契約

 アセチレンが燃えて、ばちばちと火花。保護具越しでも、瞳の奥を刺すような眩しさだ。

 本来なら数日前に終わっているはずの作業を、遅れて今やっている。自分が受け持つ配管、バルブの工程で装置の仕様が大幅に変更になったことも分かっている。それでも作業が遅れているのは、――彼女のことしか、考えられなくなっているからだ。


 生野の住宅街で置いてけぼりにされて、天王寺のいつもの場所でも彼女を見なくなって、三週間が過ぎた。彼女の行方は、未だ知れない。


 溶接作業途中、火花の止んだ隙を縫って、社内電話の音が鳴った。


「三島ーっ、今ちょっとええか?」


 保護具を外して電話に出ると、笠原の声。作業を切り上げ、オフィスに戻ると、スーツ姿の笠原がいた。今日は、化学メーカーとの商談で、朝から外勤だった。


「悪いな、作業中呼び出してもうて。今日は定時で上がりとうてなあ」


 午後四時半を過ぎた頃、僕と話した後に、外勤報告だけ済ませて帰るつもりらしい。その後は、恋人との予定があることを、小指を立てて仄めかしてきた。


「笠原、話は?」


 あからさまに声のトーンを下げて、話を進めてやる。笠原が、「腐るなや」と笑った。笠原には、木戸さんに置いてけぼりを喰らわされたことは言っていない。僕は、彼女との関係を偽り続けている。


「塗料メーカーとの商談をつけて来たんや」

「この時期に新規材料に手を出すのか」

「配管・バルブの部分は量産化の工程があるけど、心臓部はオーダーメイドやからな。スケジュールも割かし調整が効く。医療機械、研究機械の事業部とコネがあったところやったから、うちらとの取引もとんとん拍子に進んだわ」


 “うちら”というのは、食品機械事業部のことである。


「その塗料は、配管・バルブでも使うのか」

「装置が運転している間は、配管には液体が流れ続けるから、蛋白質凝固物も沈着しにくい。それにそっちは、うちの会社のほとんどの事業部と内部取引があるやろ。そこで製造工程複雑にすんのもな。アフターサービスで配管交換したりすんのも、そっちの商売やからな」


 同じ事業所で働いているが、技術営業をしている笠原は、外回りの仕事も多い。そして、交友関係も広い。恋人とは、結婚間近。――たまに思う。笠原と僕は、日向と日陰みたいに真反対だな、と。


「……三島、大丈夫なんか?」

「何がだ?」


 笠原の顔つきが変わった。最近は、仕事ぶりも落ちているし、仕事の話をしても乗ってくれなくなった、と。


「仕事の話、か……」

「新しい彼女のことで、悩んどるんか?」


 当たりだが、その全てを話すことなんてできやしない。生憎、僕の人生は、間が悪いみたいで、笠原の様に順風満帆とは行かない。それでも、彼女を守りたいと思ったのは、笠原、お前がいたからだ。


「大丈夫、前よりはましだよ」


 以前は、本当にどうしたらいいか分からなくて、仕事が手につかなかった。今は、それが、彼女のことで忙しくなっている、という理屈だ。


 今日も定時で仕事を切り上げた。

 途中途中、時間を調整しながら、午後七時きっかりに自宅マンションに着くようにする。ここのところ二週間近く、この行動パターンを続けている。初夏とも言える季節になって、まだ外が明るい。これは好都合だ。

 いつもより一個余計に通りを渡って、向かいのマンションに入る。幸い、夕食を食べに外に出る家族連れに、エントランスに入れてもらえた。

 そして、八階の廊下。自宅マンションの同じ階が見える場所にそいつはいた。僕の顔を見るなり、後ずさりをしたが、すぐに追い詰められた。


 クリーム色のポロシャツは、遠くからだとマンションの壁に同化して目立たない。探偵という肩書にしては、あっけない見つかり様だけれど、「尾行されている」という意識があれば、こんなものか。


「あなた、織川美郷さんと取引がありましたよね」


 しらばっくれるかと思ったが、相手は白状した。不意を突かれて動揺した時点で、負けだと思ったのか。


「取引の件なら心配しないでください。探偵を手配していたとリークしたのは、美郷本人ですから。近々、契約も美郷が切ると思います」


 探偵は、小さくため息をついた。今日は厄日だ、とでも心の中で呟いたのだろう。


「美郷からは、浮気調査とでも言われていたんでしょう。僕の尾行の他、木戸加奈江さんについても、諸々調べていますね。話してもらえませんか」

「そんな情報を易々と話すわけないでしょう」


 当然の返答だ。けれど、それを覆すものを僕は持っている。


「じゃあ、取引だと言えば、どうしますか? 美郷が払った分を上乗せしてもいいですよ。もっとも、美郷なら契約を切るときも、きっかり払うでしょうけど」


 悔しいが、美郷は工場勤めの僕よりも、給料はずっと上だ。僕が数年かけて貯めた金額も、美郷なら半年かそこらで貯めてしまうかも知れない。そんな思考を頭の中で必死に振り払いながら、札束の入った封筒を彼の前に突き出した。


「……そうですか。報酬を払ってもらえるなら、構いませんが――知ったところで、得することもないですし、木戸さん本人も、知られることを望んではいないですよ」


 そんなこと、それこそ彼女の口から何度も聞いた。今更何の関係もない赤の他人から聞いたところで、躊躇なんてしない。

 そう伝えると、彼は大げさに肩を動かして、ため息をひとつついた。


「わかりました。どこか、ゆっくり話せるところに行きましょう」

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