彼女の罪
目が覚めると画面には、支離滅裂な長文が打ち込まれていた。キーボードに突っ伏して寝てしまっていたらしい。寝落ちというやつだ。SNSの画面を開いていなくて良かった。
長文を破棄して時計を確認。ヤバい。もう朝食を食べている余裕がないな。いつもよりも数倍おざなりな身支度を済ませて家を出る。こういうとき、工場勤めで良かったとも思える。
電車に揺られながら、スマートフォンをモバイルバッテリーで充電。あれから何度かかけた彼女の連絡先、折り返しの電話は一件もない。
ため息が、雨に濡れた窓を曇らせた。
朝礼の内容、社内メールで回ってきた連絡事項、先週の会議で大幅変更になった製図。どれもこれも頭に入らない。なんだか、ここのところ仕事に集中できていない日が続いている。
ぽん、と肩に手が置かれた。笠原が、煙草に付き合えと。僕は煙草は吸わないのだが、そんなことはお構いなしだ。
排気システムが完備されているとはいえ、喫煙休憩室の空気はくすんでいて煙い。笠原は、セブンスターに百円ライターで火を点けるなり、話を切り出した。
「最近どうしたんや。いまいち仕事に身入ってへんみたいやないか」
どうしたもこうしたもない。ここのところ一週間の出来事は、情報量が多すぎる。
「俺で良かったら、相談乗ったるがな」
そうは言われても、何から話そうか。流石に彼女から受けた衝撃の告白は、言えるわけがない。
「美郷にふられたよ」
吐き捨てると、なんやそういうことか、と口を緩めた。お次は、今晩飲みに行こうやとでも持ちかけてくるだろう。その前に話を進める。
「今は別の人と一緒にいる」
「お前にしては切り替えが早いやん」
まあ、その別の人――彼女がやっかいなわけだが。
「なあ、笠原……」
「なんや」
「好きな人がさ、やっかいなことに巻き込まれていたりさ。なんというかもう、色々ありすぎて……、何がなんだか」
彼女のことを考えると、目眩がする。非日常へと続く扉を開けてしまうような感覚。僕には、荷が重すぎる。
「その、どうしたら良いか、分からないんだ」
弱音を吐いた僕に、笠原の吐いた煙がかかった。
「良いか悪いかなんて、最初から分かるわけないやろ。お前はどうしたいねん。それとも、お前は自分がどうしたいかよりも、どうなるのかの方が大事なんか。あんな、どんな美談でも、最初からそうなることが決まっているわけやないし、物語にもならんような泥臭い失敗ばっかや。都合のええ物語っつうのはな、全て結果が出た後に、見映みばのええとこだけ繋ぎ合わせてできんねん。せやから外聞も度外視して、徹底的に行動せい」
その言葉が僕の心を決めた。僕は彼女のことを守りたい。そのために彼女のことは、どんなことでも知りたいし、調べられるものは調べたい。
その日も僕は仕事を定時で切り上げた。上司は、大事な装置製作の納期が迫っているんだけどな、と釘を刺された。近頃の仕事ぶりが芳しくない僕に探りを入れているみたいだった。
僕は昨日拾ったパンフレットを片手に、天王寺に降り立った。場所は四天王寺の近辺。道中、いつもの彼女のライブ会場を通ったけれど、誰もいなかった。そろそろ準備が始まっても良い時間なのに。
でも彼女と会わなかったのは、好都合だったのかもしれない。彼女の身辺を捜索している最中に目が合うのは、どうしようもなく気まずい。
たどり着いた寺はこじんまりとしていた。
すぐ隣の四天王寺は、観光客もよくいるところだが、こちらは専ら墓参りや先祖供養のためのものという印象だ。
建物の規模は小さく、付属する墓地の方が大きい。
まわりにぽつぽつといる人たちは皆、供養する人も決まっているのだろう。玉砂利を靴で鳴らしながらさ迷う僕の存在は、浮いていた。
「どうされましたか?」
香の匂いが袈裟から――ぷん、とした。
振り替えると、にこやかな顔の坊主がいた。この寺の住職だそうだ。
「ここは、四天王寺と違いまして、観光の方もあまり来けえへんのです。もともと四天王寺は、そういうお参り目的の方がぎょうさんおったから、しめやかにお参りしたい人もおるということで、建ったんです。何か込み入ったご用でもありますか」
丁寧で落ち着いた話し方は、心を傷めた人に寄り添う仕事ぶりを窺わせる。
「あの、木戸加奈江さんという方を知っていますか」
僕は単刀直入に訊いた。確信があった。彼女がもし、本当に人を殺していた、ないしは、間接的にきっかけを作ってしまったのだとしたら、ここにその人の供養をしに通っているはずだと。個人の願望としては、後者であることを願うばかりだ。
「ああ。ここに、定期的に通うてらっしゃいますよ。親戚の方なんですか」
「彼女の恋人です。彼女のことを知りたくて、あの……込み入った事情に巻き込まれていることは知ってるんです。だから、その……、真剣に考えています」
僕は自分の身分を偽った。
「知りたいんです。どうして、彼女がここに通っているのか」
住職は、口を歪め、ため息を吐いてから間を置いて答えた。
「木戸さんはここに水子の供養で来ています」
「え、みずこ――」
水子が、生まれてくる前の子供を指すということに気づくのに、少し時間がかかった。理解した瞬間、心の中で彼女の罪状が晴れた。僕は、安堵に口を緩めた。
「ああ、そういうことです……か……」
その言葉の裏の心理を、勘の良い住職は洞察してきた。
「彼女から何か聞いたのでしょうが、彼女の罪の意識は晴れませんよ」
「いや、彼女は誰かを殺したわけじゃ」
「いや、殺しています。経済的な問題か、身体的な問題があって、配偶者との合意があった上での人工妊娠中絶は許されとりますけれど、彼女が命を殺めたことには、変わりません。私は彼女を罪で責めたいわけやないんです。罪に苦しむ彼女を助けてあげたいんです。そのことをよく考えてください。それを否定することは、彼女を否定することです」
僕は、そこで再び、自分の浅はかさを思い知った。
僕は、彼女を守りたいがために、彼女を知ろうとしたけれど、結局は、自分を守るためでしかなかったのだ。
「……なんで中絶をしたんですか」
「そこは聞いていません。私は審判をする閻魔様ではないんです。私は悩み苦しむ彼女に寄り添いたいだけなんです」
同じことを占い師か何かが言っていたら、胡散臭く聞こえたのだろうけれど、住職の言葉には、そう思わせない凄みがあった。
「あの……、彼女がお参りをしているお墓に、案内していただけませんか」
「お墓ではなく、地蔵尊で永代供養をしております」
中絶をした日を命日として、毎月その日付に念仏を唱えて供養をしているらしい。
彼女が殺した人は、まだ産まれる前の赤ん坊だった。――誰との間の子供だ? 彼女の恋人という虚偽の立場を僕が口にしても、住職は何も言わなかった。ということは彼女の配偶者は、もう関係を解消しているということなのか。
住職の隣で、地蔵に手を合わせながら、僕はそんな薄汚れた想いを胸に巡らせていた。
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