空振り
江戸川には既に十数万ほどの大金を貢いでいる。美郷との結婚資金として溜めていた貯金額の実に三分の一を融かしてしまった。
もういいや、どうせフラれたし。急降下した貯金額を見ながら、僕は失意というより一種の陶酔を感じていた。――まるで彼女に巨額の投資をしているみたいだった。
さらに貯金額を削ってコンビニのATMから退く。ついでに炭酸のきついジンジャエールを買った。生姜もきつく、飲むと喉がひび割れるようだった。
それでも醒めない僕は、京橋の町に半ば夢遊病のような足取りで繰り出す。彼女がよく演奏をしているバーが江戸川からの情報で特定された。結局来ていない彼女からの連絡。僕は、自分が干渉されていないということは棚に上げて歩みを進める。
よく聞く、恋は盲目とは、こういうことかと自嘲。ひっそりと上がるひねくれた口角。通りがかる人からすれば、不審なことこの上ない。
何度か刺さる視線を感じながら、駅の人混みを抜けて商店街へ。
天満ほどの規模はないが、京橋にも商店街がある。探偵からもらった住所のメモを取り出す。手帳に大切に挟んだつもりだったが、くしゃっと皺がよってしまった。手触りのいい上物の和紙の便箋に、育ちの良さを伺わせる丁寧な字だ。
地図アプリに住所を入力すると、商店街からひとつ通りを外れたところを指した。
たどり着いたが、バーらしきものは見当たらない。シャッターの閉まりきって恐らくもう開くことはないだろう駄菓子屋の入った三階建ての低いビルがあるだけだ。地図アプリと目の前の光景を何度も繰り返し見る。江戸川から貰った住所は、ここの番地が記されているだけだ。
目を細めて、ビルの周囲を探し回る。すると、右隣のビルとの間の隙間がやけに広く、入っていけそうだと気づく。
カニ歩きで路地を進む。身体が大きかったら入っていけそうにないところだ。十数メートル進んだところで、駄菓子屋の入っているビル側の壁が窪んでいて、地下へと続く階段があった。
錆びついたシャッターが下ろされていたビルにしていては、やけに階段が綺麗だ。掃き掃除が丁寧にされているということが分かる。コンクリート製の階段を一段、また一段と降りていくとともに、階下に佇むドアの隙間から漏れ聞こえる音楽が大きくなっていく。――ジャズだ。サックスの音とピアノの音、うねるドラムとウッドベースの音が聞こえる。が、ギターの音色は聞こえてこない。
空振りか、と肩を落としながらも中に入る。環状線で最寄りの駅からほぼ反対側まで来てしまった。なんの情報も得られないまま帰るわけには行かない。
金色に輝くノブを回し、ずっしりと重いドアを開ける。ぼんやりとした店内の照明。さかさまにぶら下がったワイングラスたちに跳ね返って、おしゃれで落ち着いた雰囲気を演出している。
「いらっしゃいませ」
立派な髭を蓄えたバーテンダーが、グラスを拭いている。
「何にしますか。本日はいいワインが出ていますよ」
そうは言われても、僕はワインの銘柄はよく分からない。差し出されたメニューをしばらく眺め、レッドアイを注文した。
カウンターに置かれたグラスから、トマトの青い香りがする。ほっそりとしたグラス一杯で、八百円。貧乏性の僕は、ちびりちびりと啜るように飲む。
「ここのバーに、木戸加奈江さんという方が、演奏のバイトでよく来ていたと思うのですが」
「ああ、彼女でしたら、ここのところ一箇月ほど来ていないですねえ」
一箇月前、ちょうど彼女が僕の前から姿を消した頃だ。やはりあれから、行動範囲を変えているようだ。
「どうして、彼女のことを?」
「天王寺で演奏していたのを聞いていて、ここでも演奏していると聞いて」
「天王寺で演奏しているときは、カナリアと名乗っていたはずです。ちなみに、ここでも私以外には名乗っていませんよ」
バーテンダーは流暢な語り口で、僕の言葉尻を掴んでいく。ベテラン刑事の尋問のような凄みに少々まごつく。
「意地の悪い尋問をしましたね。彼女はプライベートを明かさない人でしたから。本名を知っているということは、よっぽどの関係なのだと思いましてね」
ここで自分を偽ろうかとも思ったが、半ば老獪染みた雰囲気を放つこの男の前でそれは憚られるか。
「私も彼女のことはよく知らないんですよ。あなたの方がよく知っているんじゃないですか。――あなた、ここに彼女を探しに来たのでしょう。演奏を聞きに来たわけでなく、もっと込み入った理由で」
どんぴしゃの名推理。こちらに一切、目を向けていないのにも拘らず、蛇睨みを利かされたかのように固まってしまう。
「詳しい関係性まで深堀りはしませんが、彼女が素性を知られることに抵抗を感じているのは間違いないです。それは、アーティストとしてミステリアスさを保ちたいなんて、そんなものじゃない。それはあなたも分かってここに来ているんでしょう。だったら、彼女のその気持ちを蔑ろにしてまで、あなたが知る理由は何なんですか」
ちょっと前までなら、その質問に対して、彼女のことを守りたいから、と自信をもって答えることができたのに。彼を前にすると、揺らいでしまう。
「いえ、失礼しました。私が介入するようなことではありませんね。さっきの質問に対する答えは、胸の中にしまっておいてください」
それっきり、バーテンダーとは会話をしなくなった。ここに来たからには、情報を持って帰るつもりでいたが、彼が投げた牽制球のせいで、僕は出方を伺うばかりで攻めることが出来なくなってしまった。
やがて、空になったレッドアイのグラス。
僕は、会計と同時に試合を投げた。
商店街に戻ったところで、着信が入る。江戸川から渡された端末に入ったものだから、少々戸惑った。所謂ガラケーに近い操作感の簡易端末で、電話に出るのもまごついてしまう。
「なにか、情報はつかめましたか」
電話の向こう側の声は、含み笑いをしているようだった。もっとも、江戸川は常にそういう話し方をする人だが。
「いいえ、むしろ、鎌をかけられたくらいです」
そう答えると、江戸川ははっきりと笑った。
「あそこのバーテンダーは、海千山千の食えない人ですからねえ。正直、私でも敵わないような人ですよ」
へらへらと笑う江戸川。神経を逆なでされたような気分だ。
「江戸川さん、僕が何も得られず帰ってしまうということを見越して、向かわせたんですか」
江戸川は僕を試そうとしている。そう思えて、ならなかった。
「それは、邪推というものですよ」
きっぱりと否定する江戸川。まあ、別に。こっちもそれを問い詰めたいわけではない。引き続き彼女の捜索を続けるか、と聞いて来た江戸川に、「もちろんです」と応えた。
「そうですか。じゃあ、今回はほぼ確実だと思うんですけどね。……三日後に、彼女が中絶をした日が来るんです。彼女の子供の命日です」
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