彼女の真実

 待ってくれ、本当なのか。嘘だと言ってくれ。

 戸惑いと、彼女の言葉を否定したい気持ち。受け止めきれるわけがないだろう。


「木戸さん」

「嘘じゃありませんよ」

「じゃあ、木戸さんは警察に――」

「いいえ、私の罪は法では裁けない」


 完全犯罪を成功させたとでも? いいや、それよりも彼女が人を殺しただなんて。信じられるわけがない。

 呆然と立ち尽くす僕に、彼女は背中を向けて家々の影へと消えていった。――彼女に触れようと伸ばした僕の掌は、無様に空気を掴んだ。


     ***


 車に独りで戻る。助手席に彼女の姿は無く、後部座席には彼女が置いていった荷物が溢れている。そのすべてがのしかかってきたように肩が重い。

 彼女に置き去りにされたこともそうだけれど、やっぱり、あの言葉が信じられない。


『私は、人を殺しました』


 嘘だよな? 助手席に声を投げる。当然返って来るわけもない。頭の中が疑問符で埋め尽くされる。

 音楽で気を紛らわそう。カーステレオに手を伸ばしたそのとき、助手席の足元にお寺のパンフレットが落ちていた。彼女の忘れ物だろうか。

 神社仏閣を回るのが好きだとか、そんな話は聞いたことがなかった。どこかに旅行に行ったときにもらって来たのか、そう思って裏返す。天王寺駅から、ほど近いと地図に載っていた。随分と近場じゃないか。


 取り立てて気にするようなことでも、ないのだろうけれど、妙に引っかかった。

 僕は、何故だかそれを、自分の鞄の中につっこんだ。


 それからの道中は、記憶がない。彼女がいなくなった瞬間に、水彩画は水たまりに捨てられて、ゆっくりと色を失っていった。


 たどり着いた自宅の玄関、靴を脱ぐなり、膝を折ってしまった。

 なんとか自分を立たせていた緊張の糸が、ぷつりと切れてしまったらしい。まだ車の中に彼女の荷物が大量に残っているが、降ろす気にもなれない。いいや、降ろす必要なんてないのか。

 立ち直って、リビングのソファーのところで、もう一度倒れこんだ。うつぶせに寝たソファーから、いつもとは少しだけ違う香りがした。彼女の残り香か。寝返りを打って目に映った部屋は、水の中で目を開けたように滲んでいた。曖昧な輪郭で彼女のギターが見える。

 悪いとは思いつつも、手を伸ばしてしまった。


 コードを覚えているかな、とおぼろげな記憶をたどりながら指を置いてみる。ふと、違和感が。微妙にネックが太くて、指が届きにくいときがあるのだ。彼女の小さな手なら、もっときついはず。そこでクラシックギターは、コードではなく単音で弾くのだったと思い出す。

 感覚の違いに少し戸惑いながら、オーラリを弾いた。小学校の音楽の授業で、音階を何回も歌わされたから、覚えてしまっているというのが選曲理由だ。

 透明感があって柔らかい音が響く。探り探りの演奏では、彼女に遠く及ばないけれど、音色の中に愛しさを感じた。


 陶酔すること十分ばかり。夢から現に引き戻された瞬間、孤独が襲った。

 肩の力が抜けて、ソファーに身体が埋まる。


 彼女は人を殺した。でも警察には追われていない。彼女の罪は、法では裁けない。協会からの嫌がらせ、怪しい男の尾行。命を狙われているかもしれない。

 彼女に関する不思議を頭の中に並べてみた。彼女は本当に人を殺したのか。そして、協会とは、何のことなのか。頭の中で謎がぐるぐると回り始める。


 考えても埒が開かない。


 ラップトップを開いたのは、ほんの気まぐれだった。――僕は、彼女に関することなら何でも知りたかった。彼女を知ることが、僕にとっての、彼女を守ることで、彼女を愛することだった。


 木戸加奈江。教えてもらった本当の名前を、検索欄に入れる。

 マウスをクリック。ずらりと並んだ検索結果の最初は、彼女のブログでも、動画でもなかった。


“天命院 会員名簿”


 僕は、自分の目を疑った。天命院――最近、メディアによく出演し、冠番組も持っている宗教組織だ。

 彼女は、一般会員。氏名の公表を承諾し、勧誘活動を行っている会員ということらしい。何やら、これから入信される方へのメッセージも見ることができるらしい。


 画面からだらだらと垂れ流しにされる、知りたくなかった情報たちに言葉を失いながらも、僕は詮索の手を止めることができなかった。



 彼女がしたためたであろう文章が、そこにあった。



 天命院の教えは、これからの運命を予測する、“備え”の教えと、その運命を受け入れる“学び”の教えに大きく分かれます。運命の中には、受け入れるべき“試練”と、避けるべき“災厄”があります。このように、自らの運命を選択していく、主体性の大きさと自由度の高さが、天命院最大の特色と言えます。

 これまでの宗教では、運命をあるがまま受け入れるというところが重視されてきました。ですが、それでは、生き辛さを和らげることが難しい、と教祖 大山 隆則 様はお考えになったのです。

 入信当時、私は、シンガーソングライターとして実力不足で、夢ばかり見ていたことで親元から勘当されて孤独と将来への不安に押しつぶされそうになっていました。そんな折、信者の方と出会い、カウンセリングを受けたのです。

 一人一人の悩みに寄り添い、根本的な解決に努めようとしてくれる信者の方々の優しさに触れ、全ての信者の方々を救いへと導く教典を綴られた教祖 大山 隆則 様に惚れ込み、入信を決意しました。

 大きな転機があったのは、入信をしてから数週間後、とある大手レーベルからオファーがあったことです。それまで、うだつの上がらない日々を送っていた私にとってこれは、千載一遇のチャンスでした。このような大きなチャンスを掴むことができたのも、天命院の教えあってのものです。

 皆様の成功と救いのお手伝いをさせていただきたい。そう願う天命院では、皆様のご入信並びに、御寄附をお待ちしております。

 御寄附は寄付口座はもちろん、教典の文言の一部を書き記した、護符の購入という形でも受け付けております。私見ではございますが、やはり護符の購入の方が、教えをより多くの方へと広めるという意味でも、素晴らしいと思います。護符の購入は、1枚3000円の他、5枚綴り1万4000円、10枚綴り2万7000円となっております。



 文章を読み進めるごとに、得体の知れない震えが襲った。彼女が、宗教団体に入れ込んでいた。とそこで、彼女の言葉が脳裏を掠める。


『占い信じる女って、馬鹿みたいですよね?』


 占いと宗教は、別物だ。けれど天命院は、運命を予測し、選択するという部分を強調している。さらにサイトを調べると、教えの起源を簡単に解説したものが出て来た。大乗仏教を軸に、風水や六星占術などの占いの要素も組み込み、運命の選択の仕方、受け入れ方を説いたものと。

 彼女が天命院の信者であったことは、確実な情報のよう。――でも、その文章には、引っかかる箇所があった。


 僕は、彼女のことは、それなりに知っているつもりだった。もちろん、宗教団体に入信していたことは知らないし、命を狙われているだとか、人を殺しただとか、彼女のパーソナリティに関しては、知らないことの方が多い。でも、アーティストとしては、よく知っているつもりだ。

 彼女は、僕が知る限り、インディーズのアーティストだ。路上ライブとたまの、ライブハウスでの公演、それからバーでの演奏。たまのたまにラジオ出演。それくらいだ。だから、“彼女が、大手レーベルからオファーがあったということ”は、聞いたことがない。

 それって、いつの話だ? 先ほどの、彼女の書いた、ご入信される方々へのメッセージの更新日付を確認する。そこには、四年前の日付が書かれていた。初めて彼女の路上ライブを聴いたのが二年前。――まだ僕が知る前の、彼女だ。

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