歌姫とセッションを
いつもより少し遅い寝覚め。とんとんと、包丁がまな板を叩く音で、目が覚めた。引き戸を開けて、ダイニングスペースに足を踏み入れる。彼女のために敷いた、煎餅布団はきれいに畳まれていた。
「あ、おはようございます。三島さん」
彼女の声に合わせて、炊飯器がご飯の炊き上がりを知らせた。和食の朝食なんて久しぶりだ。
「おはよう……ございます」
ぎこちなく返すと、彼女は言葉尻を捕まえて。
「三島さん、昨日言いましたよね」
そこで昨晩のやり取りを思い出す。おはよう、と言い直すと彼女はにっこりと笑っておたまで味噌汁を掬った。
「はい、朝ごはんです」
テーブルには炊きたてのご飯と、味噌汁、そして海苔があった。それだけでも十分なご馳走なのだが、彼女の表情にどこか違和感が。それに、ご飯、味噌汁の他にも何か匂う。――卵の香りだ。
おもむろに立ち上がり、キッチンを覗こうとすると、向かいに座っていた彼女が慌てて制止する。けれど、それは目に入ってしまった。
「み、見ました?」
うつむいた彼女からか細い声が漏れる。見えてしまったのは、だし巻き卵。上手く巻けなくて破れていて形が崩れている。
「む、難しいんですね……、だし巻き卵。形、気にしないなら、食べても……いいですよ」
だし巻き卵を作る卵焼きプレートは、美郷が出ていってから使っていなくて眠っていた代物だ。美郷の得意料理だった。彼女は、美郷とは違って、あまり料理は得意ではないよう。けれど、僕よりも一足先に起きて作った彼女がいじらしくて――
「食べるよ。ありがとう」
型崩れしただし巻き卵を食卓に加えて、いただきます、と一礼。僕が箸を運ぶ様を固唾を飲んで見張る彼女。そんなに見つめたら、僕の箸使いが下手なのがバレるだろ。
だし巻き卵を一口かじる。焼きすぎていて少し固い。でも、ほんのりと出汁の香りがする優しい味だった。
やがて彼女も、朝食に手をつける。
「今日は、どうするんだ?」
「オフです」
「じゃあ着替えとか取りに行った方が――」
「今回は、何日分か着替えも持っています。もともと、ネットカフェで泊まるつもりだったので」
昨日の荷物には、いつものギター、アンプ、譜面台などの一式に加えて、リュックサックもあったことを思い出す。あれだけの荷物を毎日のように一人で運んでいるなんて、本当に感心する。
「だから、どこかに二人で行きませんか」
ぼんやりとしていたところに、彼女からのお誘いが来て、思わずむせてしまった。
「ちょっと、大袈裟ですよ。昨日は、あんなに大胆だったじゃないですか」
生憎、酔いが醒めた僕は、ただのへたれた男だ。こういうのには、慣れていない。
「いや、まさか木戸さん、いや、カナリアさんと一緒にどこかに行けるだなんて」
「もう、ただの無名の弾き語りシンガーソングライターですよ」
彼女は自嘲する。けれどこれが夢か現かと言われたら、きっと夢だろう。そう思ってしまうくらいには浮かれていた。
***
通勤で使う環状線。今日は、いつもとは反対回りだ。天満まで行くとなると、その方が近い。お手軽ではあるけれど、天神橋筋商店街を散策することにした。
天満の駅に降り立つ。商店街に着くなり、彼女は気の遠くなるほど長いアーケードを、視線でなぞった。
「木戸さん、来たことないの?」
「いやあ、流石に初めてではないですよ。ここら辺でも、演奏のバイトしていましたから。でもちょっと久しぶりですね。相変わらず、長いなあ」
天神橋筋商店街は、端から端まで歩くと一万歩かかるというほど長い。そぞろ歩きには持ってこいの場所だ。魚屋や肉屋、青果店などの生活に息づく店は少ないが、代わりにお洒落な喫茶店や、食べ歩きの店なんかが多い。
服屋の前を通りかかると、彼女が服の袖を引っ張った。
食べ歩きのことしか頭になかったから、目につかなかった。
「ちょっと、寄ってもいいですか」
店内は、彼女がいつも着ているような、ボヘミアンスタイルの服が吊るされている。いくつか男性用のものもあるが、ポロシャツにジーンズという、ワンパターンな着合わせばかりの僕には、少し敷居が高い。
「これ、可愛いかも」
彼女が手に取ったのは、ワンピース。苺のような、みずみずしい紅色に、ペルシャ絨毯のような幾何学模様があしらわれている。どうですか、なんて胸にワンピースを当てて僕に尋ねる。センスがない僕には、「どれも似合うよ」なんて陳腐な台詞しか浮かばない。いや、事実そう思っている。
頭に浮かんだままの言葉を言うと、彼女はそれ噛み締めて笑った。ありがとうございます、だって。本当に自覚がないのも甚だしい。
それから彼女のファッションショーは数回ほど続いた。カメラに納めて鑑賞用にとっておきたかったが、流石にやめた。
「結局、買わないのか」
「あはは、お金もあまりないのでウィンドウショッピングです。荷物が多くなっても困りますし」
なぜか僕は、その店でストールを買った。きっと彼女がいないと、立ち寄らなかった店だ。記念品にでもしたかったのかもしれない。
お腹が空いたから、喫茶店でランチをとることにした。
前々から気になっていた、オーガニックな食材を使った料理と、淹れたての抹茶が売りのお洒落な店だ。
「可愛らしいお店ですね」
とご満悦の彼女は、独りで入る勇気がなかった僕の、出汁に使われているということに気づいていない。
日替りランチは、手ごねハンバーグにサラダバー、オニオンスープと五穀米のオーガニックプレート。食後には、淹れたての抹茶のサービスもある。
「お洒落な上にヘルシーなんですね」
店内に流れるイージーリスニングの柔らかな旋律に乗せられて、彼女の声は囀さえずるように。
出来上がったオーガニックプレート。ハンバーグは箸でさっくりと切れるほど柔らかい。
「これ、絶対美味しいやつだっ」
ガーリックの香ばしい香り、思わず彼女の口角が上がる。そして、一口含むと、目を見開いて唸った。
「これ、マジ美味しい。ヤバいですよ」
テンションが上がりすぎて、言葉遣いがおかしくなってるぞ。そう茶化すと、「早く食べてくださいよ、三島さんも語彙を奪われますっ」と反論。まさか。半信半疑でハンバーグを口に運ぶ。
「これ、マジ旨いな」
「でしょっ」
僕らは、ふたりでじゃれ合いながら、ランチをぺろりとたいらげた。食後の抹茶は、きりりとした苦味で、口直しにもぴったりだった。
「はあ、歩き疲れたー」
もう、脚ぱんぱんだよ、と彼女が膨れっ面。天神橋筋商店街をほとんど端から端まで歩いたかな。途中、色んな店に入ったから、すっかり陽も傾いていた。正直、僕もかなり歩き疲れた。
あからさまに遅くなる足取り。ついに、立ち止まった。
「あ、ここの楽器屋さん、スタジオで試し弾きもできるんだ……」
立ち止まったのは、中古から新品まで様々な楽器を取り扱っている楽器店。店先には、ギターがいくつか並んでいる。中に入ると、フォークギターはもちろん、彼女が愛用しているクラシックギターもあった。
「あ、これ、私が使っているアントニオ・サンチェスのエレガットですよ。こんな状態がいいのに、八万て安いんですよ。私が弾いているエレガットは、中古でも九万以上しましたから」
エレガットギター、彼女がライブでそうしている様に、アンプにつなぐことができるアコースティックギターのことだ。
「あ、パコ・カスティージョのフラメンコギターもありますよ」
彼女がまた、知らないブランド名を口にした。
僕も大学時代には軽音楽部でギターをやっていたが、フェンダーかギブソンぐらいしか知らない。それもフォークギターかエレキギターの話で、クラシックギターのそれとは全く違うブランドだ。
「あまり馴染みはないと思いますけれど、クラシックギター、フラメンコギターは、スペインが聖地なんですよね。国産も柔らかい音でいいんですけれど、やっぱり本場の音の尖り方も好きですね」
本職の会話だ。一気に彼女の存在が遠くなる。言葉に詰まる僕に、彼女は苦笑い。
「じゃあ、一回聞いてみますか?」
ふと思い立った彼女は店主に声をかけた。気の良さそうな店主は、十数万もするギターの試し弾きを快く許可してくれた。
店の奥にはドラムセットが置いてある板張りのスペースがあった。その区画だけ、防音材が壁に打ち付けられていた。音楽室の壁にある、穴がいくつも空いているあれだ。
「これ、もとは数十万していたものですよ。ああ、緊張する」
普段彼女が弾いているものの数倍の値段だ。一万もしない中古品のギターを弾いていた僕にとっては、まるで別世界のお話だ。彼女の緊張が、こっちまでうつる。
深呼吸をしてから、彼女が弾き始めたのは、「愛のロマンス」。ゆったりとした哀愁溢れる曲で、調子をつかむ。柔らかく繊細な音色。同じフレーズを繰り返し弾くと、彼女は遊びを覚えて、きゅっきゅっとフィンガリングノイズを入れる。いたずらっぽい微笑みと、トレモロ奏法で滑らかに動く指先。
彼女は、綺麗だ。僕には、それ以上の言葉が見つからなかった。
やがて、転調。カッティングが細かく入って、「愛のロマンス」とは違うメロディに移行した。どこか聞き覚えがある。ジプシー・キングスの「ボラーレ」だと分かって、笑いあった。彼女は、スペイン語の詞を歌いこなし、僕は調子外れた鼻唄で合わせた。
それが僕と彼女の、初めてのセッションだった。
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