彼女の告白

 カーナビの道案内は、もはや邪魔だ。


「あの――危ない運転はしないでくださいね」


 案内停止をタッチする僕に、心配そうな彼女の声がかかる。


「ハリウッドみたいな運転は“しない”よ」


 正確に言うと、“できない”なんだけれども。僕は、スタントドライバーでも何でもない。

 大阪教育大学のキャンパス近くを通り、寺田町駅の高架下を抜ける。家とは逆方向だが、帰宅ルートに忠実に従っていたら、奴に家の場所を教えているようなものだ。


「どうするんですか?」

「生野西の住宅地に誘い込む。あそこは住宅が密集しているから、距離を離せば振り切れる」


 制限速度は四十キロと道路標識が謳っている。ここから先に進めば、信号はなくなり、徐行が推奨される。

 

「ちょっと、速くないですか」


 車窓を流れる景色のスピードに彼女が動揺を覚える。いよいよ住宅地に入り、道幅も狭くなって来た。一車線で、対向車とすれ違いができないほどの狭さ。スピードメーターは、時速三十キロ近くを指している。


「三ブロックか、四ブロック以上引き離したうえで、行方をくらませられないと、きつい。こっちの家がバレてしまう」


 正直、怖い。初夏の陽気の休日、歩行者や自転車でもいたら――と、そのときだった。こちらに向かって、前傾姿勢でマウンテンバイクを漕いでいる男性が。


「三島さんっ!」


 向こうも、そこそこの速度を出していた。ブレーキを踏んだが、まず、間に合わないっ!

 車は道路のど真ん中で急ブレーキ。身を屈めて、ハンドルを抱きかかえていたところから、顔を上げる。男性は、自転車を投げ出して、地面に転がっていた。

 男性は、サイクリングスポーツが趣味のようで、サポーターとヘルメットを着用していたため、無傷だった。


「大丈夫ですか」


 車を降りて男性のもとに駆け寄ると、怒号が飛んできた。


「なんちゅう運転しとんのじゃっ、こらっ」


 当然だ。道幅の狭い住宅地で、無理な運転をしたことを恥じた。男性も、自転車も無傷だったため、この事故は見逃してもらえた。ただ、無茶な運転はするな、と念を押された。

 ああ――僕は、浅はかだな。


 停車した車の後方を見やる。ねずみ色のバンは、追いかけて来ていないようだった。住宅地を走っている間に、どうにか引き離せたのか。それとも、もとから向こうも、深追いをするつもりはなかったのか。

 肩を落として、車に戻ろうとしたそのとき、彼女が助手席から降りて来た。


「木戸さん――」

「私、やっぱり、三島さんのお世話にはなれません。迷惑なだけです……」


 やっぱり、そうなるか……。


「無茶をしたことは謝る。でも、僕は――」

「人を轢いてしまうところだったんですよっ!」


 彼女の声が、住宅地の狭い空を割るように響いた。声色から堪えている涙を読み取って、はっとなった。


「怖かったんですから。ほんと、怖かったんですからっ。誰かを巻き込むくらいなら、自分を巻き込んでくれって言ったのに。あなたが誰かを巻き込んで、どうするんですかっ」


 彼女の言うとおりだ。最初に僕を頼ってきたのは、そっちじゃないかとか、一瞬でも思ってしまった自分が恥ずかしい。けれど、これで引き下がらないといけないのか。


「だいたい、私はそんな守ってもらうほど大した人間じゃないんです」


 彼女は、トランクを開けて、リュックサックとギターケースを降ろした。それさえあれば、しばらくは大丈夫ですから。また荷物は取りに来ますから、と意地を張る。

 これで、終わってしまうのか。……それは、嫌だ。


 遠ざかる、その背中を呼び止めた。


「待ってくれっ! 木戸さん」

「……、なんですか」


 背中越しに投げられた声は、冷たかった。けれど、僕は縋り付きたかった。


「一人で逃げるなんて、言わないでください。全部、僕に話してください。木戸さんが、困ってるのを、知らないふりなんて、僕にはできないっ」

「なんで、そんなに私のことを――」

「木戸さんのことが、好きだからっ」


 なんて情けないタイミングの告白なんだ、と自分でも思う。僕の視線は地面に落ちた。そして、振り返った彼女の表情を、ちら――ちらと覗く。


 彼女は、一瞬微笑んでから、顔をしかめた。


「ありがとうございます。でもそれは、アーティストとして……ですよね?」

「違うっ! 僕は木戸さんのこと」

「私のことなんて何にもしらないくせしてっ!」


 だから、僕は、彼女のことを知りたい。たとえ、どんな秘密があっても、受け止めるつもりだ。心の中で誓うだけじゃなくて、今度は、はっきりと口に出した。

 すう、と深呼吸をしてから、小さくため息をつく彼女。


 心の準備をしているみたいだった。


「本当に、私のことを、受け止められると言うなら、心して聞いてください」

「は、はい」


 改まった言い方をするものだから、こちらまで畏まってしまう。けれど、数秒後、その唇から紡ぎ出された言葉は、僕の生半可な覚悟を一瞬にして粉々にした。


「私は、人を殺しました」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る