらけてしまわないだろうか。がっかりさせてしまわないだろうか。そんなつまらないことに頭を悩ませるのだ。
それは、自分を良く見せたいという心のうちの現れで、飽きさせたくないとか、つまらないと思わせたくないとか、そんな欲が、正反対に作用して、相手を幻滅させることになる。そして、しらけてしまったり、なんらかのトラブルを知ったときに、罪悪感を抱いて苦しむことになるだろう。
だから僕は、あえて日程を調整して連絡すると伝え、返事をぼかした。
結局、自分のことをよく見てほしい。悪く見られたくない。それが、人と関わりたくないことの原因らしい。
「じゃあ、またメールする!」
澪ちゃんは、カラオケを断って僕が帰るといったのにむくれながらも、取り直してそう云ってくれた。
僕が一人で家路を歩き始めると、すぐ澪ちゃんのおっちゃんに声をかけられた。おっちゃんといっても、二回目の結婚が遅かったらしく、もう七十を超えているだろう。小さいころは気にならなかったが、それはずいぶん老けていた。
「光琉くん、澪、迷惑やないか?」
澪ちゃんのおっちゃんは、眉間にシワを寄せて気色に正気が伺えず、そわそわして落ち着きがない。心配でしょうがないのだろう。
澪ちゃんが一人で出歩くことはあまりないそうだが、そのときはいつもばれないように後をつけていると云った。それを聞いた僕は、すぐにおかしなことをしなかったか、変なことを云わなかったか振り返った。心配なのはよくわかるが、行き過ぎのようにも思う。
「いや大丈夫ですよ。僕も楽しんでます」
やはり、心からそう云うことは、どこかでできていなかったかもしれない。それでもおっちゃんは、おそらくそれをわかった上で話をつづけた。
「今、躁やから、しばらくの間付き合ったってほしいんですわ。鬱になったら引きこもりますんで」
おっちゃんはそう云って澪ちゃんについて話を始めた。やはり彼女は、二年前より躁鬱になり、身体が痛いとか熱いとか、暴れることもあるらしい。高校は何とか卒業できたものの、進学できず、仕事にも就けず、一時は水商売のようなこともしていたらしい。おっちゃんはそんな澪ちゃんの苦しむ姿をずっと見てきたという。
「なんも若い女の子らしいことさせてやれんで……」
その言葉は、確かに悲痛なものだった。
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