カナリアの巣を訪ねて

 天神橋筋商店街から、ひとつ通りを外れたところにあるバー。カウンター席だけの、こじんまりとした店だが、肩と肩がくっつくくらいに寄り添える。

 彼女は、ロングランドアイスティーをストローで勢いよく吸い上げる。飲みやすいけれど、その度数は四十度近く。僕が飲んでいるカンパリソーダよりもずっと高い。何度か一緒に飲んで分かったけれど、彼女は僕よりも酒に強い。


「木戸さん、明日もオフなの?」

「久しぶりに土日空けてみたんです。特になにも考えていなかったんですけど、今日、オフで良かった、なんて」


 酔うと彼女の、無自覚小悪魔に磨きがかかるらしい。

 照れ笑いを酒でごまかそうとすると、ぐわんと目眩がした。ああ、そろそろヤバいな。後味の苦味で思い止まって、水を注文した。


「大丈夫ですか、三島さん」

「ああ、大丈夫大丈夫。それより、明日は何する? 映画でも行く?」


 意識はまだ、はっきりしているが、財布のひもは緩む一方だ。彼女は、腑抜けた面の僕とは、対照的に苦笑いを浮かべていた。


「どうしたの?」

「いや、その……。明日は、部屋に荷物を取りに行こうかな、って」


 ああ、そっか、とここで僕は、現実へと引き戻された。そうだよな、着替えやら、化粧道具やら、取りに行かないとな。


「じゃあ、僕、手伝うよ」

「い、いや……、三島さんは、お家でゆっくりしていてください。必ず戻りますから」


 そうは言ったって、こっちに引っ越すようなものだ。荷物はきっと多いだろう。


「車も出すし。荷物多いでしょ?」

「私、ライブのとき、大荷物なんです」


 うん、それは知っている。

 彼女は、スマートフォンの電卓機能を使って、計算をし始めた。


「マイクにつなぐ、持ち運びのアンプが五キロあります。それに、エレガット本体が、ギターケース込みで三キロ近く。譜面台とマイク一式、楽譜こみで二キロ強。昨日持っていたリュックサックは、ノートパソコンも含めて三キロ、それでも余裕ですから――」


 加算されていく重量。彼女は、自分が見た目に似合わず、力持ちだってことを数値的に証明したいらしい。


「ざっと二十キロくらいは、持てます。だから大丈夫ですっ」


 いや、だからってそれが辛くないわけではないだろう。


「私、部屋汚いですよ。三島さん、確実に引きますっ」

「気にしないよ。僕も一時期ひどかったし」


 美郷と付き合う前は、ほんとゴミ屋敷だった。美郷との同棲を機に、いつでも誰かが訪ねて来られるくらいにはしている。まあ、そんな経緯は、どうでもいい。僕は、すっかり彼女との生活に浮足立っていた。彼女の力になりたかった。彼女のことなら、何でも受け入れるつもりだった。


「……じゃあ、私が見ないでって言ったものは絶対に見ないでください」


 やがてきまり悪そうに、彼女は僕の手伝いを承諾した。むしろ、迷惑だったかな、なんて思ったけれど、口に出す前に彼女はそれを否定した。


「あ、決して、三島さんのこと迷惑だなんて思ってません。むしろ、嬉しいんですけど……、私、あんまり褒められた人間でもないので」


 彼女は、謙遜なのか、よく自分を卑下する表現を使う。


「そんなこと言うなよ。僕は、木戸さんの力になりたいだけだから」


 ようやく、こちらの真意を汲み取ってくれたのか、彼女は「じゃあ、お願いしちゃいます」と小さく頭を下げた。


     ***


 彼女を助手席に乗せて、四十三号線を走る。交通量が多くて、排ガスで視界が淀んでいる。


「すみません。お世話かけます」


 彼女が申し訳なさそうに、礼をする。

 

「いや、ほんと気にしなくていいよ」


 汚いから確実に引く、なんて彼女は言っていたけれど、彼女の住んでいるところを訪ねるというのは、やっぱり緊張する。家は鶴橋にあるらしい。


「焼肉とか、よく行くの?」

「鶴橋だから焼肉って、単純すぎですよ。焼肉は好きですけど、基本、お金は音楽活動で使っちゃうので、あんまり食事は豪勢にできないんです」


 愛用のクラシックギターも九万円していたと言っていたし。彼女が昨日、楽器店で弾いたフラメンコギターなんて、もとは数十万していたそうだし。楽器に拘れば、お金がいくらあっても足りないだろう。

 四十三号線から、二十六号線に乗り換えて、数十分のドライブを経て、彼女の住むマンションにたどり着いた。生野コリアタウンがほんと、目と鼻の先だ。


 エントランスに入ると、彼女が急にそわそわし出す。


「えっと、本当に見ないでと言ったものは、見ないでくださいね」


 そんなに見て欲しくないものでもあるのか、いかがわしい本を、ベッドの下に隠している男子みたいな物言いだ。苦笑いを浮かべながら、エントランスを見回す。木戸と彼女の名字が書かれた郵便受けが、ぱんぱんになっているのが目に入った。


「こ、これは! 見ないでください!」


 僕の目の前に躍り出て、目を反らすように要請した。そっぽを向いた背後で、がささ、と紙の雪崩が起きた。


「あんまり、郵便受け見ないんですか? ちゃんと見ないと駄目ですよ」

「違うんですっ! 私が、だらしないわけじゃないんです!」


 背後で彼女が、涙声に訴えた。


「郵便受けは、一昨日、確認しました。これは全部、協会からの嫌がらせです」


 協会ってなんだ、そう尋ねるとやはり、彼女の秘密主義が発動する。でも、ここまで来て、言いたくない、巻き込みたくないなんて言う文句で引き下がりたくない。


「教えてください。僕は、木戸さんのことなら何でも――」

「そんな都合のいいこと言わないでくださいっ! 私のことなんて、知らない方が良いんです。知ってしまったら、三島さんだって無事でいられないかもしれない。だから、私と一緒にいたかったら、干渉しないで欲しいところは、守ってください」


 結局、彼女の部屋には上がらせてもらえず、僕は車の中で彼女を待つことになった。

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