ひとつ屋根の下
グラスの底で、黒ビールの泡がぷつぷつと弾ける。
きょとん、とする彼女。沈黙にサックスの音色が割って入った。――なんか、僕はまずいことを言ったか。と、数秒前の記憶をたどる。さあ、と頬を血潮が駆け上った。
けれど、彼女はやがて、ゆっくりと口角を上げて――
「いいんですか。やっかいになっちゃっても」
噛みしめるように微笑む彼女。そういう
「ありがとうございます。これで、安心できます」
僕もそうだといいけどな、と心の中で憎まれ口。こっちは、彼女の事情を完全に知ったわけではない。それに、きっと彼女が思うほど、僕は頼りにはならないだろう。多少、彼女よりも重いものが持てて、せいぜいそれくらいだ。彼女をつけている、あの怪しい男にでも襲いかかられたら、敵いっこないだろう。
それでも、店を出るときに、彼女が繋いできた手の力は、ぎゅっと強かった。僕は、彼女のヒーローになれるのか。酩酊した思考回路は、華奢な自分を映画の主人公とでも勘違いしているようだった。
***
恥ずかしいだろ、と言ったけれど、その度に彼女は、僕を上目遣いで責めた。身長差があまりなかった美郷とは、やったことがないやり取りだ。
上気した彼女の頬の朱は、酔いのせいか、固く握られた手のせいか。
エレベータの中でそんなことを考える。一瞬、彼女の目つきが恥じらいを見せて、僕の手を握る力が弱まった。酔いが醒めて、我に帰ったのか。けれど、すぐに今度はもっと強い力で握り直してきた。それを受け取って、僕の猫背勝ちだった背がしゃんと伸びた。
曇りがちでぱっとしない天気のせいで、昨日の雨で濡れた廊下は、まだ乾いていない。それでも、そこに美郷の幻影は、見えたりはしなかった。
部屋のドアの前、鞄の奥に引っ込んでしまった鍵を探して難儀する。
「見つかんないんですか?」
「い、いや――あるはずなんですけど」
と、そのとき、背後に刺さるような視線を感じた。振り返るけれど、向かいのマンションの廊下には、誰もいないようだった。
「どうしたんですか?」
「いや、なんか見られている気がして」
口が滑ってしまった。
「私のせい――じゃないといいですけど」
不安そうに口走る彼女。
「だ、大丈夫ですよ」
「三島さんっ」
途端に彼女の声が強くなった。目力も強く、こっちもやけに緊張してしまう。はいっ、と上ずった返事にも、彼女は笑わずに、僕をぐっと見つめて来た。
「もし、私のことで、三島さんが危なくなったら、私はひとりで逃げます。私を守ろうとなんて、しないでください。私が三島さんと一緒にいて、安心したいだけなんですから」
結局、僕は頼りにされていないのか。なんか、都合がいい物言いだ。ここまで来ると、いよいよ彼女が被害妄想で言っているだけとも思えなくなってきて。一瞬、怯える心を奮い立たせて、僕は言い放った。
「そんなこと言うな」
勢いで丁寧語が外れてしまった。
「いや、言わないで――ください」
言い直すと笑う彼女。
「いい機会です。これから、三島さんは敬語はなしで。三島さんの方が年上でしょう?」
「ま、まあ。はい」
せっかく、かっこをつけようとしたのに、なあなあになってしまった。もう一度鞄の中に手を入れ直すと、思いのほか鍵はすぐに見つかった。いろいろ、拍子抜けだ。鍵を開ける。彼女は、敷居を跨ぐ前に行儀よく、「お邪魔します」と一礼した。
これから、どれくらい彼女と過ごすことになるのか。
不安もあるけれど、なぜか、期待も同じだけ溢れていた。
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