お金のためだからですよ

 ボックス席に入るなり、彼は真っ黒な煙草に火を点けた。

 

「ああ、何も言わず、すみません」


 他人の煙草に付き合うのは慣れている。そう返すと、吸い口をくわえて、悦に浸った。興味で銘柄を訊いてみた。ブラックデビルというらしい。見たまんまの名前だ。


「急な依頼で、事務所に戻ることが億劫なこともありますから、こういう場所は根回しをしてあるんです」


 間接照明で照らされたボックス席のある喫茶店、カップルがよく利用するようなお洒落な雰囲気の店内に、男二人で入るのは妙だったのではないかと思ったが、彼の話では「不特定多数の他人に聞かれてはまずい話」で利用されることも多々あるという。


「カモミールティーでいいですか? ここは、なかなかにいいものを出すんですよ」


 言われるがままに、はいと言った。正直、紅茶に拘ったことがないので、よく分かっていない。


「おっと、そういえばご紹介を忘れるところでした」


 彼は懐から、名刺を取り出した。そこには、江戸川えどがわ 京太郎きょうたろうと取ってくっつけたような名前があった。


「もちろん偽名ですよ。本名がバレるとやりにくいですし、いちいち本名かどうかわからない名前にするのもあれですからね」

「なるほど――江戸川さんと、呼べばいいですか?」


 煙を吐きながら、彼はにっこりと笑った。マンションで鉢合わせたときは、動揺していたが、落ち着けばそれなりの気迫が出るものだな。


「さあ、木戸さんについては、何から話したらいいものか。――あなたもある程度のことは知っているのでしょう? 彼女がある新興宗教団体と関係があることも」

「天命院のことですね」

 

 彼は、こくりと頷いた。


「天命院は、今や政界と芸能界に強力なパイプを持っています。この二つを押さえた意味が分かりますか?」

「政界は、後ろ盾が得られるからですか」

「ええ。それも政治家というよりも、まずは弁護士などの法律家を入信させます。裁判で勝つため、あるいは法の隙間を探すために。法律事務所は、余っている状態でもありますから、資格を取っても生活が困難で“自信のない”人というのがいます。悪質な宗教団体とは、端的に言えば、この“自信のない”という精神構造を悪用して、都合のいいように動かそうとする組織です」


 そう語る彼の言葉には、独特の重みがあった。――やがて、それは僕の中の何かと共鳴するように感じられた。


「木戸さんは、芸能人か法律家かというと、もちろん芸能人です。芸能人も実に都合がいいです。顔が良くて、その人の言葉に力がある。木戸さんは、メジャーデビューもしていなかったですから、“自信がない”状態にあったのは、確かでしょう。メジャーデビューは、彼女の目標でもあったでしょうしね」


「……天命院の入信される方々へのメッセージでは、とある大手レーベルから声がかかった、と」

「それは、天命院の息のかかったところだったからですよ」


 そう言い切られて僕は、むっとなった。ちょうどそのとき、ボックス席のドアがノックされて、店員がカモミールティーを二杯持ってきた。狭いボックス席に清涼感のある香りが広がる。


「ありがとうございます」

「お砂糖とミルクです。まずはそのままで香りを愉しんでから、ミルクを入れると良いですよ」

「ええ、いつもそうしてますよ。気分が冴えて非常にいいのです」


 細く整った指で、キャンディの様に包まれた角砂糖と、ミルクピッチャーを受け取る。店員は、丁寧な受け答えに静かに笑って会釈をし、礼を言った。あまりにもお洒落なやり取りで、自分が場違いに思えてくる。

 店員が去ると、カモミールティーを一口。僕も合わせて一口飲んでみた。――なるほど、清涼感があって、頭がすっきりする。なんとなく、飲むといい仕事ができそうだ、と思えてくる。


「いいお茶でしょう。――さて、続きを。彼女がその時点では、天命院に利用されなければメジャーデビューの話もなかったでしょうが、それは決して、彼女が実力不足だとかいう話ではないです。そこは気を悪くしないでください。単に、人間が芸術を一義的に測る物差しを持ち合わせていないだけです。興味を持って聞いてみましたけれど、私も好きですよ、彼女の歌」

「いえ、すみません。少し感情が顔に出てしまっただけです」


「謝る必要はないです。彼女を見たとき、清楚で世間ずれしていないような印象を受けたのです。男の人ってそういう女の人が好きですよね」

「何が言いたいんですか」


 語気を強めると、後ずさりをして「おっと」と漏らした。


「今のは、わざと語弊がある言い方をしました。なぜなら、“彼女が清い”という印象こそが、天命院が求めたものだからです。でもそれから何年かして、彼女に不都合が起きました。――なんだか分かりますか?」


 その質問の答えが、頭の中に浮かんで、背中を虫が這った。


「……妊娠ですか?」

「ええ、彼女には婚約者がいましたから、そして彼女は、汚されたんですよ」

「汚されたって……」

「彼女と婚約者の関係は良好でした。彼女の妊娠も、彼女にとっては予測していなかったけれど、受け入れられないことではなかったんです。彼彼女が避妊を十分にしていなかったことについては、それぞれに落ち度があったと言わざるを得ません。ただ、ここでは、彼彼女とも妊娠に対して肯定的でした。――じゃあ、汚されたと感じたのは誰だと思います? 彼女の清い印象を利用していた、天命院ですよ」


 背中を這う虫が、その数を増していくのを感じた。――彼女が、清いという印象を利用して、宗教の広告に利用し、その彼女に子供が出来たら、“不都合だ”と下ろさせる。そんな団体が、救いを施すだと!? 


「天命院の特色が何か、覚えていますか」

「……、“備え”の教えでしたか……。自らの運命を選択する自由度の大きさだとか」

「そうです。天命院は、宗教であるとともに、占術の側面も持っていました。それを使って、彼女から子供を殺す罪悪感に踏みとどまるという思慮を奪ったんです」


 そんなことが可能なのか、妊娠した女性なら、必ず産もうってそう思うはず。


「……あなた、女性は妊娠したなら、必ず産むだろうとか、考えていないですよね? 産む前の子を殺すことが、不道徳とか考えていないですよね?」


 正直、それを“否定”しようとする彼の意図が分からなかった。けれど――


「妊娠、出産は母体にとっても大きなダメージを残すことがあります。子供が大きくなった状態で死産すれば、母体には大きなダメージが残ります。それを踏まえた上で、“必ず死産する”なんて言われたら……、あなたはそれでも、女は妊娠した子は絶対に産まなければいけないだとか、女なら妊娠した子は絶対に産みたいはずだ、とか言えますか?」


 彼の言葉のひとつひとつが鈍器かなにかで、それで以って頭をぶっ叩かれているような感覚だった。言葉が出て来ない。語彙を奪われた僕は、水面近くで喘ぐ魚の様に、口をぱくぱくさせることしか出来なかった。


「詳しいことは想像の域を出ませんが、説得力はあったはずです。婚約が解消になったのは、中絶から間もなく。配偶者の意思確認が取れる場合は、中絶には同意を得ることが原則必要ですが、天命院を妄信する彼女に押し切られ、そこから婚約解消となったと考えられます」


 彼は、二本目の煙草に火を点けた。


「そうして婚約者は、手に負えなくなった彼女を捨てたんです。婚約者といえど、他人ですからね、他人のために人生を棒に振るというのは酔狂です。女は妊娠した子なら産むべきだとか、愛する人のためなら人生を捧げろとか、そういうのは、美談を楽しみたい外野が作り上げた中途半端で勝手な正義です」


 彼が吐く煙には、失意が混じっていて、最初は、そこにどこかシンパシーを感じていたけれど、今は違うと思うようになった。それが、彼女を貶めた者への憎しみと思っていたのに。


「彼女が命を狙われているとかそう言っているのは、独りぼっちになってしまった彼女が、自分の愚かさに気づいて醒めてしまったのを気取られていると感じているからでしょう。それこそ、もみ消す算段が整えば、平気で殺すつもりかもしれない」

「……僕は、許せません」


 彼の言い分は、誰が悪いのかを分かっているようだったけれど、どこか突き放しているようにも感じ取れて、僕はそれが我慢ならなかった。


「江戸川さんには関係ないと思います、けれど――」

「あなたにも関係がないことです。そこは理解してください。あなた、美郷さんと同じ目をしていますよ」


 テーブルの上で握りしめられた、僕の拳に彼の詰るような視線が注がれた。――美郷と同じ目って、どんな目だ?


「自分が想像する正義が、相手にとっても絶対だと信じて疑わない。そういう目です」


 そう問うた僕に、彼は答えて失意に塗れた煙を吐いた。


「私はこういうお金で動く中立的な立場ですから、善悪の区別が曖昧になるんですが。そういう中途半端で履き違えた正義は、たやすく思慮を奪い、善意で人を殺します。悪なんかよりもよっぽど恐ろしい。あなたが、彼女にとってのそれにならないことを祈っています」


 彼は眼力を込めて僕の瞳の奥を睨みつける。けれど、怯んだりしない。僕の、何がいけないと言うんだ?

 その瞬間から、彼女を愛することは、彼女を知ることから、彼女を苦しめた存在に報復することになった。裁判を起こそう。そして、彼女を苦しめた存在に裁きを下してもらうんだ。


「美郷さんからの依頼で手に入れた情報はここまでです。これ以上なら、別に報酬を貰うことになりますが――」

「報酬は払います。木戸さんの消息を掴む協力をしてください。僕は、彼女を救いたいんです」


 強い決意を示したつもりだったけれど、彼はため息をつくばかりだった。


「分かりました。私は、お金のためだから行動するんですからね。それは覚えておいてください」

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